いつもの食事処で、町人が行き交う姿を見ながら蕎麦を啜る。あいかわらずここの蕎麦は美味く、あっという間に腹のなかに入っていった。
ここ数日、例の気になる男と鬼っ子に遭遇することが少なくなっていた。それがさらにおれを上機嫌にさせていた。別に彼らが嫌いなわけではないが、見ていてハラハラすることが多く、せっかくの蕎麦を堪能することもできず、落ち着かないというのが正直な感想である。だからこそ最近は平和な日々が続いていると思っていたし、浮かれていた。
おれはさっさと大衆食堂を後にした。お楽しみはまだあるのだ。ふんふんと鼻歌交じりに草履で地を蹴って、町を進み、見慣れた暖簾をくぐった。
大衆浴場である。
番台に銭を渡し、手ぬぐいとぬか袋を受け取った。空いた衣棚にひょいひょいと着物を突っ込んで、いざ入浴、というところで、ふと、視界の隅に朱いものが見えた。
思わず立ち止まる。人様の衣類を注視するだなんて、端から見れば盗っ人と勘違いされそうだが、浴場からは死角になった場所であり、番台も、背後を気にするそぶりは見せなかった。ならば、と恐る恐る歩み寄る。黒外套に、ぐちゃぐちゃに丸まった白い襯衣。細い角帯数本に、鞘に組紐がくくりつけられた朱塗りの刀。
見覚えしかない。
「ええ……」
情けない声が出たが、ずっとこうして裸で立っているわけにもいかず、石榴口をくぐって、浴場に進む。
十四、五人はいた。わいわいと隣で談笑しながら湯を浴びる者もいれば、一人でのんびり湯に浸かる者もいる。うん。いる。いるのだ。すぐにわかった。
とても見覚えのある男が、湯に浸かっていた。
湯船のへりに腕をかけて、ふう、と息を吐いて、湯の熱さを堪能するかのように瞼を閉じている。
「いるよ……」
呟きは賑わいの声に掻き消された。
いる。普通にいる。あの、顔に傷のある男が。木綿を首に巻いたまま、のんびりと湯で癒やされている。
しかも、おれがいつも浸かってるお気に入りの場所に。
いや、指定席なわけではない。こんなものは早い者勝ちだ。なにをこんなに警戒しているのか。確かに、気になる二人の片割れではあるが、おれが一方的に見ているだけで、相手はこちらを認識などしていない、はずだ。
浴槽のへりをまたぎ、足先を湯に入れる。
「えっと、冷えもんで」
目が合った。
声をかけた瞬間、男はぱっと両目を開き、おれを凝視してきた。その瞳が、かつて大衆食堂で見たものとずいぶんと変わっていることに気づいた。なんというか、刃物みたいになっている。町にいなかった間に、なにか嫌なことでもあったのか。あったんだろうな。なぜなら、おれはかなり睨まれている。さっきまで寛いでいたくせに。なんでだよ。気性が荒い動物か。八つ当たりのように睨むんじゃない。いや、もしかして、この数秒で機嫌を損ねるようなへまをしてしまったのか。おれが突然声をかけたからか。湯が冷えるのを嫌がったか。どちらにしろ心が狭いとしか思えない。
ぐるぐると余計なことまで考える。癒やされに来たはずなのに、なぜこんなにも気を揉まにゃならんのだ。そうしている間にも、お月さんのような眼光が、おれを射貫いたままだ。いや、こんな強い月なんて見たことねえや。もはや串刺しだった。人様を眼光で刺すんじゃない。なんて、思いはするものの、口に出せるはずもなく。
「……ござい、ます」
呆れと畏れで声が震えた。ゆっくりと肩まで熱い湯に浸かったというのに、がちがちな声だった。
男はおれの言葉にうんともすんとも言わずに、すい、と目を伏せた。おれは一気に息を吐ききった。解放された、と思った。
やはり、この男は声が出せないのだ。だからといって目で語るのはやめてほしい。あの二本角の鬼っ子はいつもこんな鋭利なまなざしを受けているのか。町から離れていた間もおそらくこの男と行動をともにしていただろう。華奢なくせして頑丈な子だ。
離れればよかったものを、なぜかおれは男の隣に腰を落ち着かせてしまった。男はもう気にした様子もなく、ちゃぷちゃぷと波打つ湯をぼんやりと見つめている。
本当なら、今ごろ湯で蕩かされて、ああ極楽極楽、なんて独り言すら洩らしていたはずだ。
気まずい。かなり。
沈黙が重い。肩がこりそうだった。わいわいと盛り上がる男たちの声が、世間話が、どこか遠くに聞こえる。おかしいな。隔てられていないというのに。
世間話。話でも、すればいいのか?
やあ、兄ちゃん。最近はあんまり見かけなかったが、またこの町に戻ってきたんだな。え、おまえは誰だって? いやいや、実はあの店で何度か会っているんですよ。あそこの天麩羅蕎麦、格別ですよねえ。
まさか、そんな話ができるわけもない。というか、そもそも気にしなければいいのだが、いつも遠くからじろじろ見ていることが後ろめたいからなのか、沈黙に耐えきれない。だからといって、声をかけるなんて、とてもとても。
うんうん唸っていると、ふと、こぽこぽと湯が泡立つのを感じた。誰もいない。潜り込んでいたずらをする子供もときどきいるが、そんな可愛いものではない。泡が徐々に多くなり、湯船に波が立ったあたりで、おれは嫌な予感に押され、後退っていた。
「なんだ、この泡」
その瞬間、おれは勢いよく腕を引かれた。振り返れば、警戒を露わにした男がおれの腕から手を離し、石榴口を指差したかと思うと、すぐに背を押してきた。嫌な予感が的中した。そうか。これは、まずいものなのだ。
急いで男と湯から離れた。なんだなんだと皆がざわめくなか、ついにそれは容を持って顕現した。
水中でなにかが色を帯び、膨れた。浴槽から大きな尾が水飛沫を上げながら現れた。
どっと押し寄せる独特の匂いに、ひく、と喉が縮こまる。
「よ」
「妖畏だ!」
異変に気づいた男たちが、一斉に立ち上がり、声を張り上げて駆け出した。
「出やがった! 出やがったぞ!」
「化け鯰だ! おうい、畏れもんが出たぞ!」
男たちの叫びと獣香は隣の女湯にも届いたらしい。きゃあきゃあと女たちが叫び出し、ばたばたと慌ただしく逃げ出していくのが聞こえてきた。
逃げろ逃げろ、と全員が大衆浴場から逃げていく。どいつもこいつも丸腰どころか丸裸だ。さすがに妖畏と相撲をとるような無謀なことをする奴はいなかった。それは隣にいた傷の男も同じで、熱い湯を蹴りながらおれと同時に石榴口めがけて走り出していた。おれは転がるようにくぐり抜け、勢いを殺せず、そのまま強かに衣棚に体をぶつけた。
見れば番台はさっさと退散したらしく、自分の衣服と荷物を抱えた客たちが暖簾を吹き飛ばす勢いで外へと走り去っていく。外でも喧噪は続き、妖畏だ、畏れさんだ、と混乱と恐怖の声が次々と上がった。慌てておれも衣服と荷物を引っ張り出し、皆に続こうとして、振り向く。隣の男が衣棚から抜き取った朱が視界の隅に映ったのだ。
「おい、兄ちゃん、あんた」
男の手には、いつも腰に適当に引っ提げられている朱塗りの刀があった。黒い喰出鍔の細刀だ。麗しい鞘を纏った、戦いには不向きとしか思えない繊細な刀。男はその柄に手をかけて、勢いよく振り抜いた。脱がれた朱鞘は放り投げられ、これまでなにも斬ったことのないような、透き通った煌めきを零す白刃が、ひゅんと空を斬る。まさか。
「お、おい!」
そのまさかである。男はすぐに石榴口に逆戻りして、浴場へ入り込んだ。なぜか慌てておれも刀を引っ掴み、歯形の刺青が彫られた男の背を追っていた。妖畏が暴れる浴場へと無謀にも乗り込んで、そのまま叫んでいた。
「そんな装飾刀であんな大鯰、斬れやしねえよ!」
男はおれの制止の声など聞いちゃいなかった。足元に転がってきた桶を蹴り飛ばしながら、大鯰と差し向かった。浴槽から躍り出た巨躯が、地響きにも似た振動を齎し、積まれた桶ががらがらと崩れていく。
ざぱ、と熱い湯が湯船から溢れ出した。うねる尾が壁や床を叩いて回り、ぱくぱくと呼吸を繰り返す口元の長いひげが、鞭のように翻った。対峙する体を引き潰さんと振るわれたひげを、男は最小限の動きで避けた。四本のひげはそれぞれが意志を持ったように動き、床や壁を破壊していく。そのうちの二本、しゅるりと触手のように伸びたひげが、転がった桶を器用に持ち上げ、ぐるぐると回しながら男とおれめがけて投げつけてきた。
「うわわわわ!」
顔面に尋常ではない勢いで飛んできた桶をぎりぎり刀で防ぐ。男は刀で受け止めることもなく、目を鋭くさせながら見切っていた。避けながらも距離を詰め、薙ぐように振り抜かれたひげを、男は充満する湯気ごと一閃した。白く曇った浴場に、煌めきが散り、剣閃が幾筋か閃いた。あまりにもなめらかに千切れ飛んだひげが、びちびちと床で跳ねている。蜥蜴の尻尾のようだった。
どんどんと跳ねながら暴れ回る大鯰へ、男は駆けた。大鯰はひげと同じく異常に伸縮する尾を激しく振り回し、男を弾き飛ばそうとするも、尾の先端を勢いよく細刀で捌かれ、激しく身を震わせて転がった。どうやら痛みに弱い質らしく、釣り上げられた魚のように身悶えた。ずん、と建物全体が戦慄き、揺れる。
ばしゃばしゃと湯を撒き散らして、大鯰は桶や客たちが忘れていったぬか袋を巻き上げて、浴場の床を滑るように移動し、男に突進する。男はそれを横へ跳んで躱し、ばたばたと泳ぐように動く鰭に、容赦なく斬撃を食らわせた。
「■■■■■……!」
鯰が鳴いた。鯰って鳴くんだ。わんわんと轟音に近い咆哮が浴場に響き渡り、耳が悲鳴を上げる。怯むことなく男が二撃、三撃と刀傷を負わせていくが、一際大きく膨れた巨躯に、咄嗟に後ろへ跳んだ。
妖畏の平たい大口から、どでかい水泡が吐き散らされた。
べちゃべちゃと床に散らばって弾けたそれは、あまりにも強烈な獣香を放っている。吐きそうになるくらいの激臭に、おれは鼻と口を押さえた。粘性のある黄ばんだ水泡は、おそらく、足止めのために吐き出された痰のようなものだ。男もさすがに歯噛みして臭いに耐えていた。
すかさず大鯰が転がって距離をとった。千切れた尾の断面が盛り上がり、ゆっくりと元の姿へと戻っていく。忌々しげに男は顔を顰めて、すぐに駆けた。
来るなとばかりに無茶苦茶に振るわれるひげを避け、斬り飛ばし、男は巨躯を目指す。三本のひげを失った大鯰が、残された一本のひげで桶を引っ掴み、勢いよく投擲した。
足元の粘液と、迫り来る桶を避け、だん、と男が床を強く蹴る。と、そのとき。
ずる、と男の足が滑った。洗い流されることのなかった、ぬか袋から出た洗料か。男はこれには動揺したらしく、大きく目を瞠り、そして。
ごん、と音がした。
桶だ。飛んできた桶が、男の顔面に直撃したのだ。うまいこと嵌まったらしく、頭に桶を被ったまま、男は硬直した。
びちゃびちゃと妖畏が水滴を飛ばしてのたうち回り、反撃に転じるかと思いきや、己の傷の痛みを癒やすことを優先した。これ幸いとばかりに傷が畏気によって縫い合わされていく。その熱い飛沫を浴びながら、男はようやく桶を掴んだ。
男はゆっくりと桶を外した。前髪の隙間から覗く瞳に、おれは口の端がひくりと痙攣するのを感じた。
誰だって、一目でわかる。
滅茶苦茶怒っている。
今にも目が血走りそうなくらい、見開かれた金の瞳は苛烈な怒りを滲ませていた。
その男の鼻から、つう、と赤が一筋垂れていく。鼻血だ。強かに桶の底に鼻を打ちつけたらしかった。男は唇を伝って口に入った鼻血を唾とともに吐き捨て、掴んでいた桶を思い切り床に叩きつけた。がん、と何度か床を跳ね、半壊して隅に転がっていく桶をそのままに、男は腕で乱暴に鼻血を拭い、ゆっくりと歩き出した。
投擲された桶を紙一重で避け、男は力強く刀を握り直すと、真上から迫るひげを両断し、一気に詰め寄った。再び大きく妖畏が口を開くが、もう遅い。
男の斬撃は、大鯰の額から下顎までを裂いていた。
そこからはもう、蹂躙だった。いったい、あの大鯰を何枚におろす気なんだろう。妖畏の刺身があっちこっちに飛んでいく。断末魔の叫びが浴場に轟いた。撒き散らされた血がじわじわと足元にまで流れてきて、おれはただ、激臭漂う浴場で、呆然と戦いが終わるのを見届けた。
なんでかな。
おれ、体を洗いに来たんだけど。
衣棚に戻り、刀を鞘へと押し込んだ男が、立ち尽くすだけのおれを横目で睨んだ。うん。なんでここにいる? みたいなことを思っている目だ。おれもそう思う。
男は傾いた衣棚を勝手にごそごそと探り、まだ使われていない手ぬぐいを引きずり出した。体中に飛び散った湯や血を乱暴に拭う男に、はっと慌てて向き直る。
「兄ちゃん、あの」
男が手を止めておれを見据えた。さっきは思い切り鼻から血が流れていたが、驚くことに、鼻血どころか打撲の赤みさえ綺麗に消えていた。その代わり、その剣呑な目には桶をぶつけられた怒りの名残りがある。あの程度の解体では怒りはおさまらなかったのだろう。
ひく、と喉が竦んだが、言わなきゃならんと口を動かした。この男はあのとき、異変を察知して、すぐにおれに逃げるよう伝えてくれたのだ。
「いや、その、助かった」
男は目を逸らさない。聞いてくれているのだとわかった。ちょっとばかり眼光の圧が凄いが、やはり根っからの悪では、ないのかもしれない。これまでおれは一方的にじろじろと男を盗み見てきた。刀をぞんざいに扱うような乱暴者で、自己中心的で、鬼っ子を虐める男だと決めつけてきたが、改めよう。
「その、いつも大衆食堂に来るだろう。おれァ、あそこの常連で」
つい、礼だけでは留まらず、口が勝手に喋り続けた。あそこの天麩羅蕎麦、美味いよな、なんて。男はふと考えを巡らすように眉を寄せたが、ああ、と合点がいったようだった。そう、そこの大衆食堂だ。おまえさん、いつも同じ蕎麦しか食わねえよな。お気に入りなんだろうな。軽く二人前を平らげていたのを思い出す。
「と、とにかく、ありがとう。あんたのおかげで、助かった」
しばらくこの大衆浴場には来られない。亀裂の走った床や壁。ほとんど壊れてしまった浴場。それでも死者は出なかった。なんだかどっと疲れたが、まあ、いい。
「おれ、季之助ってんだ。まあ、また会ったら……いや、また会うと思う。そんときゃ、その、よろしく頼むよ」
男は名乗らない。名乗れないのだとわかっていた。首の巻き木綿が戦いのなかで緩み、その下から凄惨な赤い傷が覗いていた。過去になにがあったかは知らないが、今、この男の傍らには、あの鬼っ子がついている。最近は見かけないが元気だろうか。今度会えたら、話しかけてみようか。それで、そのときに、この男の名前を教えてもらおう。
そんなことを考えて、ふと、思う。
こういう話、服着てからしたほうがいいな。