遥か昔、人と妖畏と妖怪は、互いの共存のために約定を結んだ。三界の約定と呼ばれるそれが崩壊したのは数年前のこと。人の住処である町や村に、妖畏が現れるようになったのだ。請け所には妖畏討伐の依頼が立ち並び、用心棒や妖畏狩りはあちこちで引っ張りだこである。
「信じられねえ……なんて……なんてこと……」
総山は一匹の妖畏を仕留めていた。眼前で実体化し飛びついてきた狼の姿の妖畏を、居合抜きで両断したのだ。
「こんなのあんまりだ……てめえ……よくも……」
約定を破って町に現れた妖畏は、すぐに塵のように消え去った。総山は違和感を覚えた。手応えがあまりに軽く、肉を断った感触がほとんどなかった。本来ならば鼻腔や衣服に染みつく獣香も、綺麗になくなっているではないか。
その妙な感覚に浸る前に、先ほどからぶつぶつとなにごとかを呟いていた鬼の男が、ついに悲鳴じみた怒号を放った。
「なんてことしやがるっ! この人殺し! 鬼! 人でなし!」
約定破りの妖畏が増えた物騒な世の中で、まさか、妖畏を討伐したことをこんなにも責められるとは、総山は思ってもみなかった。
「人は殺してねえし、鬼はおまえさんだろうが」
総山はすぐに納刀し、二本角の男に向き直る。
道に両手両膝をついて号泣する男は、青藍のつなぎに真紅の角帯を巻き、ど派手な目玉模様が施された、山吹色と藤色が合わさった羽織を纏っている。かなり傾いた格好であり、総山は少しばかり呆気にとられた。逃げ遅れた、とも言う。総山の足首を、男が鬼特有の剛力で握り締めたのだ。
「ちくしょう、おれが魂を込めて生み出した作品が、また潰されちまった……どうしてくれるんだ、ええ!?」
涙でぐちゃぐちゃになった顔で怒鳴り散らされ、唾やら鼻水やらが思い切り着物に振りかかったが、それよりも気になることがあった。総山は男の言葉に片眉を上げて問いただしていた。
「作品だあ? あの妖畏はてめえが生み出したってのか? 畏れの化身を?」
「そうだ。おれの傑作だ。仕上がりになんか文句でもあるのかよ」
どこかずれた返答に、総山が動いた。這いつくばる男を蹴り起こし、そのまま胸ぐらを強く掴み上げていた。
「どんな術を使いやがった。なんのために妖畏を町に放った? 洗いざらい吐いてもらおうか。返答次第ではただでは済まんぞ」
語気に怒りを含ませる総山に、男は怯まなかった。むしろ受けて立ったように総山を睨みつけ、顎をしゃくった。
「おう、吐いてやる。だが、ここじゃ目立つ。場所を変えようぜ。おれの庵にな」
そうやって案内された庵は、一言で表すと醜悪であった。
とにかく、目が痛いのだ。柿葺きの屋根は毒々しい紫に塗り潰され、柱は紅く、土壁は黄色、入り口を塞ぐ暖簾は青色という、色彩同士の殴り合いの喧嘩が目の前で繰り広げられているような家だった。緒花姫の豪華絢爛な紗羅御殿も悪目立ちしていたが、これほどではなかった気がする。
立派な庵というわけではない。造りは周りに立ち並ぶ家とほとんど同じだろう。色でこうも変わるか、と総山は圧倒されていた。間違いなく景観を損ないまくっていた。近所からの嫌がらせの痕跡があってもおかしくはなかったが、一つも見当たらないところから、むしろ近づいてはならない場所と認識されている可能性もあった。男の装いといい、奇抜にもほどがある。さながら、天敵に襲われないように派手な色を纏っている蛾のようだった。むしろ、こっちのほうが目立つではないか。そんな真っ当な指摘が浮かんできた。
顔を引き攣らせて立ち尽くす総山を、先に中に入っていった男が呼びつけた。
「おいおい、遠慮すんなよ」
「わりと遠慮したくなってきたが……」
外がこうなら、中はどうなんだ。しかし、妖畏を生み出し町にばら撒くなどという所業を見過ごせるわけもなく、総山は意を決して暖簾をくぐった。
総山は目を瞠った。想像とは違った光景が広がっていたのだ。広がるというよりも、散らかるといったほうが正しい。
「おれは篭円だ。ここらじゃ結構有名でな。名前くらいは聞いたことあんだろ?」
男が自慢するかのように笑んだ。室内はたくさんの浮世絵で埋め尽くされていた。画材の乗った机だけでなく、畳や奥にある箪笥まで絵具で汚れている。美人画や花鳥画、描き途中の名所絵に、中には店に並んでいるような鮮やかな錦絵も混ざっていた。どれもこれも目を引くような迫力のある絵だったが、総山は頭を振ってすっぱりと否定した。
「聞いたことも見たこともねえな」
「そりゃもったいねえ! この篭円斎の絵を知らねえとは……」
「なんでえ、ただの町絵師かよ。そんな奴が妖術の使い手とはな」
わざとらしく仰け反って頭に手を当てた篭円を睨みつつ、総山は絵を適当にどかして畳の上に座り込んだ。腰から刀を抜き取り、傍らに置く。いつ篭円が妖畏を生み出そうとも、先ほどと同じように現れた瞬間に居合い斬りで仕留められる体勢だ。
そんな総山の隠そうともしない闘気に臆することなく、篭円はからからと晴れやかに笑い、向き合う形で座り込む。
「言ってくれるじゃねえか。ふふん、見て驚けよ。おれァ神絵師と呼ばれた男だぜ」
篭円は散らばった絵の海を漁り、綺麗に断たれた一枚を両手で掴み上げると、総山の目の前に突きつけた。
「てめえが斬った妖畏は本物じゃねえ。おれが数年かけて描き上げた絵……つまりは、魂だ」
そこに描かれた一匹の狼に、総山は瞠目した。ついさっき総山が一刀両断した妖畏そのものである。
「おれはな、絵を具現化することができるのさ」
言いながら、篭円が別の浮世絵を手に取った。花の周りで戯れる蝶の絵だ。篭円がその絵を紺藤色に塗られた爪で軽く突くと、絵の中の蝶が何度か羽ばたき、ぬるりと紙から飛び立った。
にわかには信じがたい光景だったが、何度か羽ばたいた後に総山の手の甲を止まり木にした蝶は本物のそれと同じ感触で、決して幻覚などではない。
「面妖だなァ、こりゃあ。この術で妖畏擬きを放ったのか。なんのために?」
神絵師とはよく言ったものである。絵に命を注ぐ技は、まさに神憑りであった。
「意図的に出したわけじゃねえよ。畳に蹴躓いてすっ転んだことがあったんだが、それで結構な数の絵を叩き起こしちまってなあ……気づいたら奴らが町中に散らばっちまったのさ。それがてめえが斬った一匹だ。他にも数匹いるな」
「結構なやらかしじゃねえかよ。早々に手を打て。死人が出たらどうする気だ」
篭円だけでなく、総山もこんなところで悠長に話をしている場合ではなかった。立ち上がろうとした総山を制止しながら、篭円は忠告をあっさりとはね除けた。
「絵がなにかを食うわけあるもんかい。水の一滴だって飲まねえよ」
それに、と篭円が続ける。
「おれの絵はな、本物の妖畏の足止めをした番犬でもあるんだぜ。おれの絵から生まれた妖畏どもは人が好きみたいでなァ。それに、ここらは妖畏狩りが少ないんだよ。だから重宝されてる。戦う力はねえが、威嚇くらいならできるみてえだ。てめえは読んだことないと思うが、瓦版にも載ったんだぞ。妖畏から町民を守る妖獣戯画ってな。派手な見た目してるし人懐っこいから、町で知らねえ奴はいないほどだった。ああ、あった、ほれ、読んでみろ」
篭円が取り出した紙に総山はざっと目を通した。今まさに篭円が言った通りの内容が、ご丁寧に絵とともに記されている。だいぶ簡略化されてはいるが、見覚えのある狼の姿がそこにあった。
つまり、あれは襲いかかったわけではなく、じゃれついてきていたというわけだ。確かに、町の様子は至って平和で、獰猛な妖畏が解き放たれていることに気づいていれば、もっと大騒ぎになっているはずだ。
「なんつうか……ゆるい町だなァ、ここは」
そう返しながらも、総山は殺気に変わりつつあった自身の怒りを払った。どうやら悪気があってやったことではないらしい。約定を踏み躙った張本人である妖畏の長、無幽天留斎が一枚噛んでいるかと思ったが、獣香など漂っていないし、関係はなさそうである。
総山の怒りがおさまったからだろうか、絵に寝そべっていた小さな黒い毛玉が起き上がった。とことこと短い脚で寄ってきて、堂々と総山の膝に乗り込んだ。
「なんだ、この犬っころ。とぼけた顔しやがって」
「そいつもおれの筆が生み落とした絵だよ。黒甜号ってんだ。一番の古株でおれの相棒だ。昼寝ばっかりしてる奴なんだが、どうだ、めんこいだろぉ」
図々しくも総山の膝を枕にした黒甜号が「ひゃいん」と気の抜ける声で鳴いた。なんだかこの仔犬に格下扱いされている気がして、総山はすぐに首根っこを掴んで絵の上にどかした。あっさり退けられた黒甜号は、なにが起こったかよくわかっていないらしく、まん丸い瞳で不思議そうに総山を見ていた。
そんな一連の流れを微笑ましく見ていた篭円だったが、唐突に声を潜めてぼそりと洩らした。
「二番目に生まれたこいつの弟分は、ついさっき、てめえに、ざっくりと、情け容赦なく斬られちまったんだけどなあ……」
罪悪感を刺激するような物言いである。総山は帰りたくなっていた。
「というわけで、てめえはおれの傑作を一枚破りやがったんだ。責任取ってもらおうか」
当然、そういう話に持っていかれると途中から気づいていた。だからこそ、総山はすぐに懐から銭がたっぷり入った袋を取り出していた。
「悪かったな。ほら、金ならある。いくら必要だ」
どんと銭袋を置くと、篭円は顔と角を真っ赤にして怒り出した。
「金じゃあねえんだよ! てめえ、なにもわかっちゃいねえ!」
怒鳴りながら篭円が銭袋を思い切り払い除けた。じゃらじゃらと溢れて飛び散った銭を遊び道具と勘違いした黒甜号が、尻尾をぶんぶん振りながら前脚で叩いていた。
「おれはな! 丹精込めて生み出した絵を、なんの苦労も知らねえ輩に傷つけられんのが我慢ならねえんだっ! この篭円斎の傑作を、てめえみたいな金さえ積めばなんとかなると思ってる冷血クソゲロ野郎に破られて、仕方ないですねえ、今回は許してあげましょう、お金を置いてお帰りください、なんて言うわけねえだろうが! 絶対に許せねえんだよ! きっちり責任取りやがれってんだ!」
「言いたい放題だなァ、おい……」
「金じゃだめだ。体で払ってもらおうか」
「なんだよ。下働きでもさせようってのか?」
絵の知識などほとんどない素人になにを手伝えというのか。総山がじっとりと睨むと、篭円が芝居がかった動きで総山に人差し指を突きつけた。
「おれの妖畏を生け捕りにしろ」
うわあ。総山は顔を歪めた。この町に来てしまったことを後悔するくらいだった。
「妖畏擬きを生け捕りだと? 無茶言うなよ」
「はあ……? おれの傑作を斬ったくせに……おれの苦労が水の泡になったのに……てめえはなにもせずに帰るつもりかァ……」
恨めしそうにぼそぼそと呟く篭円に、総山は呻いた。知らなかったとは言え、町の人気者であり用心棒だった妖畏擬きを悪と断定し斬り飛ばしたのは事実だ。正直、あんなふうに飛びかかってきたら、事情を知らぬ者なら誰だって勘違いして斬り捨てるだろうが、そんな言い訳も通用しなさそうだった。
町には町の決まりがある。余所者である総山は見事にそれを荒らしてしまったわけだ。もしここで逃げ出してしまえば、瓦版で総山の悪行が見る間に広まっていくだろう。それはそれで迷惑であり、面倒だ。
総山はついに陥落した。大きな溜め息を吐き、がりがりと頭を掻いた。
「ああ、クソ。わかったよ。捕まえりゃいいんだろ」
「協力してくれるか!」
途端、ぱあっと花が咲くみたいに篭円が喜色満面になった。
「ただし、おまえさんの話が嘘で、そいつが危害を加えるそぶりを見せたら、その場ですぐに斬り伏せるからな」
なんだかうまく転がされている気がするが、総山は立ち上がった。刀を腰に差すと、にこにこと愛嬌のある顔で篭円が詰め寄り、握手してきた。
「へへっ、よろしくなあ、旦那ァ!」
強引に握り込まれた手はやはりとんでもない握力で、骨の弱い奴なら罅が入っているだろう。己の莫迦力に気づいていない篭円は、ふんふんと鼻歌を奏でながら壁一面に立てかけられていた絵を指差した。
「この絵だ。今は殺風景だろ。ここには縞模様のでっかい妖畏がいたのさ。その名も「奇縞図」だ。ここに連れ戻してくれ」
「連れ戻すって、押し込みゃいいのかよ」
「そういうことだ」
なんとも雑な説明だ。骨の折れる作業になりそうだった。
出かける前に、総山は篭円に問いかけた。
「なあ、どうして捕まえる必要があるんだよ? おまえの描いた妖畏擬きは町公認の番犬になってるんだろ?」
「実はなあ、今回捕まえたい奴が、最近ちっとばかし悪戯が過ぎててな。お転婆な奴なんだよ。遊びに夢中で棚をひっくり返されたとか、色々と苦情が来やがったのさ。図体も結構でかいからなあ。それに、この絵を気に入った上客がいるんだよ。ぜひとも現物が欲しいって版元の店にやってきたらしい。だから絶対に傷つけるわけにはいかねえのさ」
「ほー……」
話は大体わかった。その上で、総山は素直にもう一つ問うた。
「また同じ絵を描いたほうが早いし楽じゃねえか?」
「本気で言ってるならぶっ殺すぞ」
篭円の目には殺意がいっぱいに滲んでいた。
「で、作戦はあるのかい、大将」
「もちろんよ。おれには完璧な作戦があるのさ。旦那にもしっかり働いてもらうぜ」
町のど真ん中で仁王立ちする篭円は、総山を見てしっかりと頷いた。篭円の足元では黒甜号が行儀良くお座りしている。奇抜な風采の篭円を、町人が微笑ましく見守っていた。町の人気絵師なのは本当だったらしい。どこからか「また篭円斎が変なことをするつもりだ」という無邪気な子どもの声も聞こえてきた気がしたが。
「あいつは鞠で遊ぶのが好きだったんだ。だから、こうする」
篭円が取り出したのは、長い紐が括られた棒と、黒甜号がすっぽり収まるくらいの籠と、ぼろぼろになった鞠だった。これだけで、この神絵師と謳われた男が、なにをどうするつもりなのかが理解できてしまった。
「まじかぁ……」
語尾が呆れで霞んで消えた。篭円本人は大真面目であり、余計に手に負えない状態だった。
「おまえさん、こんな落とし罠に引っかかるのは鼠や雀くらいだぜ。逃げた妖畏擬きは図体がでかいって言ってたじゃねえか」
「ええい、細工は流々、仕上げを御覧じろってな! さあさあ、大捕物だ! 探しに行くぜェ! 詳しい作戦内容は見つかったら説明するからな」
「うまくいかねえ結果が目に見えてるから口挟んでるんだよ。聞けよ莫迦野郎」
不安でしかなかったが、標的である妖畏擬きは案外すぐに見つかった。のしのしと道の真ん中を練り歩く縞模様の巨体がいたのだ。大人が二人がかりで引っ張ってもびくともしないような、強靱な四肢をした大型の猫である。総山は目を点にした。
「絶対に無理だろ」
むしろ、なぜこれでいけると思ったのか。
「いけるいける。じゃあ、手筈通りに。頼むぜ、旦那!」
篭円は物陰に隠れると自信満々に紐を握った。
妖畏擬きの通り道を予測し、篭円が手早く罠を仕掛けていたのだ。籠に棒を引っかけ、その下に餌を置く、というのがよく使われる落とし罠の手法だろうが、妖畏擬きは餌を食べないというので、代わりに愛着のある鞠を用意したらしい。
つまりは、獲物が籠の下に入った瞬間に棒に結ばれている紐を引くと、獲物が籠に閉じ込められる。そういう罠だった。そして、相手が怯んでいる隙に、総山がばれないように近づいて、後ろから縄をかける、という作戦だ。これを大真面目に伝えてくる篭円に、総山は狂気に近いものを感じていた。
妖畏擬きは鞠に飛びついたが、案の定、肉厚な前脚で籠を踏みつけて破壊していた。
だろうな、と総山は思った。頭の中で思い描いたことがそのまま現実で起きていた。
あまりに空しい時間だった。しかも、妖畏擬きは鞠を転がしながらすごい勢いでどこかに走り去ってしまった。ぼろぼろ具合から察するに、今日があの鞠の命日になるだろう。
「な、なにーっ!?」
それなのに、篭円は予想外といった反応を見せている。総山は言葉もなかった。
しかし、篭円は次の策を用意していたらしい。あいつはこういうのが好きなのさ、という前口上に嫌な予感がしていたが、篭円はなぜか得意げに懐からそれを取り出した。
「こいつだ」
猫じゃらしだった。
「これに夢中になっているところを、てめえが後ろから羽交い締めする。どうだ?」
もう、絶句である。本気で捕まえる気があるのだろうか。これはまさか、天才神絵師である篭円斎の渾身のボケなのだろうか。試されている気さえしてきた。しかも、あの巨体を人間である総山一人に捕まえさせようとしているではないか。でかすぎる信頼だったし、目の前でかなぐり捨ててやりたくなった。
さて、わかりきっていたが、結果は惨敗であった。
そもそも、妖畏擬きは猫じゃらしに興味を持たなかった。それもそうだ。愛着のある鞠ならともかく、こんな小さな草が揺れ動いていたところで、あの巨体にとっては面白くもなんともないだろう。町をのびのびと走るほうが楽しいはずだ。実際、妖畏擬きは草には目もくれずに元気にそこらを駆け回っている。追いかけようにもあの強靱な脚力には太刀打ちできるわけもなく、妖畏擬きはまた姿を消してしまった。
「だあーっ! どうすりゃいいんだ!」
篭円が大声を上げて項垂れた。酷使された猫じゃらしは本来の役目を果たせぬまま萎びて折れ曲がっている。哀愁漂う雑草の姿に、総山は少しばかり同情した。
「あー……お話よろしいか、篭円斎」
当たり前の事実に嘆く篭円を白けた目で見つつ、総山は続けた。
「あの妖畏擬きを倒すって話ならおれ一人でもいけるが、今回は生け捕りだろ。どう考えたって人手が必要だ。追い込み漁に切り替えようぜ。それでうまくいかなければ、町の連中に言ってあちこちに狩猟罠でも仕掛けるとか」
「莫迦野郎! 傷つけんなって話聞いてたかよ!?」
「いやだから、まずは追い込み漁を」
「町の奴らはなあ、各地で奇抜だと誹られてたおれに良くしてくれるんだ。黒甜号やあいつらにも。そんな町の連中に、これ以上は迷惑なんてかけられねえ!」
「いや、悪戯する妖畏擬きを放置するほうがよっぽど迷惑だろ」
「ええい、ちょっと待ってろ! 他に使えるもんがないか探してくる」
話を聞く気がないのか、篭円は勢いよく走っていった。おそらく、あの悪趣味極まりない色彩魔殿に戻ったのだろう。
「おまえさん、仕える主人は選んだほうがいいぜ」
総山は足元の黒甜号に助言したが、当の黒い仔犬は話しかけられたことにすら気づいていないようで、丸まった己の尻尾を追いかけてぐるぐるとその場で回っていた。人の話を聞かないという点については、似た者同士だった。
それからしばらくして、篭円が戻ってきた。大きな網でも持ってきていれば、総山も希望は持てたのだが、ぱっと見たところ手ぶらである。
「良いもん見つかったか、大将」
あまり期待せずに総山が問えば、篭円が予想外のことを口にした。
「なあ……やっぱり、捕まえんのは可哀想だ。このまま自由にさせてやらねえか?」
「は?」
素っ頓狂な声が出た。それくらい総山は素直に驚いたし、訝しんだ。
「急にどうしたってんだよ。道端で変な茸でも食ったか?」
疑問に思ったのは総山だけではない。黒甜号も不思議そうに篭円を見ていた。
対する篭円は、大真面目に腕を組み、うんうんと頷いて話し出した。
「客には悪いけどよお、やっぱり現物を売るのはやめる。このまま自由に駆け回ってたほうが、あいつらも幸せだろ? 町の連中にはおれが謝るし、あいつのこともきっちり躾けるからよお。だから、ここで解散だ!」
すると、唐突に黒甜号がひゃんひゃんと吠え始めた。
「黒公、どうした」
懸命に鳴き続ける黒甜号に、総山は眉を寄せた。篭円が今まで頓珍漢なことをしてもまん丸い目で眺めていただけの黒甜号が、小さな体で何度も吠え立てている。しかも、総山を守るように前に出ているではないか。
総山は篭円に向き直った。
「おまえさん、なにか隠してんのか?」
「いや? まったく?」
きょとんとした様子で篭円が言った。
黙り込んだ総山を、篭円はしばらく見つめていたが、結局、話はこれで終わったと判断したらしく、自然な動作で距離を取り、明るい声で言った。
「じゃあな! 巻き込んじまって悪かったよ!」
そのまま、愛嬌のある笑顔で手を振り、どこかへと走り去ってしまった。
なんともいえない心持ちで、総山は篭円の背中を見送った。諦めてもらえて助かった。そう素直に喜べたら良かったが、どうも妙だった。黒甜号がおろおろと落ち着きなくその場を回っていた。その動きは、決して己の尻尾を追いかけ回す一人遊びではない。
何度か見上げてくる黒甜号に、総山はにっと笑んでみせる。
「なにか気づいたんだろ。頼むぜ、黒公」
途端、きりっとした顔つきになった黒甜号が駆け出した。総山がついてくるのを信じてか、黒甜号は一度も振り返らず、なにかの匂いを辿りながら進んでいく。
「ここ、おまえの家じゃねえか」
そして、辿り着いた場所は、篭円の庵だった。何度見ても見慣れない色彩に眉を寄せつつ、着物の裾を咥えて引っ張る黒甜号に従って、総山は暖簾をくぐった。
「……おいおい、こんなところでなにしてやがる」
そこには、縄でぐるぐる巻きにされた篭円が転がっていた。口には丁寧に布を突っ込まれ、さらにその上から吐き戻し防止のための木綿が噛まされており、それを後頭部で蝶々結びされていた。篭円の頭の上では、絵から飛び出た蝶が一休みしていた。
「これもおまえさんの妖術か? さっき、反対方向に走っていったじゃねえか」
「んむーっ! んむむーっ!」
蚯蚓みたいにのたうつ篭円がうるさいので、総山は縄を一つ一つ丁寧にほどいた。途中で面倒くさくなり刀を抜いたのだが、肉体もろとも斬られるのではないかと恐れた篭円が暴れ回ったので諦めた。いらない手間が増えたのだが、苛立ちを抑えて総山は再び尋ねる。
「おまえさん、なにやってんだよ。あれだけ人を振り回しておきながら、生け捕りはやめるとか言い出しやがって。そういう芸風か?」
丸まった布を吐き出した篭円が、牙を剥き出しにして総山を詰った。
「莫迦野郎っ! わかれよ! 本物はおれ! そいつァ偽物だ!」
「偽物だあ?」
「あいつはおれが描いたおれ自身だ! 似顔絵とか自画像とか聞いたことあるだろ! あの野郎、おれを縛りつけたと思ったら、そんなことをぬかしやがったか!」
角を真っ赤に染め上げて怒り狂う篭円と、先ほどやってきた偽篭円は、似ているなんてものではない。どちらも間違いなく本物だった。そう思えるほどの腕前を、総山は称賛した。
「すげえなあ。おまえさん、いくらなんでも絵が上手すぎるだろ」
「嬉しいけど素直に喜べねえ! くそっ、一枚だけなに描いたか覚えてない白紙の絵があったんだが、まさかおれ自身だったとは……」
もはや描きすぎて存在を忘れているほどだった。篭円は己を縛っていた縄を忌々しげに睨むと、ぐっと力強く拳を握り締めた。
「あいつ、自分も連れ戻させられるって思って、こんな真似しやがったな! 本家であるおれを舐めるなよ!」
「おお、頑張れよ。応援しといてやる」
「なに言ってんだよ、旦那! あいつも捕まえてくれ!」
「はあ? 仕事増やしてんじゃねえよ」
あれだけ意気込んでおいて、まさか総山頼みとは思ってもみなかった。
「もしあいつが服やら装飾品やら絵を買い占めてツケ払いにしたらどうなる!? 全部おれが払う羽目になるだろ!」
「心配するのはそこかよ」
もっと色々とあるだろうに、と思ったところで、外から喧しすぎる足音が聞こえてきた。おおよそ見当はついていた。というか、そうとしか考えられなかった。
「おお、戻ってきてるじゃねえか」
「ああっ! くそう、嫌な予感がして戻ってみれば、やっぱりかよ!」
暖簾から顔を出した総山と篭円に、偽篭円が大袈裟に反応した。見て呉れだけでなく、詰めが甘いところも本人にそっくりだった。
「悪いな、おれはまだ遊び足りないんでね……本当は避けたいところだったが、こうなりゃ仕方ねえ、相撲で決着つけようじゃねえか!」
やるなど誰も言っていないにもかかわらず、勝手に四股を踏み出した偽篭円に、黒甜号が再び吠え出した。
「相撲取りたいってよ、本家様。あんまり詳しくねえが、行司はやってやる」
「いや、てめえ見分けついてねえんだろ。おれ同士で相撲なんて取ったら、どっちがどっちかわからなくなっちまう。ここは頼んだぜ、旦那!」
「おまえさん、人に頼みすぎだろうが……」
このままではさらに仕事を増やされる気がしたし、目の前で四股を踏んで見せつけてくる偽篭円に若干むかついていた。総山は腹を括り、偽篭円と差し向かう。
「神業か。上手すぎるってのも問題だな。人の域から外れちまえば、神に見初められる。そうなると厄介事が増えるからな」
そして、今まさにその尻拭いをさせられているのが総山だった。厄介事はさっさと終わらせるべきであり、総山には相撲を取る趣味はなかった。
総山は柄に手をかけた。
「許せよ、天才絵師殿」
言うが早いか、総山は抜刀した。次の瞬間には刀を振り上げている。総山自身も惚れ惚れするほどの、瞬きする隙すら与えない早業だった。偽篭円は倒れ込むまで己が袈裟斬りにされたことに気づいていなかっただろう。倒れた体は中身をぶち撒けることもなく、空気に溶けて散っていった。当然、刀には血や脂など一つも残っていないため、血振るいなど不要だった。
「うわあああああああああっ!」
断末魔の悲鳴を許されなかった偽篭円に代わり、傷一つ負っていない本物が死にそうな顔で絶叫した。
「成敗」
悲鳴を聞き流しながら、総山は洗練された動きで刀を収めた。
誇らしげな総山にしばらく絶句していた篭円が、わなわなと震えて泣きそうな声で一気に罵倒した。
「なにしてやがる! 人間じゃねえよ、てめえ! この外道! おれ殺しーっ!」
「危害を加えるそぶりを見せたら斬るって言っただろうが。おまえさん、人の話を聞かねえ傾向があるぜ。嫌われたくなかったら改めろ」
「相撲を危害と言うんじゃねえ! しかも一方的だったじゃねえか!」
相撲以前に、偽篭円は本物の篭円をとっ捕まえて拘束した罪があるのだが、その被害に遭った張本人はそれを危害と数えていないようだった。やはりどこかずれている。
「だったら最初から人に頼らず自分で相手しとけよ」
「結構格好良く描けてたってのにーっ!」
「おまえさん、描いたことすら忘れてたじゃねえか」
総山に自分の絵が斬り殺されたことがよほど堪えたのか、初めて出逢ったとき以上に篭円は涙で顔をぐちゃぐちゃにしていた。見兼ねた総山はさりげなく励ました。
「ふん、あの絵よりおまえさんのが男前だ。良い機会じゃねえか。描き直せ」
「てめえ見分けついてなかったじゃねえかよ! 人でなしーっ!」
しかし、逆効果だった。おいおいと泣く篭円の声が辺りに響き渡り、総山は唸った。大声に驚き、なんの騒ぎだ、とやってきた町人たちが、総山を見てなにやらひそひそと囁いている。これは瓦版確定だ。余所から来た無名の男が、町の人気絵師篭円斎を泣かせたとか、そんな記事が出回るだろう。どこからか「またヘンテコ篭円斎が泣き喚いてる」という冷静な子どもの声も聞こえた気がしたが。
これでは今日の宿も見つからない可能性があった。さすがに本人そっくりの偽物を斬り捨てるのはやりすぎたかもしれない。
しかし、悪いことばかりではなかった。町人に混ざって、あの縞模様の巨体が戻ってきていたのだ。凛々しい面はどこへやら、なんだか情けない顔をしている。
のしのしと歩み寄ってくるものだから、総山は少し身構えた。主人そっくりの絵を斬った総山に、仇討ちでもしにきたのかと思ったのだ。
だが、妖畏擬きは総山に一瞥もくれなかった。背中を丸めて号泣する篭円に鼻先を近づけ、その場に大人しく香箱座りした。
「なんだよ、こいつ。泣いてる主人が心配で戻ってきたのか。健気な奴だな」
総山の言葉にはっとした篭円が、涙で汚れた顔を上げた。がう、と猫にしては獰猛すぎる鳴き声を上げる妖畏擬きに、今度は歓喜の涙を流しながら抱きついた。
「おまえ……! 良い子だなあ……っ!」
こんなことなら最初から篭円が号泣するまでタコ殴りにしておけばよかった。無駄すぎる労力と時間に総山は溜め息を吐いた。あと、良い子は他人の店の棚をひっくり返したりしないだろう。
総山はすぐに妖畏擬きの首に縄をかけ、手綱となったそれを篭円にしっかりと握らせた。己の仕事だけは完璧だった。総山はそう自負していた。
妖畏擬きは逃げるそぶりは一切見せず、なかなか涙が止まらない篭円にぴったりと寄り添いながら庵の中へと戻った。
「どうした? 心配か?」
だが、妖畏擬きは絵に入る直前に、初めて躊躇いを見せた。そわそわと身を揺らし、情けない声を上げて篭円に縋りついていた。篭円は言葉を交わさずとも通じ合えるのか、妖畏擬きの縞模様の体を撫でさすった。
「大丈夫だ。おれがなんとかしてやっから」
なんの話をしているのか総山にはわかりかねた。絵を欲しがった客がいたと言っていたが、篭円の元から旅立つことに不安を抱いているのだろうか。
篭円が何度か宥めると、妖畏擬きは大人しく絵の中に入っていった。水面に触れたみたいに絵が揺れて、紙の向こう側の竹林に着地すると、見えないなにかに飛びかかろうとして、そこで制止した。これが「奇縞図」の本来の姿というわけだ。
「なあ、おまえさんの目には、こいつがどう映る?」
篭円が自身の傑作を見据えながら総山に問うた。澄んだ瞳はすべてを映し出す鏡のようだ。篭円は今まで見たことがないほどに厳粛な顔つきをしていた。
「なんだよ。おれの審美眼を測ろうってか? 神絵師殿は意地が悪いな」
「いいから、素直にぱーっと吐いてみろ」
茶化して逃げようとした総山だったが、篭円の真剣な声音に負けを認めた。しっかりと絵に向き合い、隅々まで鑑賞する。
「そりゃあ……今にも飛びかかってきそうな迫力は、素直にすげえと思うぜ」
篭円はじっと総山の言葉を待っている。褒め称えて終わりではなく、まだ続きがあることを、篭円は知っているようだった。心を見透かされるような嫌な感覚に耐えながら、総山は素直に伝えた。
「でもよ、なんか、変じゃねえか?」
「なにがだい?」
間髪を入れずに篭円が尋ねてきた。やりにくいことこの上ないが、総山は妖畏擬きの右隣の余白を、指先でぐるりとなぞった。
「ここだよ。空きすぎだ。ここが不自然で、締まりがねえ気がするぜ。まあ、こんなもんは素人の感想だがな。聞き流してくれ」
聞き流せとは言ったものの、この静かな空間は少々居心地が悪かった。的外れと笑われてもいいから、とりあえずなにか喋ってくれ。そんな総山の心の願いが届いたのか、唐突に篭円が顔を上げて、ついでに腕も振り上げた。
「よくわかってるじゃねえか、旦那!」
ばしん、と力強く背中を叩かれ、総山は前のめりに転びかけた。本人は軽くやっているつもりだろうが、やはり鬼のそれは人とは比べ物にならない。
「そうだよな。これは意図的に生み出された空間じゃねえ、なんか物足りねえ、なんとかしてやりてえって、思うよな」
「いや、なんとかしてやりたいとは思わねえが」
「思うよなあ!」
まるで聞いちゃいなかった。唖然とする総山をよそに、ご機嫌な様子でうんうんと頷いた篭円だったが、打って変わって、やけにしんみりした声でぽつりと洩らした。
「実はよお……こいつにゃ番がいるのさ。本来の名は「奇縞双獣図」だ」
なるほど合点がいった。
「達者でな」
総山は踵を返していた。間違っても絵を踏まないように気をつけて、入り口まで早足で逃げ出していた。まるで味方するみたいについてきた白黒模様の蝶が、総山の肩に止まった。
「うおおいっ! 待て待て待て!」
しかし、すっ飛んできた篭円に脱出を阻まれた。怪力を誇る両腕で腰に抱きつかれた総山は、上がりかけた苦悶の声を意地で押し込んだ。味方だと思っていた蝶が総山を置いて暖簾の向こうへと飛び立っていく。それは絶対に総山が逃げられないことを意味していたが、だからといって大人しく従うつもりは毛頭ない。
総山が強引に身を捻って篭円に拳骨を見舞おうとしたが、振り抜かれる寸前に篭円が片手で総山の手首を封じてきた。だが、腰は解放されない。左腕だけで総山を締めつけていた。そうして、鬼と人による戦いの火蓋が切って落とされた。
「頼むよ旦那! 乗りかかった舟だろ!? 最後まで乗ってけよ! 安くしとくぜ!」
「うるせえな、おれは降りる。ちゃっかり金まで取ってんじゃねえぞ。金はいらねえとかほざいてたじゃねえかよ。くそっ、離せ! なんつー莫迦力だ!」
「可哀想だろうが! 嫁さんに逃げられたまんまなんてよお!」
「逃げられる奴が悪いだろ! どうせ、ちょっかいかけすぎて嫌われたんだろうが」
「本人の前でなんて残酷なこと言いやがる! なあ、手伝ってくれよ旦那! こいつの嫁は恥ずかしがり屋な奴で、おれを見るとすぐに逃げちまうんだよォ!」
「おまえ神絵師と謳われた男だろ。新しい嫁でも描き込んで適当に宛がっとけ!」
「なんて最低な野郎だよ! てめえ、頷くまで絶対に逃がさねえからな!」
男二人が言い争いと相撲をしている中、観客である黒甜号が「ひゃいん」と最後まで愉快そうに吠えていた。