暁知らず


 闇に飲まれつつある林のなかを、ワクラバは駆け抜けていく。ひいひいと荒い息を洩らしながら前方を疾走する男の背を、ワクラバは嬉々として追い回していた。

 泥濘んだ地面を蹴り、時折、草木に着物を引っ掻かれながらも、ワクラバは間合いを詰めてわざと男に浅い傷を残すように刃を閃かせた。男は痛みに驚いて転びそうになるも、必死に泥を飛ばしながらワクラバから逃れようと生き足掻いた。

 おそらく、この男はまだ実戦経験のない、刀を握り始めて間もない新入りである。言うなれば弱者であったが、それがワクラバの嗜虐心を擽った。どこか懐かしさすら感じたが、同時に灯火のようにちりちりと揺れていたなにかが、頭のなかから薄まって消えていくのを感じた。どうしようもないほどに心地のいい感覚だった。

 

 手習師匠である暁國は、浪人ならともかく、戦うすべのない町人である先生という身分が、野盗といった狼藉人に狙われやすいことは当然知っていたし、だからこそワクラバを用心棒として雇って連れ歩くようになった。日中は子供に読み書きを教え、空いた時間にワクラバにも教育を施そうとする男だった。暁國の話を子供たちが真剣に聞いているなか、ワクラバはいつも通り縁側に座り込み、寝惚け眼でそれを聞き届けていた。そんな日の、月が炯々と光る夜のことだった。

 長屋へと帰る人気のない道中、一閃の煌めきが暁國に迫ったのを、ワクラバは見逃さなかった。瞬時に抜刀したワクラバは暁國の前へ割って入り、鋭く刀を弾いた。

 野盗は三人の男どもだった。細身の男と、刀を二本差した中背の男と、ぼろぼろの簔を纏った長身の男だ。ワクラバは暁國を背後に押しやると、斬りかかった細身の男の刀を再度弾いた。男二人からの斬撃を何度か凌いだあと、返す刃で細身の男を袈裟斬りにした。すぐさま横から振り抜かれた中背の男の一太刀を受け流し、そのまま手首から肘にかけて掻っ捌く。筋肉の断面から勢いよく血が噴き出し、刀を持てなくなった男が喉を引き絞り苦悶の声を上げる。ワクラバは男が腰に差したもう一振りを左手で抜き去って振りかぶった。試し斬りするかのようにまっすぐに脳天をかち割ると、男はなにも言わなくなった。そして、己とは別の衣擦れの音に気づいたワクラバは、立ち上がろうと藻掻いていた細身の男の喉のど真ん中を、頭蓋を割ったばかりの刀で貫いた。ぐう、とくぐもった声にならぬ呻きを洩らした男の肺を、押し潰すように踏みつけ、己が刻みつけた深い傷に刀を突き刺して、さらに傷口を押し広げる。苦悶の声を上げようにも、喉を貫く刀がそれを押し止めていた。そうしてぴくぴくと痙攣したあと、呼気の洩れる音すら聞こえなくなり、男が絶命したのを知った。

 肉を切り骨を断つ。その感触が痺れるような恍惚感を齎した。熱い吐息が洩れた。命を零し終えた男の体を刀で弄ぶという挑発じみた行動を続けるワクラバは、なにも仕掛けてこない残りの一人をじっと見据えた。できる限りの悪逆を見せつけてやろうという思いがふつふつと込み上げるのがわかった。事実、残った長身の男には、この光景はあまりにも残酷に映ったらしかった。

 仲間が死んでいくのを黙って眺めていた長身の野盗は、刀さえ抜くことはなく、慌てて簔を翻して走り去っていく。その背をワクラバは追った。男の首を縫い止めた野盗の刀はそのままに、己の刀をしっかりと握り締め、湧き上がる感情に突き動かされるように走った。得も言われぬ高揚感に浸食され、ワクラバは知らず獰猛な笑みを敷いて林のなかへと飛び込んだ。

 もう野盗のことしか頭になかった。あれを必ず追い詰め、いたぶり、仕留めなければならないという強迫観念がそこにはあった。そして、それを実行しようとする己自身に、ワクラバは酔いしれていた。

 もはや何度目かわからぬ斬撃を食らわせたころ、男がついに蹴躓いた。体勢を崩したまま焦ったように振り返り、ろくに構えもせずに己と対峙するワクラバを見つめ、ようやく観念したのか、やけくそじみた勢いで抜刀した。まだなにも斬ったことのないような無垢な煌めきを帯びた一振りだ。ワクラバに向けられた切っ先と、男の切れ長の目が揺れ動いている。

 ワクラバは目を眇めた。未だなんの味も知らぬまま、なまくら刀にされている気がした。まぎれもない、なまくらのようなこの男の手によって。まだあれは知らない。この満たされるような悦びをあの一振りは知らないのだ。同情さえ覚えた。だから問うた。

「使えねえのか」

 努めて淡々と聞いたつもりだったが、それでも言葉に滲んだ獰猛さに気づいたらしい男が息を呑んだ。

「なら、そいつでも試し斬りしてやろうか」

 仲間の惨状を思い出した長身の男が、発狂したかのように喚き出した。男がついに刀を振るった。刃が交錯した。弱々しい刀の動きが、徐々に重く、それでいて鋭利になっていくのがわかった。ワクラバはそれを押さえ込まんとした。

 そうして、一歩退いた男の頬から額にかけて一気に斬り裂いた。顔を駆け抜けた痛みに叫びながらも男は滅茶苦茶に刀を振り回す。混乱と恐怖のせいか、火事場の馬鹿力とでも言うような力強さで振り下ろされる刀を、ワクラバは躱し、弾き、ときにいなした。我武者羅な動きだった。とにかく自身の持ち得るすべてでワクラバに抵抗しようとしていた。

 そして、ついに刀を押し込まれた男は、懐に手を伸ばし、勢いよく振り抜いた。なんてことはない、石礫である。空気を裂くように迫ったそれを避けたところで、ぶつん、と足元で音がした。草履の鼻緒が切れたと認識した、一瞬のことだった。信じられないことが起こった。

 次の瞬間、横一閃が飛来していた。ワクラバは顔面を斬り裂かれていた。命の危機に瀕したため肉体が勝手に動いたのか、自覚していなかった天稟によるものだったのか、その一撃を放った男自身も驚愕に目を見開いていた。それがかっと灼熱の怒りを生んだ。ワクラバは力任せに、刀を握る男の右手首を斬り落としていた。

 男の絶叫が轟いた。命を削る叫びは林のなかを震撼とさせた。そして、男は恐るべき速度でこの場を離脱していく。ワクラバは対処に遅れた。思考がぐちゃぐちゃに掻き混ぜられていた。なぜ斬られたのか。なぜ取り逃したのか。そんなにも油断していたというのか。男に突きつけていた怒りが自分自身にも及び、心を切り裂いていく。男の足音が遠ざかる。

 ワクラバは裸足で地面を踏み締めた。顔面の傷のせいだろうが、視界がひどく滲んでいた。そのなかで背を向けて疾走する男を、歯を食い縛って追いかける、その寸前。

「止まれ」

 突然、強い声がワクラバの背を突き刺した。それと同時に、一気に視野が開けていくような感覚に陥った。なぜ男を追っているのか。なぜワクラバは二人の野盗を殺したのか。

 振り返れば、守るべき主がそこにいた。必死に走ったらしく、荒い息を繰り返している。それでもワクラバに対して発せられた声は、まったく揺らいでなどいなかった。

「あれほどの傷……おまえが追わずとも、あの野盗はもはや手遅れだろう」

 暁國が顔を顰めて言い捨てた。視線の先にはワクラバが断ち斬った男の手首が落ちている。骨を力任せに両断したときの、じんじんとした刺激が今さらになってワクラバの腕を伝ってきた。顔の痛みよりも強くワクラバを支配した。それでも暁國は今まさに血を流す傷を優先した。

「治療を受けなさい、ワクラバ。戻りなさい」

 ワクラバは胸が焦げるような思いだった。どうして邪魔をされたのかわからない。だって、あのときは邪魔をされなかったではないか。いったいなにを言われているのかわからない。本気でそう思った。だからこそ再び林の奥へと目を向けた。男の背はもはや闇に溶けていて、ワクラバの双眸が捉えることはなかった。ただ、残響のような足音がワクラバを誘っていた。たまらずワクラバは一歩踏み出した。

「追ってはならない。戻りなさい、ワクラバ」

 鋭い口調で重ねて暁國が言う。それと同時に腕を掴まれ、強引に視線を合わせられた。怒りや蔑み、哀れみすら読み取れる瞳がワクラバを射貫いている。まるで刃のように。野盗の首に刺さったままの刀のように。

 指先が堪えきれずにヒクヒクと動いていた。その指先さえも暁國は見逃さなかった。

「戻れ」

 主からの命令だ、と認識した瞬間、ワクラバはぎくりと身を強張らせた。それでもなお、体の底でぐつぐつと煮え滾る渇望が、行き場をなくして全身に充満していく。逆流するかのように勢いよく込み上げてきた感情に口を開いたワクラバだが、言葉はなにも出てこなかった。さらに暁國が続けて言った。押し止めるみたいに。

「戻れ、と言ったぞ」

 ワクラバの腕を暁國が強く引いた。振りほどける力ではあったが、腕というよりも言葉の力によってワクラバは従順に暁國の後ろを歩いた。もう抵抗などできなかった。自分がどうすればいいのかわからなくなりそうだった。あの高揚感は、今もなお燻るこの感覚はなんだったのだ。それが急速に冷めていき、導かれるままに歩き続けた。守るべき相手に救われたような気持ちが、それでいて、邪魔をされた悔しさや怒りが確かにあった。それらがどろどろと溶け合って、ワクラバを戸惑わせた。わからないまま歩を進めるしかなかった。教えてほしいと懇願しそうになったが、いつも教育を施してくれるはずの暁國は、なぜか明確な答えなどくれなかった。

「おまえがなにか、思い出しなさい」

 じくじくと掌が疼いている。野盗を斬り殺したときに伝わってきた感触は未だに残っていた。そんなワクラバの腕を、暁國はきつく握り締めていた。ワクラバは暁國によって、しっかりと縫い止められてしまった。

 

 時刻は昼を迎えたようだった。

 正直なところ、ワクラバは暁國に手を引かれて歩いたあとの記憶など覚えておらず、気づけば顔に木綿を巻かれていた。痛みはあったが、匂いはまだわからなかった。おそらく本当なら薬のきつい匂いが鼻を突いていたはずだ。ワクラバが上体を起こすと同時に、なにやら書き物をしていたらしい暁國が振り返りざまに言った。

「起きたか」

 丁寧な所作で暁國が立ち上がる。顔に巻かれた木綿に痛ましげに目を細めながら、ワクラバの傍らに座り込んだ。

「手当てはしたが、傷がひどい。しばらくは安静にしていなさい」

 今さらながらワクラバは、しくじった、と思った。弁解するなどみっともないことはしたくなかったくせに、狂いそうなくらいに押し寄せた後悔が声として発せられそうになる。その前に、暁國が居住まいを正してワクラバに頭を下げた。

「まず、わたしを助けようと動いたこと、礼を言う。ありがとう、ワクラバ」

 そして、声音をすっと鋭くして、こう続けた。

「だが、あれは褒められたものではない。どういうつもりであんなことをしたのか、傷が癒えたら話しなさい」

 叱られている子供のような気分だった。ワクラバの後悔がついに言葉となった。立ち上がった暁國の背に話しかけた。

「あいつは……あの野盗は、どこに」

 振り返った暁國が眉をひそめた。それでもワクラバは問わずにはいられなかった。突き動かされるかのように訊いていた。

「まだ探せば追いつけるはずだ。なあ、先生。今度はうまく殺せる。知ってるか、あの野盗がどこに行ったか」

「ワクラバ」

 暁國の腹を震わすかのような低い声に、ワクラバは己がなにか誤ってしまったのだと悟った。ただ、それがなにか思い至らなかった。当然ではないか。取り逃した獲物を探してとどめを刺すのは。なぜなら自分はそうやって。

 そうやって、追い回された先に、なにをされたのだったか。

「思い出せと、わたしは言ったはずだが」

 切っ先のような声だった。冷え冷えとした刃を突きつけられた気分だった。

「そんなことをまだ言える元気があるのなら、わたしの話を聞きなさい、ワクラバ」

 再び暁國がワクラバの傍に腰を下ろした。

「前からどこか危ういところがあったと感じてはいたよ。それが今、確信に変わった」

 暁國が諦めたように目を伏せて呟いたが、再びワクラバをしっかりと見た。この目を逸らすことは許さないという強い光を帯びていた。

「おまえの仕事はなんだ」

「……暁國殿の、護衛だが」

 そうだ、と暁國は首肯した。

「あの野盗、わたしのような素人でもわかるほどに刀を振り慣れていなかった。おそらくあの夜が彼らにとっての初陣だっただろう」

 精細さの欠片もない白刃の軌道。重みのない一撃。ワクラバも頷いたのを見て、ならばわかるだろうと、暁國はワクラバを見据えた。まぎれもなく見定められていた。

「では、あれはなんだ。なぜ、あんなにも惨たらしく殺した」

「……なにを、言ってる……?」

 ワクラバは困惑した。誰だって理解できるはずだし、思い至るはずだ。それを目の前の男がわからないはずがない。

「殺されて当然だろうが。逆上してまた襲いかかってきたら。それこそ目の敵にされて、先生だけじゃなく子供にまで被害が及んだら」

「わたしは殺すなとは一言も言っていない」

 断ち切るかのように暁國が遮った。そうではないのだと、ワクラバの誤った答えを否定する。人に教育を施す身ではあるが、すべてを許すような善人ではない、とまで言って、暁國は続けた。

「そう思っての行動なら、なおさらおかしいことに自分で気づいていないのか? 幼子でもわかると思うが」

「先生、いったいなにを言って」

「あの試し斬りはなんだ。死体を弄ぶかのような行為の理由は」

「先生」

「あえて逃がしたあと、追った理由は」

 ワクラバは目を瞬かせた。なぜ、そんな当たり前のことを問いただされているのか、不思議でならなかった。それを悪いことのように言われることも。

 なぜなら、それをする権利が間違いなくワクラバにあったからだ。執行するのが当然であり、ワクラバはそんな観念に従っただけなのだ。獲物を追い回して苦しめて、その果てで食らいつく。それは正当な行為だ。

 そうでなければ、おかしいのだ。こんな理不尽が、まかり通るわけがない。

 それを知らずに、暁國が重ねて問う。ワクラバを暴いていく。

「なぜ笑っていた? おまえはあの野盗たちで遊んでいただろう」

「暁國殿、おれはなにか誤ったのか」

 その純粋な問いがとどめとなった。暁國は心底失望したといった様子だった。

「約定を踏み躙った妖畏のように、人を追い回して弄ぶことがおまえの仕事か?」

 妖畏、という言葉にワクラバは己のなかに暗雲が立ち込めるのがわかった。今は鼻がきかないはずなのに、それでも辺りに充満する腐敗した蜜のような独特の芳香がワクラバを襲った。

「わたしはケダモノを拾った覚えはない」

 降り注ぐ暁國の叱責に、ワクラバは身を貫かれていた。それと同時に鮮烈な赤が脳裏にぱっと咲いて飛び散った。緑は塗り潰され、黒い泥濘が痙攣していた。悪寒が滑り落ちた。

「わたしはもう、おまえを雇えない。ケダモノを飼い慣らす趣味はない」

 ワクラバは愕然と目を瞠った。迷子の幼子みたいに。血に塗れたなかで、呆然としていた子供のように。

「本日をもって任を解く。短い間だったが、ご苦労だった」

 途方もない心細さを覚えた。自分が培ってきたものすべてが、無意味で無価値だったのだと打ち捨てられたかのような、たまらないほどの喪失感だった。

「傷が癒えるまでは、ここにいなさい」

 そう言い残して、暁國は去っていく。ワクラバを置いていく。ワクラバが暁國を置いていったように。受け止めるのに時間がかかった。

 何度も反響する、主だった男の言葉の意味を思い返して、ついにどっと激情が集った。どうして置いていくのだとか、なぜ理解してもらえないのかとか、そういった癇癪を起こした子供のような、自分本位の言葉が脳裏を埋め尽くした。己がわかりやすく狼狽しているのがわかったし、どこか冷淡に客観視している己がいることにも気づいた。

 その傍観者のような冷静さによるものかは知らないが、幾重にも絡まり合った醜い想いはふっつりと千切れていき、まるで火に焼べられたかのように消えてしまった。

 結局、ワクラバのなかに残ったものは、野盗を追った夜の記憶の余燼であった。

 

 その日の暮れ、ワクラバは身支度を整え、暁國の長屋から出立した。別れを告げる必要もなかった。任は解かれ、ワクラバをあの日のように止めるものはいなくなった。それでも充溢していたはずの歓喜はなくなってしまった。空っぽの体のなかに残る火傷のような痛みがワクラバをじわじわと苦しめていた。その痛みから逃れたい一心だった。そうするにはなにかに没頭し、傷から目を逸らすしかなかった。形を持たないものの手当ての仕方など、ワクラバは知る由もなかった。

 ワクラバは用心棒を辞め、約定を破ることさえなければなにも咎められることはないと、妖畏狩りへと転身した。実際、特定の人物を守ることよりも気が楽であったし、仕事には困らなかった。それが続けばいいと思っていた。妖畏が町中にも現れることが増えていたが、大きな被害が出る前に、妖畏狩りや用心棒も加勢して退治していたため、危機感や疑念も薄れていたように思う。

 そして、ワクラバは引きずり出され、再び人を守りながら戦うことになる。

 そこで目が覚める。

 ワクラバの眼前に飛び込んできたのは、長屋でも林でもない、旅籠の天井だ。

 思わず上体を起こして隣を見た。暗がりで顔はよく見えないが、間違いなくタキがそこにいた。すうすうと聞こえてくる弱々しい女の寝息に、ワクラバは深く息を吐ききった。

 小さな村からの依頼でワクラバとタキは町を出ていた。明日は迷い森という少々不安になる名で呼ばれている森林を抜けるつもりだ。今日は昼まで雨が降っていたため、足場が悪くなっているはずだ。町や村でもない、妖畏による狩りが許された場所。そんな森に、ワクラバはタキを連れて行く。人を守りながら、妖畏の巣窟を。

 唐突に、立ち込めるものがあった。忘れるはずのない景色だった。傷だらけで逃げていく野盗の背中と、己を止めた暁國の言葉が、未だにワクラバのなかで燻っていた。なぜ今になってこんな夢を見たのかはわからない。絡まり合っていた感情が膨れ上がり、姿を現した理由など、ワクラバにわかるわけがなかった。

 取り逃してしまった簔を纏った野盗。引き留めた暁國。どちらも会うことはないだろう。もはや妖畏しか斬ることが許されていないワクラバは、たとえ両者に再会したとしても、なにもできることはない。

 傍らに寝そべっている百鬼歯は、ワクラバが目を覚ましたことに気づいているのかいないのか、いつものような軽口を叩いてきたりはしなかった。それが余計にワクラバを過去へと向き直させることになった。ずっと目を逸らしていたあの夜と、傷の痛みを。

 静けさと闇が恐ろしいほどにワクラバを追い立てているような気がした。押さえ込まれていたなにかが首をもたげてワクラバを待っている。ぢりぢりと胸が焦げついた。火傷のような痛みのなかに、郷愁じみた安らぎがあった気がした。それでもあの夜、ワクラバを縫い止めた元雇い主のまなざしや言葉、腕を掴む手の力強さなどを思い出した。

 顔に横一文字にできた刀傷が、今さらのようにぴりぴりと小さな痛みを訴えた。ワクラバは眉をひそめて指を這わせた。

(暁國殿……)

 ワクラバはわからない。暁國の問いも、己自身のことも。

 暁天とはほど遠い夜のなかに、ワクラバはいる。