無一文冥土話譚


 

 糸雨の中、ワクラバとタキは宿屋に向かって歩いていた。どちらも傘など持ち歩かないため、雨脚が弱いときは、雨宿りなどせずに目的地に向かうのが常であった。

 雨に打たれるがまま迷いなく進むワクラバの数歩後ろで、タキは立ち止まり、小さなくしゃみをした。笠代わりに羽織を頭に被ってはいるものの、体はどんどん冷えていく。体内を巡る微量の畏気のおかげで、病とは無縁になったタキではあるが、足先の泥の感触やじめじめと纏わりつく不快感はどうしようもなかった。

 宿屋に辿り着けば着替えられるし、風呂にも浸かれる。汚れと疲れを落として身を休めたかった。知らぬ間に離れていたワクラバとの距離を縮めるために、タキは駆け出す。途端、タキは躓いた。

 まさか、鼻緒が切れるとは思いもしなかった。

 不吉な予感が過ぎる。空と同じくもやもやと暗雲が立ち込めたが、それを振り払うように首を振り、タキは荷袋から手拭いを取り出して、鼻緒に通した。きつく結んで、履き心地を確かめる。少々歩きにくいが、問題はなさそうだ。

 水溜まりに転んだせいで、タキはすっかり濡れ鼠になってしまった。不快感がさらにタキを苛んでいた。一刻も早く宿屋へ向かわねばならなかった。

 まさかそこへ、男が突撃してくるとは思わなかった。

 すれ違いざまに肩がぶつかり、タキは小さな悲鳴を上げて尻餅をつく。もう、踏んだり蹴ったりである。衝突してきた男はタキになにも言わず、そそくさと立ち去ってしまった。前を行くワクラバもタキが転んだことにすら気づいていないらしく、どんどん遠ざかっていく。

 なんだか切ない気持ちでいっぱいになった。鼻緒が切れたのは、これを示していたのだろうか。せっかく凶兆があったのに、避けられなかった己が、情けない。

 泥塗れになったタキは、落とした薄墨色の荷袋を拾おうと手を伸ばし、固まった。

 ない。荷袋がどこにもないのだ。

 歩いていたときは手に持っていた。手拭いを出したときもあった。その後も両手で持ち直していた。男とぶつかったときに落としたのだ。そこまではしっかりと覚えている。

 荷袋の中には、露天商で買い物をした際におまけでもらった小芥子と、銭が入っている。前者はいい。問題は銭である。なんと、そこにはワクラバの所持金も含まれていた。つまり、荷袋にはワクラバとタキ二人の、全財産が入っている。

 それが、ない。タキはようやく、スリに遭ったことに気づいた。それができるのは、あの男しかいない。

 慌てて振り返るが、どこにも人の姿はなかった。追いかけられるわけがない。完全に見失ってしまった。記憶を遡るが、男であることと着物が紺色だったことしか思い出せない。着物なんて、どこかで着替えられたら終わりである。つまり、タキはほとんど犯人の特徴など覚えていないのだ。

 終わった。やってしまった。やられてしまった。

 タキは呆然としてその場にへたり込んだ。雨に打たれようが泥で汚れようが、どうでもよかった。宿屋に行ったところで、金がなければ泊まれない。ワクラバの住む長屋は、この町よりもうんと離れていて、帰るのに二日はかかる。困ったことに、妖畏退治の任を終えた後であり、その報奨金もすべて盗まれた荷袋にしまっていた。タキの顔が色を失った。

 そんなことなど知らないワクラバが、タキの元に戻ってきた。やってくる気配のないタキに対する苛立ちが足音に滲んでいたが、蹲って動かないタキの姿に、若干ではあるが憂慮が芽生えたらしい。すぐ傍で立ち止まったと同時に、ワクラバから気遣いの念が飛んだ。

(腹でも壊したか)

 タキはなにも言えなかった。傘を差す町人たちが、怪訝そうにワクラバとタキを横目で見ながら通り過ぎていく。押し黙って俯くだけのタキに、いよいよ本気でまずいと察したワクラバが膝をついた。

(誰かになにかされたか)

 タキはぎくりと体を強張らせた。わかりやすい反応をしてしまったことに慌てるが、もう遅い。ワクラバは舌打ちしながら手を伸ばした。タキが被る羽織を剥がし、俯くばかりの顔を無理矢理引き上げた。ワクラバの指の腹がタキの頬をなぞる。じっと見つめてくる金の瞳から、タキはすぐに目を逸らした。

(顔じゃねえか。腹か?)

 どうやら、ワクラバはタキが何者かに殴られたと思っているらしい。蒼白な顔は濡れているだけで怪我はない。ワクラバはタキの鳩尾から腹部までを撫でた。濡れた服越しでもわかる男の遠慮のない手の感触に、タキは身を震わせる。同時に、勘違いでワクラバに心配をかける自分が許せなくなった。羞恥心と罪悪感が混ざり合い、濁流となって喉元まで押し寄せた。

 タキはついに白状した。

「……スリにっ、遭い、ました……。お金、お金が、全部……盗られて……」

 数秒間、世界から音が消えた。静寂の空間を破ったのは、ずっと降り続ける雨声だけだった。

 無一文になった、と告げられたときのワクラバの顔を、タキは知らない。タキはすでに、泥濘んだ道の真ん中で平伏していた。土下座である。雨に濡れた地面しか見えないタキの耳に、どこからか「あんな完璧な土下座、初めて見た」という子どもの声が聞こえてきたが、気にしてなどいられない。なんとしてでも彼に償わなければならなかった。見兼ねたワクラバが念を飛ばしてくるまで、タキは額を地に擦りつけたままだった。

 

 額の泥を拭ったタキは、仕事探しに奔走していた。

 しかし、うまく事は進まなかった。仕事をもらえないかと伺っても、タキの挙動不審なところや、泥水で薄汚れた姿のせいでまともに取り合ってもらえないのだ。ワクラバも妖畏狩りの請け所を覗きに行ってくれたようだが、こういうときに限って仕事はなく、町は平和そのものだった。タキは項垂れながら歩いた。かける言葉もないと思われているのか、それとも呆れ果てているのか、ワクラバは黙ってタキの数歩後ろを歩いていた。無言がちくちくと冷え切った背に刺さる。タキは途方に暮れていた。

 ふと、冥土と書かれた暖簾が目に入った。冥土とは死者の世のことだったか。

 店の前の床几に腰掛け、黄昏れていた男が、暖簾を凝視するタキに気づいた。目が合ったと思うと、突然男が立ち上がり、すごい勢いでタキの元にやってきた。逃げる間もなかった。

「君は……素晴らしいな。冥土の素質がある」

 詰め寄ってきた男に仔細に眺められ、タキは知らず身を庇うように胸の前で手を組んだ。その仕草一つ一つもつぶさに見られているようで、居心地が悪い。

 だが、次にタキにかけられた男の言葉で、事態は急転した。

「お嬢さん、わたしの店で働かないか。きっといい冥土になれる」

 先ほどから男がなにを言っているのかいまいちわからないが、とにかく、金が必要なタキにとっては渡りに船である。タキは一も二もなく頷いた。満足げに唇に弧を描いた男が、眼鏡の奥で目を細め、タキの隣に立つワクラバへと視線を移した。じっくりと頭から爪先まで鑑賞されたワクラバが片眉を上げる。

「……うむ、君もなかなかいいな」

 品定めされたワクラバは嫌悪の表情を微塵も隠そうともしなかったが、むしろ男はわかりやすい表情を気に入ったようだった。

「君たち、名前は」

 タキは店主である男に名乗り、ワクラバが声を失った妖畏狩りで、自身が通弁人であることを伝えた。妖畏狩り、と耳にした途端、男がさらに目を輝かせた。

「君たちは求めていた人材だよ。タキくん、ワクラバくん、ついてきたまえ」

 ようやく雨が上がり、雲の隙間から陽光が差してきた。これはきっと吉兆だ。これから事態は好転する。タキはそう思っていた。

 店主に湯浴みを進められ、二人はありがたく頂戴することにした。なんと、着替えまで用意してくれるというのだから、感謝してもしきれない。

 タキはこの恩を精一杯返すつもりだった。茶屋の仕事などしたことはないし、接客は正直言ってこれっぽっちも自信はないが、緒花姫の下働きとして働いていた経験はある。洗濯と掃除と皿洗いくらいは、人並みにはできるのだ。

 湯上がりで肌がほんのり赤く色づいている。冷静さを欠き、蒼白になっていた顔も、ようやく血色を取り戻した。泥塗れの着物もとりあえず簡単に洗って干しておく。いつまでも素っ裸でいるわけにはいかないので、タキは着替えを手に取った。

 この用意された着替えが、なんとも不思議な装束だった。

 手間取りながらも着替え終わったタキは、なんだか夢心地だった。

 黒を基調とした袖が膨らんだ着物と裳に、詰め襟の白い中着。胸当てのある白い前掛けを黒い帯で留めている。さらにその上から薄く細い白の帯を巻き、背中で蝶々結びで纏めた。両肩を隠すような大きなひだ飾りや白い布の頭飾りも相まって、かなり人の目を引くだろう。しかし、決して絢爛ではなく、華やかさと慎ましやかさが同居している、なんとも上品な着物であった。

 かつて緒花姫に頼まれて買ってきた、繊細で愛らしい人形のようで、なんだか照れくさい。実際は鏡などないので、自分の全身を眺めることなどできていないのだが、タキの頭が勝手に愛らしい仕上がりの自分自身を想像してしまっていた。自覚していないだけで、熱い湯のせいでのぼせているのかもしれなかった。

 誰にも見られていないからと、裾を軽く持ち上げ、その場でくるりと回ってみる。ふわりと舞い上がる黒い裳は、いつも身に着ける衣服よりもうんと上質で気品がある。しばらく時間を忘れるほど堪能していたタキだったが、外から聞こえてきた店主の歓声に我に返った。ぶんぶんと首を振り、浮き立つ心を抑えながら部屋を出る。

 すでに着替え終わっていたワクラバが、腕組みをしてどっかりと床几に腰掛けていた。これから雇われる者の態度とは到底思えぬが、店主はなぜかお気に召したようで、ひっきりなしに称賛の声を上げていた。

「良いね。すごく良い。男物を着てもらうのはこれが初めてなんだけど、想像以上に素晴らしいな、これは。ああ、落ち着いてるところ悪いけど、もう一回立ってみせてくれないかな。じっくり見たいんだ」

 ワクラバは面倒くさそうにしつつも、素直に従い、その場に立った。わあ、と思わずタキも感嘆を洩らす。

 橡色の着物に黒い帯。帯の上からさらに巻かれた革の角帯には、百鬼歯が提げられていた。漆黒の上着は、前は短いが後ろの裾が燕の尾のように垂れている。見たことのない衣装だった。すらりと伸びた足も同じ色の洋袴で覆われていて、頭から靴の先まで、優美さに溢れている。黙って姿勢を正して立っていれば、戸を蹴破ったり、躊躇なく人を殴ったり、物を投げたり、百鬼歯を鈍器代わりに振り回したりしない男に見える……かもしれない。

 衣装に身を包んだワクラバに見惚れるタキに、店主はようやく気づいた。眼鏡の奥で、切れ長の涼やかな目がかっと見開かれる。

「なんと……」

 そこで、店主は口を手で覆った。タキは狼狽した。ワクラバを褒めそやしていた店主が、タキの姿を見るなり黙りこくってしまったのだから。やはり不釣り合いだっただろうか。タキは身を竦めて顔を赤らめた。誰にも見られていないとはいえ、先ほどの浮かれた自分が恥ずかしくて仕方がなかった。どこかに入れる穴はないかと視線を巡らせた。

 店主が深く、長く息を吸い、しみじみと感想を述べた。

「………わたしの目に狂いはなかった」

 タキは長い時間をかけて店主の言葉を飲み込み、ほっと安堵の息をついた。

「じゃあ、早速だけど仕事について説明するから、よく聞いてね。この茶屋は、そこらの茶屋とはひと味違うんだから」

 ぱん、と店主が手を打ち鳴らしてワクラバとタキに向き直った。だが、視線はタキに注がれている。小首をかしげたタキに、店主ははっきりと言った。

「君にはお客様を葬ってほしい」

 タキは仰天した。風変わりな茶屋だとばかり思っていたが、ここは暗殺業を営む店だったのか。慌ててタキはワクラバに振り返る。ワクラバは、もうどうとでもなれ、という顔をしていた。諦めきったワクラバに、タキは顔を青くした。拾ってもらった恩がある。しかし、それだけで人を殺めることなど、できるわけがなかった。

 そんな二人の様子に、店主が声を立てて笑った。二人が考えていることなどお見通しだったらしく、ようやくこの店について話し始めた。

「安心してほしい、物騒なことはしないよ。冥土というのは給仕のことなんだ」

「……給仕、が……冥土……?」

「この茶屋特有の呼び方でね、お客様を冥土まで連れて行ってしまえるほどの魅力に溢れた……可憐で愛嬌のある給仕のことをそう呼ぶんだ。ああ、言っておくけどここは料理茶屋であって色茶屋じゃないよ。やらしいことは御法度だ」

 とりあえず、殺し屋稼業でないことがわかっただけでもタキは安心し、ほっと胸を撫で下ろした。しかし、店の奥の部屋にも、ワクラバとタキ以外の人の姿はなかった。それについてタキが問うと、店主が眉を下げて答えた。

「実はね、この店の看板娘が、熱を出してしまって。なかなか容態が良くならないようで、その間店を閉めようかとも考えていたんだ。そんなときに、君たちはやってきた。わたしは幸運だった。こんな逸材に巡り会えるなんてね」

 つまり、今日はタキ一人で給仕をしなければならないのだ。自覚した瞬間、温まったばかりの体が急速に冷えていくような感覚に陥った。初めての仕事を、たった一人で切り盛りするのだ。

「さて、お客様がいなければ始まらないからね。呼び込みは頼んだよ」

 はい、と盆を渡される。裏には「冥土茶屋」と書かれた紙が貼りついていた。タキはこの店の名を背負った看板娘に任命されたのだ。

 タキは思わず縋るようにワクラバを見てしまったが、目が合うよりも前に、自ら視線を断った。これはタキがやらなければならないことだ。任された仕事だ。そもそも、働くことになったのは、タキの不注意が原因である。

 そう奮い立たせようとするが、心のどこかはやはり怯えを隠せずにいた。自分なんかにできるだろうか。総山に身請けされる前の、花売り時代を思い出す。掠れた声、痩せぎすの体、つり目気味の瞳を揶揄された。酷いこともたくさんされたし、痛い思いもたくさんした。殴られ、蹴られ、怒りを買って斬り殺されかけたことだってある。

 知らず俯いていたタキの背を、そっと店主が叩いた。顔を上げれば、優しい笑顔を湛えた店主が、自信満々に頷いた。

「なにも臆することはないよ。愛想よく振る舞えばいい。……いや、そうでなくとも、君は可憐だ。なにかあったときは我々の出番だからね」

 我々、という単語にワクラバが怪訝な表情を浮かべると、店主がすぐにいらえた。

「ワクラバくん、安心したまえ。君に頼みたいのは声を必要としない仕事だからね。その分、接客は君が頑張るんだよ、タキくん」

「は……はい……」

「そうそう、客引きに成功したときや、ここぞというときには、この決め台詞を言うように」

 こほん、と咳払いを一つして、よく通る声で店主が唱えた。

「貴方を冥土へ落とします、だ」

 物騒かつ無礼な文句であった。これは本当に斬り殺されるかもしれない。店主は死に怯えて硬直したままのタキに促した。

「貴方を冥土へ落とします。復唱して、はい」

「……あ、あの」

「復唱。はい、どうぞ」

「……あな、たを……め、冥土に……落とし、ます……?」

 静かな店内に、店主の拍手が響いた。ワクラバとタキの胸に、空しさが募った。

「素晴らしい。もう、イチコロだよこんなの。ちなみに入店時は、お客様ご入界です、だ。わかったね?」

 大丈夫か、とワクラバが不信な目で見てきたが、タキはなにも返せなかった。

「さあ、行っておいで」

 と、言われて出てきたはいいものの、タキは心の中で悲鳴を上げていた。

 清楚で美しい衣装にときめいたし、それを着る自分をちょっぴりではあるが可愛いのではないか、と思ってしまったのは事実だ。だが、それとこれとは話は別である。黒と白という華やかとは程遠い色味だが、道行く町人たちの和装とはまるで異なる風体なのだ。とにかく目立って仕方がなかった。すれ違う町人たちの視線が深々と突き刺さる。嘲りの声が飛んでこないことだけが救いだった。盆を両手で抱え持ち、店の前をうろうろと徘徊するだけの不審人物になっていた。

 だからこそ、一人の男に話しかけられるなんて、これっぽっちも思っていなかった。

「なんて可憐なんだ」

 唐突な声に、タキははっとして振り返った。見れば、長身の男がタキをまじまじと凝視している。凜とした佇まいの、清かな男前であった。鈍色の着物に、薄手の黒い外套を纏い、腰には一振りの刀を差している。

 男が一歩踏み出した。澄み切った瞳は、タキから一切視線を外そうとしない。

「おれの中の庇護欲が鰻登りだ。鬼のお嬢さん、おれと一緒に蒲焼きでも食べに行かないか」

 爽やかに紡がれた素っ頓狂な発言に、タキは少し面食らう。いつもの通り、流されるまま頷きかけて、自分の今の立場を思い出した。タキは臨時とはいえ冥土茶屋の看板娘なのだ。ろくに客引きできずにいたタキに、向こうからやってきて話しかけてくれている。これは僥倖だった。店に誘導する絶好の機会だ。

「こ、ここ、あの、茶屋……で、わ、わたしは……あの……この、店の……」

 しかし、タキの声は酷く嗄れていて、流暢とは程遠い。こんなことでは客引きなどうまくいくわけがなかった。なんとかして店の閑古鳥を黙らせなくてはならないのに。その焦りがさらにタキを蝕んだ。言葉がつっかえて、ろくに喋れなくなった。なにをやっているのだろうか。自己嫌悪が襲いかかり、タキはきゅっと目を瞑った。

「君が……給仕を、してくれるというのか」

 噛み締めるように男が言う。ごくりと生唾を飲む音すら聞こえた。タキは困惑した心持ちで男を見た。背の高い男だ。自然と、タキは上目遣いになる。

 男の頬は仄かに赤く色づき、瞳孔が開いていた。胸を押さえていて、少々息が荒い。タキはちょっと心配になった。体調が悪いのであれば、店で休んでもらったほうがいいだろう。そして、これは良い口実ではないか、と不謹慎な考えも浮かんだ。

「あ、の……あの、どこか、具合でも……よ、よければ、あの、店で……休憩を」

「行こう。すぐに」

 即答である。凛とした声にタキは怯みつつ、決め台詞のことを思い出した。こんなときは、なんと言うんだったか。

「あ、あの……あ、あ」

「なんだい?」

 朗らかな男の声が、余計にタキを躊躇わせた。だが、これは仕事だ。やれと言われたことを、タキは成し遂げなければならなかった。ワクラバと店主は見てくれている。大丈夫だ、大丈夫……。

「あ……貴方……を、あの……」

 タキは脳内で文字をなぞり、ほとんど消え入りそうな声で、例の台詞を放った。

「貴方、を……め、め、冥土に、落とし、ます……」

 顔から火が出そうだったし、同時に顔が色を失っていくのがわかった。初対面の男に、なんて無礼な発言をしているのか。愚弄する気か、と刀を抜かれないだろうか。そのまま一刀のもとに崩れ落ち、赤い飛沫を上げながら転がる己の首を想像し、タキは縮こまった。その仕草が、男の庇護欲をさらに刺激したことなど、タキは知るよしもない。

 男がさらに一歩、タキに近づいた。

「君がいるならば、どこにでも行こう。たとえ朱紐の内や、死後の世であろうとね」

 タキはびっくりした。男の目は真剣そのものだ。こんなふうに男に言い寄られたことなどないタキは、少しどぎまぎしながらも、男を店へと案内した。

「あっ、あの、お客様、ご、ご入界……です」

「たどたどしいところもいい……」

 男がぼそりと陶酔したように呟いた。

 一方、タキは疲労感と達成感に浸っていた。しかし、これで終わりではない。むしろこれからが、冥土としての仕事の始まりである。

 

 どうやらタキは一人の男を釣り上げたようだった。行儀悪く床几に立て膝で座っていたワクラバは、重い腰を上げて仕事に移ろうとした。そこでようやく、ワクラバは具体的に己がなにをすればいいのか、まったく聞いていなかったことを思い出す。接客ではないことだけは確かだったが、となれば裏方である掃除や皿洗いだろうか。しかし、先ほどの店主の発言から考えると、どうも違う気がする。

「ワクラバくん、なにしてるの。隠れて隠れて」

 店の奥に隠れた店主が慌ててワクラバに手招きした。素直に従い、ワクラバも身を隠した。

「君は彼らの様子を蔭から見張っていてくれ。お客様にばれないように」

 なら、この衣装はなんなんだ。そう問いただしたくなった。とにかく窮屈で仕方がなかったし、さっさと脱ぎたいというのが本音である。じとりと睨んだワクラバを気にすることなく、店主は朗らかに述べた。

「君の仕事は不埒者の監視と注意だ。もし、タキくんに対して危害を加えようとする者がいたら、相手に圧をかけてほしい」

 確かに、客商売となれば諍いはつきものである。やれ愛想がないだの、配膳や料理の盛り付けが気に食わないだのと、ぐちぐちといちゃもんをつける客を見かけることが多々あった。冥土茶屋という少々風変わりな店ではあるが、結局どこも同じなのだなとワクラバは思った。

「目の前に立って仁王立ちして、そのままずっと真顔で見つめ続ければ大丈夫だろう。君はいい目をしているから」

 果たして、その程度で退く軟弱者などいるのだろうか。むしろ相手の神経を逆撫でし、斬り合いに発展しないだろうか。なんだかタキ共々、店主に過大評価されている気がしてならなかった。

 そうこうしているうちに、男がタキとともに店内に入ってきた。注文を聞き漏らすまいとするタキに、男が問いかける。

「君、名前は?」

 想定していなかった質問に、タキはまごついた。しきりにぱちぱちと目を瞬かせていたが、じっとタキを待ち続ける男の様子に、ようやく口を開く。

「タキ、です……」

「タキさん……素敵な名前だ。君に会えて本当によかった。君のような愛らしい女性に会えて、本当におれは幸せ者だ。ああ、ごめん。おれは冠禄(かんろく)というんだ。許されるのであれば、おれのことを名前で呼んでほしい」

 これは、冥土茶屋では普通のことなのだろうか。どうも口説かれているようにも見えるが、店主はなにも言ってこない。となれば、これは危害には含まれないのだろう。

 ワクラバ同様の疑念を抱いたらしいタキは、困惑した面持ちで男を見ていたが、ワクラバと店主がなんの反応も見せないため、恐る恐る名を呼んだ。

「か、冠禄様……?」

 途端、冠禄が天を仰いだ。額に手を当て目を瞑り、余韻に浸っていた。

「あー……いい、うん。すごくいい……」

 冠禄の感嘆に、店主が「わかる、わかるよ」と同意を示したが、全然理解できないワクラバは無視を決め込んだ。

 それから、あっという間に店は満員御礼となった。

 どうやら新しい看板娘がいるらしい、と噂を聞きつけた客が次々と押し寄せてきたのだ。店の前でよろよろと彷徨き、不審な挙動を見せていたタキだったが、それが逆に人目を引いたようで、効果は絶大だった。意外な才能である。

 だが、それが困ったことになった。とにかく手が回らないのだ。客が何人増えようと、給仕はタキ一人である。当然、タキは引っ張りだこであり、てんてこ舞いだった。

「冥土の嬢ちゃん、酒を注いでくれ」

「あのっ、えっと……」

「次こっちだよ、冥土さん」

「は、はい……っ」

 タキは目を回していた。タキでなくともこの数を一人で相手するのは無理があった。

 ほとんどが常連客のようだが、見覚えのない客が来るたびに、店主は新規顧客だ、開拓成功だ、と小声で興奮していた。その間も料理の手は止めず、頼まれた品をものすごい速さで捌いていく。しかしこれを配膳するのはタキだ。誰がなにを頼んだのかなど覚えていられないタキは、料理を持っては足を止め、小首をかしげ、ぐるぐるとその場で回り、見兼ねた客に助けられる始末だった。

「いつもの看板娘の子は溌剌としていて、からっとしたお天道様みたいだったけど、この子は対照的だな」

「初々しさが新鮮だ。仕草が小動物みたいで見ていて飽きない」

「普通に可愛い」

「タキちゃん頑張れ」

 しかし、タキは概ね好評のようである。不思議なことに、客全員がタキに甘い気がした。一人くらいはグズグズするなだのしゃんとしろだの文句を言ってきそうだったが、ワクラバの杞憂で終わった。よく考えてみれば、ここは冥土茶屋だ。彼らの目的は飯や酒ではなく、冥土と呼ばれる給仕そのものなのだろう。

 共感はできないが、ワクラバはとりあえず納得した。だが、これだけ平和であれば、己の出る幕などないのではないか。それはそれで楽で助かるが、賃金はちゃんと二人分で出るのだろうか。それだけが心配だった。何回目かわからぬ欠伸を殺しながら、ワクラバは冥土姿のタキを目で追っていた。

 

 タキはへろへろだった。いつ料理を落としてもおかしくなかった。一体この店内を何往復したのだろうか。山を歩いたり妖畏から逃げたりと、動き回る生活をしていたから多少は体力がついたと思っていたのに。疲労感がタキをじわじわと苦しめていた。

 客の声かけは優しいが、容赦がなかった。次から次へと注文が飛んでくるし、呼ばれたかと思えば「こんな台詞を言って欲しい」といった謎の用命を申しつけられる。頼まれるがまますべて請けてしまっているが、本当にこれは給仕の仕事なのだろうか。正直言って、タキは倒れる寸前だった。

「タキさん、お酌してよ」

「次こっちね」

 そこへ遠慮のない客の声が飛び交う。どこへ行けばいい。話しかけてきたのはどの客だろう。前はどっちだ。後ろってどこだっけ。お酌とはなんだったか。ご奉仕させていただきます、ご主人様。盆を片手によろぼうタキだったが、ふいに空いた右手を攫われて、そっと導かれた。

「だめだ」

 タキは我に返った。タキの手を取って、吹き飛びかけていた意識を繋ぎ止めたのは冠禄であった。

「彼女は今、おれの専属冥土だ。悪いが、そこで一人で食べていてくれ」

 初耳である。当然、不遜な物言いは客たちの反感を買った。

「なんだとう……!」

「専属なんて聞いたことないぞ。店主呼べ店主」

 このまま乱闘になるのでは、とタキは冷や冷やしていたが、冠禄は客たちの不満の声を余裕たっぷりに捌いた。

「君たち、わからないかい? 彼女一人でこんなに歩き回っているんだよ。彼女は華奢で体力もなさそうだ。ほら、息も切れてしまっているし汗も酷い。可哀想じゃないか。冥土にだって休憩は必要だろう」

「それは……」

 言い淀む他の客を尻目に、冠禄は己の隣を叩いて、タキに座るよう促した。

「食べさせてくれないかい?」

 と、のたまった。休憩というのは口実だったらしいが、救われたのは事実だ。断る理由も見つからず、タキは慎ましく冠禄の隣に座った。

「え……っと……」

 床几に置かれた皿を手に取る。煮豆をそっと箸で摘まんで、恐る恐る冠禄の口元へ運んだ。

「あ、あーん……」

 冠禄が口をつける。たった一粒の煮豆を深く味わうように何度も咀嚼し、噛み締める。うん、うん、と頷いて、感じ入るように目を瞑った。そのまま黙って微動だにしない。タキは恐る恐る訊いた。

「……あの……美味しい、ですか……?」

「今まで食べたものの中で一番美味しいよ。君のおかげかな」

 冠禄がきっぱりと言った。そしてすぐに、タキの持つ箸を取り上げる。

「ほら、君も。お腹減っただろう? はい、あーん」

 今度はタキの口元に煮豆が差し出された。躊躇われたが、やはりタキは断れない女だった。煮豆をぱくりと咥えて、もぐもぐ食べた。

「雛鳥みたいだ。タキさんは可愛いね」

 タキは己の頬がみるみるうちに紅潮していくのがわかった。冠禄の発言はこそばゆく、耐性のないタキにはかなり効き目があった。とにかく恥ずかしいのだ。これを店主やワクラバ、まわりの客に見られていることを思い出して、タキの頬がさらに赤く染まった。冠禄が面白がるようにタキを眺めやった。

「しかし、妖気一つ漏らさないなんて、タキさんはとても優秀な鬼なんだね」

「そ……それ、は……っ」

 タキは口籠もった。タキの二本角は鬼角ではなく妖畏の長から押しつけられた感覚器官なのだ。まさか妖畏の長の一角、無幽天留斎の角であるなどと言えるわけもない。妖気を完全に遮断できる上位の鬼だと言われても、なんとも反応がしづらい。

「自信を持って。大丈夫。君はすごい。一人でこんなに頑張ってるんだ」

 タキが萎縮したのを謙遜だと思い込んだ冠禄が、タキに言い聞かせた。先ほどから勘違いの上塗りで、なんだかおかしくなってきている気もした。

「だから今は、おれに甘やかさせてくれないかな?」

 歯が浮くような台詞なのだが、冠禄は本気だった。タキは当惑した。

「本当に君といると落ち着くよ。心がどんどん澄んでいくんだ。君がいてくれるなら、冥土であろうと心穏やかに過ごせるだろう。そう思えるほど、君は可憐だ。本当に、おれと冥土で暮らして欲しいくらいだ」

 不穏にも感じる言葉にタキはなにも言えない。冠禄がついに声を立てて笑った。冗談だよ、とまで言ってくれたが、まるで信じられなかった。言葉の節々に苛烈な恋慕が滲み出ていたのだ。それは刃にも似ていた。

「休憩が終わったら、たくさん料理を頼むよ。売上に貢献しなければね」

 怯えたタキに気づいたからだろうか、冠禄が軽い調子で言う。

 床几にはたくさんの皿が積み重なっていた。見かけによらず大食漢のようだが、腹はよくても懐は大丈夫なのかと心配になる。タキの表情の移り変わりを見落とさない冠禄は、からからと笑い飛ばして不安を払拭しようと動いた。

「大丈夫、金ならたくさんあるから」

 腰に結わえていたらしい荷袋を己の膝に置き、紐をほどいて中を見せたのだ。

 タキは二度見した。すべてに見覚えしかなかった。薄墨色の荷袋、銭の量、銭に下半身を沈めている小芥子。タキは本当にびっくりした。思わず叫びそうになったが、なんとか堪えて探りを入れてみる。

「か、可愛い……です、ね」

 タキは小芥子を指差した。素朴な顔が、タキをどこか冷ややかに見つめていた。

「だろう? 賜り物なんだ」

 冠禄は悪びれる様子もなく言い放った。

「天からのね」

 タキは今度こそ絶句した。

 冠禄は荷袋の口を縛り、床几に置いた。隠そうともしていない。おそらく、羽織を頭から被っていたせいで、顔を見られずに済んだらしい。冠禄はあのときぶつかった女がタキであることに、まったく気づいていなかった。

 しかし、こうもすぐに犯人と接触できるとは。運が良いのか悪いのか。とにかく、ワクラバに助けを求めよう。今ここで荷袋を奪い取って、逆上されては困るのだ。

 スリの犯人はこの男だと、ワクラバに知らせなければならなかった。だが、口には出せない。突然立ち上がるのも変に思われる。こうなれば、身振り手振りで伝えるしかない。奥でこちらを窺っているワクラバに、タキは腕を小刻みに動かして、思念を送りつけた。

 

「……まずいね、釣り針が深く刺さりすぎたようだ」

 小声ではあるが、尋常でない怒りが滲んでいた。親の仇でも見るように、店主が切れ長の目をさらに吊り上げて、けれども決して声を荒げずに早口で言った。

「このままだと彼女、あの冠禄とかいう男に求婚されて心中されかねない。ワクラバくん、出番だ。ほどよく圧をかけてきてほしい」

 求婚は勝手にすればいいが、通弁人が無理心中に巻き込まれては困るので、ワクラバはそこそこやる気を見せていた。だが、店主が提示した方法でうまくいくとは到底思えなかった。傍目から見てもわかるが、冠禄は冥土のタキにご執心であり、ワクラバの視線に気づいたところで意に介さないだろう。さりげなくなど無理な話だった。もっと露骨に、目の前で皿を叩き割って威嚇したり、胸ぐらを掴んで外に放り投げたりしたほうがいいんじゃないか。

 なにか言いたげなワクラバの表情から懸念を見透かした店主が、そうだね、と首肯して顎に手を当てた。この店を何年やっているのかは知らないが、店主なのだからワクラバよりも良い解決案を導き出してくれるだろう。ワクラバは指示を待ちながら、冠禄の動向を目で追った。背後の店主の声を聞き漏らすまいと、耳を欹てながら。

「どうしても彼が退かない場合は、殺してしまおう」

 ワクラバは己の耳を疑った。聞き間違いだろうか。落ち着いた声から淡々と紡がれた言葉は、わりと物騒なものだった気がする。思わずワクラバは振り返った。店主はびっくりするほど真顔だった。ワクラバが目を瞬かせたのを見て、店主は頷き、もう一度言った。

「殺してしまおう」

 こうもはっきりと言われてしまうと、もう現実逃避はできない。さすがのワクラバも、死人が出ては店の評判が落ちるだろうと案から除外していたというのに。だいたい、物騒なことはしないと言っていたではないか。あの説明はなんだったのだ。

 唖然とするワクラバに、店主が畳みかける。

「冥土に手を出すような身の程知らずなんて、葬るしかないよ。物理的にね。刀ではなく鈍器をおすすめする。汚れが少なくて済む。ああ、死体はこちらで処理するので、気にすることはない。奴を妖畏の一種と思って確実に仕留めてきてくれ。あと、他のお客様には間違っても被害が及ばないようにしてね。客商売だから」

 店主は曇りなき目をしていた。この男、正気ではないが本気である。

 イカれてやがる。ワクラバはそう思った。ただ、そんな店で働いている自分もどうなんだと、虚しい心持ちでいた。しかも、どう考えても無理難題なのだ。客の前で人を殺せば、ワクラバは確実に御用になる。だが、冠禄はあそこから動かない。やはりほどほどに暴れて注意し、出禁にするしかないだろう。

 そう考えたところで、タキの様子がおかしいことに気づいた。

 腕を小刻みに動かし、ワクラバと店主に黙ったままなにかを訴えている。すぐに異変に気づいた冠禄に、包み込まれるみたいに手を握られても、タキは必死にワクラバに目配せしていた。店主からも背中を押され、ワクラバは溜め息を洩した。どうなっても責任は取らないつもりだった。

 なるようになれ。ワクラバはようやく助けを求めるタキの元へ歩み寄った。

 

 タキはワクラバを過信していた。これまで一度も喧嘩をしたこともなく、うまくいっていた、はずだ。会話は少ないが、タキの心を読まれて行動されることもあったし、その逆もあった。ならばいけるだろうと思っての行動だった。

 この男はタキの荷袋を盗んだ犯人である。男から銭を取り戻したい。念など紡げないタキは、それでもワクラバに伝わるように精一杯動いた。きっと、わかってくれただろう。燕の尾のような裾を揺らしながら、ワクラバが堂々と歩いてやってきて、タキを一瞥した。タキが口を開く前に、ワクラバは小さく頷いてくれた。心強かった。

 冠禄はワクラバに見向きもしなかった。明らかに視界の隅に映っているだろうに、ワクラバを雑草か石ころかなにかだと思っているようだ。隣に侍らしたタキを見て、目を細めている。

 もしかしてこれは、好機ではないだろうか。タキははっとした。今、冠禄はタキしか見えていないのだ。ならば、その隙にワクラバがさりげなく床几に置かれた荷袋を回収してしまえばいいのだ。タキはこくりと生唾を飲み、注意を引きつけるために冠禄をじっと見つめた。タキの熱いまなざしに冠禄が瞠目したが、すぐに応えるようにタキの両手をさらに強く握り込んだ。真摯な瞳を間近で受け、いたたまれなくなったタキは顔を背けかけたが、ここが踏ん張りどころだった。冠禄はタキに釘づけだ。今しかなかった。ぽつんと置かれた荷袋は、誰の目にも留まっていない。

 だが、手を取り合って見つめ合う冠禄とタキの間に、突如として赤い棒状のなにかが割って入った。二人の鼻先すれすれにやってきたそれは、見る者を魅了する美麗な朱鞘だ。

 つまり、ワクラバが二人の間に百鬼歯を振り下ろしたのだ。

 タキの考えなど、これっぽっちもワクラバに伝わっていなかった。以心伝心は夢のまた夢である。ちょこんと座る荷袋が、目と鼻の先にあるというのに、とても遠くに感じた。

 さすがにそこまでされては冠禄もワクラバをいない者として扱うことはできない。しかし、冠禄はこの無礼極まりないワクラバの振る舞いに、眉一つ動かすことなく、泰然と構えていた。

 冠禄がタキの手を離すと同時に、ワクラバが百鬼歯を引いた。愕然とするタキの元に、ワクラバから念が流れてきた。金の目はずっと冠禄を捉えたままだ。

(殺せと指示が出た)

「……ころ…………?」

 なにを言われたか、一瞬わからなかった。タキはおろおろとワクラバと冠禄を交互に見やった。物騒なことはしないと言っていたはずだが、聞き間違いだったのだろうか。なにも知らない冠禄は、タキを宥めるように、にっこりと笑んだ。ワクラバがすかさず百鬼歯の鐺で床を打ち鳴らして冠禄を咎めた。続けて、再び念が投げつけられた。先ほどよりもうんと刺々しさを帯びている。

(そこまではやらんが、とにかく排除しろと仰せだ。邪魔だ。どいてろ)

 不機嫌なワクラバにびくつきながら、タキはこくこくと頷き、そっと立ち上がった。

 それを、冠禄が阻んだ。タキの細い腕を掴み、己の隣に再び座らせると、逃がさないとばかりに左手で腰を抱いたのだ。柔い拘束ではあるが、張り詰めた空気がタキをその場に留まらせた。

 ワクラバが眉根を寄せると、冠禄はさらにタキを抱き寄せてみせた。明らかにワクラバに対する挑発だった。ワクラバの眉間の皺が、さらに深く刻まれる。冠禄は涼しい顔を崩そうともしなかった。二人の男の間で、見えない火花が散っていた。

「わかるとも……君、おれとタキさんの恋路を邪魔しにきたんだろう」

 そうだけど、そうじゃない。タキは心の声を飲み込み、口を閉じた。口を挟むことなどできるわけがなかった。店内に緊張感が走った。他の客たちも食事の手を止め、黙して成り行きを見守っている。

「気持ちはわかるよ。大事な店のお嬢さんだ。それを、突然現れた男に好き勝手されるなんて、許せないだろう」

 ワクラバの怒りに気づいているだろうに、冠禄は悠然とした態度を崩さない。

「だが、おれと彼女は出会ってしまった。これは運の巡り合わせだ。運命がおれと彼女を引き合わせたんだ。そして、おれは射止められてしまった。ああ、そうだとも、これは一目惚れというやつだ。彼女はこれまでの人生の中で、最も儚く楚々とした、可憐な花のような女性だ。君に威嚇される程度では、おれは彼女を離せない。君は、どうなんだ」

 冠禄が滔々と語る。その間も左手はタキの腰を抱いたままであり、右手はタキの細い指を撫で続けていた。ワクラバがその不埒な手を睨み据えていることを知った上で、冠禄は試すような口ぶりで問うた。

「君はどれほど、彼女を想っているのかな?」

 ぎちり、と不穏な音がした。見れば、ワクラバがあらん限りの力を込めて百鬼歯を握り締めている。ワクラバの忿怒にタキは一人慄いた。

 冠禄は臆することなくワクラバを見ている。そのまま口が開かれるのを待っていたが、一向に喋る気配のないワクラバに、おや、と目を瞬かせた。

「もしかして、その首……君、話せないのかい。なら、こうしよう」

 ゆっくりと冠禄は席を立った。タキをそっと解放し、仁王立ちするワクラバへ向き直った。

「ここは正々堂々と、狐拳で勝負だ」

 狐拳とは、向かい合っておこなう拳遊びである。狐、猟師、庄屋の三竦みを表す動きで勝敗を決めるのだ。

 冠禄とワクラバのやりとりを眺めていた客の一人が、それで決めちゃっていいのかよ、という真っ当な指摘をしてくれたが、冠禄は自信に満ち溢れていた。運が味方をしてくれている、と豪語してみせるほどだった。タキの意思は完全に無視である。

 ワクラバは受けて立ったようで、冠禄とともに座敷へと移動した。差し向かう形で座った二人は、視線を交え、闘志を露わにしている。

 男女の諍いは酒の肴にうってつけであると、タキはどこかで聞いたことがあった。まるで共感できず、信じてもいなかったが、目の前で盛り上がる常連たちを目の当たりにし、タキは認識を改めた。気圧されるばかりのタキを置き去りに、すっかり観客になった常連客たちは、どちらが勝つのか賭け始めた。熱い声援を受け取った冠禄が片手を振って応え、再びワクラバの双眸を見据えた。

「一回勝負だ」

 そして、掛け声とともに、男二人が同時に動いた。

 冠禄は両手を膝に置いた。これは庄屋を表す。庄屋は猟師に勝ち、狐に負けるのだ。

 対するワクラバは、冠禄の無防備な顔面に拳を繰り出していた。言うまでもないが禁じ手であり、純粋な暴力に他ならない。

「ぼふぅ」

 まっすぐに頬を穿たれ、冠禄が仰向けに倒れ込む。泡を食うタキを置いて、わっと観客が沸いた。勝敗について各々の意見が宙を飛び交った。狐でも猟師でも庄屋でもないならワクラバの反則負けだという声と、庄屋は突然の拳には勝てないだろうという声がぶつかり合った。それが取っ組み合いの喧嘩に発展する前に、思い切りぶん殴られた冠禄が、のそりと上体を起こした。ワクラバの鉄拳を食らった頬が、痛々しく腫れ上がっている。だが、冠禄は不敵な笑みを浮かべていた。恋心と闘志はまだ消えていない。

「……なんて、素晴らしい一撃だ」

 その場にいる全員が口を閉じた。誰もが固唾を飲んで二人を見守っていた。

「こんな生温いやり方じゃあ、だめってことだ。そうだろう?」

 冠禄はそっと刀の柄に手を置いた。痛みなど感じていないかのような、優美な動きだった。

「狐拳なんて運任せな勝負で、彼女のこれからを決めるわけにはいかない。君の一撃から、熱い感情が伝わってきたよ。悪かった。だから、こうしよう」

 言い切ると同時に冠禄が抜刀した。冴え冴えとした刀身を振り抜いて、ワクラバに切っ先を突きつけた。

「おれが勝ったら、タキさんをもらい受ける」

 ワクラバはきらりと光る穂先から目を逸らさず、むしろ金の双眸に刃よりも鋭利な輝きを湛えた。ワクラバはそのまま、朱鞘に包まれた百鬼歯を構えた。止めようとする者などいなかった。

「いざ尋常に……勝負!」

 二人の男が真っ向からぶつかり合い、客は色めき立った。店内が決闘場と化していた。タキはもう言葉もない。青褪めたまま座っていたタキを、客の一人が巻き込まれないようにと店の隅へ避難させた。タキは薄暗い角で蹲り、小さく震えながら戦いを見届けることしかできなかった。

 冠禄は一切躊躇わず、初手でワクラバの首を狙った。ワクラバは身を低くし、百鬼歯で冠禄の臑を打ち抜かんとしたが、冠禄はひらりと軽く躱してみせる。存外素早い冠禄に、ワクラバは舌打ちして追撃した。

 踊るような冠禄の身のこなしに歓声が上がる。刃が閃き、ワクラバの髪の幾筋かを散らしていく。だが、ワクラバは多少の怪我など厭わず、むしろ相手の間合いに踏み入った。刃も振れぬほどの至近距離まで詰め寄ったワクラバは、冠禄の土手っ腹に拳を突き込んだ。苦悶の声を絞り出して後退った冠禄の額めがけて、ワクラバが百鬼歯を振るう。だが、冠禄はそれを見事に弾いた。

 鋼同士がぶつかり合い、観客を大いに盛り上げていく。冠禄の二連撃を飛び退って避けたワクラバは、床几をひっくり返して飛来した白刃を食い止めた。怯んだ冠禄に、ワクラバは皿やお猪口を投擲する。冠禄はそれらすべてを見切って、床几を踏み越えワクラバに躍りかかった。まっすぐに脳天に振り下ろされた刃をワクラバは百鬼歯で受け止め、いなした。

 刃が駆け抜け、床几が薙ぎ払われ、皿や料理が宙を舞う。破片が床に飛び散り、壁は凹み、斬撃を受けて木肌が削られる。

 しっちゃかめっちゃかである。

 戦いはなおも続いた。だが、ワクラバのほうが僅かに優勢である。冠禄は歯噛みして、食い入るように見つめる観客たちに目をつけた。

「おのれ……ならば!」

 冠禄は客の一人を捕まえて盾代わりにした。いきなり見世物側に連れ込まれた客の男が、百鬼歯を片手に迫るワクラバに悲鳴を上げた。人質という非道のおこないを平然としてみせた冠禄に、ワクラバは怯んだ。だが、一瞬だけだ。

 ワクラバは冠禄を人質ごと勢いよく蹴り飛ばした。多分、面倒くさくなったのだろう。跳び蹴りをもろに食らった男二人は、床几や皿を巻き込みながら吹き飛んだ。被害は甚大であった。

「ワクラバくん!?」

 ついに黙っていられなくなった店主が奥からすっ飛んできた。遅すぎるくらいだった。

「ワクラバくん落ち着いて!」 

 店主は声を張り上げてワクラバへと馳せ寄った。戦いを止めようとする無粋な乱入者に野次が飛ぶが、店主は払い除けるみたいに負けじと叫んだ。

「さすがにここまでしろとは言ってないよ! やるなら一撃必殺!」

 しかし、雇い主の声はワクラバには一切届かない。返事をするどころか、ワクラバは突然その場にしゃがみ込んだ。そして、ワクラバに放たれたはずの盆が軌道上にいた店主の額に直撃した。

「あ痛ァっ!」

 店主がもんどり打って崩れ落ちた。邪魔者がいなくなったことで客たちの盛り上がりは最高潮に達する。倒れた拍子に店主の眼鏡が転げ落ち、その透鏡が店主の代わりにワクラバと冠禄の戦いを映していた。

 土埃が舞う中、ついに大きな隙を見せた冠禄に、ワクラバは百鬼歯を見舞った。

「ぐぼぉっ」

 鳩尾を痛打され、続けざまに回し蹴りを食らった冠禄はついに倒れ伏した。

 息も絶え絶えの様子で冠禄がワクラバを見上げる。気丈にも笑みを敷き、ぽつぽつと語り出した。

「君は、すごいな……そんなに、彼女に、懸想している、だなんて……悔しいが……おれの、負けだ……だが、次こそは」

 言い切らないうちにワクラバは百鬼歯の鐺で冠禄の頭部を打ち抜いていた。死なれては困る、という理性はぎりぎり残っていたらしく、ほどほどに力を抜いていたようだが、最後まで勘違いをしていた冠禄を昏倒させるには充分な威力だった。

 

 さて、ワクラバとタキは、店主の前で正座していた。色んな破片が飛び散った冷たい床に、直で座っていた。ワクラバは腑に落ちない様子をこれっぽっちも隠そうとしないが、きちんと姿勢を正している。この男にしては、かなり珍しい。タキは言われる前に自ら跪いていた。二人とも、元の服に着替え終わっている。

「スリ……うん、スリか。それは大変だったね。犯人が見つかったのは幸運だった」

 床几に腰掛けた店主が、罅の入った眼鏡を指で押さえながら言った。声には同情が混じっていたし、店主は二人の心情を慮っていた。だが、それがじわじわと別の感情に上塗りされていった。

「でも、それとこれとは話が別なんだよね」

 当然である。店主は不埒者を葬れと言ったが、店を壊せとは言っていないのだから。

「確かに殺せと言ったのはわたしだ。備品が少し壊れてしまうのは仕方ないと思っていたよ。でもね、これは、やりすぎ」

 タキは俯いた。店主の足元には、簀巻きにされた冠禄が転がっている。頭に大きなたんこぶを拵え、白目を剥いてぐったりとしている。かろうじて息がある彼が、この後どんな処遇を受けるのかは、なんとなく訊き出せなかった。

「君たちといると、店ごと冥土に逝ってしまうよ。逸材だと思ったけれど、君たち、今日でクビ」

 受け入れるしかない解雇通告だった。猛省するタキをよそに、ワクラバはさっさと立ち上がっていた。任を解かれたのであれば、これで話は終わりであり、もうここに用はない、とばかりに。

 それを店主が引き留めた。お座り、と鋭い口調で命令され、ワクラバは露骨に顔を顰めたが、店主の恐ろしく冷たい相貌に、渋々といった様子でその場に正座した。

「これ、読んでね」

 折り畳まれた紙切れを鼻っ面に突きつけられた。タキがおずおずと受け取ると、店主がにっこり笑みを敷いて言い放った。有無を言わさぬ口調だった。

「期日までにきちんと揃えて持ってくるように。途中で逃げたら、朱紐の内だろうが地獄の底だろうが、どんな手を使ってでも君たちを追いかけるから、そのつもりで」

 紙切れに書き殴られた弁償代に、タキは目を真ん丸にした。そのまま目玉が飛び出るかと思った。手持ちの金ではまったく足りない。店と備品の修繕費用に、おそらくは迷惑料などが上乗せされている。しばらくは野宿を余儀なくされるだろう。

 どうしてこんなことになってしまったのかと、走馬灯のように記憶が蘇った。事の発端は、タキがスリに遭ったこと。そして、この店で働こうと決めたのもタキであり、おかしな客を連れてきたのもタキである。冠禄に言われるがまま様々なご奉仕をしたし、それがさらに彼を調子づかせていた。タキは己の愚行を恥じ、呪った。一気に押し寄せてきた後悔に潰されかけていた。その間にあったはずのワクラバの大立ち回りは、なぜかタキの頭からは綺麗さっぱり抜けてしまっている。

 タキは額を押さえた。上半身がふらつき、倒れてしまいそうだった。座ったままでぐらぐらと揺れるタキを訝しみながら、ワクラバも金額に目を通した。その後、彼の表情がどのように変化したのか、タキは知らない。

 なぜなら、すでにタキは平伏していたからだ。二度目の土下座である。どこからか「あんなに綺麗な土下座、初めて見た」という通りすがりの町人の声が聞こえてきたが、気にしてなどいられなかった。ワクラバが念を飛ばしてくるまで、タキは額を床に擦りつけたままだった。