山の腕


「こいつをもらおうか」

 そんな言葉が、どこか遠くで聞こえた気がした。また誰かが、男に買われたのだろう。

 さあさあと涼やかな風が吹き、真っ赤な提灯と桃花色の花飾りを揺らした。籬からずっと離れた、陽などあたらぬ隅っこで、ぼんやりと虚空を見つめているタキの爪先まで、風に散らされた花びらがふわりと運ばれてくる。タキは俯いたまま、淡く色づく花びらを指先でなぞろうとしたが、再び舞い込んだ風によって、どこかへ攫われてしまった。タキはそれを一瞥したが、すぐにまた、虚ろな目でどこかを見つめるだけとなった。

 豪奢な着物を纏うタキの体はあまりにも細い。時折、物好きな男に買われ、そのたびに手酷く散らされたりもしたが、今までなんとか壊されずに生きている。

 ぐったりと座り込み、籬の向こうの景色や、同じように着飾って、生きるために愛嬌を振り撒く女たちをぼうっと見るだけの日々が、何年も続いていた。少しつり目気味のためか、睨むとは生意気だ、と客に罵声を浴びせられることもあったが、最近は愛想のなさや歳のせいであまり相手にされることはなかった。雑用係として働かせようにも、この無気力な女は使い物にならない、と楼主が話しているのを聞いたこともあった。このまま、狭い見世のなかで、たまに男に買われ、女たちの嬌声を他人事のように聞きながら、ひっそりと命を終えるのか。それとも、おまえを必要とする者などいないのだと、捨てられるのだろうか。戻る場所など、タキはもう失っている。親の顔、故郷、そんなものはすべて、白い靄がかかった頭では思い出せるわけがなかった。

「来い」

 唐突な妓夫の命令に、タキはゆっくりと立ち上がる。思考が追いつかないまま、命令に慣れきった体が勝手に動いていた。遅れて、また、物好きな男がタキを買いに来たことを知った。それに対して、もうなにも感情が沸いてこなかった。

 歩みの遅いタキに痺れを切らしたのか、妓夫に強引に腕を掴まれ、一室に連れ込まれる。あれよあれよという間に、真白い着物に着替えさせられ、この花摘宿を象徴する色である桃花色の帯を巻かれる。これから客が来るというのに、なぜこんな質素な着物を纏わせるのか。小さな疑問もすぐに薄らいでいった。もうどうでもよかった。

 ここで男を待つのかと思いきや、なぜか見世の外へと放り出されてしまった。履き慣れない下駄のせいで蹌踉めき、そのまますっ転ぶはずだったが、目の前にいた男に受け止められる。

「やけに細いな」

 低く、落ち着いた声だ。言葉に反して、嘲るような声音ではなかった。どこかで聞いた声に似ている気がした。

「本当にいいんですかい?」

「なんだ、惜しくなったか?」

「いや、そんなことは……。むしろ、ありがてえですがね」

「そうかよ。見る目がない奴らばかりだな」

 タキを抱き留めたまま、男が鷹揚に笑う。

 男の腕は逞しかった。しかしながら、タキを押さえつけたり、縛りつけたりするような野蛮さは微塵もなかった。事実、わずかに身動ぐと、男はあっさりとタキを解放してしまった。タキの目がようやく、男の姿をしっかりと映した。

 藍色の羽織を纏った男だ。豊かな長い黒髪に、宵闇の色を湛えた瞳。まさしく、夜の山を思わせるような男だった。腰に差された朱塗りの刀が、どこか不釣り合いに感じた。

 困惑した様子の妓夫が、男とタキを交互に見やったが、男はそっとタキの手を取って歩き出してしまう。手を引かれるまま、タキは男の後に続いた。振り返れば、呆れたような妓夫がいる。その隣には、古びた籬と、赤い提灯と、桃花色の花飾り。タキにとって唯一で、最後の居場所だったところ。

「向こうの大衆食堂にでも行くか? おまえはもう少し食ったほうがいいぜ」

 男が言う。タキは咄嗟に声を出そうとしたが、なにを言えばいいかわからず、はく、はく、と口を開くことしかできない。そもそも、声などここ数年まともに出したことがなかった。乾ききった喉がひくつくだけで、結局なにも発せられることはなかった。無言のタキに気を悪くした様子もなく、ああ、と思い出したかのように男が足を止めて振り返った。

「名乗ってなかったか。そうだな、おれのことは総山って呼んでくれりゃあいい」

「……、……っ……」

「なあに、身請けはしたが、別におまえをどうこうしようってわけじゃねえよ。そう怯えんな」

 総山と名乗った男の瞳が、柔らかく細められた。優しい顔だった。

「……喋り慣れてねえってのは本当だったみてえだな。まあ、そのうち慣れるだろ。焦らずゆっくり知っていきゃいいんだ。怖いものなんざ、ありゃしねえってな」

 長い黒髪を揺らして、総山は再び歩き出す。

 このとき、タキはようやく理解した。

 自分は総山の手によって救われ、新たな居場所を得たのだと。