扉を開こうとドアノブを掴んだら、ぼろぼろに腐食した。
忘れるはずもない女の顔が、ユウヒの裏側で笑っていた。
健全な白い部屋。目を焼くような眩しい光。
バイオモニタ。機械音。酸素マスク。ヒトの声。
鼻を突く消毒液の臭い。あたたかなシーツ。
ベッドに寝かされていたユウヒは、地獄の始まりを悟った。
もっとはやく、死んでおけばよかったかもしれない。もはや手遅れだった。ユウヒはすべてを手放す運命にあった。抵抗する間もなく、ユウヒの瞳から涙が溢れていった。シーツの海に沈んだ身体は、ユウヒの意思を無視し、一切動こうとはしなかった。
目を覚ましたユウヒに、白衣の男が声をかけた。子どもを安心させるように、優しいとさえいえる口調で。滲んだ視界の中で、男が柔和な笑みを浮かべていた。
「これから、頑張っていこう。大丈夫だよ、みんながいる」
荻坂ユウヒ。男性。十六歳。削除系統破壊種腐敗型を発症。
将来、誰かのアタッチメントとなることが決定した。
「名誉あることだろ」
と、隣室の患者が言う。ユウヒよりも二つ年上の男だった。
「将来誰かの支えになれるんだぞ」
どうやら彼は、健全な社会に必要とされることを望んでいるようだった。
誰かのために生きていく。それが素晴らしいことなのだと、大袈裟なくらいユウヒに自身の想いを語った。
ユウヒはその男の言葉になんの反応も示してやらなかったが、男は構わず長広舌を披露した。本当はユウヒでなくともよかったのだろう。男は一人を恐れていたようだった。拠り所を欲していた。誰でもいいから、誰かと話をしていたかった。男は必死に、たまたま部屋が隣室で、たまたま廊下ですれ違ったユウヒに、己の思想をぶつけていた。
男はユウヒと同じように、適合するアタッチメントが見つからなかったのだ。
波長の合うアタッチメント。運命の相手。ストックされた死者たちの魂。
能力保持者は、一人では生きてはいけない。正確には、一人になってはならない。
運命の相手が見つからなければ、更生施設で共用型アタッチメントと施設員に囲まれて、健全になるためのカウンセリングを受ける。運命の相手が見つかるまでずっと、ここで隔離されて暮らしていく。それは男にとっては不名誉なことだった。
健全な能力保持者は孤独を知らない。一体誰がこんなことを言い出したのか。つまり、波長が合うアタッチメントが見つからない能力保持者は、不健全であると言っているようなものだった。
「俺も将来、アタッチメントになる」
この男はついに、ユウヒが最も恐れていることを平気で口にした。我慢ならず、ユウヒは初めて男の顔を真正面から見据えた。不快感をあらわにして、思い切り睨み付けた。世の中おまえのような人間だけではないのだと教えてやりたかった。
それでも男は止まらなかった。俺が言っていることは当たり前のことなのだと、おまえは間違っているのだと、ユウヒを糾弾するかのように。
「俺みたいに怯えて過ごしている能力保持者を、安心させてやりたいんだ」
なあ、おまえだって、怯えているんだろう。
ユウヒに言いたいことを全部ぶちまけたかと思うと、隣室の男は、アタッチメントを携えてあっさり退院した。彼の運命の相手は、女性型アタッチメントだった。優しそうなアタッチメントと対面して、男は顔をくしゃくしゃにして子どものように泣いた。今までユウヒに語ることで押さえ付けていた感情を、すべて彼女にぶつけていた。女性型アタッチメントは、男の望みどおり、彼のすべてを受け止めていた。
男の歓喜の涙を、女性型アタッチメントがそっと拭い、まるで誓いでも立てるように男の手を握りしめた。男と女性型アタッチメントは、ずっと手を繋いだまま健全な社会へと旅立った。
「もう少し自信を持ったらどう?」
と、セラピストは言う。四十代後半くらいの女性だった。
「ほら、顔を上げてみて。怖いことなんてなんにもないの。みんな、あなたの味方なの」
十七歳になったユウヒに対しても、幼い子どもと同じように接した。実際、自分の子どもとユウヒが同い年くらいだったのだろう。
「大丈夫、みんなが一緒よ。わたしたちも、あなたを見放したりしないわ」
周りを見たところで、そこにいるのは、アタッチメントを待ちわびている患者と、監視役の共用アタッチメントと、健全さを植え付けようと必死な施設員だけだ。
「みんなあなたを大事にしてくれる。あなたは大切なヒト。未来があるヒト」
誰のものでもない、共用のアタッチメント。そのうちの一体が、ユウヒを見て愛想よく微笑んだ。こんなものに成り下がるのだと、いつかあの男は言った。誰かのためのアタッチメント。正しく役目を終えたアタッチメントは、廃棄処分されるか、優秀な個体ならば姿を変えて共用のモノとなる。運命の相手を想い続けながら死ぬか、社会のモノとして壊れるまで動き続けるか。
どちらにせよ、ユウヒの先で地獄が待っていることに変わりはなかった。
「削除系統破壊種の発症は、確かにとても大変なことよ。最も危険視されている能力系統だもの。暴走率も一番高い。でも、だからってそれを一人で抱え込むことはないの。破壊系能力でも、普通に暮らしていけるのよ。大丈夫。みんなが、あなたを待っているの」
死刑宣告だった。
「大丈夫、大丈夫よ」
大丈夫。この日ユウヒは、その呪いに堪え切れずにベッドで吐いた。そのまま過呼吸を引き起こし、胸を掻き毟って、能力を暴発させた。
奥深くに刻まれた傷跡から、忘れるはずもない女が、優しく呪いを囁いていた。
薬物療法。セラピー。運動。学習。何度も繰り返される一日。いつ断頭台に呼ばれるかわからない生活。それでも、能力の暴発はあれから一度も起こらなかった。
「おかしいだろ」
と、十九歳になったユウヒは言う。セラピーを受けたばかりの、殺気立ったユウヒだ。
「なんで最初から最後まで誰かのものにならなきゃならねえんだよ」
ほとんど独り言だった。ただ、室内には監視役の女性型アタッチメントがいた。彼女はじっとユウヒの言葉に耳を傾けていた。
「俺は俺のものでありたいよ」
アタッチメントは返事をしない。ユウヒの意思を汲んでいたのだろう。アタッチメントは自身の存在を希薄にしていた。身動き一つとらず、ただその場に佇んでいた。それでよかった。アタッチメントに意見されるなど、我慢ならないことだった。
「勝手にヒトを所有物扱いして好き勝手弄びやがって」
健全でなければならない。セラピストはユウヒにそんな言葉を塗りたくった。帰って行ったセラピストの白衣と黒髪が、嫌に脳裏にこびり付いていた。
汚れのない白。なにものにも汚されない黒。見慣れた色だった。壁も、床も、服も、なんだってここは健全の二色で塗り固められている。そんな色に、言葉に、ユウヒは手酷く犯されている。
ここはどこまでも安全な場所だったが、ユウヒにとっては精神を脅かす場所だった。それでも、もうどこにも行けなかった。生きていても死んでしまっても、同じことだ。どうやって拷問されたいかおまえが選べ。そう問われているようだった。
「一人で生きるのはそりゃあ無理だろうよ。でも、自分のこと全部ヒトに捧げるなんて、そんなの嫌だろ」
苦しみに喘ぎながら、訥々と語る。
かつてこんなふうに、苦しみに押し潰された女がいた。
「ヒトの道具に成り下がるなんて、どう考えたって悔しいだろ」
女はユウヒを、道具のように扱った。
「おまえらの幸せの踏み台にされるために生きてるわけじゃねえんだよ」
なにもかもをユウヒにぶつけて、自分だけ楽になったように笑って、気が付けばこの世界から逃げ切っていた。ユウヒにすべてを引き渡したのだ。苦しみも怒りも。感染させられたようだった。純真だったユウヒを汚した女は、あっさりと楽園に辿り着いた。
「あのヒトと同じことなんて、俺は絶対、したくない」
心臓がずきずきと痛み出す。皮膚の下で流れる怨嗟を排出するように、激しく血液を送り出している。ユウヒの中で息づくそれは、かつて女を犯した憎悪の群れだ。
突き刺すような痛みが、勢いを増した。思わず胸を押さえたユウヒの背を、撫でさするモノがいた。
「大丈夫ですか?」
控えめな、柔らかい声。栗色の長い髪が、ユウヒの視界に映り込んだ。思わず顔を上げて、愕然とした。
女がいた、と思った。もはや内側にしかいない、ユウヒを踏みにじって逃げ切った卑劣な女が、眼前に。
女性型アタッチメントの顔が、憎らしい女と、酷く似ていた。
違う、とユウヒは否定する。だってあの女は、能力保持者ではないと言っていたはずだ。一人だった。彼女はずっと一人で、苦しみを抱えていた。まさか、まさか……。
「大丈夫です、ね? 落ち着いて」
俯いたユウヒの顔を、女性型アタッチメントが覗き込む。すぐ傍に晒された女の顔に、ユウヒはついに悲鳴を上げた。内側だけでなく、外側からも女に犯されて、半狂乱になったユウヒは、彼女の顔面を手のひらで強引に押しのけた。
その一瞬で、アタッチメントの顔が、ぼろぼろに捲れ上がった。
「え、あ」
驚愕に、体が停止する。その間もアタッチメントの顔は、どんどん腐敗していった。顔、首、胸と範囲はどんどん広がって、ユウヒが手を離したころには、アタッチメントの顔はほとんど剥がれ落ち、内側の金属を曝け出していた。その金属も腐食し、ヒトの顔として残っていたのは右目の周りだけだった。
「あ、あ、あ」
ほとんどの人工皮膚を失った女。かつて、ユウヒを侵食し、腐敗させた女。ユウヒは今、あの女と同じ道を辿っていた。
自分はヒトを犯してしまった。
「落ち着いてください!」
顔の大半を失ったアタッチメントが、竦んだユウヒを真正面から抱きとめた。思わずユウヒはもがいたが、自身の手が触れた場所がどんどん壊されていくのだから、どうすることもできなかった。感染していくように、腐敗して崩れていく。もはや縋ることすら許されなかった。あの女と一緒だった。ユウヒは今まさに一人で苦しみに怯えていた。
「背中に手を回してください」
壊されたことでおかしくなってしまったのか、アタッチメントがとんでもないことを言う。首を振って拒否を示したユウヒを、アタッチメントはさらに強く抱き込んだ。
「わたしにぶつけてください。負のストレスは、外に放出するのが一番ですよ」
できるわけがない。ユウヒの全身が震え出す。ユウヒが求めていたのはストレスの捌け口ではない。ただひたすらに助けを求めていた。
「壊れません」
彼女はそう言い切った。自信たっぷりに、それこそそんな自分を誇るように。
「アタッチメントは受け止めるモノ。ストレスからヒトを守るモノ」
アタッチメントはさらに身を寄せた。ヒトに限りなく近い柔らかな肉体で、ユウヒの体を受け止めていた。
「我々はヒトの所有物。運命の相手。絶対に、所有者を一人にしない存在です」
こんなのは、暴力と同じだ。道具だと蔑んで、忌み嫌っていたアタッチメント。どこまでもヒトを思いやるアタッチメント。道具のように振る舞われるのも、道具のように支配することも、今のユウヒには苦痛でしかない。
それでも、もはやこれしかないのだと、アタッチメントが笑うものだから、ユウヒには為すすべもなかった。
「そんなアタッチメントが、こんなことで壊れたりしません」
ついにユウヒは陥落した。恐る恐るアタッチメントの背中に触れ、負けじと抱きしめた。おねえさん、おねえさん。許しを乞う声が耳の中を暴れ回る。幼い声だ。閉じた瞼が熱を孕んでいく。おねえさん。許して。おねえさん。弱々しい呟きが、ユウヒの口からどんどんこぼれ落ちていった。
その間にも、アタッチメントの服がほつれ、背中の皮膚が腐り落ちていく感覚が、熱を持った手のひらから伝わってくる。もうこんなのは嫌だと、ユウヒは子どものように泣いて、アタッチメントの肩口に顔を埋めた。
「もう大丈夫ですからね」
どんどん頭の隅が痺れてきて、なにも考えられなくなっていく。アタッチメントが、赤子にするようにユウヒの背を叩いていた。どんどんその動きがぎこちなくなっていくことに気付いたが、身を離すことも、抗議することもできなかった。
ユウヒは気を失うまで、アタッチメントの腕の中で、ひたすら泣き続けた。
かつてユウヒを抱きとめた女性は、白骨みたいに蒼白な顔をしていた。ぼさぼさの髪は手入れを怠った植物のようで、幼いユウヒの首をいやらしくくすぐった。おねえさん、おねえさん。離してください。そんな言葉は、女性の薄い唇に飲み込まれた。栗色の髪に白い肌。そんな彼女の中にどろどろの憎悪が流れていたことを、ユウヒはこのときようやく知った。
白と黒の制服に身を包んだユウヒは、いつだって純真さで溢れていた。熟れ始めてもいないユウヒには、彼女がどうして苦しんでいるのか、わかるはずもなかった。その苦しみをユウヒに感染させようとしているなんて、どうして予想できるだろうか。汚していいから。そんな言葉をかけ、手を差し伸べたことが、そもそもの間違いだったのだろうか。
彼女は、近所に住む大人のおねえさんだった。
いつもなにかに怯えていた、ユウヒの大好きなおねえさんだった。
この名前が、嫌いでたまらなくなった。
夕方に気をつけろ。おまえを狙って、汚泥が口を開けている。
あの狭い部屋の中で、おまえは無残に散らされる。中も外も、ぐちゃぐちゃに汚されて、もがけばもがくほど引きずり込まれて、呆気なく溺れ死ぬ。
そのときに付けられた爪痕は、いつまで経っても消えてくれない。
「あのヒトのために生きたいの」
それは呪いの言葉。呪われた時間。
愛らしくて憎らしい彼女が、いつまで経っても忘れられない。
「おねえさん」
誰かのために生きたいなんて、そんな醜い想いは、ここで断ち切らなければならない。
だからユウヒは、アタッチメントを否定する。
アタッチメントに成り下がって、彼女を肯定することなど、できるはずもない。
あれから数ヶ月が経った。あの日以来、あの女性型アタッチメントとは会っていない。
目が覚めたときには、すでに能力の暴走はおさまっていた。触れたシーツも、壁も、ぼろぼろに朽ちることはなかった。
あのアタッチメントはどこに行ったのか。誰に聞いても詳しく教えてもらえなかった。暴走時の記憶を思い出させてはならないと、誰かが指示を出したのか。
大丈夫。
その言葉だけしかユウヒには与えられなかった。大丈夫、大丈夫。あのアタッチメントが繰り返していた言葉。ほとんどの人工皮膚を失ったあの個体。
死んでおけばよかった、とユウヒは思う。
能力保持者になる前に、さっさと死んでおけばよかった。
ヒトとして終わりたかった。その先なんて不要だった。誰かのために生きるのも、誰かのために生み出されるのも、今ここにいるユウヒに堪えられるわけがなかった。
自分のために生きて、自分のために死んでやればよかった。
もうすべてが遅かった。
扉が開く。いつもと違う、施設員の表情。優しい笑顔などではない。歓喜に満ちた、驚きがまだおさまらない、興奮した顔。
「ユウヒくん! おめでとう!」
どこまでも白い空間で、ひっそりと自分自身だけと向き合っていたユウヒは、耳をつんざくような崩壊の音を聞いた。
大好きで大嫌いな、忘れるはずもない女が、内側からユウヒを見つめていた。
「ユウヒくん、よかったね」
健全であることを求められたユウヒのもとに訪れたものは、盛大な拍手と、笑顔と、あたたかな言葉だった。それらすべてがユウヒを絶望へと叩き付けた。
「ユウヒくん、アタッチメントが見つかったよ。きみの運命の相手だ」
どこまでも自分だけを見つめ、自分だけの未来を探し、自分だけの終わりを望み続けたユウヒは、健全であると判断されてしまった。あの隣室の男のように。
「これからは、二人で頑張って生きてくれ」
「二人で仲良くね」
「孤独とはもうお別れだ」
二人で人生を歩むことを約束されたユウヒは、体の内側に蔓延る、腐敗した精神に吐き気を覚えた。とうとう、白い服の大人たちに、孤独でいられる場所から連れ出されてしまった。断頭台に登る日が、ついに来てしまったのだ。
「それにしても、本当に運命の出会いね。まさか、今日見つかるなんて」
セラピストが言う。何度も何度も健全になるための白い言葉を吐き出して、その粘ついた純白をユウヒに飲み込ませたセラピストだった。
「二十歳の誕生日おめでとう、ユウヒくん」
割れた卵のような機械に頭を包まれて、逃げ道を失ったユウヒは、優しさに身を焼かれながら自分自身を差し出した。
「これでもう、ユウヒくんのデータはとらなくていいのよ」
「これが最後だ。もう、きみは大人だよ」
「このデータは、わたしたちが大切に保管するわ」
「あなたの運命の相手のために」
生焼けにされたユウヒは、ぽつりと汚泥を吐き出した。健全である社会に、乱暴に塗りたくるように。
一人でいいと、健全でなくていいと、自分の身を自分のためだけに捧げようと、ユウヒが思うようになったのは。
「サツキおねえさん」
荻坂ユウヒの記憶は、ここで停止する。