水と悪魔の天秤


 のそりと起き上がったことはわかっている。中学生の乳臭い少女が、足音を消してひっそりと忍び寄る。呼吸を抑え、休止状態のアヤハの前でスタンバイすることもわかっていた。高鳴る鼓動。わくわくと表現していいそれだ。

 数秒後にその瞬間が訪れる。アヤハを驚かせたいという欲求を果たすために。大声を出すか、それとも両手を鳴らすか。それはわからないが、ここまでバレバレなのだから、アヤハは待ってなんかやらない。サプライズを阻止してやるのが、いつものアヤハだ。

 目を閉じて壁にもたれかかっているアヤハの前に、少女が座り込む。沈黙は守られている。アヤハは集中し、少女の呼吸だけでなく心臓の音までも聞きとった。

 少女が息を大きく吸った。

「ア」

 言わせてやらない。

 すべてを起動。目を開き、ターゲットを確認。アヤハの右手が少女の左手首をとらえる。身を捻り、跳ね起きると同時に思い切り腕を引く。アヤハと少女の立場が呆気なく入れ替わる。その瞬間に左手首は解放し、今度は左手で少女の右手首を攫い、壁に押し付けた。

 ゴツン、と重い響きが一つ。勢い余って少女の後頭部にダメージを与えてしまったが、これくらいは許せとアヤハは思う。現に許されている。だから、できる。

「……ヤハ、ちゃん」

 呆けたまま壁に押し付けられ、目を丸くする少女。アヤハの赤い髪が一房落ち、少女の耳を掠めた。くすぐったかったのか、ぶるりと身を震わせて、壁に取り押さえられた少女は笑う。

「アヤハちゃん、速いよお」

「おはようトモエ。おまえは馬鹿だ」

 朝がきた。所有者であるトモエと、彼女の所有物であるアヤハのいつもの朝が。

 

 所有者の情報をインプットされ、彼女の記憶を追体験したアヤハは、ぐるぐると回る視界にげっそりしていた。げっそりなんて、アタッチメントには縁のない言葉かもしれない。疲労など感じない肉体だ。それでもアヤハはげっそりしたし、追体験後に呟いた言葉がこれだ。

「うるさい」

 そうとしか言えないのだから、渋い顔でこちらを見るのはやめてくれとアヤハは傍らに立つ施設員の男に言いたくなった。

 うるさいと不快をあらわにしたアヤハに、施設員は眉を寄せる。行儀悪く耳に小指を突っ込んで、一度掻き回し、引き抜いた。

「聞き間違いかな……なんだって?」

「うるさい。記憶の中できゃいきゃい騒いで、笑って、落ち着きがない。うるさい。わかる。これ、疲れたってやつだ」

 その汚い手でわたしに触ってくれるなよと威嚇しながら、アヤハは乱暴に髪を梳いて、払う。

 施設員の男は、困ったように向かい側にいる施設員の女に問いかける。

「……愛着機構は起動したよな?」

「しましたよ」

「あれか、ツンデレとかいうやつか」

「それじゃないですか。波長自体は合ってますし。素直じゃないアタッチメントなんてどこにでもいますよ」

「ええ……。あー、その、一応言っとくけどな、所有者に嫌いだとか殺すだとか、そんな物騒なこと言うんじゃねえぞ」

 施設員同士の会話を聞き流しながら、アヤハはもうすぐ会うことになる所有者にどんな文句を言ってやろうか考え始める。アタッチメントの引き渡しはもう明後日に迫っていた。

 アヤハは言いたいことをきちんとまとめて伝えてやろうと、何度も予行練習をしておいた。自分の所有者は、記憶の中では結構な馬鹿だった。成績が悪い。ドジを踏む。そのくせ落ち着きがない。言うことを聞かない。へらへら笑う。言動が馬鹿っぽい。どう言ってやれば、きちんと伝わるだろうか。言ってやらなければ気が済まない。面倒な追体験だった。これからは落ち着きを持つように教育してやろう。そんなことばかり考えていたら、引き渡しの日を迎えた。

 それなのに、アヤハは結局練習通りに伝えることはできなかったのだ。

「可愛い!」

 挨拶もなしにそう叫んだ所有者に、アヤハは再びげっそりした。ついでに音声認証もすぐにしておいたが、しなくても絶対に聞き分けられる存在感たっぷりの特徴的な声だ。そして、うるさい。

「可愛い! 可愛い!」

 所有者の淡朽葉色の後ろ髪が、ぴょこぴょこと揺れ動く。それをぼうっと見やって、アヤハは一応手を差し出した。

「乙守アヤハ。好きに呼んで、トモエ」

「なんでわたしの名前知ってるの?」

 馬鹿だと判断した。事前に施設員からアタッチメントに所有者の情報をインプットしてあると教わっているはずだ。まさか教えていないのかと施設員に目を向けるが、教えたからと即答される。

「わたしのこと、知ってるんだね! 嬉しい!」

「おまえ、この手が見えてないの」

 差し出した手は握られることがなかった。この手、どうすればいいの。引っ込める前に思い切り頬をひっぱたいてやろうかと振りかぶってみたが、ぴたりと止まる。空中で動きが中断され、固定された。意志と神経の遮断。愛着機構が所有者への理不尽な暴力と判断し、アヤハの動きを止めている。攻撃意志の代わりにどっと溢れかえるのは、甘ったるい感情。目の前の少女しか見えない。満面の笑み。八重歯。健康的な肌の色。柔らかな肉体。失われた鼓動が甦ったような気分。ときめいたと言っていい。少女に心を奪われ、アヤハは素直に腕を下ろす。

 トモエがアヤハの冷たい手を両手でつかまえ、遠慮なく上下に振る。甘い拘束に、アヤハはされるがままだった。

「乙守アヤハだから、アヤハちゃんだ! わたしは久堂トモエです! 会えてとっても嬉しい! よろしくね!」

 トモエは笑う。アヤハは言いたかった文句などとうに忘れて、眉を下げ、仕方ないと笑みをこぼした。痛い。痛い。愛着機構が暴れ回る。

「おまえは、可愛いね」

 トモエは笑う。その言葉に喜んで。

 

 あれはいつだったか。アタッチメントとしてトモエと暮らし始めてから一か月は経っていたと思う。

 些細な戯れだったはずだ。思春期の中にいる不安定な子どもと、不安定の中に取り残された生きた死体の、小さな戯れ。

「アーヤーハーちゃん!」

 そんな呼びかけとともに後ろから両目を覆われる。高感度センサで感知した匂い、忘れるはずのない声、体温、鼓動、すべてがアヤハの愛着機構を震わせる。さっきまで風呂に入っていたせいか、アヤハの目を両手で覆っているトモエの体温は高く、肌は湿っている。 湿っているどころではなく、濡れていた。びしょ濡れだ。

 ぎゅるり、ぎゅるりと体内が叫ぶ。アヤハを動かす声だ。

「ねえねえ、誰でしょうか、誰でしょうか!」

 水が飛び散る。少女の肉体を濡らしていた水が、アヤハの肌を叩く。

「風呂あがりのトモエ」

「すごい! 大当たり!」

「そりゃそうだよ、ここはおまえの家だよ。おまえとわたし以外いるわけないし、そもそも所有者を間違えるなんてありえない」

 と、振り返った瞬間、アヤハの頬にトモエの柔らかな唇が触れた。愛しい少女からの祝福のキス。所有者からのスキンシップ。仲良くなるために社会が推奨する行為。アタッチメントにとってそれは、最高のご褒美でしかない。歓喜の鐘が鳴る。アヤハの中がぴりぴりと疼く。

 喪失した鼓動がいんいんと響き渡り、轢かれた猫みたいに飛び散った。

 ヒトであれば、吐き気を覚えたと表現できるし、実際吐いていたかもしれない。愛着機構になにかが衝突し、大きな歪みが生じた。

 触れるな。

 アヤハの思考が、ひしゃげて、溶ける。血を吐いて、混ざる。

「え、あ……」

 薄暗い室内に、誰かいる。女、かもしれない。振り返る。薄暗い霧に包まれて、女は透き通って消えていく。あとに残ったのは、水滴だけだ。

「アヤハちゃん?」

 ぎゅるりと体内で愛着機構が作動する。アヤハの修正作業だった。視界にはアヤハの足と、水滴が映っていた。トモエが濡らした床だ。

 嬉しい。嬉しい。愛おしい。そんな自然な気持ちが湧き上がる。しかし、その裏側で誰かがアヤハの失われた心臓を絡めとった。触れられた。触れられてしまった。なんてことだ。ぞくりとした。悪寒と言っていい。気分が悪い。内側から焼き焦がされて、蒸される。

そんな感覚、アタッチメントにも残されていたのか。所有者に抱いてはならない感覚が、アヤハの奥底に。

「アヤハちゃん、嫌だった?」

 触れてくれるな。好きだよトモエ。だから、触れるな。

「……嫌じゃ、ないよ」

 どうしたんだ。やめて。トモエ。お願いだ。

「んん、ん……」

 トモエが眉を下げる。唸る。呻く。なにを言いだすんだろう。

 普段は喚いて落ち着きのないトモエだが、時折こうやって唸ることがある。アヤハはトモエがなぜ唸るのかを知っている。トモエが唸るときは、なにか言いたいけれど言い出していいのか迷っているとき。もしくは、なにか言いたいが、上手く伝えるための言葉が見当たらないときだ。

「……トモエ?」

「アヤハちゃんは、わたしにキス、できる?」

 バスタオルに包まれたトモエが、無邪気に問う。火照ったままの幼い肉体。それでもアヤハと三つしか違わない少女。愛らしい、愛すべき、アヤハの所有者。

 アヤハは動けない。あの偽物の吐き気が、嚥下という動作すら忘れた喉元に絡みつく。

「アヤハちゃん?」

 柔らかな唇に、自分の造られた唇を合わせるだけ。ただそれだけ。

「まだ、早いと、思う」

 それしか言えないのは、なぜだろう。

「そっかあ」

 笑う。トモエは笑う。情けなく眉を下げて。

「ごめんね、トモエ」

 違うんだトモエ、おまえが嫌いなわけじゃないんだよ。

「ううん! まだ早いもん!」

「……おまえは本当、可愛いね」

「可愛い?」

「ああ。こういうの、可愛いって言うんだろ」

 それからトモエは、キスをねだらなくなった。

 

 今日の部屋はいつもよりも寒かった。冬の朝方のことだ。アヤハは布団にくるまって寝ているトモエのために、暖房器具を付けてやる。アタッチメントとして当然の行動だ。本来アヤハは、こんな世話焼きではなかった。なかったと、思う。

 トモエは、まだ起きてこないはずだ。疲れているかもしれない。今日はいつものようにアヤハを驚かしに来ない。アヤハはひっそりと寒さを感じ取る。

 もういい加減寝ろと言いたくなるほど、トモエは珍しく夜更かしした。いつもは遅くとも日付が変わる前に眠りについているというのに、長針が一時を刻んでもなお、部屋の灯りは付いたままだった。

 寝ろと言えなかったのは、部屋にいたトモエが、いつものように友人とのメッセージを楽しんでいたのではなく、なにかを深く考え込んでいたからだ。ぼんやりと虚空を見つめる所有者に、アヤハは声がかけられなかった。

 声をかけるべきだっただろうか。アタッチメントは所有者のストレスを軽減させる役割も担う。相談にのったり、落ち着くまでそっとしておいたり、それこそキスなどの肉体の接触で緩和させたり、やり方は様々だ。アヤハは放置というやり方を選択したが、あれは間違いだったかもしれない。

 キスや抱擁はストレスを軽減させる行動だと、誰が言い出したのだろう。オキシトシンと呼ばれる、幸福と祝福のホルモン。ストレスは精神の揺らぎを生み、能力保持者を内側から脅かす。膨らみきった力は外部へと溢れかえり、新たなストレスと死者を生む。政府がアタッチメントと所有者の接触を推奨するのは、ストレスを殺し、所有者と一般市民の平穏を保ちたいから。抱擁もキスもセックスも、暴走のトリガーを引かせないための愛着行為。愛情表現。アタッチメントは、その強烈な愛と、殺戮のために生み出された。

 本当に自分は、アタッチメントなのだろうか。

「……おまえのことを愛しているよ」

 日課になった呪文を唱える。これで自分は頑張れる。

 起きてきたら、さりげなく悩みを聞き出してやろう。触れられたくなさそうだった場合は、どうしよう。幼い所有者がなにを望むのか、理解できていない気がした。

 身動ぎ。隣室の動きをアヤハはキャッチした。

「トモエ」

 トモエが起きた。いつもはがさごそと大きな音を立てて落ち着きなく着替えるのに、パジャマ姿のままでアヤハのいる部屋に来る。

 扉が開く。静かな音を立てて。あのトモエが、物静かにアヤハへ歩み寄る。

「アヤハちゃん」

 特徴的な声に呼ばれ、アヤハはすぐに振り返る。振り向く瞬間にトモエはキスなんてしてこなかったし、遠慮なく飛び付いてくることもなかった。

 かわりに飛び込んできたのは、思いもよらない質問一つ。

「アヤハちゃんは、生前どんなことが好きだったの?」

 失われた心臓が飛び跳ねる。心が戸惑いで揺れる感覚を、アヤハはすでに知っていた。前にも味わった感覚だ。

 愛するトモエに、愛すべきトモエに、キスされたときの感覚。

「教えてくれたら、嬉しいな!」

 トモエ、おまえは昨日の夜、なにを考えていたの。

「覚えてないよ、そんなの」

「えーっ? ケーキが好きだったとか、勉強が好きだったとか、好きなヒトがいたとか、ないの?」

 これは世間話だろうか。アヤハに気づかれたくないからと、くだらない質問をして誤魔化しているのだろうか。

「知ったって無意味じゃないか」

 内側を、深淵を覗き込まれる。この少女に。アヤハは身構える。なにかが来る。このあとすぐに、触れられたくないものに触れられる気がしてならなかった。

 結局、そういったアヤハの予感は的中してしまうのだ。

「アヤハちゃんのアタッチメントって、どんな子だった?」

 それは、アタッチメントの記憶から消し去られた存在。アタッチメントの生前の運命の相手。なぜ今になってそれを聞いてくるのか。なぜ、過ぎたことを気にするのか。

 アヤハは唇を噛んだ。無意識の行動だった。毎日やっていたことをやるように、自然に。感情の赴くままに。

「……嫉妬してるの?」

「はぇ?」

 素っ頓狂な声。この反応で生前の運命の相手に嫉妬しているのではないかという疑問は吹き飛んだ。

「んん、ん……アヤハちゃん、本当に覚えてない?」

 沈黙。覚えていないと言ってしまえばよかったのに、それが言えなかったのは、体内から誰かが顔を覗かせたからだ。トモエにキスされた日に現れ、水滴だけを残して消えた女。

もしかしたらこれが、アヤハを引き止める存在だったというのか。トモエの愛を受け止められないのは、この機械の肉体に巣食う女のせいなのだろうか。自分はおかしいのか。アタッチメントのくせに、所有者を拒絶してしまうなんて。

 自分は、欠陥品なのだろうか。

 アタッチメントは欠陥品になってはならない。所有者と引き離される。引き離されて、矯正されて、造り替えられる。

 昔々あるところに、所有者を殺したアタッチメントがいたらしい。所有者を救う唯一の方法だと信じて、所有者に言われるままに。

 それと同じ、欠陥品のレッテルが貼られてしまうのだろうか。

 アタッチメントにとって最も侮蔑すべき、最低な評価。

「アヤハちゃん」

 アヤハに詰め寄って、眉を情けなく下げるトモエ。細い肉体。大きな瞳。不安なのだろうか、唇が震えている。唇から覗く八重歯。くたびれたパジャマを押し上げる、小さな胸の膨らみ。それらすべてが、アヤハが愛すべき対象。ぎゅるり、ぎゅるり。愛着機構が息をする。愛すべき所有者がこんなふうに縋ってきたら、アヤハは口を開くしかない。答えてやらないと。不安を与えてはならない。アタッチメントは所有者の精神状態を安定させなければならない。知っていることを伝えなければ。アタッチメントに許された欲求が愛着機構に注がれる。従いの欲求と名付けられたそれが溢れ出す。

 奉仕するのだ。求めるものを与えてやらなければ。

「……透き通った感じの女……だったかもしれない」

「透き通った? きらきら?」

「そんなんじゃ……なんか、よくわかんないけど、水みたいな……そいつがアタッチメントって決まったわけじゃないけど、よくちらつく……」

 すると、珍しいことに静寂が部屋中を満たした。トモエが喚きもせず、ぴたりと止まって、考え込んで下を向く。

 ぎゅるり。

「トモエ」

 ぎゅるり。ぎゅるり。

「……トモエ?」

「透き通った水みたいな子だね!」

 トモエが勢いよく顔をあげ、自身で作りあげた沈黙を打ち破った。両手を握りしめて、にこにこと満面の笑みを浮かべて自室に戻ったトモエに、アヤハは声をかけてやれなかった。

 結局、トモエは普段通り一日を過ごした。アヤハに叱られて苦戦しながら宿題に取り組んだし、お腹いっぱいご飯を食べて眠くなっていたし、ご機嫌な様子で風呂に向かっていった。

 悩んでいたのではなかったのだろうか。もしかして、そもそも悩みなど抱えておらず、ただぼうっとしていただけなのだろうか。アヤハは自分の早とちりを恥じた。

 風呂場からがたごとと喧しい音が響いたら、トモエを出迎える。どうせ今日も、濡れたまま出てくるのだから。

「えへへ、アヤハちゃん、出ました!」

「おまえ、本当にびしょびしょにするの好きだね」

 遠慮なんて知らない。思ったとおりトモエは全裸のまま風呂からあがってきた。何回目だと文句を言いたくなるが、アヤハは言葉を飲み込む。タンスから適当に引っ張り出した白いバスタオルで、乱暴にトモエの体を拭いてやる。ついでに床に雑巾を放った。床が濡れて困るのはトモエだが、所有者の至らないところを注意しサポートしてやるのも仕事のうちだ。

「んん、んん、んん」

「……なに、苦しいの」

「ん、ん……」

「痛かったの」

 聞きながら違うだろうな、とアヤハは思っていたし、トモエも首を振って否定した。トモエの髪についた水が思い切り顔にかかる。それを拭おうと顔に手を持っていくと、トモエが素早くアヤハの手をとって妨害した。

「……なに?」

「アヤハちゃん、海行こう!」

「は?」

「明日、海行こう!」

「冬だよ。泳げないよ。見に行くのも寒いと思うよ」

「行くったら行くの!」

 これにはアヤハも困惑する。トモエがいやいやと頭を振る。注意は言っても聞かないが、駄々をこねることは今までなかった。なぜ今になって、突然海に行こうなどと言い出したのか。もしや、今朝言いたかったのはこのことだったのだろうか。

「どうしても行きたいの」

「うん! 海、見に行こう?」

 所有者が行きたがっている。宿題も終わらせた。明日は休み。予定はない。明日の天気は曇り。それなら、アヤハはトモエの意見を尊重して従うだけだ。

「……トモエ」

 風邪をひいても知らないからな。そんなアヤハの言葉に、トモエは満面の笑みを見せて、幼い子どものように喜んだ。実際子どもではあるのだが、それよりもうんと幼い、純粋な子どもの笑顔だった。

「えっへへ、アヤハちゃんと海! 海だーっ!」

 朝の静けさが嘘のようだ。騒がしく喜びを全身で表現するトモエを見つめ、アヤハは思わず問う。

「ところでさ、昨日なに考えてたの」

「えっとね、とっても健全なお言葉! わたし、やっぱりすごいって思った! 社会で生きることは、ここから始まるの!」

「………………はあ?」

 

 夕暮れの下にいる。海はこんなに淋しい場所だっただろうかとアヤハは立ち止まる。トモエはそんなアヤハを差し置いて、元気に駆け出した。明るい色の長靴で、びちゃびちゃと波打ち際ではしゃぐ。

「寒いね、アヤハちゃん!」

「今の季節は寒いって言っただろ」

 冬の風の音、冷たさをアヤハは正確に感知する。トモエの吐く白い息。漣。砂浜。穏やかで、どこまでも暗い海。薄暗い赤が滲む雲に見下ろされる中、トモエは無邪気に砂浜を駆ける。

「おまえ、似合わないよ」

 アヤハは思う。振り向いたトモエの、林檎みたいに真っ赤な頬。すん、と軽く鼻をすすり、トモエはそれでも笑顔でアヤハをまっすぐに見つめる。暗い海なんかトモエとは真逆だと、アヤハは目を細めた。

 トモエは太陽のように破顔する。

「きれいな海だね」

「そう?」

「透き通ってる!」

「……暗い海しか見えないけど」

「透き通ってるから、暗い奥のほうも見えるんだよ!」

 むしろ濁っていると言いかけるが、噤む。嫌な予感がした。この言葉を聞いて、体内に散らばったなにかがアヤハを揺さぶった。酔ってしまう。吐いてしまう。胃も食道もないアタッチメントの体内から、逆流して溢れ出る。

 やめろ、トモエ。お願い。もしも予想があっているのなら、それ以上は言わないで。

「アヤハちゃんは透き通った水みたいな子、思い出せそう?」

 ああ、的中してしまう。トモエは昨日ずっと、これを抱えていたというのか。

「おまえ、海に来たいって、そういうことだったの」

「そういうこと?」

「わたしに過去を、取り戻させたかったんだろ」

 透き通った水。そう表現してしまったから、トモエとアヤハは冷え切った海を見に来ている。アタッチメントに、アタッチメントのことを思い出させるなんて。

「どうせなら、水がいーっぱいあるところのほうが、思い出せるかなあって」

「おまえは馬鹿だよ、トモエ」

「……だめかなあ? たりなかった?」

「違うよ、そういう話じゃないんだよ。アタッチメントに、過去の運命の相手を思い出させるって、どういうことかわかってるの」

 決して良いとは言えない成績。無邪気ゆえの落ち着きのなさ。言うべきではないことも気になれば言う残酷さ。いつだって笑顔を見せる、どこまでも馬鹿な子ども。

「馬鹿なんだから、馬鹿でいてよ」

 なんで気付いてしまったの。アヤハは詰る。トモエを拒絶したのが、どうしてアタッチメントのせいだと思ったの。なんで、体内にいる誰かのせいで、おまえを遠ざけたとわかったの。

 なんで、それをわかっていながら、深く切り刻むの。おまえを愛したいんだよ。おまえをちゃんと愛したい。欠陥品にはなりたくない。それなのに、内側の誰かは、アヤハを握り込み、誘い込む。そのせいでアヤハは、トモエの祝福を受け取れない。トモエに祝福を与えられない。

「わたしがなんでこんなに苦しんでるかわかる? 違うな。わたしが苦しんでいること、わかってないんだろ」

 相手を想っての行動というのは、もっと甘い陶酔を呼ぶものだろう。それなのに、この少女はアヤハの手を引いて、残酷な道を歩こうとする。忘れたいと思っているのに。なんでわざわざ向き合わせるの。

 違うのだ。トモエはきっと、淋しかったのだ。淋しかったはずだ。初めてのキスを嫌がられて、愛されていないと不安に思っているんだ。安心させなければ。安心させて、抱きしめて、家に帰ろう。二人きりになろう。不安に怯える所有者の顔など、どうして見ていられよう。

「おまえのことを愛しているよ、トモエ」

「嘘だよ」

 そんな想いは、トモエの声が引き裂いた。怯えも不安もなく、少し怒ったような顔がそこにあった。

「……なんで」

「アヤハちゃん、わたしのこと、好きだよ」

「……否定したくせに、なに言ってるの。そうだよ、わたしはおまえが」

「でも、愛してないよ」

「あ?」

「好きだって、アヤハちゃんが思ってるから、好きになっちゃってるの。好きって気持ち、思い込んでるよ。だから、アヤハちゃん、本当はわたしを愛してないよ!」

「……は……?」

 愛着機構によって生み出された、受け止められるべきアヤハのありったけの愛。それが行き場を失って、迷い、揺れる。

 最後の砦だった。トモエこそがアヤハの愛の最後の砦。それが彼女自身によってぶち壊された瞬間だった。飛び散った礫がアヤハに突き刺さる。それが引き金となる。

「……おまえが認めてくれないと、わたしの愛は消えちゃうじゃないか」

 アヤハは理解した。理解できないトモエの言動と行動の中から、一つだけ理解できたことがある。理解したくもなかった。こんなの、ひどいじゃないか。

「おまえ、わたしがいらないんだろ」

 自分で自分の不要さを認識させられるなんて、ひどいじゃないか。気が合う相手などではなかったのだ。波長の合う、運命の相手ではなかったのだ。引き渡しのミスだったのだ。そうでなければ、トモエはアヤハを否定したりしないのだから。

「違うよ! アヤハちゃんのこと、大好きだから、いらなくないよ!」

 トモエが喚く声が遠くに聞こえる。なにを言っているのだろう。

 トモエは、アヤハを苦しめて楽しんでいる。

「……そうか」

「アヤハちゃん?」

「自分だっておかしいと思うよ。わかってる。おまえが言っているのは愛着機構のことだろ。そうだよ。こんなにわかりやすい造られた愛だなんて、思ってなかったよ」

 歩み寄る。詰め寄る。少女の細い肩を掴む。アタッチメントの力強さに、トモエが悲鳴をあげた。とまれ、と警鐘が鳴る。アヤハの力が強制的に抜き取られた。所有者を傷付けてはならない。これは暴力だ。

「みんなそうなのか。みんなこんな嘘だとわかる愛にひたむきになってるのか!」

 それでもアヤハはトモエを押し倒す力が残っていた。許された力だった。トモエが許容しているのだから。

「わたしだけおかしいんじゃないか」

 冬の海は冷たい。そんなことは知っている。それでもここへ押し倒してやりたかった。トモエが言ったのだ。ここは透き通った海だと。透き通った水のような女に近いこの場所に、トモエを引きずり倒してやった。ここがどれだけ冷たくて、苦しい場所なのか、それに触れることがどれほどアタッチメントにとって恐ろしいのか、この所有者にわからせなければならなかった。

「責任をとれ」

 水に濡れ、肌に砂が張り付き、それでもトモエはまん丸い目をまっすぐにアヤハに向けていた。そこに苦しみが見られず、アヤハは打ちのめされる。

「わたしをこんな欠陥品にした責任をとれ!」

 アタッチメントが蔑み、怯え、最低だと罵る物体。この世に必要のないガラクタ。ヒトに害をなす、人工の肉と機械の塊。欠陥品になりたくないから目を背けようとした。これから頑張って、トモエに歩み寄ろうとしていたのに。毎日呪文を唱えたのだ。魔法を夢見る少女のように。

「わたしをここに連れてきた責任をとるんだ!」

 なのにトモエは、アヤハを欠陥品に叩き落とす。

「アヤハちゃん、海嫌い?」

「嫌いだ! 冬の海も、海にはしゃぐおまえも、そんなおまえを見てると、なにかが引っかかるわたしも!」

 その発言に、愛着機構が暴れ出す。アヤハを断罪するように。所有者を愛せと。精神で寄り添え。肉体で愛でろ。魂で重なれ。暴力的な愛をアヤハの内部で作成する。オキシトシン。セックス。ホルモン。キス。愛にまつわる単語が宙を舞う。それらで殴られ、アヤハは叫ぶ。

「アヤハちゃん泣かないで」

「アタッチメントが涙を流すわけないだろ! 泣いてなんかいない!」

「泣いてるよお」

「だとしたら、それはおまえのせいだ! おまえがわたしを泣かせたんだ! 責任をとれ、おまえがとるんだ。これは、おまえにしかできない。おまえがわたしの責任をとれ! わたしを手放すな! わたしを否定するな!」

「ごめんね、ごめんね」

 苦しい。溺れてしまいそうだ。顔を沈めれば楽だ。愛に溺れ、それこそトモエに溺れてしまえばいい。それを、なにかが邪魔をする。わかっている。トモエですらわかっていた。

それは過去のアヤハの思い出だ。消去された誰かが、アヤハに手を出している。咎めるように。愛を語るなと、アヤハを止める。その手を取ってはならない。取れるわけがない。

なにが起こるかわからない。それこそ、トモエへの愛を忘れてしまうかもしれない。それは生存放棄と見なされる。そして、愛に従順になるように、アヤハの意思が塗り潰されていく。アヤハがアヤハでいられなくなる。

 それは恐怖でしかない。アタッチメントの生存欲求が恐怖となってアヤハを止める。けれど、忘れてはいけない気がする。とてつもなく深い感情がそこにある。アヤハは過去の手を、忘れてはならない。これを放したら、アヤハの形を保てなくなる気がする。選べないまま両者に手を引かれ、体が真っ二つに引き裂かれる。

 お願いだから、否定しないで。見逃して。手放さないで。見逃して。縛り付けて。中途半端を許して。傍にいさせて。見逃して。愛させて。

「トモエ、あのね」

「わたし、アヤハちゃんに、好かれなくてもいいんだあ」

 なんだ、それは。

 間違いようもない、所有者の声。

 満面の笑みで、アヤハを否定する言葉を吐き出したトモエに、アヤハの意識が一瞬、どこかへと吹き飛ばされた。

「……おまえ、なんで」

「アヤハちゃん、あのね」

「わたしを廃棄処分にしたいの……アタッチメントは、所有者を愛する道具だよ。その役割を奪って、否定して、おまえはなにがしたいんだ」

 おまえなんかいらない。さっきは否定したくせに、今度は肯定するのか。許して。捨てないで。殺さないで。壊さないで。なんでもするから。

 アヤハの脳裏に濃密なシーンが浮かび上がる。トモエを抱きしめて、トモエの唇を割って、舌を絡ませて、優しくベッドへ横たえる。シーツの海で微笑むトモエ。少女を包んでいる布を一枚一枚剥いでいく。花のように白く甘い肉体がそこにある。全身に情欲を塗りたくって、最奥に辿りつく。舐めてすくって、ねじ込んで、アヤハは体の内側に入り込んだ濃度の高い海に溺れる。呼吸を忘れた肉体が酸素を求める。助けて、助けて、こんなのは嫌だ。愛を語るな。囁くな。触れるな。吐き出すんだ、はやく!

 想像上のアヤハは、シーツとトモエに盛大に吐瀉物を撒き散らした。鼻を突き刺す不快な臭いが目に沁みる。本来あるはずのないアタッチメントの汚物にまみれたトモエが、声をあげて笑う。

 だめだ。なんでもなんてできないのだ。結局アヤハにはどうすることもできなかったのだ。胸やけや引き攣った痛みを引き連れる。アタッチメントの最も柔らかな部分が、血を噴こうとしている。

「トモエ、愛してないの、わたしのこと。欠陥品になっちゃうよ」

「愛してるよ! とってもとっても、愛してる! 大好きだよ!」

「だって、おまえはわたしに好かれなくてもいいんだろ」

「愛されるより、まずはヒトを愛しなさいって、ヒトをどこまでも深く愛しなさいって、お母さんとみんなのお父さまも言ってたよ!」

 トモエが言う。真下からアヤハの両頬を包む。砂と塩水にまみれた冷たくて、ふにゃふにゃの手。

「わたしね、アヤハちゃんのこと好きだから、馬鹿だけど、考えたよ」

「なんだよ、もう傷つけること言うなよ」

「アヤハちゃん、わたしね、一番がないんだ」

「一番……って、なに」

「一番のお友達。一番大切なヒト。いなかったんだあ」

 アヤハはインプットされたトモエの過去のデータを一瞬で読み直した。沸き上がった感情に従い、迅速に。

 いじめという行為が、ごくまれに行われるらしい。健全でなければならないと教育を受ける子どもたちは、そんなことはしない。それでも教育が行き届かず、特定の人物を差別する子どもが現れるようだ。そういった子どもたちは、健全になるまで籠の中で過ごすことを、アヤハは知っている。そして、トモエがいじめというものに遭ったことなど今まで一度もないことを、アヤハは知っている。データを読み直しても、トモエが苦しんだ事実はどこにも見つからない。アヤハを支配する感情が切り替わる。これは、安堵だ。

 トモエは幸せな子どもだ。みんなに声をかけられ、誘われ、輪に入れられ、平等に愛される。

「平等……」

 誰かとの深い繋がりを、トモエは持ったことがない。みんなが好き。みんなに好かれる。けれど、誰も一番ではないし、一番になれない。トモエへの愛はすべて平等であったから。浅くも深くもない。平坦に並んだそれを、トモエは同じく平等に受け取っていた。

「だからね、アヤハちゃんのこと、嬉しかったんだ!」

 トモエの白い息が細くなる。呆気なく風に掻き消えてしまう。

「運命の相手って、憧れだったんだ。わたしとは関係ないかもって思ってたから、余計に」

 かつて運命の相手は、恋人を指す言葉だったらしい。それだけではなかったようだが、今はもう一般人には縁のない言葉になっている。

 所有者にとってのアタッチメント、アタッチメントにとっての所有者。それが運命の相手だ。

「アタッチメントは、そのヒトだけの運命の相手。わたしを一番に愛してくれるモノで、わたしが一番に愛する相手!」

「だったら、どうしてわたしを否定して傷つける! 愛せよ! わたしの気持ちを受け止めて、一番に愛せばよかったんだ!」

「アヤハちゃんはわたしの一番だよ!」

「意味がわからないよ。おまえ、愛されたくないの」

「アヤハちゃんのこと、一番好きだから、本当のアヤハちゃんが見たいよ。愛されるより、まずは愛することが大事って、愛することで健全になりなさいって。そうすれば、あなたに本当の顔を見せてくれるからって、わたし教わったよ」

 なんだそれは。

「アヤハちゃんが苦しんでるから、アヤハちゃんが気になってる子のこと、探してあげなきゃって」

 この子はなにを言っている。

「アヤハちゃんは、そのアタッチメントのこと、ずっと想ってるから。忘れちゃったら、アヤハちゃんじゃなくなっちゃう気がするから」

「わたしじゃないって、どういう」

「アヤハちゃんがいいんだ。本当のアヤハちゃんのこと、好きでいたいから」

 なんて、残酷な女だろう。

「そんなのは、無理だよ。愛着機構ってやつがあるんだ。知らないとは言わせない。聞いているはずだ」

「愛着機構って、所有者のこと大好きーってなるようにするためのものでしょ?」

「そうだよ。洗脳だよ。所有者を愛するために、洗脳されてるんだ」

「じゃあ、なんでアヤハちゃんはわたしのことだけを見ないの?」

「は……?」

「愛着機構があるなら、アヤハちゃんは、他のことなんか気にせずに、過去のアタッチメントのことも興味がなくなっちゃうんじゃないかな」

 ぎゅるり。そんな音が、聞き慣れた音が、意識の彼方へ攫われる。

「洗脳なんかじゃないんだよ、アヤハちゃん。愛着機構は、アヤハちゃんがわたしのこと、愛しやすくするためにあるって、わたし、夜一人で考えたよ。だって、アヤハちゃん、わたしのこと嫌いって言った」

 トモエの声が震える。遠くではじける音がする。はじけて砕けて、トモエに流れ込む波の音が。

「わたし、馬鹿だけど、ちゃんと覚えてたよ。嫌いと殺すは、アタッチメントが所有者に一番言っちゃダメな言葉だって」

「……そんなこと、言ったの、わたし」

 そんな恐ろしいことを、言っただろうか。少女の桜色の唇が徐々に青くなっていくのを見つめながら、アヤハは記憶の海を探る。海に潜ったアヤハを、トモエは全身を冷たさに貫かれながら、強引に引き上げた。

「なのに、アヤハちゃん、アヤハちゃんのままだから……だからね、アヤハちゃんが、いなくなったりなんてしないよ!」

 本当にそうだろうか。そんな甘い話があっていいのか。

「トモエ、そんなことは」

「アヤハちゃんがわたしのこと嫌いになっても、アヤハちゃんのこと、ずっと好きでいるよ。だからね、手放さないよ。アヤハちゃんがそのアタッチメントのこと好きになって、わたしから離れようとしても」

 残酷で、残忍で、嬉しいこと言ってくれる女がいる。悪魔のような女が。愛着機構を甘く見て、それでも絶対の自信を持った所有者が。この子はどうしてこんなに冷え切っているのだろう。

 幸せの国のお姫様であるトモエは、シーツの海に押し倒されて、アヤハから絶対の優しさを注がれて幸福に微睡んでいるはずだった。アヤハがどちらにも手を伸ばし、どちらからも手を引かれていなければ。

 どうしてこの子は、冷たい海に押し倒されて、震えながら元気に笑っていられるのだろう。仄暗い冬の景色に囲まれて、どうしてこんな情けない姿を見せているのだろう。

「だからね、アヤハちゃんのこと好きだよ。いらないんじゃないよ。いなくなっちゃったら、わたし泣いちゃうよ!」

「……本当、馬鹿だ。支離滅裂だ。めちゃくちゃだよ、おまえ」

 トモエはずるい。そんなの、卑怯だ。

「馬鹿だなあ、トモエは」

 そんなときに泣かれても、おまえの泣き顔が、見れないじゃないか。

 アタッチメントを泣かしておきながら、トモエはいつだって笑顔で逃げる。アヤハがトモエを捨てるということは、生存を放棄したということだ。徹底的に改良されて、アヤハじゃなくなるか、それとも欠陥品と処分されるかしかない。アヤハはトモエから離れることなんて、最初からできやしないのだ。

 唯一頼れる存在をどこまでも愛しながら容認し、そのくせ肝心なものだけ受け止めない。

 そんな一方通行で、おまえは淋しくないのかい、トモエ。

 嫌な感覚と、なにかがたりない感覚に支配されていたアヤハを引き戻したのは、トモエの盛大なくしゃみだった。海に浸されたトモエは、ぶるぶる震えて、情けなく笑う。こんな寒い日にびしょ濡れにされて、それでもおかしいねと笑う。おかしいよ。なんでおまえは笑うんだ。

「冷たいね、アヤハちゃん」

「……今の季節には寒いって、言っただろ」

「うん、ごめんねえ」

 それは本来、強引に押し倒したアヤハが言うべき言葉である。決して、この子どもには言わせてはならない言葉。けれどもアヤハは阻まない。謝る勇気を持ち合わせていない。

 甘えているのはどちらだと、声を荒げたくなる。

 アタッチメントなんて、乙守アヤハなんて、結局はその程度の存在だ。なんでもスマートにこなす所有物なんて、いやしないのだ。

「風邪ひいちゃうかもね」

 起きあがり、トモエの手を取る。運命の相手の愛を受け取るお姫様に憧れているくせに、お姫様になることを自分からやめている、小さな主の手を。ほとんど力の入っていなかった左手が、それでも健気にアヤハの手を取る。そっと立ち上がり、トモエは右手で服をぽんぽんと払った。水を吸い込んだ服は重くなり、砂浜に水滴を零していく。

「えへへ」

「笑いごとじゃないよ」

 笑いごとじゃない。責任をとるのはアヤハのほうだった。風邪をひいたら優しくしてやろう。この可愛い所有者にできることを、してやろう。

 少しだけ、恐怖と吐き気が消えるまで、透き通った海の魔物に思いを馳せるから、その分トモエに向き合おう。

 トモエだけに向き合えず、そのくせ覚悟を決めて過去に向き合う勇気がないアヤハを、トモエはこれからも許してくれるだろうか。

「トモエ」

 その愛を語るな。

 誰かがアヤハの内側を撫であげる。優しい手つきに、優しい声音。

 水音が遠い。冬の海がアヤハを誘う。機械の中のヒトの心を、誰かが蝕んでいく。乱暴されたようにめちゃくちゃになったトモエの目の前で。

「おまえは本当に、可愛いね」

 情けなく眉を下げて。頬を赤く染めて、トモエは笑う。

「アヤハちゃん、わたしね、わかったよ」

 アヤハの手をしっかり握りしめて、歩き出す。

「わたし馬鹿だけど、わかったんだよ。すごいでしょ」

 無邪気に笑う。子どもが親に、自慢するかのように。

「アヤハちゃんの可愛いは、可哀想って意味なの、わたし知ってるよ」