鉄曇り


 月は厚い雲に包まれ、闇だけを漂わせていた。虫がチリチリとささめきあう夜の山道を、龕灯の明かりを揺らしながら進んでいく。妖畏狩りの任を請けたわたしは、山を越えた先の町に向かっていた。本来ならば夜間の移動は避けたかったが、急ぎの命である以上、危険だろうと夜に出立しなければならなかった。

 この先には誰の住処とも知れぬ杣小屋があり、町の行き来の際によく無断で寝泊まりしていた。もう杣夫にも利用されることはなくなったのか、ほとんど廃屋同然ではあるが、山の中で野宿するよりも、ずっと身の安全を守れる。

 いつどこで妖畏が狙っているかもわからない闇の中を、わたしは時折刀に手を添えながら突き進んだ。妖畏狩りになって数年経つが、未だ緊張感は衰えない。わたしは目を凝らし、すうと息を深く吸い、鼻腔に届く空気をしっかりと味わった。妖畏特有の匂いは混ざってはいないかと、畏れと敵意を露わにするわたしに呼応して、生ぬるい風が頬を叩いた。しばらくすると、それがついに、嫌な臭いを運び込んできた。

 わたしは龕灯をきつく握りながら、そっと生唾を飲み込んだ。仄かな獣香と、恐ろしいまでの鉄の匂いだ。今まさに食われている者が、この先にいるのではないか。腹の中身を全部ぶち撒けたような濃厚な血の匂いが、獣香すらも飲み込んでしまいつつある。唇を舐め、わたしはゆっくりと抜刀した。龕灯の明かりを吸い、ちらちらと光る刀身をさげて、歩を進めた。

 殺しきれない足音めがけて、暗がりから妖畏が襲い来る瞬間を待っていたが、そのときはいつまで経っても訪れなかった。ただ、龕灯が照らしたそれだけが、刀を握るわたしを出迎えた。

 まずわたしに反応したのは、分厚い二本角を生やした女だった。身を強張らせたかと思うと、落ちているそれを庇うように、震えが止まらぬ両腕を広げてみせた。あまりにも乱れた呼吸が繰り返されている。女は憔悴しきった顔をしながらも、決してわたしの刀から目を逸らそうとしない。女のボロボロの着物にべっとりと染みついた同じ赤が、女の足元から地面を這って現れた。女の向こう側で倒れ伏す塊に、わたしは息を飲んだ。

 刀を持った男だった。着物はずたずたに切り裂かれ、袖に至ってはほとんど布きれと化していた。そこから覗く黒い籠手の隙間から、脈打つように血が湧き出でて、じわじわと山道を赤く塗り潰していく。刀は朱塗りの鞘におさまったまま、男の右手に握り締められていた。わたしは唇をぎゅっと引き結び、すぐさま男の傍にしゃがみ込んだ。女がはっとしてわたしの刀に手を伸ばす。彼女の掌が刃を握る寸前、わたしはそっと刀を引いた。

「わたしは妖畏狩りだ。やられたのは今か? 妖畏の気配はないが」

 女は強く首を振り否定した。わたしが野盗ではないことを知ったからか、わずかに呼吸が整っていたが、それでも声すら出せぬ恐怖に囚われ続けている。

 わたしは男の体の異様さに気づいた。切り裂かれた羽織と中の襯衣に、乾いた血が張り付いている。刀傷だとすぐにわかった。だが、その下にある肌は、同様に多量の血で汚れてはいるものの、本来あるはずの場所に、傷など見当たらなかった。

 伏せた顔のあたりからも流れる血に気づき、わたしは男の体を仰向けにした。固く閉じられた右の目尻から、ぼたぼたと血が滴り落ちていく。怪我をしたのは今ではないのか、妖畏が原因ではないのか。詳しい話を聞こうにも、女は声を失っており、乾いた息だけを吐き出していた。

 簡易的な処置ではあるが、荷袋から巻木綿を取り出し、男の右目を覆うように縛った。左腕の傷口も止血が必要だった。外すために籠手に触れて、その熱さと、それとは別の事実に、わたしは瞠目した。男の首の辺りまで、鋼のような黒い肌が続いていた。そこに繋ぎ目などなく、これそのものが男の腕なのだとわかった。女だけではなく、この男も人ならざる者だったか。妖気の一つも洩らさぬ上級の妖怪か。わたしは慌てて意識を戻した。熱を持つ左腕の隙間、血が溢れ出るそこへ布を押し込み、目と同様木綿を巻いた。痛みで男が起きる様子はなかった。わたしは男の唇に指を押し当てた。息が途絶えていないことがわかり、わたしは刀を鞘におさめ、男を背負って立ち上がった。

「この先に小屋がある。ここよりはまだ安全だ。そこで夜を越えよう」

 女が何度も頷いた。苦しげに胸を押さえてはいるが、男と違い外傷はないようだった。

 わたしが数歩進んだところで、なにかが落ちる音がすぐ近くで聞こえた。見れば、男が倒れてもなお離そうとしなかった刀が、ついに右手から滑り落ちたようだった。

 わたしがなにかを言う前に、女が慌てて刀を両手で拾い上げた。鞘に巻かれた組紐が風にあおられ、女の肌を擦った。きつく唇を噛み、縋るように刀を握り締めた女は、わたしが歩き出すと黙ってそのあとに続いた。血の臭いを漂わせたまま、夜闇へと踏み込んでいった。

 

 しばらくして、杣小屋に着いた。隣にある木挽小屋にも、やはり人の気配などなかった。

 わたしはすぐに男を下ろした。男の羽織を脱がして床に敷き、そっと男を横たえた。男は未だに固く瞼を閉じたままだったが、微かに聞こえる寝息が、彼が間違いなく生きていることを伝えてきた。女はすぐに男の傍に座り込み、男の右手に刀を握らせた。そのまま両手で男の手を、まるであたためるかのように包み込んだ。

 健気な姿を見せられてしまい、話しかけるのは少々躊躇われたが、すぐに頭を振って女の手を指差した。

「悪いが、手を離してくれ。刀もだ。彼の体を拭いてやらないと。他に傷がないかも、念のため確認する」

 龕灯を置き、かつて炉だった土間に火を熾したわたしは、腕まくりをして男の着物を脱がせた。元は白かったであろう襯衣が、ほとんど真っ赤に塗り潰されていた。帯を解いて襯衣を脱がし、水で湿らせた布で男の体を拭いていく。こびりついた血が剥がれ落ちていき、男の肌の色が見えた。

 女がおずおずと腕を伸ばし、わたしを見た。口を小さく動かしかけたが、結局なにも言ってこなかった。相当怖い思いをしたことだけははっきりとわかっていたし、この男の有り様がすべてを物語っていた。声を失った女は悲痛な表情のままだが、わたしから目を逸らさなかった。わたしは女の申し出を受け入れ、濡らした布を手渡した。

 二人で男の体を清めていく。黒く硬質化した肌は、他よりもうんと熱を帯び、触れ続ければ火傷を負うほどだった。背中に大きく刻まれた刺青と、かつての刀傷や、妖畏に噛まれたであろう歪な古傷が現れる。古傷はあるというのに、背中にあるはずの一文字の傷痕は、やはりなかった。

 血にまみれた布を革袋に詰め込む。濃密な鉄の匂いが充満していた。おそらくは外に流れてしまっている。油断ができない状況だった。この腥さは妖畏だけではなく、飢えた獣を呼び寄せる。わたしは立ち上がった。

「きみも、体を清めておくといい。わたしはこのまま外へ出る。一日二日は寝なくても支障はないのでね。わたしが番をするから」

 女は男の右手に触れたまま、深く頭を下げた。彼の右手には、朱塗りの刀があった。

 外をぐるりと練り歩いたわたしは、再び小屋の前に戻っていた。鼻腔はすでに男の血の臭いで犯され、使い物ならなくなっている。わたしは小屋の前に、妖畏にも多少は効く獣避けの篝火を焚き、いつでも不意打ちに対応できるよう、白刃を提げて感覚を研ぎ澄ましていた。

 数刻経っても獣の足音など聞こえてこない。風が唸る。撫でられた草木が騒ぎだし、そこらに潜む虫が一瞬黙りこくったが、すぐにまた密やかに鳴き始めた。わたしはふと、なにか予感めいたものを感じ、戸の隙間から中を覗き込んだ。

 火に照らされる杣小屋の中で、男が上体を起こしていた。わたしに背を向けているため、表情は窺えなかった。女と男は向き合う形で座っていた。そこに言葉はなく、ただお互いを見つめ合っているのだとわかった。まるで、離れ離れになっていた二人が、長い年月を経てようやく再会できたような、今この瞬間を噛み締めるような、そんな空気が漂っている。決して物音一つ立てるわけにはいかないと、わたしは息を殺して、男と女の邂逅を目に映した。

 先に動いたのは男だった。右手で刀を掴んだまま、女へと黒い手を伸ばした。触れれば肌を焼く熱を帯びた黒腕だ。それを女は怖がるどころか、受け入れるみたいに目で追った。彼の指先が女の頬に触れ、かと思えば、彼女の細い首へと伸び、おもむろに掴んだ。女は身を震わせはするも、抵抗はしなかった。むしろ、黒腕に己の両手を添えて、柔く目を細めている。いつ縊られるかもわからない状況だというのに、わたしの口はなにも零さず、戸を開いて中に押し入ろうという気持ちも、微塵も湧いてこなかった。

 しばらくすると、男が名残惜しげに手を離した。女の首は触れられる前と変わらない色をしていた。熱を孕んでいたはずの左腕は、女の肌を焦し、爛れさせることはなかった。

 やはり離れがたかったのか、再び伸ばされた男の左腕が、しっかりと女の背を抱き、己へと引き寄せた。熱い息を、男が深く、深く吐ききっている。抱擁を受けた女は、両手で男の背を抱いた。裸の肌を、女が宥めるように何度も撫でさする。固く抱き締め合う二人から、わたしはなにやら情交めいたものを感じた。それでいて、それを覗き見るわたしの首元に、あまりにも鋭い切っ先が宛がわれているような錯覚に陥った。異質な空間だった。

 男女の絡み合う欲と殺気、そして男が流した血の香りを、女はゆっくりと吸った。男に着物越しでその細身を可愛がられているような、あまりにも妖艶で、色香に満ちた息を洩らした。腔内に溢れる唾を飲み込むことすらできず、ただ、わたしは二人を見て、そして、女とついに、男の肩口越しに目が合った。

 女の目はしっかりと、二人を盗み見るわたしを捉えていた。騒ぐでも、恥じらうでも、目を逸らすでもなく、ただ、目を細めて、わたしを捕らえていた。口元は隠れて見えなかったが、その顔が艶然と微笑んでいるようにも、悲しみに暮れているようにも見え、わたしを絡め捕っていた。男は、女の意識が他のことに向いていることに気づいたのか、彼女の体をさらに強く抱いた。どうやら背中をまさぐられているらしく、女は体を震わせていたが、すぐに安心させるように、男の肌をとんとんと軽く叩き、そして掻き抱いた。

 まるで目配せするように、女がわたしを見て、ゆっくりと瞬きをした。途端、わたしは体の自由を取り戻していた。男はまた、女がなにかに気を取られていると察したらしく、ついに女の細身を押し倒した。捕らえられ、死を確信した獲物よろしく、女はぐったりと力を抜いて男を受け入れている。男が女の着物を剥ぎ、無防備に晒された素肌に、無遠慮に触れた。肋が浮いた女の裸に、覆い被さった男が牙を立てた。

 そこでついに、わたしは音を立てぬように小屋から離れた。睦み合う二人から逃れるように、再び外を歩いた。生ぬるい外気はわたしの頭を冷やしてはくれなかったが、なにが現れるかもわからない深い闇の向こう側が、わたしの意識を彼らから遠ざけていた。女の嬌声や男の声が小屋の外に漏れ出ることはなく、ただ、聞き飽きてしまった静かな山の音だけが、わたしと共に夜を明かした。

 日が昇るのを見届け、わたしは杣小屋の前に戻ってきた。結局、妖畏どころか獣の気配すらない夜だった。わたしは一瞬、戸を開けて良いのかと逡巡したが、すぐに戸に手をかけ、開いた。

 そこに男も女もいなかった。残された鉄臭さが、昨日の出来事が一夜の夢でも、狐に見せられた幻覚でもないことを表していたし、なにより、戸の入り口近くに、あの二人がいたことの証拠として、小袋が置かれていた。中を開いてみれば、一泊分にしてはやや多い銭が詰まっていた。置いていったのはどちらだろう。恩義を感じてくれたのか……。

 二本角の女の目や、血だけを流していた男が、しばらくは脳裏にこびり付いて離れない気がした。

 わたしは山道を歩いた。深く息を吸って味わった。朝の清々しい透き通った山の香りは、すぐに鉄の匂いに蝕まれていった。