薄明に兎が死んだ


 あたためられた場所にいる。波打つそれがシーツの海であることに気がついたころには、リョウはすっかり丸裸にされていた。

 眩しさとは無縁な柔らかな灯がリョウの視界いっぱいに溢れかえる。一日の始まりを予感させる光だ。それに心地よくまどろんで、もう一度シーツに身を委ねたあたりで、ぞくぞくと背筋になにかが滑り落ちた。心地よさとは真逆の感覚に揺り起こされて、堪らず吐息をこぼし、自身の頭を覚醒に導いた。

 よく見ればここは真っ白な空間で、黒い直線が二本、あたりを囲うように壁に引かれていた。リョウが寝そべるそこは楕円の寝台で、前方はくり抜かれてしまっている。

 横たわる割れた有精卵。そんな名前で呼ばれている、アタッチメントの施設の寝台だ。

 寝かされたのは初めてだ。これは生きた人間が使用することのない、アタッチメントの揺りかごなのだから。

 寝台の球体はボタンひとつで開閉する。それこそ本物の卵のようにすべてを覆ってしまうこともできたし、楕円形のただの寝台へと切り替えることだって可能だ。

 造られたばかりのアタッチメントが、一時的に保管される母親の胎内。

 呼吸を許されないもののための空間に、息をすることが許されたものが、リョウ以外にもいた。

 頬を柔らかな毛がこする。その内部の肉がひくひくと動いていることに気づいたリョウは、ぎょっと目を剥いてそちらに視線をやった。

 真っ白な兎だった。真っ黒な瞳が愛らしい、小さな兎。どうやら人間に慣れているようで、リョウが急に動いても特に気にしたそぶりは見せなかった。

 喉元をくすぐってやるが、無表情は相変わらずだ。数秒鼻をひくひくさせたかと思うと、すぐにそれも止まって、ただリョウに寄り添うだけとなった。

 この有精卵の寝台で、兎とリョウが身を寄せ合う。兎はともかく、リョウは丸裸なのだ。

 寝台はあたたかい場所であったが、目が覚めていくと同時にどんどん体が冷えていく感覚に陥った。なにか身に纏えるものを探して部屋から出るべきなのだろうが、どうしたことか体が重い。鎖というアイテムで拘束されているわけでもないが、飛び起きたりすることなど無理だとわかる。

 その事実に、そこまで怯える必要はないのかもしれない。悪意とは縁遠い場所のはずだ。リョウは今、恐らく最も健全で安全な場所にいる。

 それでも、ここにいてはならないという警告を脳が発していた。

 ここはアタッチメントのための場所。ヒトと兎がいていい場所ではないからだ。

 

「おまえ、生前はどんなやつだったんだよ」

 あのときリョウが、アタッチメントにとってデリケートな部分に触れたのは、シズカがその行為を嫌がらなかったからだ。シズカは、シズカが嫌だと思うことは正直にノーと言うアタッチメントだ。リョウはそれに信頼しきっていたかもしれない。

 ただの好奇心だった。こんな気持ちで過去を暴く所有者に、やはりあのときのシズカはノーと言わずに答えてくれた。

「性格はほとんどこの通りだ。アタッチメントとしての機能の影響で変わっているところもあるかもしれないが」

「んん、聞き方違ったな。好きな動物とか、趣味とか色々」

 高い身長に静謐な表情、落ち着いた低い声。この男は、どうも仕草や思考が見た目の印象に反して子どもっぽい。子どもっぽいことは悪いことではないとリョウは思う。自分は半分以上子どもに当てはまっているし、そんな自分がそれについてどうこう言うのもどうかと思う。

 だからこそ、だったと思う。アタッチメントの見た目なんて、所有者の好みが反映されていて、生前の残滓などこれっぽっちも残っていない。だから、リョウはシズカの性格が、過去が知りたくなった。

「好きな動物」

「おう」

「兎、だな」

「ふうん。可愛いよな。おれもクラスで飼ってたことある」

 健全な色である白と黒の兎。健全さを育むために、ほとんどの小学校で飼育されている。

「飼育してたやつ? どんな仔?」

「そうだ。白兎だったな。途中で違う個体に変わったが」

 シズカが淡々と言う。その言葉の中に、実際はとんでもないことが含まれている気がして、リョウは黙り込んだ。それでもリョウの遠慮よりも、その奥底に潜んでいた好奇心を優先したシズカは、リョウにすべてを伝える。そこに躊躇いや悲しみはなかった。

「殺されたんだ。能力者か爆弾か、それはわからないが、誰かのいたずらで死んだ」

 健全さに塗り固められている世の中でも、やはり悪は潰えない。悪質ないたずら。いたずらなんて幼い響きとは程遠い、トマトのようにはじけた兎の姿がリョウの脳裏に描かれた。

「……俺は間違えたな。すまない」

「うぇっ、えっ」

 リョウは下がりかかっていた視線をシズカに向けた。無表情は相変わらずだが、申し訳なさが滲んだ声音にきゅっと唇を引き結ぶ。

「間違えてない、間違えてねえよ。けど、ごめん」

「そうか」

 謝ったリョウへの返答に、もうマイナスな感情はない。それはきっと愛着機構のせいだ。

 所有物は所有者にほとんどの感情を寄せている。物欲がほとんどないのもそのせいだ。

「あとは、趣味だったな」

 シズカが言う。何事もなかったように切り替えて。

「外を歩くのが好きだったな」

「散歩?」

「というより、買い物だな。ショッピングモールの中を一周するんだ。時間をかけて。全部の店に入って、見て回る」

 今のシズカからは想像できない趣味だった。物欲がないことはシズカに限った話ではないが、その中でもシズカは淡白なほうだと思う。

「すげえ買い物。全部の店って相当じゃん」

「そんなに買わなかったぞ。夏休みに一週間ショッピングモールに通ったことがあるが、なにも買わなかった」

「なんで?」

 シズカはすっとリョウを見つめる。透き通った夜の色に吸い込まれる気がして、リョウはこくんと唾を飲み込んだ。シズカだけではないなにかがいる気がした。瞳の奥の深淵に潜むなにかが、リョウを覗いている。

「本気で欲しいと思えるものに、なかなか出会えなかっただけだ」

 

 ふと、兎が身じろいで、耳をそばだてた。飼育のために読んだ本で知ったが、その行為は警戒を表しているらしい。そんな兎とリョウに、すっと影が差し込んだ。

 誰かいる。リョウはゆっくりとそちらを見やった。体が重くて仕方がなかった。見えないなにかに拘束されている気分だった。

「え……」

 怯える必要はなかった。本当に、そんなことはしなくてよかったのだ。

 健全な自分の所有物がそこにいた。

 艶やかな黒髪に、澄んだ黒い瞳。名前の通り涼やかで、騒がしさが似合わない男。

「……シズカ」

 思わず名を呼べば、ふっとその目に熱が灯った気がした。柔らかな光に見つめられ、ぞくぞくと忘れかけた感覚が背筋を撫でていく。

 白いシャツに黒いジーンズ。飾り気のない衣服。この男にはそれが一番似合っている気もしたが、酷い違和感が頭を叩いた。

 それは喪失感だったかもしれない。見慣れないものを見たときと同じ感情だったかもしれない。今まで当たり前に傍にいたものが、あっさりと手を離れていってしまったときのような冷たさ。ヒトはそれをどう呼ぶのだろう。

「なかなか心を開いてくれないな」

 そう言ったシズカの首には、アタッチメントの特徴である、黒いチョーカーが巻かれていなかった。

「寒かったか? 体が冷えている」

 シズカが歩み寄り、リョウの腕をさすった。くすぐったさに思わず身が竦む。その仕草を見て、リラックスさせようとしたのか、シズカがリョウの手を取って恭しく口づけた。

「……っ」

 唇の感触の他に、リョウの肌に触れるものがあった。それはシズカがこぼした息だった。

 アタッチメントは呼吸をしない。そんなことはこの世界の常識だ。ヒトであることをやめた彼らに、そんなものは必要ない。

 生きている冬原シズカがここにいる。

 茫然と目を見開いたリョウを、シズカは小首を傾げて見つめた。似合わない仕草。ああ、彼は紛れもない冬原シズカなのだと脳が理解した瞬間、リョウの閉ざされていた唇が勝手に開いた。

「っは、う」

 吐息と声が混じりあって、その響きが喉を伝って胸を震わせた。心音に伝ったそれがもたらしたのは涙だ。視界が歪んで、冷え始めていた頬を熱く濡らしていく。

「なんで」

 それはどちらに対しての問いだっただろう。

 心音を失ったシズカが生きていることに対しての問いだったか、涙が勝手に溢れてしまう自分自身に対しての問いか。リョウすらもわからないそれに、シズカが答えるはずもない。それでも、その言葉に応えるようにリョウに覆いかぶさった。この有精卵の中に閉じ込めるかのように。

 ぬるり、と目元を舐めるなにかがあった。押し当てられる柔らかなそれが、唇と舌であることに気がついたころには、再びシズカの舌で涙を舐めとられていた。

 涙なんて舐められたことがない。それでも嫌悪感はなかった。なだめるような穏やかな空気がリョウの警戒を解いた。

 静まり返った空間で、とくとくと打ち震えるリョウの鼓動と、こくりと飲み干す音だけが耳に届く。飲み干したのはシズカだった。

 食んで、吸って、飲み込む。嫌というほど生を感じる行為。自分の一部が他者の体内へと取り込まれて、混ざって溶ける。その一連の動作はまさしく捕食者のそれだった。けれどもそこには暴力の嵐など吹き荒れていなかった。

 艶やかな夜色の髪が、白い肌が、リョウの視界を奪う。涙を丁寧に舐めて吸ったシズカが、今度はそのままリョウの額に唇を寄せた。シズカへと涙を捧げてしまったリョウは、ぱちぱちと目を瞬かせる。

 ふっとシズカが笑った気配がした。そのころには、無防備にさらされた喉に甘く噛みつかれていた。

「っぃ、う」

 その行為にリョウが怯える前に、シズカはそこを離れ、呼吸によって上下する胸にキスを落していた。ちょうど心臓の位置。生きているものに許された拍動。肌と骨越しにシズカがそれを感じ取っているようにも思えた。

 ひくん、ひくんと喉が震え、恥じらいを捨てて仰け反った。

 頭がぼうっと熱を孕む。流されてしまう。あたたかなそれに包まれて、暴かれて、食べられる。

「リョウ」

 聞き慣れた響きが耳に流れ込んでいく。

「おまえは、俺の運命の相手だ」

 シズカ、と名前を呼ぼうと開いた口に、シズカの口が近寄った。唇が合わされば、もう逃げられない気がした。 

 ■■■■■■―

 リョウの傍らで警戒していた兎から、けたたましいベルの音が鳴り響いた。まさしく警告音だった。はっとしてリョウはシズカの口を手の平で覆う。寸止めを食らったシズカは、どこか不満そうに眉根を寄せていた。

 こんな顔は、知らない。リョウは、この男のことを知らないのだ。どくどくと心臓が不穏な音を立てる。どっと冷や汗が流れ、今まさに行われようとしていた許されざる行為に恐怖していた。

 とんでもないところに足を踏み入れるところだった。鋭い鋏を握るところだった。

「だめだ」

 胸を押し返す。これは、あってはならない空間で、行動で、感情だ。

「おまえは、おれを見ちゃだめだ」

 兎が後ろで、強く寝台を蹴っていた。

「理由を聞いても、いいか」

 低い声。感情を殺した声。それでもしぶといなにかが滲み出てきていた。シズカが怒っている。リョウのノーを忠実に守りながら、それでも諦めきれないと主張している。

「……おまえは、本当はおれを知らないだろ」

 健全なシズカは、リョウのことしか見ていない。目の前のシズカも、リョウのことしか見えていない。それはおかしなことだった。健全である以上、このシズカが孤独であるはずがなかった。

「おれは、今のおまえの運命の相手じゃないから」

 かつて、その言葉は恋人同士の言葉だったが、今はどうだ。まったく違う。それは、生と死の結びつきの言葉だ。今ここに、呼吸を失ったものはいなかった。

 目の前にいるシズカは、リョウが勝手に生み出した、リョウの抱えた傲慢や強欲が生み出した幻影だった。リョウは耳を澄ます。耳をふさぐ。なにかが聞こえる。収縮の音だ。血潮の流れる音だ。アタッチメントにはありえない音だ。

「ごめんな。ほんと、おれ、馬鹿みたいだ」

 シズカの運命の相手をなかったことにして、自分を見つめさせたとでも言うのだろうか。

「勝手に想像して、作りあげて、都合よく捻じ曲げて、勝手に育てて、殺すんだもんな。何様だよって話だよな」

 創造系統特有の傲慢さが出たのだろうか。自身の思い描いたものを創造できる、それこ

そ夢のような力を手に入れた子どもにときどき見られるそれが。そんなくだらないものに、誰かと誰かのシズカを巻き込んでしまった。

 冬原シズカという存在は、過去も現在も、桜木リョウただ一人のために存在する所有物であるとでも言うように。

「だから」

 衝撃に耐えるために深く息を吸って吐く。

「おれは、おまえを好きになんかなれない」

 魂が悲鳴をあげた気がした。本心が突き刺され、柔らかな部分から血が溢れ出した感覚。

「……痛いな」

 シズカが胸を押さえ込んで言った。眉を寄せて放った言葉は、リョウが知っていズカは使わない。こんな生々しい感覚は、アタッチメントとは無縁だからだ。

「刺されたみたいに痛い」

「……刺されたこと、あるのかよ」

 シズカは笑う。穏やかに。それでいて、痛々しく。

「ないよ。けれど、息をするのも苦しい。痛いんだ。きっと今日初めて、おまえに刺されたんだ、二人とも」

 シズカの肉体に損傷はない。その内側は、たった今リョウが切り裂いてしまった。今、シズカに本当にナイフを突き立てたら、循環していた血液が流れ出すだろう。シズカが失ってしまった、生きているものの奔流が。

 そっとシズカがリョウの心臓の上をなぞった。つきつきと痛むリョウの胸の上。

「痛かっただろう」

 正確にシズカは見破った。今まさに悲鳴をあげて、心臓を破って深層から絞り出した言葉によって発生した痛みを。

「なんで、そうわかるんだよ」

「おまえの言葉で、俺が傷付いたからだ」

 傷付いたシズカは、そっとリョウの頬を撫でようとして、とまった。目を閉じて、踵を返す。まっすぐに歩いていき、先ほどまでなかったはずの扉を開いて、振り返りもせず出て行った。

「なんだ、それ」

 静寂がリョウの体を撫でた。本当に一人きりになった気分だった。はっとして、後ろを見やる。

 ずっと傍にいた白兎が、はじけたトマトのようにぐちゃぐちゃになって死んでいた。

 

「なにがそんなに悲しいんだ」

 ぎょっとして目を開ければ、少し困った様子のシズカと目があった。

 瞬きをして、リョウはようやく自分が泣いていることに気がついた。そんなリョウの頭をシズカが撫でていた。ソファで横になったリョウに寄り添って。

「……あー」

 リョウは腕で顔を覆った。本当に情けない。変な夢を見た。好奇心なんて軽いものではなかった。人のことが言えないではないか。シズカの瞳の奥底が見たいなんて。執着か、独占か。重い重いと文句を言っておきながら、自分も似たようなものだった。

 まさに警告だったのだ。

「ごめんなさい、見知らぬヒトた……」

「リョウ?」

「ああ、いや、悪い。嫌じゃない。おまえに撫でられるのは嫌じゃない」

「どうしたんだ。今日はずいぶん素直だな」

「いっつも素直だろ」

「それは……ないな」

 深くまじめに考え込んでいたシズカがはっきりとそう言った。その声を出力したシズカの首には、硬質なチョーカーが巻かれている。

 引き攣っていた魂は、もう痛みを失いつつあった。

「あのさ、おれ、おまえのこと好きだからさ」

 自分で言った言葉に自分が打ち震えていた。シズカの夜色の目がリョウだけを射抜いた。

「おれはちゃんとおまえのこと愛してるからな。おまえが思ってる以上だからな。おれが誰かと付き合って、結婚したとしても、おまえのこと忘れないからな。おまえの所有者、実はすげえ重たいからな。おまえはそれ知っとけよ」

「熱烈だな」

 シズカの無表情が崩れた。

「深いところから出た愛の言葉だな」

「深いところ?」

「心の奥だ。俺の底に触れたんだ。強い意志が乗った言葉は相手の深いところに届くものだろう。俺はその言葉を忘れない」

「……ほんと?」

「本当だ」

 それでもう満足だった。両手を広げれば、リョウのことを理解しているシズカはそっと 身を寄せてくる。ぎゅうとシズカを抱きしめて、一人分の鼓動と呼吸にひっそりと笑った。

 なにも怯えることはない。なにも悲しいことはない。

 なぜなら、目の前にいる冬原シズカは、桜木リョウのアタッチメントなのだから。