大衆食堂にて


 気になる男がいる。

 いや、誤解がないように言っておこう。好いているという意味ではなく、ただ純粋に、気になる男が一人いる。

 その男は、ここ最近、おれのお気に入りの食事処にやってくるようになった。狭っ苦しい古びた店だが、そこまで汚くもない、普通の大衆食堂だ。ここの蕎麦はそれはそれは美味く、一度食べてからというもの、入り口からすぐの床几に腰掛け、町行く人を見ながら蕎麦を啜るのがおれの定番となった。

 さて、今日も天麩羅を頬張ったころに、例の男がやってきた。

 顔に大きな傷がある男だ。

 黒い外套に、白いシャツ。適当に巻かれた角帯に、これまた適当に朱塗りの刀を吊るしている。喉に巻かれた晒から察するに、どうやら声が出ないようで、おれは奴の声を一度も聞いたことがなかった。

 男はおれの斜め前の床几に腰を下ろし、乱暴に刀を脇に放った。この男、恐ろしいほど刀の扱いが乱暴だ。

 黒い喰出鍔の美しい刀が、ごとんと音を立てて落ちる。男はちらりと刀を一瞥したが、遅れてやってきた一人の女に視線をうつした。

 この男は常に女を連れていた。黒い二本角が生えた鬼っ子だ。この女もかなり気になる。好いているという意味ではないと重ねて言っておこう。大きな吊り目気味の瞳だが、情けなくハの字に下がった眉のせいで、弱々しい印象しかない。いや、実際弱々しい。着物から出る腕の細さや、袴から覗く足首の細さなど、とにかく不安定な印象しかなかった。

「あ、あ、あの、あのう……」

 そしてこれだ。嗄れたような、聞き取りにくい声。びくびくとなにかに怯えながら話しているようだった。

 この鬼っ子は蕎麦を二つ頼み、男の隣に慎ましく腰を落ち着けた。この男を恐れているのか、常に萎縮しているようだった。なぜだか髪が濡れているようにも見えたが、雨にでも降られたのか、なんなのか。それに今日は、なにやら花のいいにおいがする。香でも買ったのだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えながら蕎麦を啜る。今日も美味い。

 蕎麦汁を一気にあおったところで、男と女のもとに蕎麦が出された。しかし、男は手を付けようとしない。いつもはすぐに口に運んでいくというのに、じっと隣の女を見つめている。女はそんな男に戸惑いつつも、恐る恐る蕎麦に手を付け始めた。

 茶を飲みながら二人の様子を窺っていたが、女の皿は全く減っていかない。遅い。とにかく、口に運ぶ量が少ないうえに、噛む回数が多く、まったく箸が進まない。女とはそういうものなのだろうか。いや、大口開いて飯を食う元気な娘だっている。

 初めて見たときは、体の具合でも悪いのかと思っていたが、とくにそうでもないらしく、この鬼っ子、ただ単に小食なのだ。

 男は行儀悪く片膝をついて女を見ている。じっと見ている。凝視と言っていい。はふはふと蕎麦を啜る女をしばらく見ていたが、ついに男の腕が動いた。

 黒い手甲をつけた手で箸を掴む。ああ、ようやく食うのかと思いきや、男の箸に摘ままれた天麩羅は、そのまま女の皿へとうつされた。なんてことだ。まだこれっぽっちも減っていないのに。男はそのまま蕎麦を摘まみ、持ち上げる。

 まさか、と見届けていたが、まさにその通りであった。男は容赦なく、己の皿から女の皿へと蕎麦をうつしてみせたのだ。ひょいひょいと、何往復もして、蕎麦が女の皿へと。

「え、えっ」

 女の口から、困惑の声が漏れる。減る気配のない皿に、新たな食材が投入されたのだ。

愕然とした表情で男に振り返る女だったが、男の表情は一切変わらない。無だ。鋭さを帯びた月の目が、ばっちりと女を捉えて放さない。見つめられているのは女だというのに、向かいのおれまで圧を感じた。かわいそうに、ひどく困っている。女は見事に狼狽えている。いる、が、なんだ、なんだ?

 女の顔が徐々に、赤みを帯びていく。きゅうと唇を噛んで、恥じらうように身を縮めている。

 一体、どこに照れるところがあったのか。おれにはまったくわからない。乙女心がまったくわからない。

 女はゆっくりゆっくり、箸を口に運んだ。男は急かしたりなどはしていない。ただただ見ている。頬杖をついて、女が蕎麦を飲み込むのを見続けていた。

 蕎麦は減らない。むしろ増えている気がする。ああ、伸びたのか。ああ、ああ、一体いつになったら食い終わるのか。いつになったらあの子は解放されるのか。

 いや、そろそろ、とめたほうがいいのではないか。なあ、兄ちゃん、そのくらいにしといておやりよ。そんな感じに声をかければいいだろうか。吐かれでもしたらおれも、店も困る。それになにより、鬼っ子が哀れで仕方がなかった。 

 女の手の動きが極端に遅くなった。限界だ。もう見ていられない。ええい、と口を開きかけたとき、男が女の手から皿をぶんどった。

 おれも女も呆けた顔のまま、がつがつと勢いよくかっ食らい始めた男を見やった。先程自身が投入した天麩羅も蕎麦も、結局己の口へと放り込み、ばりばりと尻尾ごと平らげて、汁一滴も残さず飲み干した。ついで、そのまま己の皿に残っていた蕎麦も、あっという間に腹に流し込んでしまった。

 懐から取り出した銭を席に残し、唖然としたままの女を置いて、男が立ち上がる。軽く二人前は食った男だが、特に苦でもなんでもないらしく、素晴らしいほどの無表情で刀を再び腰に下げ、さっさと歩いて行ってしまった。

 ぽかん、としばらく口を開いたままだったが、はっと我に返り、未だ呆けたままの女に声をかける。

「鬼の嬢ちゃん、おい、置いていかれるぞ」

「はっ」

 ようやく戻ってきた女も、慌てて懐から銭を取り出すが、引っかかったのか、盛大に床にぶちまける羽目になった。あーあー。なにやってんだ。なんと鈍くさいのか。ひいひい言いながらしゃがみ込んだ女の傍に寄り、一緒に銭を拾ってやる。いや、なんだこの量は。意外と良い家の娘なのかは知らないが、銭の量がかなり多い。何枚かくすねてもばれないのでは、なんて不埒な考えもよぎったが、あの哀れな食事姿を思い出し、結局拾い集めた銭はすべて女の手へ戻した。ふわふわと花のいいにおいが鼻腔をくすぐった。

 ぺこぺこ頭を下げた女が、苦しいだろうに、走って店を出て行く。いや、まさか本当に置いていっちまったのか。薄情な男だ。

 心配になって店からひょっこり顔を覗かせたら、思いの外近くで合流できたようで、男のすぐ後ろを歩く女の姿があった。

 二人がどんな関係かは知らないが、とにかく、今度また似たようなことをやっていたら、とめてやろうと思う。どういった意図であんなにも見つめていたのかは、こちらが推測するしかないのだろうが、とにかく、あの鬼っ子が虐められていないかだけが心配だった。