耀葉の守


 木々は黄金色に衣を替え、風が吹くたびにその葉を舞い上がらせて町を彩った。地面を敷き詰める鮮やかな銀杏の葉を、櫂は幼い体躯で軽やかに踏み越え、まっすぐに駆けていく。

 露天商で買った品物を包んだ風呂敷が、動きに合わせて背で揺れる。護身用の短刀をしっかりと左手で握りしめ、櫂は銀杏の道を走り続けて、ふいに、足を止めた。

 石段と薄汚れた鳥居が目の前にあった。掃除もされてもいない拝殿の向こう側は、昼だというのにあまりに暗い林が続いている。かつてそこは、朱紐が張り巡らされた、鈴の音が鳴り響く領域だった。今もなお神社に人気がないのは、獣の残り香を、鈴の音の余韻を畏れる人が多いからで、櫂も境内には入らない。

 だが、一度だけ、櫂は神社の奥――妖畏の庭と化していた林に踏み入り、鈴の音を聞いたことがあった。本当に我ながら莫迦だとは思うし、一歩間違えれば全身を磨り潰されて死んでいただろう。まだ幼い櫂にとって、心に深い傷を負ってもおかしくはない経験だったはずだが、櫂は今、人と獣の境界となった鳥居の外側で、恐れることなく立っていられる。

 体にも、心にも、傷を残すことはなかった。傷つくことを許さぬ者がいた。襲い来る畏れの獣から櫂を守り抜いた者が、たしかにいたのだ。その経験は鮮烈に、恐怖など塗り潰すくらいの羨望の輝きに溢れて、櫂の脳裏に焼き付いていた。

 あのとき、一人の用心棒に、櫂は助け出された。

 櫂が慕う、手習師匠の用心棒。名を、ワクラバという。

 

 櫂はまだ五歳になったばかりの男児である。学舎に通う子どものうちで最年少であり、それゆえに小柄な体躯だったが、誰よりも溌剌としていて、無鉄砲だった。

「用心棒ー!」

 張り上げる声は高く、力強い。元気があり余っているのだと、学舎の外にいる者すらわかるだろう。櫂は襖を開け放つと同時に、好戦的な笑みを浮かべて、目標めがけて一直線に突進を仕掛けた。

 どたどたと畳を走り、段差を大きく飛び越え、縁側に座り込む男の背めがけて身を踊らせる。行儀悪く胡座をかいていた男は、避けるまでもないと判断したか、櫂の体当たりを甘んじて背中で受け止めた。しかし抱きつくことは良しとせず、すぐさま腕を伸ばして櫂の襟ぐりを引っ掴み、放り投げた。ころころと床板を転がった櫂は、この程度では絶えなかった笑顔を向けて、諦めずに男に飛びついた。

「遊ぼう!」

 対する男は櫂に一瞥もくれずに、再び胡座のまま頬杖をついて嘆息する。たっぷり時間をかけて吐き出された溜息は白旗を意味した。本日も櫂の勝ちである。男は櫂の粘り強さを身に沁みて理解してくれているらしかった。ここ最近、櫂は不敗の記録を伸ばし続けている。

 ふんふんと鼻を鳴らした櫂は、男の背中にくっついたまま誘いをかけた。

「肝試ししようよ、用心棒」

 男は答えない。傍らで寝転ぶ黒鞘の刀は、今日も出番がないようだ。男はただ、じっと外を眺めていた。櫂はとっくに見飽きてしまった銀杏の木が、男の熱い視線を受けて照れたのか、ざわざわと葉を揺らしてさんざめく。それが面白くなかった。今日のおれなんて、一回も見てもらえてないんだぞ。傍にいることを許されただけでは、やはり足りない。嫉妬心が小さな体を満たしたのはすぐだった。

「外見ててもつまんないでしょ! ねえ、肝試し行こうよ!」

 男の黒い外套を遠慮なく引っ張る。男は動かない。櫂はぺんぺんと不動の背を叩いた。手数が多いだけの、肩叩きのようなものである。攻撃力など皆無に等しい櫂の手を、男は歯牙にもかけない。頬を膨らませた櫂は、間違っても刀には触らないように、男の周りでうろちょろと動き回った。

 一度だけ、刀に触れたことがあった。櫂の手のひらは刀だけでなく男の逆鱗にも触れてしまったらしく、烈しい叱責を食らった。あれは、怖かった。ほんの少し粗相をしてしまうくらいには。手習師匠である暁國からも日夜説教を受けている櫂だが、あんなにびっくりしたのは初めてである。

 怒られるとわかれば、しなければいいだけのこと。だからそこだけ気をつけて、あとはもう、好き勝手のやりたい放題である。

 男の腕を跳ね除けて、櫂はがら空きになった膝に飛び込んだ。丸い頭を男の膝に落ち着けて、勝ち気な瞳で仰ぎ見る。

「用心棒ってば!」

 ようやく、男が櫂に目を向けた。自分を見下ろす男に、櫂はにっこりと笑む。今度こそ、本当に櫂の勝ちであった。

 長い睫毛に縁取られた瞳は月色で、男の機嫌に合わせて色を変える。冷たく染まった金眼が、櫂を捉えて、ゆっくりと眇められた。

「おれは仕事だ」

 ほぼ毎日聞いている台詞である。だが、庭の銀杏の木とは違い、櫂は飽きることがない。話ができたこと自体、それはそれは嬉しいことなのだ。

 櫂が用心棒と呼び慕う男は、初めて対面した際に、ぶっきらぼうにワクラバと名乗った。病に冒された木の葉を意味すると、櫂は暁國より教わった。緑生い茂る中で、ぽつんと赤く色づく葉のことだと。

 なんだかそれが寂しく思えて、授業が終わったその瞬間、縁側を陣取っていたワクラバめがけて、櫂は全身で体当たりを仕掛けた。拙い襲撃はあっさりと避けられた。庭の外へ転がり落ちた櫂を、ワクラバが鬱陶しそうに見やる日々が続いていたが、至るところに擦り傷を作りながらも、まったく懲りずに立ち向かってくる櫂に、徐々に絆されていった。諦めた、とも言う。

 それがわかっているからこそ、櫂は構わず男の膝に居座った。これは、本当の意味で、怒られないことなのだ。たとえ不機嫌な顔をしていようとも。だから櫂はちっとも怖がらない。思うがままに動くのだ。

「危ないのがいるの?」

 鳶色の髪をぐりぐりとワクラバの膝に押し付ける。柔らかくなんてなかった。けれども居心地が良かった。長閑だった。ちっとも危険なんて感じられないのに、と言外に匂わせた。

「いや……」

 ワクラバは否定を零したが、どこか煮えきらない様子だった。この男にしては珍しい。いつもは歯に衣着せぬ物言いで、まるでばっさばっさと相手を斬り伏せるかのようなのだ。もしくは完全にシカトをするか、だ。

 櫂が不思議がったことに、ワクラバは気づいたらしく、強く否定し直した。興味を抱いた櫂のしつこさを、ワクラバはよく知っている。

 しかしながら、今の櫂は別のことで頭がいっぱいだった。櫂は膝から飛び起き、ワクラバの目の前に立って、顔をぐっと近づける。

「肝試し、行こうよ」

「さっきからなんだ、それは」

 鼻先がつくくらいの至近距離のまま、吐き捨てるような口ぶりでワクラバが訊いた。まるで櫂の言葉に興味がない、形だけの質問だ。

 身を翻した櫂は、どたどたと縁側を走り抜け、うんと遠くの、どうしたってここからは見えない場所を指し示す。

「あの神社さ、幽霊出るって噂なんだ!」 

 人がほとんど寄り付かず、そもそも管理されているのかすら怪しい神社がある。町外れにあるわけでもないが、そこだけ人通りは少ないし、境内は昼だというのに暗く感じる、奇妙な場所であった。ワクラバも知っているらしく、あの古ぼけた神社か、とだけ呟く。だが、それだけだった。

「それで、誰も行こうとしないんだ。ねえ用心棒、幽霊に会いに行こうよ」

「興味ねえ」

 ワクラバはすぐに斬り捨てた。

「なんで!? 行こうよ! 幽霊だよ!? 会おうよ! 会いに行こうよーっ!」

 誘いを一刀両断された櫂は、すぐにはめげなかった。あらゆる手を尽くしてワクラバの興味を引こうと話しかけて、べたべたとまとわりついて、駄々をこねた。渾身の我儘である。それをすべて、ワクラバは無視した。引っ張っても乗っかっても動かない。このまま石にでもなるつもりか、と思わずにはいられない、見事なまでの無関心であった。

 櫂は床板に仰向けに倒れて、肩で息をしていた。この勝負はワクラバの勝ちだ。いや、さっきは櫂が勝利したのだから、これで引き分けである。ならば仕方ない、と櫂は飛び起きた。小さい体は疲れるのも早いが、回復するのも早かった。

「じゃあ一人で行く。ちゃんと全部見て、幽霊連れて帰ってきてやるもんね。用心棒に見せてやるから」

 櫂の捨て台詞に、ワクラバが眉根を寄せた。

「どうしてそこまで拘る」

 すでに下駄を履いて庭に飛び出していた櫂は、唐突に投げかけられた言葉に振り返った。じろりとこちらを睨む月の色に、櫂は少し考えて、問い返す。

「用心棒はさ、なんで用心棒になろうと思ったの?」

 ワクラバが弾かれたように顔を上げた。瞠られた瞳がかすかに震えている。だがそれは、すぐにいつもの、こちらを面倒くさそうに睨み据えるものに変わる。

「知るかよ」

 櫂は素直に尋ねた。

「自分のことなのに、知らないの?」

 ワクラバは、もうなにも答えなかった。

 

 鳥居の前に、櫂はいた。

 昼間の境内は物寂しいを通り越して不気味である。たしかに、これは出そうな雰囲気だ。でも、幽霊って、そもそも夜じゃなくても姿を見せるんだろうか。そんな今更すぎる疑問が浮かんでしまったが、あんな捨て台詞を吐いてしまっては、なにもせずには帰れない。

 本当は、ワクラバも一緒に連れてくる予定だったのだ。幽霊を斬り伏せるワクラバを、見てみたかった。その前に己の誘いを両断されたので、どうしようもなかった。

 櫂はワクラバが刀を振るう姿を、一度も見たことがなかった。暁國と共に出かけた先で、何度か暴漢や野盗を追い払ったり、妖畏を斬り伏せたりしたらしい。だが、そういうときはだいたい櫂は留守番を言いつけられていて、彼の活躍をまったくお目にかかれないのだ。噂話でしか聞いたことのないワクラバの姿が見れなくなってしまったのは残念だが、目的はまだ残っている。櫂は肝試しに来たのだ。ワクラバがいなくとも、それはできる。

 鳥居をくぐると、なにやら、変な気配がした。

「誰……?」

 思わず声をかけた。だが、返事はない。櫂は唇に笑みを敷いた。幽霊は本当にいるんだ。そう確信した。背筋を滑り落ちた悪寒も、好奇心には勝てなかった。櫂はずんずんと拝殿まで進んだ。

 そんな櫂のもとに、生暖かい風が吹いた。遅れて、嗅いだことのない嫌な匂いが押し寄せた。

 櫂は咄嗟に鼻を押さえた。だが、今の一瞬でこびりついた匂いが、櫂を絡め取っていた。

 腥く、獣臭い。そこに、甘ったるい香りが混ざり合っている。嫌悪感が足元から這い上がる。

 ふと、櫂は気づく。

 拝殿の奥に林が広がっている。その入り口に、見たこともない朱い紐が張り巡らされていた。

「こんなの、あったっけ……」

 じわじわと林の奥から匂いと、ぬるい風が這い出してくる。なにかいる。なにか、ここにいてはいけないものが。どうしよう。逃げたほうが、いいかもしれない。

 だが、目を離したら、どうなるだろう。

 このなにかは、出てきてしまわないだろうか。この先には、町の人が、友達が、暁國がいる。

 もし、逃げてしまったら。街のどこかで、現れてしまったら。でも、これがなにかは、わからない。櫂の言葉を、みんなは信じてくれるだろうか。幽霊だって、信じない人間がいる。なにがいるのか、確かめないと。見るだけだ。本当に少しだけ、覗くだけ……。

 櫂は己を奮い立たせて、朱い紐を潜り抜ける。

 りん、りん、と高らかな鈴の音が谺した。

 視界が一瞬歪み、櫂は尻餅をついた。立ち眩みはすぐにおさまった。軽く頭を振って、目を擦る。

 森閑とした林は、あまりにも暗く感じた。

 少しだけ湿った地面を、そっと歩いた。風はなぜか止んでしまい、なんの生き物の気配もしなくなっていた。でも、絶対に気のせいなんかじゃない。嫌な匂いだけが、辺りを揺蕩っていた。音を立てないように、櫂は歩を進めた。

 歩くたびに櫂は振り返って、朱い紐があることを確認した。林はほとんど景色が変わらない。帰り道だけは見失わないように気をつけていた。だが、徐々に櫂の体に変化が訪れていた。

 頭がぼんやりとして、うまく働かない。ぞくぞくと体の中心を冷たいなにかが滑り落ちていく。全身がぐっしょりと汗ばみ、カタカタと震えだす。

 足が急に重くなった。見れば、櫂の足首辺りで赤黒く澱んだ闇が、纏わりついている。

 息がまともにできず、視界がチカチカと瞬く。櫂はついにその場にへたり込み、ヒクヒクと喉を鳴らした。口の中はカラカラに乾いて、声が出てこなかった。

 りん、りんと鈴が鳴る。すぐ近くか、それとも遥か遠くからか、それすらもわからない。ただ、確かなことが一つだけ、あった。

 ――なにか、いる。なにか、くる。

 思考をいっぱいに埋め尽くすこの感情を、人は、なんと言うんだっけ。それは、それは、きっと……。

 ひゅん、と真後ろから音がする。

 突如、脳天に拳骨が直撃した。

「いったあ!」

 突然すぎる痛みに体が見えない拘束から解かれた。櫂は頭を両手で庇った。完全に手遅れであり、すぐに己の頭部を慰める手付きに変わった。きっとたんこぶになるに違いない。一瞬で満ち溢れた涙で視界が滲む。

「この、莫迦」

 聞き覚えがある声に、櫂はすぐに振り返った。反動で涙が零れ落ち、鮮明に男の姿を映した。黒い外套に、煤竹色の着物。洋袴に巻いた角帯には、一振りの刀が眠っている。

 櫂の思考がようやく感情を連れてきた。ワクラバが、目の前に立っていたのだ。櫂は満面の笑顔で向き直った。

「用心棒! 来てくれたの!?」

 櫂は目を輝かせてワクラバに飛びついた。握り拳をゆっくりと下ろしたワクラバが、殴ったばかりの櫂の頭部を軽く撫でた。触られるとちょっと痛いが、おそらくは手加減をしてくれたらしい。代わりに、月の瞳が怒りで染まっていた。完全に、煮え滾っている。

「肝試しで本当に幽世に入る奴があるかよ、この莫迦」

 二度目の罵倒が降ってきたが、前半部分がよくわからず、櫂は小首をかしげる。しかしすぐに、別のことに気づいた。あれだけ仕事だと言って学舎から離れないワクラバが、櫂と共にここにいるのだ。じんわりと染み出した不安に、櫂は口を開いた。

「用心棒、いいの? 暁國先生を一人にして大丈夫?」

 櫂の心配の声に、ワクラバが苛立ちを隠さずに言い放つ。

「てめえを探してこいと、その暁國殿が仰せだ。これであの人になにかあったら、拳骨どころじゃ済まさねえぞ」

「ご、ごめんなさい……」

 素直に謝る他なかった。頭を下げ、身を縮ませた。

 そんな櫂の元に、あの生ぬるく重い風が押し寄せた。濃厚な獣の匂いと、甘い蜜の香りを引き連れて。荒い吐息が首元に纏わりついたようだった。ぞくりと肌が粟立つ。櫂は恐る恐る振り返った。

 ワクラバはすでに気配の元を辿っていた。探る眼光は狙いを定める狩人のそれだ。 

「ここ、変、なんだ。用心棒」

 なんとかしてほしい、という気持ちだった。櫂はワクラバにさらに身を寄せる。

「境内にいたときも、すごく嫌な臭いがした。どんどん近づいて来るみたいで。奥になにかいる、と思う」

 言葉にすればするほど、自分が渦中にいることを自覚してしまう。しかし事実だ。夢でも幻でもない。冷たい汗が背を伝った。気持ち悪くて顔を顰める。

 恐れを知った櫂に、ワクラバが問い質した。

「なら、なんで入った」

 圧のある、いつもよりも低い声だ。暁國のものとは違い、身の危険を感じるものだった。かつての叱責とはまるで違う、ずしりと重く伸し掛かった声に、櫂は身を竦ませたが、それでも喉を振り絞って想いを吐き出す。莫迦だと罵られるかもしれなくても、頬を張られるかもしれなくても、本気の拳骨が落ちてくるかもしれなくても、抱えていたものは伝えたかった。黙って嵐が過ぎるのを待つことだけは、したくはなかった。

「……このままじゃ、よくないって、思って。なにがいるのか、見つけないとって……放っておいちゃ、駄目だって……おれ、なんの力もないのに、そう思っちゃって……。ごめんなさい、用心棒」

 しかしながら、拙い言葉ばかりが溢れ出る。こんなのは言い訳に過ぎない。櫂は、深く頭を下げて、再びワクラバを見上げた。決して目を逸らさず、そのときを待った。飛んでくるのは怒号か、それとも、手のひらか、拳か。

 果たして、ワクラバは呆れたような顔を見せただけだった。

「おまえ、本当にここがどこか知らねえのか」

 櫂は思わずぱちぱちと目を瞬かせた。 

「神社の裏の林じゃないの?」

 櫂の返答に、ワクラバが舌打ちした。わけがわからないまま櫂は狼狽えた。構わずワクラバが独り言のように続けた。

「学舎はこういうことは教えねえのか? それともおまえが聞き逃してるのか」

 それについては、反論しようがない。ときどき眠気に負けたり他事を考えているのは本当なのだ。

「幽世は鈴の領域、朱紐の内だ。覚えとけ」

 ワクラバは櫂に言い聞かせた。二度は言わない、という口ぶりで。櫂は記憶を探ってみたが、どこにもそんな言葉は見当たらなかったし、含まれる意味もまるでわからなかった。

「幽世は、鈴の領域、朱紐の内……なにそれ?」

「鈴の音と朱紐は別の世の入り口ってことだ。今回のは妖畏の庭だよ。とびきり濃厚な、血と獣香と畏気で築き上げられた危険区域だ。まともなやつは朱紐を潜るなんて真似はしねえんだよ」

 妖畏の知識だけはあった。だが経験はない。獰猛で、主に人や妖怪を襲う、同族殺しをしない生き物。姿形はそれぞれ異なり、群れることなく欲望のままに振る舞う、畏れの化身。芽生えた恐怖心や焦燥感がちりちりと櫂を苛んだ。 

「前に来たときはなかったはずだがな。最近になって、ここに根を張ったのか。嫌な気配だけは流れてやがったが……クソ、おれも鈍ったか」

 独り言のように悪態をついたワクラバが、情けなく目を向けるばかりの櫂に言い聞かせる。

「ここはほとんど奴らの口の中だぜ。自分からのこのこ食われに行くんじゃねえ。二度とするな。次は間に合うとは限らん」

 櫂は体が震えに支配されぬようにと、頭を振った。それでも口から飛び出るものは、怯えが隠せぬか細い声だ。

「よ、妖畏って、町に出ないんじゃなかったの…?」

「本来はそうだが、近頃はお構いなしだ。んなことも知らねえのか。あのとき留守番させて正解だったな。……ったく、読み書きだけじゃなく、こういったことも教えとけよ、先生」

 ここにはいない雇い主に文句を垂れるワクラバだったが、それどころじゃないだろう、と櫂は焦燥を露わにした。

「じゃあ、今のおれたち、めちゃくちゃまずいじゃん! 用心棒、早く逃げよう!」

 とにかく、一刻も早く動かなければならなかった。こんなところで長話をしている場合ではないのだ。己の過ちを棚に上げた思考だが、櫂はもう冷静さをほとんど失っていた。

 櫂はそこで、気づいてしまった。さらに櫂を混乱に陥らせ、恐れに引きずり込む現実に。

「あれ、なんで……? 朱紐が、さっきあそこに……」

 朱紐が見当たらない。そもそも、神社に続く道がない。赤い暗闇に侵食され、ぼうっと広がる腥い林は、歪に朽ち落ち、櫂が訪れたときと異なる姿だ。すっかり魔の空間へと変貌を遂げていた。ようやく我に返った。ゆるやかな変化に今の今まで気づけぬほどに、櫂は飲み込まれていたのだ。頭上で禍々しく輝く月が、これから狩られる獲物を見下ろしている。

「口を閉じやがった」

 忌々しげにワクラバが言った。

「おれたちが引っかかったことに気づいたらしいな」

 櫂は驚愕した。鈴の領域。朱紐の内。潜った先は別の空間。つまり、朱紐は境界線なのだ。それが、消えた。それは完全に元の世界への退路を失ったことを意味した。震えだした心のままに喚いた。

「早く言ってよ! なんで悠長に喋ってたの!」

 外套を力いっぱい握りしめて、櫂は揺さぶった。情けなく叫ぶ櫂に、ワクラバは少しだけ声を荒げた。

「てめえを見つけた時点でもう閉ざされてたんだよクソが。もっと周りをよく見ろ。だいたい、おれが間に合っただけありがたいと思え」

 つまりは、あと少しワクラバが遅かったら、獰猛な妖畏と櫂はサシで勝負をすることになっていたのだ。いや、勝負などとは呼べぬ、一方的な蹂躙で終わりだろう。今更顔を青くした櫂は、ワクラバについに抱きついた。一番安全な場所は、用心棒の傍に他ならなかった。

 それを、あっさりとワクラバは引き剥がす。櫂の着物の首根っこを掴み、己の背後に放り投げた。あまりに鮮やかな動きに文句も言う暇もなく、櫂は湿った地面に転がった。櫂が慌てて上体を跳ね起こすと、鯉口を切ったワクラバがいた。一目瞭然だった。これは、戦闘態勢だ。

「………っ!」

 櫂は息を呑んだ。見るのはこれが初めてだった。それなのに、わかった。体がぞくりと震えを帯びて、心の底から畏れを引きずり出し、頭蓋に叩き付けてきた。

 あれが、妖畏だ。

 よく太った獣の四つ脚で歩き、ぐらぐらと揺れ動く胴体は灰色の毛で覆い尽くされていた。弛んだ首に埋まった頭には、爛々と輝く相貌と大きな口がある。獲物を噛み裂く牙というよりも、砕いて磨り潰すための歯だ。それを剝き出しにして、のしのしと迷いなく、ワクラバと櫂のもとへやってくる。

 ワクラバが櫂を庇うために立ち塞がったことを頭ではわかっていながらも、耐えきれなかった。櫂はワクラバのすぐ隣まで躙り寄った。生まれて初めて、櫂は腰を抜かしていた。ワクラバの叱責なんて、全然怖いものではなかったのだと思い知る。櫂は本当の畏れを抱いていた。暗がりが櫂の体を侵食している。赤い闇に囚われた子どもを嘲笑う。それは、鈴の音に酷く似ていた。頭の奥で鳴り響く警鐘である。

 ワクラバが咎めるように横目で睨むが、すぐに前方を見据えた。警戒と、怒りを露わにした顔だ。それを間近で見た櫂は、己が餌場にいることを思い知り、さらに恐怖に陥った。心臓が早鐘を打ちすぎて、喉を這い上がってくるような感覚が櫂を蝕んでいた。

「よ、用心棒……!」

 ワクラバの放つ敵対心を、妖畏はしっかりと感じ取っているらしかった。だからこそ無造作に突進を仕掛けるような真似はせず、二人の行動を待ち、見ていた。右目はワクラバを、左目は櫂の一挙手一投足をじっくりと観察している。獲物として見定められていることに、全身が総毛立った。喚き散らして、今すぐに逃げ出したい気持ちが押し寄せてきた。それをしてしまえば、妖畏が躍りかかってくることがわかった。櫂は妖畏から目を離さず、畏れによる衝動を辛うじて抑え込みながらも、ワクラバに問いかけた。

「どうしよ、ねえ、どうしよう用心棒」

 ワクラバは答えない。妖畏との睨み合いだ。互いが互いの間合いや動きを把握している。構わず櫂は続けた。恐怖に押し負けていた。己の矮躯は簡単に潰されてしまうものなのだと理解し、最悪な光景を思い描いてしまっていた。

「用心棒、ごめんなさい。おれ、おれ、勝手なことして……こんな……こんなふうに、おれたち、死んじゃうの?」

 口が勝手に喋り続けていた。恐れに飲まれた櫂の様子に、妖畏が動き出す。一歩一歩、ゆっくりと進む。緩やかな動きは、櫂を更に死の恐怖へと追い込むものだった。櫂は滑り落ちる悪寒で身を震わせた。とっくに粗相をした股ぐらが、体をさらに冷やしていくが、そんなことを気にしてなどいられない。櫂は止まらぬ口でワクラバに質問をしていた。櫂は返答を求めていた。この現状を打開する答えを。

「おれ、食われちゃう? 用心棒も?」

 途端、ワクラバが、強く歯を噛み締めた。歯を軋らせる怒りの形相を、威嚇と判断したのか、妖畏が足を止めた。櫂の問いは、止まらなかった。

「おれも、用心棒も、あの妖畏に食い殺されちゃうの? おれの父ちゃんと母ちゃんみたいに?」

 そこでついに、ワクラバが口を開く。地を這うような、怒気を含んだ声で吠える。

「黙って聞いてりゃ、好き勝手言ってくれる……!」

 その間も、ワクラバは妖畏から目を逸らさない。眼光で穿つように、金眼が妖畏を睨み据える。そのまま、ワクラバは続けて問う。恐れに支配された櫂の問いを、打ち返した。

「本当にそうなると思うのか」

 それが、答えを導いた。

 本当、本当だって? だって、こんなに恐ろしい生き物が目の前にいて、櫂はなにもできない守られるだけの子どもで、それで、この男は――彼は、用心棒だ。  

 用心棒。櫂は男をそう呼び慕う。彼は、守る者だ。守ることが、彼の仕事だ。

 大好きな暁國が選び抜いた、大好きな用心棒。

「……思わ、ない。思わないよ」

 櫂のすぐ傍に立つ彼は、いつも櫂の突撃を受け止めてくれた男であり、なによりも逞しく櫂の瞳に映る。

 実際に彼が刀を振り抜く姿を、櫂は見たことがない。町人や、櫂よりもうんと年上の生徒たちから話に聞くだけで、己だけ活躍の場に立ち会えないことを悔しがった。だがそれは、ワクラバがまだ幼い櫂には見せないようにしていたのだと、はっきりとわかった。ワクラバは、とっくに櫂を守ってくれていたのだ。

「ねえ、用心棒」

 櫂の声音には、もう、恐れなど滲んではいなかった。絶対の信頼を寄せて、櫂は大好きな用心棒に、再び訊ねた。しっかりと、力強く。ワクラバが櫂の望む答えを返してくれると、確信していた。

「用心棒――ワクラバなら、勝てるよね」

 視線は妖畏に向けられたまま。まなざしは曇りがなく、精悍だ。怯えも焦燥もない。櫂の言葉を受けて、さらに黄金の瞳の光を濃く、鮮やかにする。そこにあるのは、苛烈な闘志だ。

「櫂」

 ワクラバが刀を抜き放つ。赤い暗闇が揺蕩う魔の庭で、白刃が輝く。畏れを断って慄かせる、鋼の眩耀だ。名を呼ばれた櫂は、ワクラバの背後に回った。

 妖畏が嘶き、重心を落とす。ワクラバは何者にも阻まれず、畏れの化身と差し向かう。

「おまえはそこで震えてろ」

 走る。

 それより速く、妖畏が後ろ脚を大きく曲げ、跳んでいた。地面が抉れて、土が弾ける。先程までの緩やかな動きが嘘のような、弓矢の如き跳躍を、ワクラバは迎え撃った。大きく顔面いっぱいに開かれた口が、ワクラバを噛み砕こうと迫る。人の頭など一口で平らげられる巨躯へ、ワクラバは刃を見舞った。口の端から首の付け根まで、一気に裂いた。捌かれ露わになった喉の内側に、びっしりと歯が並び立っている。その奥から、甲高い、人ならざるものの叫び声が上がった。

 弛んだ首が一気に伸び、ワクラバの体を薙ぐように振り抜かれる。ワクラバは刀を両手で握り、一閃した。両断された首から血の飛沫が上がる。だが終わりではなかった。ぼこぼこと断面が盛り上がり、大きな口を持つ顔が、再び生まれた。

 妖畏がワクラバに躍りかかる。四つ脚は俊敏だ。前脚の鋭い爪を振り回し、伸びる顔はがちがちと歯を立てて、ワクラバを追い立てる。しかしワクラバは妖畏を押し込んだ。刃が唸り、獣香と妖畏の咆哮を切り裂いた。幾筋もの剣閃が飛び、深々と妖畏に食らいつく。残光は赤い闇を駆け抜け、妖畏の体を滑り、更に濃く赤い血を撒き散らす。ワクラバは退かない。これ以上先に妖畏が進むことを、絶対に許さない。

 もんどり打って後方へ転がった妖畏は、己を散々に刻む刃を睨み据え、勢いよく地を蹴った。距離が一瞬で縮まり、ワクラバの視界いっぱいに、妖畏が映る。ワクラバはそれでも退かなかった。顔面に迫る妖畏の歯を寸でで躱し、強く踏み込んだ。切っ先をまっすぐに向けて妖畏に突撃する。恐れの間合いに躊躇なく飛び込み、狙いを澄ます。

 ――貫く。

 妖畏の巨躯とワクラバの体は、完全に重なっていた。鍔いっぱいまで食い込む刃は、妖畏の心臓に到達していた。痙攣した妖畏は、小さな鳴き声を一つ洩らして、命を終えた。花を散らすように、容を崩して消えていった。

 訪れた静寂の中、ワクラバの息を吐ききった。それが、決着だった。地に溜まっていた赤い闇は色を失い、漂う獣香と共に霧散する。ただ一人、刀を握る男が、その場に残っていた。

「用心棒!」

 勝った。生き残った。守られた。守ってくれた。歓喜の感情が込み上げ、櫂は男を呼んでいた。怯えで冷え切った体は櫂の思う通りに動いた。

 このまま駆け寄って、常のようにしがみつこうとした櫂は、ほんのちょっとの違和感に、足を止める。

「用心棒……?」

 肩で息をしている、と最初は思った。

 俯き、髪で隠れた用心棒の口元が、笑みを敷いているように見えたのだ。この男が笑う姿を、櫂は見たことがない。本当にこれは、笑顔であっていいのか。口の端から除く犬歯が、なぜか、いつもよりも鋭さを帯びているようで。

 そんな疑問は、すぐに手のひらに抑え込まれた。櫂に気づいたワクラバが、はっと目を瞠り、口元を手甲に覆われた手のひらで隠したのだ。そして、いつもの冷たくて、それでも本当は熱を湛えている黄金の瞳で櫂を見たかと思うと、やおら立ち上がって刀を振るい、流れるように納刀した。

 その一連の動作に、わずかに抱いた疑念など吹き飛ばされた。用心棒の仕事の始まりと終わりを見たのはこれが初めてであり、櫂が一つの傷もなくワクラバと対峙できているのは、紛れもなく、彼が優秀であることの証左であった。櫂の心が跳ね上がり、体を突き動かした。

「すごいよ、用心棒! あんなでかいの、あっさり倒しちゃった!」

 たまらず櫂はワクラバに飛びついた。興奮が冷めない幼い子どもを、ワクラバは鬱陶しげに睨むが、首根っこをつかんだり、振り払ったりはしなかった。櫂は期待に応えてくれた用心棒を抱きしめて、顔をほころばせた。

 ざわざわと音を立てて、林の奥が蠢いた。姿を消した朱紐が、生き物のように宙を泳ぎ、張り巡らされていく。その先に、見覚えのある境内があった。隔絶されていた世界が、繋がったのだ。

 しかし、その光景を目の当たりにしたワクラバが、すぐに身構えた。喜びと安堵でいっぱいになっていた櫂は小首を傾げる。

「あの獣香は……こんなに、弱い、わけがねえ」

 ワクラバが焦りを隠さずに呟いた。

「なんで、朱紐が消えねえんだ」

 櫂は言葉の意味をはかりかねた。生ぬるい風が、また吹いた。

 ワクラバが弾かれたように振り返る。緊張感が肌を刺したが、なにが起きているのか、振り返った先になにがあるのか、櫂にはわからない。ただ、奥を見据えるワクラバが、ごくりと喉を震わせたのがわかった。瞳に宿る輝きは、恐れとは程遠く、まるで、誘われるみたいで。櫂はワクラバの外套を引っ張った。

「まだ、なにかいる……?」

 彼の視線を辿ろうとした櫂だったが、それをすぐにワクラバに阻まれた。櫂を片腕で抱え上げたワクラバが、逃げるように駆け出したのだ。ワクラバがなにを見ていたのか、櫂はわからない。ただ、これが逃走であることに、櫂は気づいた。口が開いた鈴の領域からの脱出だ。景色が後ろに流れていき、渦を巻く。りん、りんと高らかな音がして、一気に遠ざかる。感覚が歪み、そして、元の姿へ整った。朱い紐が、音もなくふつりと切れた。

 櫂は暗がりに包まれた境内にいた。実感がないまま、ワクラバに降ろされる。両足が地面についたが、余韻が櫂を揺れ動かしていた。すぐに尻餅をついた。だが、視界だけは正常に戻っていた。すぐに櫂はワクラバを見上げた。

 林を見据えるワクラバが、そこにいた。金眼はぎらぎらと熱い熱を帯び、瞳孔が開いている。歯を噛み締め、一歩踏み出したところで、ぺたんと座り込む小柄な子どものまなざしに気づいた。

 何度かの瞬きで、ワクラバの瞳は、穏やかな色に移り変わった。そんな男の遥か頭上には、同じく仄かに夜を照らす、真ん丸い月が浮かんでいた。

「そんなに時間、経ってたんだ」

 同じ闇と月でもこうも違うのかと、ようやく戻ってこられたことを実感した。柔らかな夜風は櫂を慰めるように優しく撫でて、ふわりと流れ去っていく。

 もうちっとも怖がる様子など見せない櫂を見て、ワクラバが淡々と述べた。

「ああいうところは歪むんだよ」

「そうなんだ……」

 ワクラバはもう踵を返して歩きだしていた。櫂は大股で走ってワクラバを追いかける。

 鳥居の手前で、ふと、櫂は振り返る。朱紐のなくなった暗い林が、ざわざわと木の葉を揺らして鳴いている。目を凝らしても、生き物の姿は見えなかった。もちろん、櫂が本来出会う予定だった者の姿もだ。

 ワクラバは足を止めない。だが、歩みは普段よりも、やや遅い。櫂は石段から飛び降りて、ワクラバに追いついた。がら空きの右手をしっかりと掴んだが、ワクラバは溜め息を吐くだけだった。櫂は嬉しくなって、ワクラバと繋いだ手を大きく振った。この手が刀を振るい、櫂を守ってみせた。ありがとうの気持ちを込めて、ぎゅっと握り締めた。ワクラバは握り返してなんてこなかったが、これで満足だった。

「幽霊、いなかったね。妖畏が怖くて逃げちゃったのかも。なんか、可愛いね」

「おまえも盛大に小便垂らしてただろうが」

 喜びで調子づいた櫂を、ワクラバが嗜める。櫂は羞恥心で顔を赤らめたが、すぐに期待を込めてワクラバを覗き込む。

「帰ったら一緒にお風呂入ってくれるよね?」

「入らん」

 食い気味でワクラバが言った。あまりにも鋭い即答に、櫂は頬を膨らませて、いつか絶対風呂場に引きずり込んでやろうと画策する。

 小さな己の、泥で汚れた爪先を見つめながら歩いた。人の声がする。町人たちの楽しげな喋り声が、なんだか懐かしい。

「会いたかったか」

 俯きながら色々と考えを巡らしていた櫂に、ワクラバが呟いた。櫂は思わず隣で歩くワクラバを見上げたが、視線は交わらなかった。どこか遠くを見つめたワクラバは、もしかしたら、櫂の返答なんて求めていないのかもしれなかった。

 櫂もまた、倣って前を見つめた。夜の帳が下りる道の先は、ぽつぽつと提灯の明かりが照らしている。

 暗がりと明かりの狭間で、櫂は強くワクラバの手を握った。今の櫂には、暁國とワクラバが一番だった。二人も一番がいるなんて、なんだかおかしい。けれども、どうしたって譲れない答えだ。

「おれ、強くなりたいんだ」

 だからこそ、闇を払うみたいに明るく言った。

「だから、肝試しして、勇気をつけようと思った。それが答えだよ」

 櫂が笑うと、ワクラバは嘆息した。けれども、手は振り払われなかった。

 町人たちとすれ違うのを避けたのか、ワクラバは裏の人通りの少ない道を選んだ。きっと獣の残り香を気にしてのことだろう。纏わり付く香りはまだまだ落ちる様子がないが、櫂を脅かすことはもうなかった。

 道すがら、櫂は今日の出来事をずっと振り返っていた。朝起きて、学舎で授業を受けて、ワクラバに我儘を言って、神社の奥の朱紐を潜って、妖畏と出くわして、ワクラバに助けられた。きっと一生忘れることのない一日になる。

 しばらくして、櫂は再び口を開いた。 

「おれの父ちゃんと母ちゃんさ、妖畏に食われて死んじゃったんだって。村のみんなは優しくて、たくさん気にかけてくれてたけど、たまにおれを遠巻きに見ながらさ、そう言ってた」

 語る口調は明朗だ。どこか他人事にも聞こえてしまうが、どうしようもなかった。当時の櫂は幼すぎて、ほとんど記憶が朧げなのだ。暁國に会うまでは。

「それで、村にたまたま来た暁國先生がさ、おれのこと連れてってくれたんだ。たくさんいろんなこと教わったし、漢字もたくさん書けるようになった。ワクラバも書けるし、意味も知ってるよ」

 学舎に来てから、櫂の景色は鮮やかに彩られていった。友達もできたし、町の人も、すれ違えば挨拶を交わしてくれるし、名前を呼んでくれる。櫂は自分が生きる世を、心底綺麗だと思った。今日みたいに、怖いものもたくさん潜んでいるけれど、たくさん素敵なもので溢れていて、まだまだ知らないことが多すぎる。これからたくさん、見つけに行く。

 けれども、どうしたって届かないものがあることも、知っている。

「たくさん色んなこと覚えられたけど、おれ、親のことだけあんまり覚えてなくて。思い出せないんだ。自分のことなのに、全然わかんないんだ。わからないまま、終わっちゃった。それだけ、悔しい。思い出だけ、全部奪われちゃったみたいで。もう、覚えられないんだって」

 櫂に握られたワクラバの手が、ほんの一瞬強張る。

「だからさ、おれ、いつか用心棒みたいに強くて格好良い奴になりたいんだ。そんな思いをする人がいなくなるように、守るんだ。おれ、みんなを守れる強い用心棒になりたい」

 ついに、ワクラバが足を止めた。

 櫂も立ち止まって、彼を仰ぎ見る。ワクラバの顔は、いつもの冷たい無表情に近いけれど、どこか、寂しい。櫂はワクラバの手を離して向き直った。

「なれるかな?」

 月の目を見つめ返す鳶色の瞳は、闇に塗り潰されない光を湛えた。

 ワクラバは黙ったまま、腰の荷袋に手を回した。そこになにが入っているのか、櫂は知らない。ゆっくりと抜き取られたものは、布で大事に覆われている。組紐を解くと、漆黒の艷やかな鞘の短刀が現れた。

 ワクラバはそれを、おもむろに櫂に差し出した。思わず受け取ろうと両手が上がったが、寸前で留まり、櫂は困惑した面持ちでワクラバを伺った。男の逆鱗に触れた記憶が過ぎったのだ。

「これ、刀だよね? おれ、触っていいの?」

 ワクラバは櫂の中途半端に上がった両手に、短刀を押し付け、握り込ませた。 

「おれには不要な代物だ。おまえにやる」

「くれるの⁉」

 櫂は耳を疑った。だって、あのとき、怒ったじゃないか。そう問いたくなった。しかし、ワクラバはもう手を離していた。短刀は櫂の手に行き渡った。それが答えだった。

「簡単に使おうとは思うなよ。逃げられるなら逃げりゃいいんだ。こいつは逃げられねえときの最後の手段だ」

 小さくても、鋼の重みがあった。なにも考えずに、軽々しく刀を握ろうとした自分が、恥ずかしくなった。守ることは、重みを抱えることなのだ。櫂はまだ幼い。これから大きくなって、色んなことを経験して、背負えるようになりたいと思う。 

「ねえ、用心棒」

 用心棒は、強い。重みと共にある。だからこそ、櫂は問う。

「用心棒はさ、なんで用心棒になったの?」

 ワクラバが目を眇める。櫂を透かして、なにかを見ていた。睫毛の陰に隠れた瞳は、淡い色をしていた。ワクラバはその色を隠すように、静かに目を瞑った。

 次に開かれた瞳は、なぜだかとても白けていた。

「呑気な奴だな」

 櫂はきょとんとした。想像もしていなかった台詞に戸惑った。

 ワクラバは呆れ返っていた。

「まさか、これで許されたと思ってんのかよ」

 ようやく櫂は思い至る。そうだ、悪いことをしたら、お仕置きが待っているのが常なのだ。あれで終わりではなかったようだ。

 不穏な台詞に、櫂はさっと両手で頭を守った。手加減をしてくれたとはいえ、やっぱり、痛いものは痛い。流石に二回も食らいたくはなかった。

「また、拳骨?」

 恐る恐る伺った櫂に、ワクラバは首を横に振る。

「おれの番はもう終わりだ。あとはわかるな?」

 櫂は合点がいった。言葉を詰まらせ、容易に想像がつく未来の己の姿に、項垂れる。とどめとばかりに、ワクラバは言った。

「ありがたいお説教が待ってるだろうよ」

 

 あれから月日は流れて、櫂はほんの少しだけ背が伸びた。これからどんどん、大きく、強くなっていくつもりだ。

 用心棒はある日突然、学舎からいなくなった。雲ひとつない晴天の日のことだった。暁國は、ワクラバの任を解いたことだけを伝えてきた。櫂が何度も理由を訊いても、答えを教えてはくれなかった。

 だから、ワクラバとの別れなんてものはなかった。誰もいなくなった縁側。櫂を受け止める背中はもういない。でも、残されたものはあった。

 病葉。病に冒された木の葉。緑生い茂る中で、ぽつんと赤く色づく葉。彼は今、一人なのだろうか。それとも、同じく色づいてしまった誰かと共に、この空の下で生きているのだろうか。櫂を守った刃を、今もなお振るい続けているのだろうか。そうだったらいいなと、櫂は思う。

 そして、駆け出す。

 まるで同意を示すみたいに、左手の短刀が金具を鳴らしていた。今のところ、その刃がなにかに振り抜かれたことはない。用心棒に守られた小さな体は、自分で作った擦り傷しか背負っていない。

 庭の大きな銀杏の木が、枝葉を広げて櫂を出迎える。男がよく見つめていた大木だった。寂しがらないようにと、櫂が毎日眺めてやっている。

 涼やかな風が櫂の鳶色の髪と、頬に触れる。舞い上がる黄金の落ち葉は、櫂を見守る男の目の色と、少し似ていた。

 男の記憶はどこにでもある。いつだって見つけられる。だから、櫂は泣かない。

 満面の笑顔で、庭から縁側へと飛び込んだ。室内にいた眼鏡の男が振り向く。行儀の悪い櫂を嗜める目をしていた。櫂は飛んでくるであろう叱責よりも先に、元気よく声を張り上げる。

「暁國先生、ただいま!」

 あの日、あのとき、この場所に、用心棒の男がいた。

 ワクラバという一人の男が、たしかにいたのだ。