色鮮やかなこの季節が、櫂は大好きだ。
庭先の大きな銀杏の木は元気に黄金の葉を拵え、見事に優美さを振り撒いていた。櫂の大好きな黄金色が舞い散るおかげで、いつもは素っ気なさしかない通りも、櫂にとって最高の散歩道と化していた。夕日と黄金のあたたかな色味を堪能しながら、櫂は上機嫌に帰路についていた。
この先にある神社は、相変わらず誰が手入れしているのかわからない寂しい場所ではあるが、この時期は銀杏の葉がいっぱいに敷き詰められて、櫂の歩みに合わせて音を奏でてくれる。
そんな綺麗な黄金色が、泥で塗り潰されていた。
田んぼにでも落ちた誰かがここを通ったのか。泥の形はひと目で子供の足であるとわかった。小さな足跡を辿った先で、櫂は小さな人影を見つけた。
泥で汚れた境内の先に、少年がいる。
おそらく歳は十かそこらだ。小柄な痩躯を包むのは、洒落っ気のない黒い着物と、引き摺ってしまうほど丈のあっていない、紺青に染められた羽織である。ぶかぶかの羽織は肩口からずり落ちており、風が吹くたびに裾が羽のように軽く舞い上がる。その瞬間、くすんだ羽織の隙間から、少年の泥に塗れた素足が見えた。
たまらず櫂は声をかけた。
「草履、履かないの?」
問いかけに、少年がくるりと振り返る。目尻に青が差された黒い双眸が、真ん丸く見開かれて櫂を捉えた。小首をかしげてきょとんとする少年に、櫂は駆け寄った。泥塗れの階段を上がり、少年の前に立つ。少年は寸時も目を逸らさず、櫂を不思議そうに見つめていた。愛嬌があるが、奇妙な表情だった。少年は、振り向いた瞬間から、ずっと口に笑みを敷いていた。
「足、泥塗れじゃん。草履履かないと怪我しちゃうし、傷口に泥なんて入ったら、破傷風になるって先生が言ってたよ」
櫂はそのまま腰の巾着を漁った。せめて手拭いがあればと思ったが、出てくるのは拾った木の実や玩具ばかりだ。そこでようやく、少年が目を細めた。肩を揺らし、長すぎる袖を口元に当て、唇の端をさらに吊り上げた。
「これは、これは。ふふっ、ご高説痛み入るぞ、坊や」
少年が言った。墨色が広がる口内からまろびでたのは、あたりに低く響く、精悍な青年の声音そのものだった。愛くるしい相貌とは不釣り合いの、まるで別人が少年に声を吹き込んでいるような、そういったちぐはぐな印象があった。
今度は櫂が目を瞬かせる番だった。声変わりにしては、どこかがおかしい。困惑する櫂をしげしげと見やった少年は、高らかに笑った。愉快でたまらないといった様子で。それでいて、櫂の緊張を強引に解きほぐすように。
「いやなに、こうして主君や同胞以外と話すことは久しぶりだからな。おれたちが驚いてしまうよ」
おどけるような口ぶりであった。そのまま少年は、芝居がかった仕草で両手を上げた。くすんだ羽織から覗く手も、どこかで浸したのか真っ黒な泥で汚れていた。それを目で追いながら、櫂は問う。
「おれたち?」
すぐさま周りを見渡した。泥の足跡は一人分であり、少年と櫂以外の、人の姿も気配もない。櫂は続けて尋ねた。
「誰か他にいるの?」
少年は頷き、愛嬌たっぷりに笑みを湛えていらえた。
「いるとも。ここに。いや、そうだなあ、ここらを探していた、と言っても正しい」
そして、鷹揚に笑んで腕を伸ばした。だらりと垂れた羽織に覆われているものの、隠された少年の指は、間違いなく林の中を指さしている。
櫂はどきりとした。朱紐も鈴の音もなくなったとはいえ、ここは曰くつきの林である。ここらでは見かけない少年だ。もしかしたら、かつてこの場所が幽世であったことを知らない可能性があった。黒い羽織が脳裏をよぎった。それは様々なものを呼び起こした。赤黒い畏れの庭とその主、そして、櫂を庇って立つ背中と、闇に飲まれぬ鋼の煌めきを。
「もしかして、ここ、入っていっちゃったの?」
「おやおや、なにか問題が?」
やはりなにも知らないらしい少年が目を瞬かせた。恐れもなにも知らない様子に、少しばかり悪戯心が芽生えた。ずいっと櫂が顔を近づけると、内緒話と察した少年が身を屈めてくれた。そのまま、そっと耳打ちする。
「ここね、おばけが出るんだよ」
「なんと。それは面白い! 坊やは見たことが?」
しかし、少年は怖がるどころか喜びをあらわにした。櫂と同じく好奇心旺盛で、あまり物怖じしない性格と見た。それがちょっぴり残念だったが、櫂は素直に頭を振った。
「ごめん、ない。でも、おっかない妖畏がいたよ!」
しかし、続けた言葉で少年の柔らかな笑みが奇妙に固まった。少年は形だけの微笑を貼り付けたまま、大きな真っ黒い眼で櫂を見据えた。
「……おまえ、そいつを見たか? それを、どうした?」
やはり妖畏となると話は別なのだろうか。櫂も初めて妖畏と相見えたときは腰を抜かして、恐れに溺れて粗相をしてしまった。恥ずかしい記憶と忍び寄る畏れの霧を払うように、櫂は堂々と胸を張った。
「えっとね、強い用心棒がやっつけた! おれのこと助けてくれたんだ」
えへんと誇らしげに振る舞う櫂ではあるが、言葉の通り、実際に畏れを退けたのは忘れるはずもない用心棒の男である。少年は時間をかけて櫂の発言を飲み込むと、腹を抱えて笑いだした。
「ははは! なるほどな! 懐に潜り込んだ奴がいたか。そいつを、その用心棒が斬ったと。見事だ。それはいつのことかな?」
「一年前くらい! ちょうど今みたいな季節だったんだ!」
櫂の声が明るく響き渡った。病に冒された葉の名を持つ用心棒は、櫂の憧れの存在である。たとえ傍にいられなくとも、彼の背中や眼差しは薄れることなく鮮明に櫂に刻まれている。そんな用心棒の話を他の誰かとできることが、嬉しくて仕方がなかった。
頬を赤く染めて喜ぶ櫂を、少年は慈しむように見ていた。そうか、そうか、と深く頷くと、呆れたように笑った。それは櫂や用心棒に対するものではなかった。
「まったく……お寝坊さんだな、酔象は。見事に隠れ果せたか。どうりで見つからぬはずよな」
「スイゾウ? 友達の名前?」
「ああ、おれの同胞だ。おれたちよりも背が高くてな、見れば一目でわかるはずなのだが」
「探してるのってその子? おれも探そうか?」
少年はにっこりと微笑み、目を眇めた。黒い目はどこか鈍い輝きを覗かせていた。
「親切な坊や、申し出は感謝するが、まだ早すぎる。まあ、酔象の目星は付いた。足繁く通うとしよう。それよりも、探したい者は別にいるのだよ」
「他にも迷子のお友達がいるの?」
「そちらは迷子でも友達でもないな。同胞、仲間……いやいや、これは……選ばれた運、結ばれし縁、彷徨える容、揺れ動く残り火……。ううむ、どれもこれも少し噛み合わず、どこか足りない。言葉というものは本当に難しい。おれはいつも頭を悩ませる」
詠うように述べて、少年は瞼を閉じて額に手を這わせた。黒い掌は少年の白い肌を汚すことはなかった。じっとりと手を滑らせたあと、少年は薄らと目を開いた。再び鈍い輝きを纏った。小さな火が揺れるようだった。
「あれだな、これは片想いというやつだ」
少年が導き出した回答に、櫂ははしゃいだ。まだ幼い櫂ではあるが、色恋沙汰にも興味津々である。
「好きな人! 告白するの?」
「そうとも。まずは待ち合わせをしなければ」
「逢い引き……! 実るといいね!」
「それは、ふふ、そうだな。そうなるといいな」
詰め寄る櫂に少年が口元を綻ばせる。照れたような笑みでもあり、櫂の様子を面白がるような微笑でもあった。ずっと笑い続ける少年だが、そのときどきによって笑みがそれぞれ違う形に歪んでいく。なんにせよ、笑顔でいられるのはいいことだと知っている櫂は、少年に満面の笑みを返した。
二人で仲良く笑いあったあと、櫂は己の足元に落ちる夕暮れの色にはっとして巾着の口を結び直した。
「そろそろ帰らなくちゃ。ここらへん、暗くなると危ないよ。おばけは見たことないけど、幽世の名残りがあるから、あんまり良くないんだって」
「幽世の名残りか。ふふ、確かに香るなあ。ご忠告ありがとう」
歩み出した少年に、そうだ、と櫂は声をかけた。こうして仲良く言葉を交わした相手を、櫂は友達と呼んでいた。
「お兄さん、名前は? 今度また会ったら遊ぼうよ。好きな人のこととかも詳しく教えて!」
対する少年は、にこにこ笑顔はそのままに、少し考えた後、櫂に袖を突きつけた。
「おまえ、読み書きはできるか?」
「書けるし、読めるよ!」
「ほお、おまえは賢い坊やだな。では……そうだな」
林の入り口まで少年が進むと、細い枝を手折った。砂利道を素足で均し、ざくざくと枝で文字を刻み込んだ。
「おれの名だよ。これをどう読む?」
櫂も恐る恐る林の入り口に近づいて覗き込む。丁寧な字だった。どこかで見たことがあるような気もするが、まだ幼い櫂にはわからなかった。素直に述べた。
「……ごめん、読めない」
「ふふっ。そうかそうか」
その素直さを喜ばしいものだと捉えたのか、少年が嬉しそうに続けた。
「ならば、おまえに教えてやろう。おれは優しいからな。悦んで受け入れろよ。これは纏う、そして、こちらが顎だ。おまえにもついているだろう? なにかを食み、砕くためのもの。人の最も硬く、獰猛な部位が鈴生りになる場所だ」
にい、と口を歪ませて少年が歯を見せた。白い歯と対象的な黒い舌が、こちらの様子を窺っているように見えた。櫂はむっとして問うた。
「もう、怖い言い方するなあ。おばけでからかったの本当は怒ってる? 怖がらせようとしてるでしょ」
「いやいや、そんなそんな。そう思わせてしまったのなら……おまえがそうだという話よ」
「もう! 絶対莫迦にしてる!」
嘲りを含んだ物言いに、かちんときた櫂が声を張り上げると、少年は面白がってからからと笑った。しかし、櫂は己が弱いこともきちんと自覚しているつもりだ。それもこれも、みんな用心棒との思い出のお陰である。
ときには流すことも大切だ、と暁國から教わっていた櫂は、砂利道に刻まれたニつの文字を指さした。
「それにしても、纏う、顎? 不思議な名前だね。なんて読むの?」
「ああ、惜しいな。そうではない。そうではないのだ、父様は」
愛嬌に満ちていた少年の声が、さらに歪に老成し、深みを増した。奇妙なまでに描かれた唇の弧は、じっとりと這うような調べを放った。
「纏うのではなく、纏めるのだ。名は体を表すというだろう。坊や、覚えておけ。このおれの名を」
少年は泥塗れの手を合わせた。弾けた泥の粒があたりに飛び散った。少年の微笑が獰猛さを孕んだ。どろどろに煮溜められた闇のような瞳が、色を濃くした。
「おれは纏顎(テンガク)。縁と魄を砕き、ここに纏める者だ」
テンガク、と音をなぞった櫂を満足げに見やると、少年は踊るように地を蹴った。軽やかな足取りでかさかさと銀杏を踏み鳴らし、鳥居を潜って階段を降りた。そこにはなんの重みもなかった。このまま少年が本当に浮遊してしまってもおかしくはない。そう思わせる不思議な身のこなしだった。それを眺める己の体が、なぜかぴりぴりと総毛立つのを櫂は感じ取った。
「そうだ、最後に」
境内で呆然と立ち尽くす櫂に、少年が肩口までの黒髪を揺らしながら振り向いた。くすんだ紺青の羽織が無風の中で大きく翻り、決して地につくことなく、宙を自在に泳いだ。夕暮れの向こう側、じわじわと空を浸してくる夜闇の下で、纒顎はいたずらげに微笑んだ。
「いつか祭りをするつもりだ。そのときに坊やを見かけたら、今日のお礼におれたちが遊んでやろう」
笑い続ける少年の声が、薄暗い通りに溶けていく。残された彼の小さな足跡は、黄金で敷き詰められた道を無邪気に黒く塗り潰していた。