咆哮回帰


 峠を越えた先の水茶屋は、旅人や用心棒、ワクラバのように依頼を受けた妖畏狩りたちで賑わっていた。

 すでに妖畏討伐の任を果たしたワクラバとタキは、行き交う人々の談笑や山林のさざめきを聞きながら、湯茶で喉を潤していた。とうに食事を終えた百鬼歯は、朱鞘にすっぽりとおさまり眠りについているし、歩き詰めだったタキも、ようやく足を休められたと気を緩めきっている。約定の外であるにもかかわらず、ここにいるほとんどの者が寛いでいるようだった。

 そんななか、ワクラバはヒリヒリとした様相を帯びていた。しかし、それは周りに対する警戒心ではなく、過ぎ去った戦いの余韻に浸っているに過ぎない。

 山を超えた先の街で、ワクラバは一体の妖畏と対峙し、百鬼歯で斬り伏せていた。それが今回の遠征の目的であった。報酬の銭はいつものごとくタキに管理を押しつけ、今は彼女の荷袋の底に沈んでいる。

 斬った余韻は、なくなるどころかじわじわと膨れ上がっていた。討伐した妖畏は、珍しく人の姿をしていた。

 多くの妖畏を斬ってきたワクラバでも、今回の仕事含め、人型の妖畏は二体しか見たことがない。そして、斬ったのはこれが初めてである。

 あとから百鬼歯から聞いた話だが、攫われたタキを追った先で待ち構えていた瓦将という人型妖畏は、あくまで致命傷を負った万尾玄流斎からワクラバを引き離すために立ち塞がっただけのようだった。それを知り、ひどく苛立ったのを思い出す。だいたい、攻撃の手段を持たないタキだけ呼び出したいのであれば、最初から言えばいいのだ。そう伝えたときの百鬼歯の疑いのまなざしに、ワクラバはなにも返さなかったが、確かに今となっては信用できないとわかる。己の手の届かぬところで妖畏と話をしているタキを許せるはずがなかった。

 あのときタキではなくワクラバが呼び出されていたら、そのままこれ幸いと契約ごと妖畏の長を切り刻んでいたのではないか。百鬼歯の懸念は的中し、だからこそ今もこの忌々しい契約は結ばれたままなのだろう。では、契約を断っていたら、己はタキを離していただろうか。ただ己の声の代わりとして伴っている女だ。声を取り戻した己は、二本角を抱えたままのタキをどうしていただろうか。

 掌がまだ熱を持っていた。ワクラバは目を眇めた。今日、人の容の妖畏を斬った。懐かしい感触だった。嫌な記憶と、それ以外の仄暗い感情が浮かんでは消えた。ワクラバは舌打ちした。なぜだか、もどかしさがあった。縛りつけられているみたいに。

 とにかく思考がまとまらなかった。次々と現れる姿に思いを馳せていた。人の姿。タキ。声。契約。斬れなかった妖畏。たった一つの余韻が多くを引き連れて、ワクラバのなかを流れていく。

 そうしているうちに一息ついていた客たちが去っていく。タキはワクラバをちらちらと窺いつつも、動こうとしないことを知り、湯茶を飲み干したあとも黙って座っていた。 

 そんな穏やかな静寂へ、一つの足音が踏み入った。

 笠を被り、簔を背負った男だった。いかにも旅人といった風采だ。それに見覚えがあった。確か、前にタキを抱えながら向かった村、そして人型妖畏を討伐した街でこの姿を見かけた。

 蓑笠の男はのしのしと迷いなく進み、そしてワクラバとタキの後ろに腰掛けた。一つの床几に、ワクラバと男は背を向け合うように座っていた。かちゃかちゃと鳴る金具の音に、ワクラバは神経を尖らせた。その警戒が伝播したか、百鬼歯が目を覚ました。

 そんな異変に気づかぬまま、タキが唐突に立ち上がった。ぱたぱたと黒い裳を叩いて汚れを軽く落とし、店主の元へ歩み寄り、銭を渡した。片付けで手一杯だった店主が礼を言う。タキはすぐにワクラバの元へ戻ったが、その剣呑な表情と、纏う気配が変わったことに気づき、小首を傾げた。

「ワクラバ……?」

 ワクラバが念を送る前に、背後の男が反応した。

「病葉……か」

 そう囁いた。ほとんど独り言のようで、実際はワクラバへ話しかけていることがわかった。肌がひりつくような声だった。

 ワクラバはタキに目配せした。念は放たなかった。すべての音を聞き逃すまいと耳を澄ました。朱塗りの鞘に手をかけていた。

「葎だ。教えておいてやる」

 男の名だとわかった。聞き覚えはなかった。そして、淡々とした声音に潜む感情にワクラバは気づいていた。

「抱えたまま冥土で詫びろ」

 言い終わる前に刃は放たれていた。不意打ちというにはあまりにもお粗末な、それでいて非常に重い攻撃を、ワクラバは百鬼歯の鞘で受け止めた。

 刀と鞘がぶつかり合い、その衝撃に葎と名乗った男が声を上げて笑った。一撃で仕留める気がないのはわかっていた。隠し持った刀を鳴らしてワクラバを挑発するような男だ。だからこそ言葉尻に獰猛さを滲ませてワクラバを警戒させたのだろう。笠に隠れて葎の顔のほとんどは見えなかったが、口元が喜悦で吊り上がっているのが見えた。獰猛な笑みであった。

 タキはすでに離れている。水茶屋の裏に周り、山林に逃げ込んでいた。それを葎はワクラバに襲いかかりながらも横目で捉えていた。ワクラバは舌打ちした。どちらともなく離れ、そして動いていた。葎が再び刃を振るった。ワクラバが鞘で刃を弾いて蹴りを繰り出すも、葎は軽く避けて一撃、二撃と刃を閃かせる。ワクラバはそれらを見切って躱しながら、徐々に水茶屋から離れた。

 勢いよく空を切って放たれる斬撃を身を捻って避け、首を打ち抜くつもりで納刀されたままの百鬼歯を振りかぶったが、葎の刀がそれを受け止めた。そのまま刃によって朱鞘を押し込まれた。葎が鼻で笑った。

「見た目ばかりの飾り刀じゃねえか。どこでそいつを拾った?」

 ワクラバの背後に回っていた百鬼歯が、葎の罵言に眉根を寄せて不愉快を露わにした。それでも妖畏を前にするときとは違い、どこか冷めた目で男を睨んでいる。相手が人である以上、百鬼歯は己の刀身を晒さない。顎を頑なに閉ざしたままだ。

 いつ恨みを買ったのか。男の纏う狂気と獣性が押し寄せる。なにかが引っかかっていた。途端に鼓動が強く暴れてワクラバを急き立てた。

「誰を踏み躙って奪った代物だ?」

 笠の下で酷薄な笑みが敷かれた。殺意がどっと押し寄せた。すぐさまワクラバは反応して間合いを取ったが、葎のほうが速かった。振り上げられた穂先に右肩を斬られていた。浅い。あえてだとわかった。ワクラバは歯噛みして鋭く葎を睨みつけた。その眼光を受けて葎がさらに満足げに笑んだ。

「抜けよ、用心棒!」

 そう葎が吠えた。その叫びは辺りに響き渡り、対峙するワクラバの全身を強く叩いた。鼻筋を横一文字に抉った古傷が、引き攣った痛みを発した。ワクラバの胸の奥底を呼び起こすかのような痛みだった。ワクラバは一瞬、思考を掻き乱された。

 戻れと誰かの声がする。生と死の間で藻掻く狂気の声が揺曳している。草履はあれから履かなくなった。狩れば狩るほど満たされない。斬り捨てるたびに泥濘に嵌まっていく感覚に陥った。そのくせ、時折ふっと燃えさしが熱を取り戻してワクラバを駆り立てる。

 再び豪剣が降りかかった。首ではなく頭部、おそらくは顔を狙った一撃だ。姿勢を低くし踏み込むことでその軌道上から逃れたワクラバは葎へと百鬼歯を奔らせた。

 葎は身を反らし、後方へ一回転して距離を取った。その瞬間、笠で翳っていた葎の顔面が日の下に晒された。

 顔面に斜めに走る刀傷に、ワクラバは釘付けになった。冷え冷えとしたままの百鬼歯を置き去りに、ワクラバの右掌が熱を帯びた。その愕然とした面に喜悦を覚えたか、葎が見せつけるように笠を放り投げた。古傷を歪ませて、葎が問う。

「使えねえのか」

 どくりと鼓動が強く跳ねた。ぐつぐつとした熱いものを伴って、ワクラバの胸を内側から叩いた。

「なら、そいつでも試し斬りしてやろうか」

(――こいつ……!)

 確信した。ワクラバの双眸が瞠られ、そしてすぐさま炯々たる眼光で葎を射貫いた。

 怒濤に押し寄せた感情がワクラバを荒れ狂わせた。もはやそれがなんなのか、一言で言い表すことなど不可能だった。嫌悪。後悔。焦燥。怨恨。郷愁。憤怒。恐怖。奮起。そのどれもが当てはまり、どれもが違うような情動の群れ。ワクラバの動きを乱すには、充分すぎるものだった。

「っはは、まさか本当に抜けんのか!」

 ゆえに反応が遅れた。哄笑とともに放たれた刃が、ワクラバの脇腹を撫で切りにした。浅手である。すぐさまワクラバは鞘を構えた。傷口を押さえる間もなく二撃目が来た。

 抜刀を封じられたワクラバを嘲笑うかのように、葎の猛攻が続いた。甲高い刃音と衝撃が鞘に容赦なく降り注ぐ。刀で応戦できない今、せめてその刃を削ろうと矢継ぎ早に繰り出される攻撃の尽くを鞘で打ち返していた。それを知った上で、葎はさらに剣撃を駆け巡らせた。

 ワクラバは鋭く舌打ちした。真っ向から打ち合ってもなお、刀が折れることを微塵も恐れない男の獣性に完全に押されていた。葎に絶対の信頼を寄せられた刀は、鋭さを損なうことはなく、むしろ振るわれ、交わるたびに研ぎ澄まされていくようだった。ワクラバのなかで猛火がのたうち回った。

 逃げるか。こいつは人だ。逃げる。なにから。もう斬られていた。どこへ。あの女は逃げ果せただろうか。追え。なにを。戻れ。どうして。斬れない。獣性を帯びているのに。斬る。邪魔をされなかったではないか。だから死んだのだ。生きている。生かされた。取り逃した。殺してやらないと。また会えた。まともじゃない。逃げなければ。あのときは逃げられたのに。戻らなければ。主が呼んでいる。どこで。遠く聞こえる。もういない。任は解かれた。うまく動けない。声が出ない。喉が燃えている。どこへいった。逃げたのか。守らなければ。また声を失うのか。戻ってきた。斬り零しだ。とどめを。どうやって。刀はどこだ。百鬼歯では斬れない。なぜだ。刀を。獣がいる。追い詰めなければ。戻れ。今まさに追い詰められているのは、誰だ?

 空を切る音。視界の隅で煌めいた光は、一瞬で己の首元に迫っていた。鋭い一閃を屈んで避け、そのまま足払いをかけるも、その動きを読み取っていた葎が飛び退さって間合いをとった。ひどく苛立っていた。

「あの鬼が新たな主か。そいつが気がかりか?」

 葎が唾を吐き棄てた。まぎれもない憎悪が、ワクラバを通して、ここから逃げ果せたはずのタキを見据えていた。ワクラバの顔を激昂が塗り潰した。

「ならば殺す。そうすれば貴様も心置きなく戦えるだろうよ」

 刹那、葎が踵を返して戦いの場から離脱した。向かう先などわかりきっていた。今まさに明言したのだ。木綿に巻かれた葎の掌が、確固とした殺意を込めて刀を握り直した。その強烈な思いを受けて、刃がぎらぎらとした光を反射し、ワクラバを挑発する。タキが逃げ込んだ林のなかへ、葎が乗り込んだ。

 すでにワクラバは葎を追っていた。そして、走りながらも、ワクラバは胸の内をぐちゃぐちゃに掻き回す熱に苛まれていた。強烈な殺意が炸裂したが、それを押し止めるかのようになにかが縺れ合い、大きな炎の渦を生んだ。うまく動けない。息苦しくてたまらない。掌のなかの百鬼歯は冷え切っていた。強く握ることで身を焼く炎を和らげた。

 葎はもはやワクラバに目もくれなかった。ワクラバに執着するがゆえに、一心不乱にタキの元へ駆けていく。あまりにも迷いがない動きだ。ワクラバは、葎が足跡を追っているのがわかった。人間離れした鋭敏さで、わずかな痕跡を瞬時に見抜いていた。

 その背を追うワクラバに、唐突に葎が振り返った。振り向きざまに剣閃が繰り出されたが、不意打ちを見切ったワクラバは身を沈めて躱し、そして仕掛けた。

 強く踏み込み、葎の土手っ腹を百鬼歯で打ち抜いた。鞘がめり込む衝撃に葎の体勢が崩れる。瞬時に背後に回っていたワクラバは、無防備な首に渾身の力を込めて手刀を叩き込んでいた。葎が大きく蹌踉めく。それでも強靱な敵意と執着心によって踏ん張り、刀を構えようとした。だが、ワクラバのほうが速かった。額をかち割るつもりで百鬼歯を突き出していた。葎がふらつきながらも避けようと身を引いたが、逃れることはできなかった。百鬼歯の鐺は葎の目を叩き潰していた。

 脳をも貫くような痛みに呻き、ついに倒れた葎の向こう側で、茂みが大きく動いたのをワクラバは見た。茅色の羽織が翻り、土草を踏む音が耳に届いた。

 まぎれもなく葎が追い求めていた獲物であった。葎とワクラバはタキに追いついたのだ。

(走れ!)

 怒鳴りつけるような念が迸った。その念がタキの背を突き飛ばした。タキが震え上がるも、すぐさま振り返りもせずに懸命に走った。足場の悪いなかを全速力で駆け抜けていく。

 激痛に貫かれながら葎はその足音を捉えていた。その痛みを掻き消さんとばかりに剣撃を放ったが、揺れ動く視界が葎を翻弄していた。無事な片目もワクラバと百鬼歯による痛打により狙いが定められない。それゆえにでたらめな攻撃を繰り返した。滅茶苦茶な角度から恐ろしいほどの速度で刃が奔り回る。軌道など読めるわけもなかった。葎がまだ痛みに支配されているうちに、ワクラバは振り撒かれる刃の雨から離れることを選んだ。

 すぐにタキに追いついた。安堵とも恐怖とも取れる顔でタキがワクラバを見た。念や言葉を交わす暇などなかった。ワクラバはタキの手を強く引いて逃走した。蹌踉めきながら葎が二人の足音を辿った。

 木深い林を突き進む。ワクラバの速度に追いつけなくなりつつも、タキが息を荒らげながら駆け走る。葎の姿はなかった。だが追ってきているはずだ。諦めるわけがない。そうわかった。諦めるはずがないのだ。ワクラバは奥まった場所に追い込まれていることを知った。懐かしい血の匂いが蘇る。過去の光景や感情が去来する。飲み込まれそうだった。それを振り払うかのように走るしかなかった。

 しばらくして、タキの足が縺れた。転びそうになった細い体をワクラバは咄嗟に支えた。引き攣った呼吸によって肩が大きく上下している。タキはもう限界だった。

 抱えて逃げるか。身を隠すか。隠せるほどの木々の叢立ちである。ここで立て直せるか。その考えを切り裂く獰猛な刃音が、二人の耳を打った。速い。すぐさまワクラバはタキとともに木の陰に身を潜めた。獲物を追い求めて獣がやってきた。そして吼えた。

「出てこいっ! 刀もろとも、てめえの頭を叩き割ってやる!」

 恐ろしいことに、痛みなど微塵も感じていないような声だった。ワクラバは歯噛みする。急所のはずだ。怒りが痛みを上回ったか。それとも急いたせいで浅かったか。

 同じく身を隠したタキが慄然として震えた。かちかちと鳴りそうな歯を懸命に噛み締め、吐息すら洩らすまいと両手で口を塞いだ。もはや呼吸すら拒絶しようとしている。まぎれもなく、そうすることでタキだけでなくワクラバの命を繋ごうとしていた。

「その前に、あの女だ!」

 はっとタキが目を瞠った。血の気を失った肌を冷や汗が伝った。その細身を隠して、ワクラバは意識を研ぎ澄まし、そして気配を殺した。もはやこれ以上の身動ぎは許されていなかった。殺意に満ちた静寂の狩り場に二人は取り込まれていた。

 葎はなおも叫んだ。悠然と林を突き進んでいき、ときに残忍さを振り撒くように斬り開いた。その野蛮さに恐れをなしたか、鳥や木々、そして風に至るまで、すべてが無へと静まりかえっている。ワクラバを誘い出そうと怒号を放つ葎へ、すべてが頭を垂れて道を譲るかのようだった。

「おまえの目の前で、あの女の喉を掻っ捌いて、妖畏の餌にしてやる!」

 喉。餌。その言葉にワクラバは血が沸騰したかのような怒りを覚えた。刹那、凶暴な刃が唸りを上げてワクラバの背後の木の肌を抉り取っていた。紙一重で躱して飛び退いていたワクラバは、そのままタキを勢いよく突き飛ばした。次の瞬間には百鬼歯の鞘で葎の刀を迎え撃っている。鋼のこすれる音が耳を劈いた。なんという執念深さか。恐るべき嗅覚でワクラバの焦げつきに反応し、強烈な一撃を見舞ったのだ。飢えた獣の凶猛さがワクラバに襲いかかっていた。

 ワクラバは強い焦りを抱いた。膂力に押し負けている。その腕に握られ猛威を振るう刀も、斬鉄を可能にする一品か。百鬼歯の鞘でなければ、今ごろ己の体は鋼もろとも両断されていたのではないか。そんな恐れが生じた。それすらも嗅ぎ取ったのか、葎はさらに踏み込んだ。ワクラバはほとんど押し倒される形になった。

 刃によってワクラバを組み敷いた葎が熱い息を吐いた。ワクラバは瞠目した。叩き潰したはずの葎の目は、まるでなにもなかったかのように元に戻っていた。むしろ、先ほどよりも嗜虐性を帯び、恐ろしいまでの鋭利さでワクラバを突き刺している。そして、鼻孔に届いた獣香に、ワクラバは愕然とした。

 刀も視線も弾き返すことはできなかった。わずかに力を抜き、そのまま押し込まれた刃をいなした。左肩口を裂かれながらも素早く身を起こし、葎の間合いから抜け出した。

「鞘だけは立派だな」

 葎が言った。百鬼歯の鞘の堅牢さに目を瞠りつつも、唇を吊り上げた。その口の端から溢れ出るのは、ワクラバと同じ生命の奔流である。

「ただ、それだけだ。そいつは主を守ることを放棄していやがる。かつての貴様と同じだ。ざまあないな、用心棒!」

 万尾玄流斎と契約したワクラバと同じように、葎の肉体は畏気を抱えていた。まさか、片割れの長からの賜り物か。同じ立場にいるのか。そんなワクラバの思考を読んだのかはわからないが、葎は強く訂正した。同じであるはずがない、と。

「おれのほうが強い。おまえよりも、上の階に立っているぞ」

 刃が迫っていた。縦横無尽に駆け回る凶暴な輝きは、避け損なったワクラバの体を斬り裂いていく。葎はこの状況をひどく愉しんでいた。その狂乱に満ちた笑みにあてられたか、ワクラバは再び胸のざわめきで心を掻き乱された。

 ぢりぢりと燻り、ときに業火と化して荒れ狂う、この感覚はなんなのだ。暴れ回る鼓動と、葎の歓喜と憎悪が、ワクラバを揺さぶってくる。

「刀に見放された剣士が、この世に二人といるものかよ!」

 ワクラバは徐々に追い込まれていた。避けるごとに後退を続けていた。狩り場に来た時点ですでに、ワクラバとタキは逃げ場を失っていたのだ。二人を脅かすように吹いた風に、後方へ逃げていたタキが小さな悲鳴を上げた。その先に地面がなかった。崖端に追い込まれることは死を意味した。なんとしても踏み止まり、道を開く必要があった。

「刀も振るえぬ手など不要だろう! 貴様よりも綺麗に斬り落としてやる!」

 その咆哮にワクラバはようやく思い出す。あまりにも堂々と刀を扱う腕に、今に至るまで疑問さえ抱けなかった。

 己は、顔を斬られたあとに、その手を怒りにまかせて断ち斬っていなかったか。斬り落とした手首をそのままに、暁國に手を引かれて夜の林を抜けたのではなかったか。

 ――では、この手は、なんだ?

 すぐにわかった。荒々しさを増す葎の動きに耐えきれなくなったか、それとも体内から溢れ出る畏気によって押し上げられたか、葎の手を縛りつけていた木綿の帯が、ふつりとほどけた。

 その下から、白い毛に覆われた人とも獣ともつかぬ五指を生やした手が現れた。

「無幽っ! 奴め、こんなケダモノに畏気を食ませたか!」

 百鬼歯が激昂して熱を孕んだ。妖畏の長の片割れ。道を踏み外した恐れの獣。タキに角を押しつけ逃げ果せた、ワクラバの討伐対象。せっかく手を斬り落としてやったのに、そんなものに新たな手をもらい受け、ワクラバを獲物として執拗に狙う葎。抑え込まれていたワクラバの苛烈な殺意がついに爆発し、ワクラバを縫い止めていた感情や感覚すべてを弾き飛ばしていった。なにもかもが許せなかった。かつての獲物に追い込まれ、狩られようとしている。こいつはおれの獲物であるというのに!

(殺してやる……!)

 鋼のような意志は急速に研がれて念となった。葎に対して斬りつけるように放っていた。

 ワクラバの金の瞳と、葎の奈落の底のような黒い目がかち合う。葎の目が一瞬だけ見開かれたが、すぐに奇妙に弧を描いて細まった。

「やってみせろ」

 葎が返事をした。

 すぐさま刃が唸りを上げて迫った。苛烈な斬撃を繰り出す葎の髪が宙を踊る。そのとき、葎のこめかみが露わになった。先ほどまでなにもなかったはずのそこから、ひっそりと小さな黒い双角が生えている。それに気を取られた。容赦なく見舞われた斬撃を辛うじて凌いだが、ほとんどほどけた木綿の帯が、一瞬だけワクラバの視界を奪った。その隙間から、ぎらりと刀とは違う煌めきが覗いた。

「避けろ!」

 百鬼歯の叱責が飛んだ。それと同時にワクラバの顔面めがけて飛び込んでくるものがあった。視界いっぱいに広がる鋼の色。あの豪剣の鐺であると認識した瞬間、ワクラバの右の視界が爆ぜた。

 そのまま突き込まれた。瞼がひしゃげた。強烈な痛みが炸裂したが、ワクラバは咄嗟に身を引いた。もはや手遅れであった。葎によって勢いよく刀の鞘が振り抜かれた。先ほど葎に放った攻撃を、それを上回る剛力によって返されたのだとわかったのに、かなりの時間を要した。ワクラバは、脳が飛び散ったような衝撃に全身を貫かれていた。

 叩き潰された金眼は濁り、もはや眼球としての形を保たない。左の目とはまるで違う、真っ赤なのか真っ黒なのかもわからないぐちゃぐちゃの景色を突きつけられ、たまらずワクラバの体が傾いだ。睫毛に血の滴が溜まり、弾けて割れた。涙のようにぼたぼたと流れ、飛び散って頬を汚した。それとは別に、ワクラバの肌を汚すものがあった。噴出した。遅れて凄絶な痛みが迸った。

 左肩から肘までの肉が、ごっそりと削り取られていた。羽織も襯衣も断ち斬られ、その隙間から真っ赤な血で汚れた骨が剥き出しになっている。ワクラバはついに倒れ伏した。

 とどめの一撃が飛んでくるかと思われたが、葎は刃を下げて駆けた。焦燥感がワクラバを蹴り起こした。激痛の嵐が吹き荒ぶなかで、ワクラバは歯を食い縛って地を蹴った。走るたびに穿たれた眼窩がぐちゅぐちゅと掻き回すような音を立てる。役に立たなくなった右目に変わり、左目ははっきりと葎の背を捉えていた。

 葎が一直線に向かう先に、あまりにも非力な女がいる。

 まさに崖っぷちであった。逃げ場を失い、目の前でワクラバが切り刻まれるさまを見せつけられたタキが愕然と立ち尽くしていた。もはや指一本動かせない状況に追い込まれていた。引き攣った呼吸しかできないタキの様子に、ワクラバの思考が真っ赤に染まった。対する葎は、ワクラバとの戦いのときとは打って変わって、あまりにも凪いだ様相で刃を振るった。

 タキに凶刃が届くその寸前、ワクラバが間に割って入った。受け身のことなどなにも考えられなかった。衝撃はすぐに来た。背中に一閃を食らいながら、タキを右腕で抱き留めた。踏み止まることは不可能だった。そのための地面はもうどこにもなかった。勢いそのままに、ワクラバとタキの体は宙に放り出された。道を塞がれた二人にとって、逃げ場はここしかなかった。それでいて、あまりにも無謀な自殺行為でしかなかった。 

 ワクラバとタキは真っ逆さまに崖から転落した。強い風圧が肌を殴った。狼煙のように血が舞い上がる。左腕は動かなかった。まだ腕があるのかすらわからなくなっていた。

 右手で百鬼歯をきつく握り締め、その腕でタキを抱いたまま、霧がかった深い森のなかへワクラバの体は落ちていった。

 

 呼吸すらも置き去りにするように、葎は闇のなかを逃げ惑っていた。

 月明かりが徐々に厚い雲に覆われ、駆け走る葎を嘲笑うかのように暗がりで飲み込もうとしている。焼けつく痛みと熱、そして背筋から零れ落ちていく鋭い寒気に葎は蝕まれていた。いずれ己の意識すらこの纏わりつく闇に溶けてなくなってしまう気がしてならない。事実、葎は走るたびに断たれた手首の先から生命力を次々と失っていった。

 ふいに、脳裏にこれまで見てきた視界が蘇った。土砂崩れで村を失い、死に物狂いで山を彷徨い、辿り着いた町では盗みを働き、飢えを凌いだ。働こうにもどうすればいいかもわからず、ただ日中は日陰に隠れるようにして、皆が寝静まった夜に活動するような生活をしていた。何度かとっ捕まり痛い目に遭ったこともあったが、うまく逃げ果せて各地を転々としていた。

 刀を盗んだのは金になると思ったからだ。盗みはするものの、誰かを殺してまで奪いたいという気概など葎は持ち合わせていなかった。当然、力の象徴たる鉄の塊を振るう気にはならなかった。それでも、なぜか手放すには惜しいという感情が芽生えた。ひょろひょろとした己の痩躯を、しっかりとその重みで支えられているかのような安心感があった。生きるための強さをくれる。そう感じた。結局、手放すこともできず、そして使うこともなく、刀をお守りとして腰に差すようになった。

 しばらくして、似たような境遇の仲間と巡り逢った。二人の男だった。山火事の影響で里を失った男たちは、使わぬ刀に縋りながら生きていた葎を受け入れた。

 彼らに誘われたのはその三日後である。野盗として、三人で金を奪おうという話が上がったのだ。刀を持って脅せばなんとかなる、だめなら逃げるか、殺してしまうしかない。計画性もなにもない思いつきであり、葎の心は抵抗を示した。それでもようやく手に入れた居場所を失うことが恐ろしく、二人についていってしまった。

 それが惨劇を生んだ。

 自業自得だ。己が悪い。戦うための力もないのに、中途半端に重みを携え、そのくせ流れに身を任せた結果がこれだ。命は自分で抱えるべきものだった。選択を他人に委ねてはならなかった。獣のように追い詰めてきた男の顔を斬った感覚がまだ残っていた。それを失うとき、自分はどこにもいなくなるように死ぬのだと悟った。次の瞬間、盛大に弾けるものがあった。生きたいという願いは形を変えて膨張し、葎のなかで破裂した。どろどろに溜められていた意志が、体中を一気に浸食した。

 ――殺してやる。

 強靱な憎悪と闘争心である。あのケダモノを殺してやる。なにがなんでも。どんな目に遭おうとも。絶対に。そのためには力が必要だった。生きるための、人を殺すための力が。

 ついに足が縺れて、葎は地面に打ち捨てられるかのように転がった。

 意識が混濁しかけた。霞んで消えゆく景色が恐ろしくてたまらなかった。死にたくない。死んでたまるか。殺してやる。殺さなくては。強い決意すら容赦なく削られていく。頭の先が痺れ、白み始めた。終われない。終わるものかよ。思いとは裏腹に体が言うことを聞かない。白い闇のなかに囚われた、そのとき。

(生きたいか)

 荘厳な響きに全身が総毛立った。薄らいでいた体の感覚が、それで一気に目が覚めて、鮮明になった。白い闇が嗤ったのがわかった。

(死にたくなければ命をやろう。生きるための力をやろう)

 あまりにも唐突で、あまりにも都合のいい言葉である。果たして、葎はそれに縋った。なんでもいい。死にたくない。なにがなんでも生き抜いてやる。意志が業火を纏って葎の冷え切った体をあたためた。鼓動が高鳴った。葎は、切れそうな命の糸を手繰るように、強く掴んだ。

 視界が開けた。倒れ伏した己の先に、刀が落ちていた。男の顔を斬りつけた刀だ。それを己の右手がしっかりと握っていた。獣とも人とも言えぬ、白い毛に覆われた手があった。境目は繋ぎ合わされ、鋭い五指は葎の思うままに動いていた。

 黒い闇のなかを切り裂くように、なにかが通った。見やれば、禍々しさすら帯びた純白の尾を揺らした山犬がいた。月明かりのない林のなかで、輝きを纏って葎を見据えている。獣の顔がしっかりと笑みの形に歪むのを、葎は見た。

(契約を結んだ。悦べ、汝はこの無幽天留斎の力を食んだのだぞ)

 蜜のような甘さと腥さが押し寄せた。ビリビリと肌が粟立ち、葎は声一つ洩らせない。

 ――妖畏だ。いや、違う。この妖畏はそこらの妖畏よりも、うんと上の階にいる……。

(足りなければ欲せ。わたしがいくらでもくれてやろう。その容を保ち、生きろ)

 生ぬるい風が吹いた。葎が瞬きをしたその刹那、妖畏の長の姿はどこにもなかった。ただ、いんいんと残る響きが葎の心を掴んでいた。その響きすらも包むように、殺意と狂気の炎が命を滾らせるように燃え続けていた。

 

 泥のなかにいる、と思った。

 己の視界に映るものは黒と赤が混じり合った、どろどろに蕩けた闇である。それが瞼の裏の色なのか、それとも目を開いて見ている景色なのかすら、ワクラバには把握できない。

 立っているのか。横たわっているのか。腕や足はついているのか。心臓は動いているのか。そもそも、肉体などとうに失っているのではないか。そんな疑念が次々と湧き出るほど、己の存在感や命の重みといったものがなに一つ感知できない。ただ、己が己であるという自我だけがワクラバを辛うじて保っていた。これが、いわゆる魂というもので、いずれこの心すらも薄れて思考など潰えてしまうのか。

 絡み合うように蠕動する泥が、ワクラバに押し寄せて取り込もうとしている。恐ろしいまでの静謐の空間だった。体という魂の容れ物の輪郭は、やはりとうに溶け落ちていたらしく、剥き出しの自我すらぼうっと闇に飲まれていくようだった。

(奪われ、る、のか)

 茫漠とした思考は恐怖を生んだ。どうして恐れを抱くのか。なぜ奪われてはならないのか。暗い感情がワクラバの記憶を駆け巡る。山のなか。人の声。妖畏の気配。呼び止められる。振り返ると熱い飛沫が顔面に降り注いだ。泥濘にひれ伏した、ぼろぼろの容が口を開く。

「■■■■?」

 千切れ飛びそうだった思考が、急速に鋭利さを取り戻し、ワクラバを追い立てた。奪われるなど、許せるわけがない。己は奪われてはならない。ワクラバは奪う側の人間でなければならない。恐怖は怒りへと転じた。その烈しさが生命を握り締めていた。

 轟と音を立てて燃え上がり、駆け巡るものが確かにあった。炎に打たれるたびに拡散していた五感が収束し、ワクラバを覚醒へと導いた。

 泥が掻き消え、次の瞬間、入り組んだ赤い枝葉が見えた。

 ワクラバは仰向けで倒れていた。しばらくして、呼吸の方法を思い出し、賢明に吸って、吐いた。ワクラバ自身ですらわかるほど、洩れた息は腥かった。

 なにが起きているのかわからない。記憶がなんらかの衝撃によって散らばっていた。唐突に放り出されたような心細さがあった。戸惑う心を包んでいる体は重く、それでいて、ぞっとするほど希薄になっている。果たして、ここにいるのは本当に己なのか。そんな疑問が芽生えた。容が崩れた肉体が空っぽになっていく恐怖が迫っていた。寒さが身を貫いていた。それをあたためるように、ワクラバにのしかかる形で、タキが気を失っていた。

 タキの羽織は枝に引っ掻かれたか、びりびりに破られていた。手足には大きな切り傷と、鋭い枝が突き刺さっている。下駄はどこかへ飛んでいったようで、剥き出しの足が投げ出されていた。彷徨っていた記憶がようやくワクラバの元へ集い、ようやく死と隣り合わせだった現実を思い出した。

 ぴたりと合わさった胸から、己とは違う鼓動を感じ、ワクラバはゆるく息を洩らした。時間をかけて吐ききった。そして、その背に片腕を回した。掌は百鬼歯をしっかりと握り締めていた。

 タキの背は小さく上下していた。生きている。間に合ったのだ。また声を失うところだった。それを回避できた。数多くを犠牲にして。それでも奇跡的としか言えなかった。

 ワクラバとタキは、あらゆる木々に引っかかり、こうして茂みに落下したらしい。打ちどころと落下地点が悪ければ妖畏の長との契約があろうと即死だった。まさか、憐れんだ木霊たちが救いの手を差し伸べたのか、それとも物言わぬ死体にこの地を汚されるのを嫌がり、仕方なく生かしたか。背中を濡らす血は、おそらく下敷きにした茂みの緑を真っ赤に塗り潰している。

 ワクラバは今まさに喪失感に襲われていた。とめどなく流れる血の感覚に、いったい己にはあとどれだけ命が残されているのかと、ぼんやりと考えた。そんなワクラバのすぐ傍に、ぱたぱたと滴が降り零れた。鮮やかな真紅の色をしていた。己の体がぶちまけた血だとすぐにわかった。

 再び頭上を見やる。広がる枝葉が赤に濡れている。目覚めたときに、一番最初に視界に飛び込んできた色だった。血の雨でも降ったのかと思えるほどの惨状は、つまり、今のワクラバの肉体がほとんど壊れていることを意味した。

 ワクラバの視界は半分しかなかった。右目はとうに闇へと葬られていた。左腕に関してはもはや痛みどころか感覚もない。肩から先がなくなっているとしか思えなかったが、残された左目を動かして見やれば、だらりとぶら下がっている腕があった。普段は包まれている中身が外気に触れていた。あまりにもなめらかな切り口である。骨すらも断たれていた。ワクラバは眉を顰めた。凄惨な有様だ。それゆえに現実感がなかった。そして、どこかでひどくぶつけたか、その指先があらぬ方向へと圧し折れているのが見てわかった。千切れ飛んでいたら、治るのに相当時間がかかっただろうな。どこか他人事のように、そう思った。

 ふと、脇腹に違和感を感じ、百鬼歯を置いて、タキと己の隙間に右手を這わせた。枝が己の腹を貫いている。タキの体には、その切っ先は届いていなかった。安堵感に包まれながら、どう引っこ抜こうかと考えたが、やめた。畏気によって治療する際、勝手に抜けるだろうと結論づけた。

 そんな諦めに近い感情に気づいた肉体が、ようやく慌てて命を吹き返そうと動いた。

 畏気が徐々に流れ込んでくる。痛みを引き連れながら体中を見て回っているようだった。折れた指や切り傷が無理矢理癒やされていく。背中の傷が内側から盛り上がり、肉同士が絡み合って縫合され始めた。奥歯を噛んだ。強い痛みが蘇った。左腕は千切れた断面が蠢きはするが、畏気の量が足りず、わずかに再生された皮膚が蚯蚓のようにのたうつだけである。

 その生命の必死な足掻きにあてられたか、ついにタキが目を覚ました。

 ぼんやりとした様子で身を捩り、現状を理解しないまま上体を起こして、すぐに弾かれたようにワクラバから身を引いた。勢いそのままにたたらを踏み、盛大に尻餅をついたが、タキの視線はワクラバから外されなかった。ひくひくと喉を引き攣らせ、身を震わせた。痛みに顔を顰めることもなかった。タキはずっと恐怖の渦のなかに囚われていた。

 泣き出しそうな顔だったが、やはりその瞳から滴が溢れることはなかった。泣かない女だったと思い出す。それが余計にタキを苦しめているようだった。タキは胸を押さえて、なにか言おうと口を開いたが、声が出てくることがなかった。肺腑をどす黒い波が覆ったのがわかった。

(声、は)

 タキが憔悴しきった顔でワクラバを見た。今にも死んでしまいそうなくらい蒼白な肌をしていた。それが腹立たしかった。ワクラバは凄むように念を放った。

(潰れた、のか。どこで、やられた。いつだ)

 問いただしていた。タキは弁明するように口を開くが、やはり乾いた息しか出てこない。頭を振り、己の喉に手をやり、タキがひゅうひゅうと呼吸を繰り返した。それを見たワクラバのなかで、ついに弾けるものがあった。それは、今まで葎に対して抱いていたものそのものだった。

(殺すぞ)

 タキが愕然とし、固まった。浅い呼吸を繰り返した。なにもかもがワクラバを狂わせていた。タキは己の声なのだ。その声を、己以外に潰されたのだ。激情は渦となった。腸がぐちゃぐちゃに掻き回されていた。傷一つない女の首を、ワクラバは睨み据えている。体が動くのならば、詰め寄ってその首を絞め上げていたはずだった。

 そんな殺意の衝動が、さらに形を変えて込み上げた。抵抗する間もなかった。ワクラバは喀血した。ごぷ、と口の端から血が溢れた。体内を弄くり回す畏気に押し上げられ、そして滴り落ちた。腹の底が熱くてたまらなかった。燃えているようだった。汗が滲んで手が震えた。苦しみが襲いかかってきた。顔を顰めると、目の縁や睫毛から血の滴が零れ、頬を伝った。

 そのとき、タキが息を呑んで立ち上がった。衝動に突き動かされたように駆け寄った。そして、向けられた殺意から目を背けず、怯えながらも震える手でワクラバの手を握った。常にない力強さがあった。小さな唇が動いた。掠れた吐息に徐々に音が乗り、そして意味を成してワクラバの耳に触れた。身を削るように女が声を絞り出した。

「死なないで……っ」

 痛切な響きだった。ワクラバはわずかに瞠目した。意味を捉え損ねた。美しさとはほど遠い、ひび割れた、すぐにでも消されてしまいそうな声だ。だが、かつてないほどに重みを持っていた。その必死さに、ワクラバは急速に己が凪いでいくのがわかった。そして、ようやく本当の意味で彼女の言葉がワクラバに届いた。

 死ぬものかよ。

 応えようにも、声が出ない。無理矢理声を捻り出そうとした喉は、噛み跡のような傷口を破り、ぼたぼたと新たな血を零して襯衣を赤く汚した。それがさらに女の顔を悲痛に歪ませた。もどかしかった。念を放つことを忘れていた。ただ、この声に、己の声で返事をしてやりたかった。数刻の間、それだけしか考えられなくなった。我に返った。どうかしていた。この女は、己の声だというのに。

 そんな二人の傍で、血の泡がふわりと浮き上がり、ぐるりとその身を展開させた。衣の内側から回るように宙へ身を躍らせた女の目は、あまりにも生命に満ちていた。眩しさすら覚えたワクラバが目を眇め、顔を逸らそうとすると、その行為を許さなかった女がワクラバの目尻に手を這わせた。

「冷や冷やさせるな……」

 安堵と焦燥がない交ぜになった呟きである。百鬼歯、とワクラバが念によって名を紡げば、女は唇に笑みを敷いてみせた。ただ、その満面には声音と同じく焦りや緊張、警戒といった負の感情が含まれていた。それはまだワクラバとタキが恐ろしい狩り場から逃れられていないことを表していた。

「わたしを落とさなかったことは褒めてやろう。しかし、強運よな。頭が弾けることもなく、この程度で済んだとは……小娘もじゃ」

 ワクラバに心を見透かされたことに気づいたらしい百鬼歯が、己を律し冷静さを保つためか、あえてゆるやかに言った。そのまま赤い双眸が、ワクラバの手を離さないタキを捉える。タキの体は熱を孕んでいた。畏気による治癒が始まったらしく、切り裂かれた肌が徐々に塞がれていくのが見えた。刺さった枝が傷口から吐き出されていく。さすがにこの状況でタキに対して噛みつく気はなかったのか、わずかに目を柔く細めたあと、百鬼歯はワクラバに向き直った。

「歩けるようになるまで時間がかかるが、身を隠せる場所に移ったほうがいいぞ」

 木々や草木をべっとりと湿らせた血が、ワクラバの居場所を指し示していた。あまりにも夥しい量の血を目の当たりにし、今さらのように眩暈を起こす。痺れて動けない肉体がひどく腹立たしかった。

 百鬼歯は忠告を続けた。

「崖から落ちたぬしを、奴は追ってくるだろう。たとえその先でぬしが死んでいたとしても、その死体を切り刻むぞ」

 そんなことはわかりきっている。ワクラバが同じ立場なら、絶対にその死体をこの目で見るまで追いかけるだろう。諦めるわけがない。踏み躙り、とどめを刺すことにより満ち足りるのだ。なにがなんでも探しに来る。それがわかっていた。

 だからこそワクラバは百鬼歯を掴んだ。抜けないと知っていても、今のワクラバの武器はこの女しかいなかった。嗜めるような目をした百鬼歯だったが、ワクラバの肌の冷たさや弱々しさを鞘を通じて感じ取ったらしく、すぐさまワクラバの肩に触れた。その手が火を灯すことを、ワクラバは覚えている。驟雨に打たれながら身を焦がされたときを思い出し、ワクラバは目を閉じた。

「精神を保て。飲まれるなよ」

 気息を整えようとした。うまくいかなかった。構わず、百鬼歯の朱い爪がワクラバの肩に食い込んだ。朦朧とし始めたワクラバの意識を繋ごうとしていた。嫌な記憶が蘇った。灯された果てに、女に肉体を奪われたあの夜を。ワクラバは、決して己のなかへ女を滑り込ませまいと、苛烈なほどに自我を滾らせ、そのときを待った。

「舌は噛んでくれるな。耐えろ。一気に灼ききるぞ」

 突如、灼熱が容赦なくワクラバを襲った。閉ざした右の瞼が内側から強引に押し上げられた。火片のようにぢりぢりと眼窩で朱の光が瞬き、そのたびに火箸に脳を貫かれるような衝撃が迸った。喉を食い破られていなければ、声を上げて苦痛を和らげようとしただろう。それもかなわず、割れた眼球が燃やされて本来の姿を取り戻していく激痛に、ワクラバは歯を食い縛って耐えた。

 ほとんど削ぎ落とされた左腕も、濃厚な畏気が満ち満ちて、肉を引き絞るように無理矢理繋ぎ合わせていく。その皮膚の下から急速に盛り上がった筋肉や血管が悲鳴を上げながらも息を吹き返した。折れた骨も接合され、まだ欠けたところはないかと、畏気が鋭い痛みを伴いながらワクラバの肉体を這い回っていく。体の内側から刃でずたずたに切り裂かれている。そんな痛みだった。腹に突き刺さったままの小枝は膨張する肉が押し出し、その動きで裂けた体内も押し寄せた肉に混ざり、傷口が塞がれていった。ワクラバの精神を一切考慮しない、あまりにも強引な治療である。

 ワクラバの鮮血に隈取られた瞼と瞳や、腕が捲り上がり縫い合わされていく有様に、タキがひゅうと鋭く息を吸った。あとから出てくるはずだった喉を裂くような悲鳴は、掌に強引に押し込まれて乱れた呼吸へと姿を変えた。ワクラバと痛みを共有するかのように顔を顰めて、身を震わせた。

 ワクラバは熱に魘されながらも、意識は絶対に手放さなかった。奪われてはならない。決して己は奪われる側ではないのだと、この壮絶な苦しみを耐え切ることで自身に証明しなければならなかった。ふと、百鬼歯の気配をぞっとするほど近くに感じたが、それはすぐに弾かれたように遠ざかっていった。

 果たして、ワクラバはワクラバのままでいた。六つ手の猿と戦ったころのように、百鬼歯がワクラバの肉体の所有権を握ることはなかった。

「傷は塞いだが血を失いすぎじゃ。多少は注いだが、しばらくは無理をするな。これ以上、今のぬしに畏気はやれぬ……」

 治療を終えたというのに、百鬼歯はどこか危惧するような面持ちである。元の輝きを取り戻したワクラバの右目が百鬼歯を覗いた。百鬼歯は小さく頭を振ると、肩を上下させて荒い呼吸を繰り返すワクラバを宥めるように撫でさすった。

「しかし……なんじゃ、あれは。ぬしよ、あんな業をいつ生み落としたのだ」

 ワクラバは息も絶え絶えに答えた。

(斬った)

「なにを」

(奴の仲間だ。ろくに刀を扱ったこともねえ野盗どもだ。それを二人斬った。奴の前で、おれが殺した)

 奥歯を噛み締めて振り絞った。脳裏に蘇る夜の光景。暗がりでの一方的な命のやり取り。ワクラバの心に爪を立てて、じくじくと後悔の痛みを味わわせてくる。小さな引っ掻き傷から火の粉が吹き出し、燻っていた。

「その、取り零しか……」

 百鬼歯がぽつりと洩らした。まさにそれがワクラバを苛む原因である。心残り。置いてきてしまったもの。ワクラバに反逆し、奪い、狩り手と獲物という確固たる立場だったはずの二人を、同列にしてしまった男。

「もはやあれは、仇討ちではおさまらぬよ。まったく、ろくでもない男に惚れられたな」

 ワクラバは百鬼歯の鞘を強く握り込んだ。そのくせ、百鬼歯の声が遠く聞こえる。ワクラバは深く考え込んでいた。タキを庇いながら葎と戦うのは無謀である。身を以て理解した。ワクラバだけが葎と差し向かったとしても、やはり勝ち目は薄い。体は治った。だが万全とはほど遠い。貧血の肉体は頭の命令に従いはするものの、想像以上に動作が遅れている。せめて百鬼歯が抜けさえすれば。奴はワクラバ同様、妖畏の長と契約を結んでいるため畏気を纏っている。だが妖畏ではない。妖畏しか斬れない刀は鞘から抜けない。殴り殺すにしてもあの腕力と俊敏さをどう凌ぐ。急所をどう狙う。己が今、葎を討つためには、なにが必要だ……。

「逃げろ、ぬしよ」

 あまりにも唐突に感じた。百鬼歯が淡々とした口調で言い放った。理解するのに時間を要した。感情が遅れてやってきた。嵐を引き連れて。

(……なんだと)

 ワクラバは凄味のある念を返した。突き放された気分だった。たまらず百鬼歯を握る手に力がこもった。対する百鬼歯は臆する気配もなく、ぞっとするほど冷めた口調で言い聞かせた。

「今のぬしに人は斬れぬだろう。なにも得られず、いたずらに血を零すばかりじゃ。ぬしだけではなく、そこの小娘もいるのだぞ。人を守りながら、人を斬れぬ刀で奴とどう斬り結ぶつもりか。今さら、過去に逃したものと対峙することに、いったいなんの意味がある。無駄なことじゃ。ここは撒くしかあるまいよ」

 なぜ、そんなことを言われているのか、理解が及ばなかった。突如として浮かび上がる光景があった。細枝のようにたやすく手折られて、無残に散らされて真っ赤に染まった女がいた。逃げた末路である。逃げるという選択肢は、今のワクラバにとって死を意味した。それなのに隣で寄り添っていたタキがワクラバに追い打ちをかけるように口を開いた。

「逃げ、ましょう……ワクラバ」

 百鬼歯は意表を突かれたといった顔をした。タキがワクラバに対してそう伝えたことが信じられないとばかりに。ワクラバも目を瞠った。タキの意見が耳朶を叩いたことにひどく驚き、そして恐ろしく思えた。

 百鬼歯のほうが先に我に返った。すぐに毅然とした面でワクラバに向き直った。ワクラバの周りに血衣が広がり、包むようにして捲れ上がった。これはワクラバを守るための行為であり、勝手な動きを許さないという警告でもあった。ワクラバの目には、己を拘束するために腕を伸ばす生き物として映っていた。

「……小娘はわかっているぞ。己を背負って戦える相手ではないとな。不毛な戦いじゃ。なにも得るものはない。退け、ぬしよ」

(不毛、だと?)

 ワクラバが問う。それに被さるように、百鬼歯とワクラバの言に気づかなかったタキが懇願した。

「おねがい、です……。逃げ、ないと……。百鬼歯様は、人を、き、斬れなくて……だから……ワクラバ……これ以上、傷つくなんて……そ、そんなの……」

 ワクラバはこれらの言動を、己に対する罵言と判断した。百鬼歯の物言いは到底許せるものではなかった。おまえの抱えた傷は、実りのない、満ちることのない、意味などない虚なことなのだと非難されたのだ。ワクラバをじわじわと苦しめ続けていた飢餓感を、同じく飢えに襲われて、その苦しみを知っているはずの女に否定された。それだけで充分、ワクラバの怒りは濛々と煙を立てて燃え広がっていたが、もう一人の女の言葉がとどめを刺していた。人を斬れない。だから傷つく。そんなことは。尻すぼみだったが、あとに続く言葉が、畏れしか斬れない痩せ刀と同様のものであるとワクラバは察した。不愉快で仕方がなかった。体中を畏気と激情が満たし、そして噴き出した。 

(おれのこの燻りを、無駄なことだとぬかすか!)

 ワクラバは怒りにまかせて念を放った。百鬼歯とタキに対してだった。叫びは声としても現れようとしたらしく、喉の内と外が一気に裂けた。喉から込み上げたものを吐いた。血反吐だった。それと同時に、体内で溢れ返っていた畏気を吐息のように洩らした。

 角を殴りつけるような念に竦みながらも、首と口から血を流すワクラバを目の当たりにしたタキは、再び泣き出しそうな顔になって、おずおずとワクラバの裾を掴んだ。ワクラバはそれが煩わしくてならなかった。タキの細い指先を折らんばかりに握り締め、剥がした。そのままワクラバは立ち上がった。足りない血がワクラバをふらつかせたが、立ち止まらせることはできなかった。傷の痛みに悲鳴を上げることすら許されないほど、ワクラバの肉体は今、完全に強烈な意志の支配下にあった。

(タキ、おまえはここから離れろ)

 タキが愕然とした。骨が軋んだだろうに、指など気にしていられないようだった。置いていかれることが信じられないと、タキは再びワクラバに縋った。

「ま、って……ワ、ワクラバ……っ!」

(妖畏どもに見つからねえように身を隠せ。いいか。おれは奴を仕留める)

 ワクラバはタキの細い肩を強引に押しやった。常ならばそのまま座り込んで、ワクラバの背中を見送るだけのタキが、なんとワクラバの行く手を阻むように立ち塞がり、血が滲んだ胸元に抱きついた。

「だめ、だめです、ワクラバ……お願い、です……行ってはだめ……!」

 力でワクラバに敵うはずもないだろうに、ワクラバを抱き締めたタキが全体重をかけるように地面を踏み込む。それこそ無駄であり不毛であった。煮え滾る憤怒がワクラバの腕を動かす。タキの衿を強く引いた。首が締まったタキがくぐもった声を出したが、それでも離れない。ワクラバは鋭く舌打ちし、しがみつくタキの片腕を掴み、捻り上げた。このまま圧し折るつもりだった。タキが苦痛に顔を歪ませながらも、か細い声で言った。

「ワ、クラバ……! いっ、ぁ……! だめ、だめです……っ、また、あんな、たくさん、血を……な、流してっ、もし、畏気が……溢れ、たら……っ!」

 その言葉に強く反応を示したのは百鬼歯である。はっとしたようにタキを見る瞳には、ずっとちらついていた懸念や恐れが、もはや隠せないくらいにどっと色濃く映っていた。

 ワクラバは葎のために鍛えたばかりの敵意が淀んでいくのを感じた。刃紋は曇り、錆びついた刃へとみるみるうちに変化していく。こんな重みのない女に邪魔立てされたことがワクラバを荒れさせた。すぐにでも研ぎ直さなければならなかった。

 ワクラバはそのままタキを引き剥がした。手を離すやいなや、ワクラバは振り払うようにタキめがけて裏拳を放っていた。渾身の力によって左肩を殴打されたタキは耐えられるわけもなく、そのまま血で染め上げられた地面に転がった。それでも、強かに打ちつけた体をもぞもぞと動かして、なんとか上体を起こしているように見えた。普段のタキからは想像もつかない姿であり、だからこそワクラバの神経を逆撫でする行為であった。汚れた煤色の髪が揺れる。ゆるゆると頭を上げ、タキが唇を開いた。これ以上、女の戯れ言など聞いていられなかった。

 ワクラバは百鬼歯をタキの鼻先に突きつけた。女が抵抗を示せば、すぐに顔面を、それこそ葎にしたように片目を穿つつもりだった。それができる距離だった。おまえは、なにも持たないくせに、ワクラバの間合いに無遠慮に入り込んでいる獲物なのだと、この女にわからせてやる必要があった。

(なに勝手に喋ってやがる)

 ワクラバの地を這うような念に、タキの顔面が引き攣った。わずかに開いた唇は音一つ洩らさない。そして今度こそタキは立ち上がらなかった。倒れ伏したまま左腕を押さえ、顔面を蒼白にしてワクラバを見上げていた。恐れによって小刻みに震える細い指先を、ワクラバは見咎めた。

(怖けりゃ茂みで震えてろ。妖畏に食われるなよ)

 ワクラバは踵を返した。ただ一言、タキを置いていくために言い捨てた。

(行ってくる)

 残されたタキは、去りゆくワクラバの背から目が離せないでいた。そのくせ、ろくに動きもしない己の肉体を叱咤するが、情けなく震えるだけで使い物にならなかった。立って歩くための下駄はどこかへ転げ落ちてしまっていた。頼りない素足が土で汚れていた。

 声が出ない。使い潰されたかのように、嗄れた声すらも発せられなかった。呼吸すらまともにできず、喉に手を這わせた。果てしないほどの悲しみがあった。そして、脳裏に蘇るのは鬼面の妖畏の忠告である。ワクラバはこれ以上傷ついてはいけない。これ以上畏気を食んではならない。濃い血の霧が漂うなかで、幽鬼のように獲物を探し求めるワクラバの姿が浮かんだ。行ってくるという聞き慣れていたはずの言葉が、違う響きを纏ってタキに襲いかかってきた。

 いやだ。

 ワクラバが遠くへ行ってしまう気がしてならなかった。それを止めるのはタキなのだと言われたではないか。呆れられた通り、やはり自分ではなにもできない。ワクラバにタキの声は届かない。心をずたずたに引き裂かれた気持ちだった。

 いやだ。どうして。どうすればいい。行き場のない想いがタキの体中で暴れ狂った。

 誰か。誰か。百鬼歯様。瓦将様。万尾様。総山。

 誰か、あの人を助けて。

 

「ぬしよ、今の振る舞いは、さすがに傲慢に過ぎるぞ……」

 百鬼歯の唸りにも似た低い非難がワクラバの足を絡め捕ろうとしたが、風とともに呆気なく振り払われるだけである。ワクラバは傷の痛みなどすっかり失い、むしろ常よりも力強く森を突き進んでいた。漲る畏気がさらにワクラバに力を与え、洗練させていくようだった。

「すぐに小娘の元へ戻れ。妖畏に食われてもよいのか」

 鋭さばかり帯びていくワクラバに、百鬼歯は脅すように続けた。言うと同時に、眦を吊り上げてワクラバの肩に触れている。それでもワクラバは止まらない。亡霊に触れられるような、重みのない感覚に止められるわけがない。百鬼歯の本性とは裏腹に、握り締めた鞘とそこに眠る刀身はワクラバに付き従い、掌におさまってじっと鋼を火照らしていた。

 まるで吸い寄せられるように迷いなく進むワクラバに、百鬼歯は困惑を露わにした。それだけではない。怖気を覚えるような、嫌な畏気の匂いを嗅ぎ取っていた。百鬼歯が抱いていた恐れを共有しようと、ワクラバに再び語りかけた。そうする他なかった。

「妖畏だけではない。あの男と小娘が接触したらどうするのじゃ。怪我が癒えたとしても、小娘の足では奴からは逃れられぬ」

(そのときは殺す。葎もタキも)

 間髪入れずにワクラバは答えていた。殺意と決意に満ち満ちた、剥き出しの本心である。そして、ワクラバは絶対に成し遂げてしまうという異常な確信を抱かせる念だった。それに気づいた百鬼歯が慄然とした。その面がみるみるうちに憤怒へと塗り替わった。

「いい加減にしろ! 狂気に飲まれるな!」

 ついに怒鳴り声が迸った。百鬼歯の赫々たる双眸がワクラバを射貫いた。怒りが焼べられたまなざしを受けても、ワクラバは歩みを止めることはない。たとえその瞳が火花を散らしてワクラバに火傷を負わせようとも。

 ただ、己の周りで羽虫のように喚き散らす百鬼歯にワクラバは苛立っていた。ふつふつと沸き立つ割り切れなさにワクラバは念を飛ばしていた。百鬼歯よりもさらに低い、非難に満ちた声音である。

(おまえだって一緒だろうが)

 百鬼歯が虚を衝かれたように言葉を飲み込んだ。すかさずワクラバは畳み掛けた。己だけが責められる所以がまるで理解できなかった。

(あの黒い山で。雨のなかで。おまえはおれに畏気を飲ませて、おれの体に入り込んで、六つ手の妖畏を追っただろうが。あのときの高揚感はなんだ)

 忘れるはずもない。黒い毛皮を炎のように逆立て、猿の顔面に八つ目を埋め込んだ、六つ手の妖畏。その討伐の記憶。豪腕によって内臓を貫かれ、動けもしないワクラバを畏気によって生き長らえさせた百鬼歯は、激痛で揺らいだ精神の隙間から体内へ侵入し、そのままワクラバの体の主導権を奪ったのだ。そのときに伝播した興奮。あれは今のワクラバが抱くものとなにが違うというのか。それを否定する理由はなんだ。

 百鬼歯が唇を震わせた。すぐに喚き出した。

「なにを……! それはぬしのものだろう! わたしが見逃してやった狂気じゃ!」

 ワクラバは足を止めた。百鬼歯の言葉が頭のなかで谺していた。百鬼歯は強く否定を示した。今に至るまで、ワクラバを見過ごしてしまっていた己をも詰るかのようだった。

「わたしは食い千切られたあのときから、我が仔への食欲が確かにある。我が仔が配下に戻ってくることの歓喜も。妖畏の嫁刀としての、抑えられぬ本能が……! だが、わたしは殺さぬ! 決して! 獣曹もそうであっただろう! 殺さぬと! 際限のない苦しみから救うには斬るしかない! 抵抗するならば追い詰めねばならない! だが、追い込んだその先で、妖畏を惨たらしく殺すことなど、わたしは望まぬ! わたしの元へ舞い降りた古鵄を、あのように切り刻んだりはせぬ! わたしはなにも殺したくない、殺されたくもない! だからわたしは! 妖畏の刀として……っ!」

 支離滅裂にも聞こえる、痛切な叫びだった。百鬼歯も己がなにを口走っているのかわかっていないかもしれなかった。感情を剥き出しにして、弱々しく瞳を揺らがせ、声を荒げた。痛々しさしかなかった。苦しみを微塵も隠せないまま、百鬼歯が顔を歪めて、激しく頭を振った。激情を振り乱して喚き散らした。

「わたしは、違う! もう二度とあんな、同族殺しなど、だからわたしは……! 人と、しての……っ、こんなものと、同じにするな……! ぬしのそれは、獣の縁を越える行為じゃ! だからぬしの体を奪ったのじゃ! わたしの支配下にあれば、ぬしの心と体は、畏気に食われることはない!」

 百鬼歯に感応した血衣が大きく広がり、ちりちりと裾から火片を撒き散らした。次々とほつれて霧散していく火の粉がワクラバと百鬼歯を取り巻く。息を切らした百鬼歯の瞳が、怒りから悲哀の色に移ろいつつあった。

「わたしは殺さぬ刀じゃ。わたしに斬られた妖畏は、万尾様の配下に還ってくる。言ったであろう。ぬしも知っている、はずじゃ……」

 決して見過ごせないという思いが百鬼歯を誤らせていた。百鬼歯はようやく我に返り、数々の失言に気づいた。朱の双眸が揺れ、戸惑いを隠せぬまま、ワクラバを見た。

「ぬしよ、そんなものよりも生き延びることを優先しろ。死んでしまっては意味がないではないか。それに、これ以上の畏気はやれぬ。欲しければわたしに体を明け渡せ。畏気が静まるまで、わたしがぬしの容を守る」

 百鬼歯が慌てて言い募ったが、なにもかもが手遅れだった。

 ワクラバは百鬼歯の悲しみなどに興味はない。ばらばらに飛び散っていった言葉の意味も、ほとんど理解できていない。だが、確実にわかったことがあった。

 どうして忘れていた。恐ろしいとさえ思えた。腹の底から腕を伸ばすように込み上がってくるものがあった。その多数の腕がワクラバの心臓を捕らえた。指先が潜り込んだ。破裂して全身に行き渡る感情があった。片鱗はすでにあった。なにかに縛られて、注視することができなかった。

 百鬼歯ではなかった。ずっと己に気づかれるのを待っていたのだ。己の半身が戻ってきた気がした。林のなかで葎を追い詰めたときの胸の高鳴り。二人の野盗を惨殺したときの心地よさ。なにも重みを背負わずに駆け走る喜び。それが鮮明に、鮮烈にワクラバのなかで弾けた。

 人を狩るのは、楽しい。

 その歓喜へと躊躇いなく、それどころか喜び勇んで足を踏み入れようとしたワクラバを、まだなにかが留めていた。喜悦の陰に、ぐちゃぐちゃの泥濘が、青々と叢立つ山のなかで腹を噛み裂かれた状態で転がっている。なかに詰まっていた臓腑が肉片として咀嚼され、混ざり合って、妖畏の口へ消えていく。びくびくと痙攣する四肢すら中途半端に食い千切られて、救いすら求められない曇った琥珀色の双眸が、なにも映さず、ただそこにある。

(梢……だからおまえは死んだんだ)

 ワクラバは決して、追い詰められてはいけない。奪われてはいけない。置いていかれてはいけない。追い詰め、奪い、置いていく。この女のようになってはいけない。捨てられた。だから殺された。殺した。誰も止めなかった。遅かった。間に合わなかった。救われた。だから食った。食い散らした。刀を握った。蹂躙した。許されているからだ。それを止める者がいた。ずっと、ワクラバの腕を縫い止めて、炎を鎮めようとしていた男が。

(あれは、おまえか。先生……)

 戻れ。声がする。ワクラバを不要だと捨てたくせに。振りほどく。遠のいた。剥がれた。潰えて消えた。もういらない。戻らない。戻る場所など、どこにもない。

 だから、どこにでも行ける。

 ――暁國殿。貴殿には、もはやおれを止められまい。

  ワクラバは深く息を吸った。口を開いた。声は出ない。代わりに血が溢れて首を伝った。巻き木綿は血の勢いに耐えきれず、ついにほどけて地に落ちた。一気に力を込め、放った。

(葎ァ! 血と畏気を辿り、おれの元に戻ってこい!)

 壮絶な叫びであった。漲っていた殺意はすべて念の咆哮と化した。あれだけ人間離れし、ワクラバに執着して意識を研ぎ澄ましている葎に届くには充分すぎた。

(貴様の食い残しは、今ここに生きているぞ! 息の根を止めに来るがいい!)

 本来ならばその畏気の受取手しかワクラバの念に気づかなかったはずだ。だが、あまりにも莫大な熱量を持った念は、森のなかを震撼させた。それを嗅ぎ取った百鬼歯が、鬼の形相で問いただした。苛烈な炎が再び勢いを増した。

「ぬしよ、念を放ったな。誰に、なにを言った!」

(わかれよ、百鬼歯。逃がすわけねえだろうが)

 刹那、百鬼歯が憤激した。このワクラバの返答ですべてを理解したのだ。血衣が業火のように烈しく舞い上がった。

「戯けたことをぬかすな! 正気に戻れ! 獣性に心を食われるな!」

 ワクラバは燃え盛る血の泡を振り払って突き進んだ。それがワクラバの肌を焼くことも、心を侵食することもなかった。なぜならこれは刀の本性であり、ただの幻覚であるからだ。

「痴れ者が! 縁を越えるつもりか!」

 己はどこへ進むべきか。なにをすべきか。それだけがわかっていた。それでよかった。畏気の流れと源を辿るだけだった。呼応するかのように畏気が蠢いていた。この先で畏気と獣香がはしたなく膨れ上がり、蛇のように森のなかを這っている。ワクラバを誘っている。ワクラバは確信していた。人の容をした妖畏が、やってくる。

「畏気を帯びすぎるな! 戻れ!」

 百鬼歯が何度もワクラバを呼び止める。ワクラバは鼻で笑った。畏気が体のどこを巡っているのかがわかった。それらを一気に掌に流し込み、百鬼歯の鞘を強く握り込んだ。

(百鬼歯、まだだ。まだ、寄越せるな?)

「な、なにを……っ」

 百鬼歯が戦慄した。冷たい刃に串刺しにされたように、がくんと不自然に動きを止めた。ワクラバが握る己の本体、朱鞘に包まれた刃を呆然と見つめた。ワクラバは掌のなかで百鬼歯の刀身が脈打つのを感じ取った。鼓動はどんどん速くなる。ワクラバは満足げに目を細めた。百鬼歯はかちかちと歯を鳴らして己の胸を押さえた。凶暴化した本能が、百鬼歯の理性に牙を立てていた。一気に百鬼歯の顔に苦悶と恐れが満ちた。

 絶望に見開かれた両目が、不意に別のものを捉えた。それこそが、百鬼歯とワクラバを誘い続けていたものだった。

 濃霧のように畏気を漂わせ、堂々とした足音が歩み寄る。

 蜜と死の臭気を伴い、ついに葎が再びワクラバの前にやってきたのだ。

 葎はワクラバの姿を目に焼きつけていた。ワクラバの服はずたずたに裂かれ、血がべっとりと張りついている。先ほどの凄惨さをしっかりと残していたが、破れた隙間から覗く肌や、潰れた眼球は本来の姿を取り戻している。葎はワクラバが己と同じく妖畏に魅入られ、畏気を食い荒らした者であることを知り、じわじわと歓喜に顔を歪ませた。そのまま笠を放り捨て、刀を握り締めた。

 長によって契約を結ばれ、畏気が満ちた肉体で、ワクラバと葎は差し向かった。

 二人の間に言葉はなかった。必要ないものだと、互いにわかりきっていた。

 妖畏を斬るのに、言葉はいらない。

 ワクラバは喰出鍔に指を押し当てた。固く閉ざされていたはずの百鬼歯の顎は、ほんの少しの力でその刀身を晒せるほど緩んでいた。その事実に他でもない百鬼歯自身が驚愕していた。追い立てるようにワクラバは訊いた。

(斬れるな? あいつはとっくに妖畏に堕ちた身だ)

 百鬼歯と葎に見せつけるためにゆるやかに鯉口を切った。わずかに覗いた刀身から、誤魔化しきれないほどの眩い輝きが零れた。

 葎があまりにも獰猛な、欣喜とした表情を浮かべて百鬼歯を見た。刀で斬り結び、蹂躙する喜び。それを齎すものが、ついに眼前に現れたのだ。だからこそ、葎はじっと佇んだままだった。その刀身が獰猛に振り抜かれるのを、今か今かと待ちわびていた。手に取るようにわかった。ワクラバと葎は同じ場所に立っていた。それが腹立たしかった。なんとしてでも、奴をこの場から引きずり下ろさなければならなかった。同時に、ワクラバは知らず唇に笑みを敷いていた。忿怒と歓喜がぶつかり合い、烈しく火花を散らした。ワクラバを駆り立てていた。

「莫迦を言うな! あんなものが、妖畏であるものかっ!」

 絡みつく恐れを振り払うように百鬼歯が激昂した。ほとんど絶叫といってよかった。白刃は激しく光が散り、怒りを孕んだ柄はワクラバの掌を焼いた。そうすることでワクラバと、己を貫いた刀としての本能を突き放そうとしている。しかし、それは無駄な足掻きであった。ワクラバは一蹴した。

(黙れよ、百鬼歯。てめえも腹が減るようにな)

「畏気を食みすぎじゃ! それ以上は小娘の言う通り、容を破り溢れ出るぞ!」

 ワクラバは浮遊する百鬼歯を見ることはなかった。それでいて、本体である刀の柄をさらに強く握り締め、己の手から逃がすまいとした。焦げつくような音が肌の隙間から洩れた。百鬼歯が戦慄いたのがわかった。

(おれも腹が減って仕方ねえんだよ)

 美しい獰猛さと生の煌めきを纏っていた女が、己が誇る自由さを踏み躙られ、激しい悲しみに襲われたのが掌から伝わってきた。それでも、濃密で仄暗い畏気にあてられ、百鬼歯の刀身は彼女の意思とは裏腹に、目の前の獲物に対して、白い息を濛々と立ち上らせていた。

 ワクラバは憐憫の情を抱いた。なんと哀れな女だ。自由を良しとし、流されることを嫌う女が、今まさにワクラバに身を委ねて道具と成り果てていた。ならばせめて、腹を満たす悦びを分かち合ってやろうという傲慢さが首をもたげた。

「畏気が……!? やめろ、奪うな! わたしを暴くのか!?」

 百鬼歯は、ワクラバが言葉では止まらないことを知った。そして、肌を焼き焦がすほどの炎はむしろワクラバを滾らせていることに気づいた。なにもかもが遅かった。あれほどまでに苛烈に、そして悠々と振る舞い続けていた百鬼歯は、ついにワクラバに懇願した。

「ぬしよ、やめろ……わたしを扱うな……わたしをケダモノの道具にするな……!」

 辛苦に塗れた声を、ワクラバが塞いだ。踏み潰すみたいに。

(従え、百鬼歯)

 澄んだ音が空を裂いた。それは悲鳴にも似ていた。

 ついに百鬼歯が血衣の鞘から放たれた。冴え冴えとしてなめらかな純白の肌が、ひゅんとワクラバの腕で振り抜かれた。掌の内でさらに鋭さを帯びて煌めきを零した。獰猛さをそのままに、それでいて、ひどくしおらしく、従順に。

 もはや百鬼歯の声は聞こえなくなっていた。構わずワクラバは走った。驚くほど体が軽かった。一歩踏み込むごとにワクラバを繋ぎ止めていたものがすべて引き千切れていった。己の身を燃やして回る畏気をワクラバは掌握していた。どこにも傷などない体に、さらに畏気を飲ませた。収斂された焔の槌に打たれ、己が獰猛な刃と化すのがわかった。それをまぎれもない己の手で振るう歓喜に打ち震えた。なんと心地のよい感覚か。忘れかけていた悦楽が舞い戻り、心が咆哮を上げていた。

 解き放たれたのだ。

 ワクラバが走ると同時に、葎も刀を握って駆け出していた。落陽が迫るなか、二匹の獣が鍛え上げた殺意を胸に、猛然とぶつかり合った。

 先に仕掛けたのは葎である。ワクラバの血を存分に食んだ豪剣が、唸りを上げて迫った。ワクラバの右脇腹から左肩にかけて袈裟懸けにする軌道であり、ワクラバはこれが葎の小手調べであると瞬時に理解していた。受け止められるための太刀筋だった。

 ワクラバがずっと抜かずにいた刀の切れ味や硬度を、葎は見た目だけではなく剣撃が交わる衝撃で正確に測ろうとしているのだ。そしてそれを知った上で、先ほど明言した通りに、この刀を叩き割ってワクラバともども葬り去ろうとしていることもわかった。

 ワクラバはそれを百鬼歯の刃ではなく喰出鍔で受け止めた。期待を裏切られた葎が一瞬瞠目したが、すぐにまた剣閃を放つ。ワクラバは今度は左手に持つ百鬼歯の朱鞘で弾いていた。そこから怒濤の猛攻が続いた。嘲笑うように鞘で受け止め、いなし、弾くワクラバに怒りを滲ませた葎は、刀が鞘とぶつかると同時にそのまま刃を滑らせ、鞘を握るワクラバの手を斬り裂いた。肉は断たれ、骨と鋼がぶつかる。耳障りな切削音を発しながら、葎の刃は勢いよく通り過ぎていった。中途半端に千切れ飛んだワクラバの左拳が百鬼歯の鞘を取り落とすと同時に、三度、葎が刀を翻した。振り下ろされる刃をワクラバは躱さなかった。剥き出しの刃同士がぶつかる金属音、もしくは鋼が砕け血肉が食い裂かれる音を期待する葎にご褒美をくれてやるように、ワクラバはようやく反撃を開始する。

 まずワクラバは左腕をあえて捨てた。首めがけて飛んできた斬撃を左腕で受け止め、食い込んだ刃を、腕を捻って骨に噛ませることで押し止める。激痛を無視してワクラバは右手に握る百鬼歯をついに奔らせた。葎は恐るべき速度でそれに反応を示した。強引に骨の歪みから刃を引き抜き、飛び退いていた。だが、次の瞬間には葎の肩口から脇腹を、百鬼歯の牙が食い破っていた。

 葎の肌から溢れる血が、数秒遅れて着物に滲み出した。異様な光景である。さすがの葎も驚愕を露わにし、ワクラバに刀の切っ先を差し向けながらも、己の傷口に左手を這わせていた。

 葎の着物は一切傷ついていなかった。内側から血に浸されて、じわじわと赤く汚れていくだけである。あの一瞬で敵の肉だけを噛み切った百鬼歯の白刃が、ぎらぎらと挑発的な光を帯びて、見開かれた葎の目を灼いた。

「なんだ、それは……!」

 たまらず葎が叫んだ。動揺と驚喜を孕んでいた。ワクラバは答えない。ただ、ひゅんと百鬼歯を振るってみせた。左腕はうぞうぞと蠢き、断たれた拳と左腕を、肉の螺旋がそれぞれ引き結んで癒やした。過去に二対の妖畏に襲われた際も左腕を盾にしたが、そのときとは比べものにならないほどの畏気が、尋常ではない速さでワクラバのなかを泳いでいた。

 百鬼歯は物言わぬ鋼としてそこにいた。抵抗もなにもなかった。百鬼歯も畏気も、ワクラバの思うがままに動いていた。ワクラバは地面に落ちていた朱鞘を蹴り上げた。かん、と舞い上がった朱鞘を、再び繋ぎ合わされた左手がしっかりと掴んだ。

 それらを目の当たりにした葎が、背負った簔を揺らして不気味な笑い声を上げた。そのまま着物のなかへ手を這わせる。隙間から見えた葎の地肌は、歪んだ縫い跡がのたうったかと思うと、すうっと溶けるように元の姿へと戻っていく。

「妖刀か……」

 葎の口の端から呟きとともに白い畏気が溢れた。

「人だけを殺める刀か。そこまで堕ちたか、用心棒。なにも守れぬ畜生め。この世に不要な存在として、貴様をここで嬲り、屠る……」

 決してワクラバに対して放った言葉ではなかった。それは独り言だった。ワクラバを殺すために、憎しみの言葉で己をさらに研いでいるようだった。葎は口を閉ざした。

 どちらともなく走った。激突した。殺意と歓喜が、刃と鞘がぶつかり、なにものにも阻まれない百鬼歯の刃が閃いた。葎の刀はもはや鉄壁としての役割を失った。盾もなにもなかった。葎は躱せるものは躱し、ときに百鬼歯に噛まれながら一撃、二撃と刃を見舞った。そして斬られるたびにワクラバ同様、刀傷が塞がれていった。

 濃密な畏気がぶつかり合い、さらに戦いが苛烈さを増した。刃と刃がすれ違い、互いの肌を浅く、ときに深く抉りながら、息をつく間もなく次の攻撃が打ち下ろされる。躱し、走り、斬撃だけではなく拳や脚による打撃が繰り出され、血飛沫が弾け、畏気が辺りに漂い、徐々に互いの容を蝕み、突き破らんとしていた。だが、どちらもそれに怯んで手を緩めることなどなかった。あまりにも己と人間性を捨てていた。ただただ敵を嬲り殺すことばかり考えた残忍な戦いであった。

 鞘と刀が重なり、火花とともについに鉄の欠片を散らした。葎の刀は刃毀れしつつも、百鬼歯に劣らぬ凶暴さを保ったままだった。

 葎という使い手に従い、力を発揮するこの刀は、無骨な一級品である。刃先すらも絶対に折れないのではないかと思わせるほどの強靱な輝きを放っている。さらには畏気を帯びる手を与えられた葎によって使役されても、凄まじい堅牢さで耐え、あらゆるものに恐れを抱かせる暴虐の化身でもあった。

 対するワクラバの腕に振るわれる百鬼歯は、一見すれば繊細でたおやかなだけの刀だ。ようやく晒された素肌はあまりにも無垢であり、美しさにばかり比重を置き、刀として扱われることに慣れていないような、大事に守られた姫君を想像させる代物だった。だが、葎は肌を噛まれた瞬間に百鬼歯の本性を知った。朱鞘に封印されていた畏気喰らいの妖刀。非常に鋭利で猛々しく、畏気帯びるものだけを選び抜き、容赦なく食らう牙そのものだ。

 今も葎の刃と百鬼歯が交錯している。二つの剣閃が通り過ぎていく。本来ならば鋼同士が火花を散らす鍔迫り合いが始まるはずだが、百鬼歯は自由に空間を駆け、猛威を振るっていた。ワクラバの支配下で、相手を殺す道具として。

 走る。回り込み、押し込んで、後退する。その間をいくつもの剣閃が飛び交い、煌めきと鮮血が散らばる。二人が踏みつけていった道は凄惨な真紅に彩られ、濃密な畏気の霧が残されている。お互い体のあらゆる部位が裂け、ときには千切れ飛んでいくが、そんなものでは止まらない。感情だけでは追いつかぬこの熾烈なぶつかり合いを、無尽蔵とも言える畏気が可能としていた。畏気の供給が間に合わぬほどの連撃、一瞬で命を絶つ一撃がなければ、もはやワクラバと葎は止まらない。

 ワクラバは百鬼歯を振り抜いた。退くことも身を捻って避けることも不可能な一閃を、葎は大きく上体を仰け反らせることで回避した。反った胴体の上を百鬼歯が通過したと同時に、驚異的な柔軟さで葎が刃を跳ね上げた。鞘で食い止め、いなしたワクラバは葎の体勢が戻る前に再び百鬼歯の斬撃を見舞った。両足を狙った百鬼歯を跳んで躱し、瞬時にワクラバの背後に回った葎が剣閃を放った。ワクラバはわずかに身を引いて避けたが、瞬きをした瞬間に二撃目が飛んでくる。急所に吸い込まれるように刀が迫る。畏気満ちる肉体であろうと、まともに食らえば葬り去られてしまう一撃必殺の攻撃を、辛うじて鞘で弾いて凌いだ。白い残光が目に焼きついたまま、三撃目が襲い来る。避け損なったワクラバの頬が裂け、髪の毛が幾筋か散る。剣圧がワクラバを打ち、空を薙ぐ。刀の輝きが駆け奔る。ワクラバはそこを掻い潜った。鞘で受け止めることを捨て、百鬼歯を振るうことだけを考えた。わずかな隙を探した。疾風のように葎の刃がワクラバの肌を切り裂いて走った。刀傷が何本も身を抉り、滑っていく。痛みなど感じる間もなく灼熱が駆け抜ける。そのたびにワクラバの意識が刃のような鋭利さを増していった。冴え冴えとした感覚のなかで目を凝らす。眦から金光に輝く畏気が散る。攻撃から攻撃へ移る、動きの隙間。見えた。鋭さを殺さずそのまま突き入れた。葎は半歩身を捻って躱したが、百鬼歯の攻撃は突きから薙ぎ払いへと変じた。弾くことも防ぐこともできない畏れの刃を、葎は避けきることなどできない。舌打ちしながら後退し、即死を免れた。百鬼歯に体を深々と食われながらも、怯むことなく再びワクラバに躍りかかった。一足飛びで距離を詰め、刀を水平に薙いだ。首を両断せんとする一閃を、ワクラバは屈んで避ける。すぐさま攻撃に転じた。低い姿勢のまま半回転し、左足で葎に足払いをかけた。受け身を取りながら地面へ転がった葎に、次の瞬間には百鬼歯を振り下ろしている。胴体を真っ二つにするべく牙を剥いて迫る百鬼歯から、獣じみた動きで飛び退いて逃れた葎は、猛然と踏み込み刃を放つ。ワクラバは鞘を突き出した。鈍い音を上げながら鞘が吹き飛んだ。葎の刀の穂先が大きく本来の軌道からずれた。すかさず百鬼歯を閃かせる。朱鞘という盾を失ったワクラバに、数瞬遅れて葎が刃を見舞った。突き出された双方の刃が、互いの肉に同時に食らいついた。

 二人の動きが止まった。ワクラバの左肘のど真ん中を葎の刃が穿ち、葎の左肩の付け根を百鬼歯が貫いていた。先に動いたのはワクラバだ。葎の肉をねじ切る形で百鬼歯の角度を変え、力任せに心臓まで一気に刃を滑らせようとした。だが葎がそれを阻止した。迸る畏気によって、たとえ筋肉を断裂されようとも左腕を自由に動かした。

 なんと、あの鋭利な百鬼歯を左手で握り込んで止めたのだ。掌が断裂するたびに肉が盛り上がり、ついには百鬼歯まで巻き込んで手の一部にしようと脈打ち、蠢く。その傷の隙間をこじ開けるように異質な物体が現れ、それは瞬く間に葎の肌を捲り上げていった。鋼鉄の血管がいくつも絡みついたような、白い豪腕だ。じわじわと葎の右手と同じく白い毛が生え揃う。

 葎は百鬼歯を力強く握り締め、強引に肩から押し出そうとした。百鬼歯は畏気に蝕まれて容を変えた掌に噛みつき、肉を鋭く抉っている。塞がった傷口から再び血が溢れ、突如、左肩と掌から白煙が噴き上がる。炎のような熱を持つ畏気がワクラバの肌を焼いた。

 お互い逃れられぬまま、至近距離で睨み合う。炯々たる野蛮な輝きを溜めた金眼と、すべてを飲み込まんと渦巻く奈落の双眼が互いだけを映し出す。二人の顔の古傷がぢりぢりと熱を持つ。荒い息だけが聞こえていた。激しく縺れ合う畏気は鈴の音すら鳴り響かせるような魔の空間を作り出していた。

 まさかそこに、無謀にも足を踏み入れる者がいるなど、誰が想像できただろうか。

 ワクラバよりも葎が先に反応した。あろうことかワクラバから視線を外し、その命知らずの人間を凝視した。

 木の幹に手を当てて、肩で息をするタキが、そこにいた。

 ワクラバは瞠目した。それ以上に葎が愕然とタキを見ていた。葎はワクラバの前で、タキを惨殺することを望んでいたはずだった。それこそ、ワクラバが葎の仲間であった野盗二人を殺したときのように。しかし、葎は忘れていた。ワクラバがかつての獣性を帯びて、舞い戻ってきたのだから。このワクラバを打ち負かすことこそが、葎の生きる理由であり、ここに存在する理由であった。それが、再び揺らいだ。あろうことか、ワクラバからタキへ、完全に視線も意識も引きずられていた。

 ワクラバと葎によって作られた、二人分ではおさまらないほどの血に塗れた舞台。タキが息を呑んで口を覆った。今まさに葎に腕を貫かれ、身動きを封じられたワクラバを、慄然としたまま見つめた。

 ワクラバの心が、激しく行き交う剣閃や衝撃に歓喜を帯びていた体が、思考が、感覚のすべてが、途端に錆びつき、刃毀れを起こし、鈍くなっていく。なまくら刀のように。夜の林のなかで怯えながら刀を構えていた、あの男のように。自覚した瞬間、溶鋼が全身を駆け巡った。

 己に歯向かった挙げ句、獣に食われにやってきたタキと、そのタキに気を取られて、ワクラバから注意を逸らした葎に、腹の底から憎悪が込み上げた。なにもかもがワクラバの邪魔をする。すべてがワクラバを否定する。赤く濡れた子供の視界が蘇る。

 違う。

 こんなものは知らない。

 ワクラバの喉を、憤怒がぶち破った。すぐに別の形で現れた。

「■■■■■■■■■■■■■■■ッ!!」

 ワクラバが咆哮を上げた。赤い飛沫が激しく噴き出した。次の瞬間、ワクラバは己の左腕を力任せに引き抜いていた。葎の刃はあまりにも滑らかにワクラバの左腕を断った。だからこそワクラバは刃の拘束から放たれた。

 葎が振り返ったときには、肘から先を二つに捌かれたワクラバの左腕が、黒煙を上げて白く燃え上がっていた。みるみるうちに腕が爛れ、黒ずみ、鋭さを纏った。

 葎が刃を振り抜く寸前、その顔面めがけてワクラバの鉄拳が飛んだ。葎の顔面に黒い拳が突き刺さる。鼻を折られた葎が、それでもなお、すぐさま反撃に移ろうとするが、ワクラバはわずかに怯んだ葎の左手から百鬼歯を奪還していた。勢いそのままに葎の左の掌から肩口を掻っ捌き、振り上げた。葎の胴体を深々と百鬼歯が喰らった。鮮血が散った。腰から肩口を斜めに断っていた。それでも凶猛な畏気が繋ぎ止めて、葎を立たせようとした。

 許せるわけがなかった。葎に思い知らせなくてはならない。ワクラバと葎は同じ場所に立っていてはいけない。斬られた衝撃で蹌踉めく葎めがけて、ワクラバは渾身の力で刀を振り抜いていた。これが最後の一撃だ。もはや逃れられまい。すべての力と殺意を込めて、それにあてられた百鬼歯が唸りを上げた。葎の素っ首へ百鬼歯が駆け奔った。

 咄嗟に葎が刀を構えて首を守った。葎は恐れに陥っていた。この不可思議な刃が肉にしか牙を立てないことを知ってもなお、戦い慣れた体は常のように身を守ろうと動いていた。

 当然、百鬼歯は葎が一縷の望みを託した鋼の塊に噛みつくことはなかった。玲瓏な刃は空気のように刀を擦り抜け、美しい軌道の上を走った。首を断ち斬る動きだった。

 ワクラバだけでは力が足りない。そこには至れない。しかしながら、もはや従順に畏気を吹き込むばかりになった百鬼歯が、それを可能とした。

 ――すなわち、猛然と振り抜かれた白刃は、葎の首を綺麗に刎ね飛ばしたのだ。

 

 血飛沫は弧を描いて宙を舞った。雨のようにワクラバの肌を穿ち、紅に染め上げた。遅れて葎の頭部が地に落ちた。愕然と見開かれたままの葎の両目が、しっかりとワクラバを見つめていた。己が誰に殺されたのかを目に焼きつけていた。

 そして、首なしの死体が、どさりと力を失って崩れた。両膝をついて、まるで降伏を示すかのように上体が倒れ込んだ。

 瞭然である。ワクラバは、葎よりも上の階にいた。

 ワクラバは葎を見下ろした。満たされた気持ちになった。訪れた静寂のなかで、ワクラバはその快楽の余韻に浸った。ワクラバは黒く歪んだ左手で顔を覆った。声もなく笑った。骨と肉を断ち斬った重い感触が、甘い陶酔と痺れを生んだ。ただそれも長くは続かなかった。腹の底が飢えと渇きを訴えていた。もっとだ。これでは足りない。惜しいことをした。もっと長くいたぶればよかった。もっと愉しむべきだった。急いてしまった。怒りにまかせて戦いを終えてしまった。そうさせた獲物が憎らしくて仕方がなかった。悦びと後悔と怒りが掻き混ざり、獣性と欲の坩堝と化した。

 戦いの最中も、終えた今も、百鬼歯の姿は見えなかった。ただはっきりと、吐き捨てるかのような口ぶりで、いっぱいの哀れみを湛えた呟きが、すぐ耳元で聞こえた。

「……恐れに堕ちるか」

 そのくせ、風が吹けば消えてしまいそうなほどの儚さだった。それがワクラバの癪に障った。聞く気にならなかった。ワクラバは強引に百鬼歯を鞘に捩じ込んだ。ちん、と歯を噛み合わせる音を立てて納刀された。百鬼歯はおとなしくなった。冷え切った、ただの鉄の塊のように。

 ワクラバは辺りを見回した。すべてを見届けていた莫迦な女がいたはずだ。金眼がぢりぢりと音を立てて焦点を結んだ。ワクラバは怒りにまかせて突き進んだ。

 右目が大きく蠢いた。眼球が黒く覆われ、目尻が裂ける。ぼたぼたと血の滴が溢れ、畏気が舞った。裂け目は金継ぎのように赤金色の皮膚で塞がれた。闇を煮溜めた眼球に、月の瞳が浮かぶ。女と視線が交わった。怒気を込めて射貫いた。

 タキの目が零れ落ちそうなくらい、まん丸に見開かれていた。ひゅうひゅうと息を洩らして身を震わせていた。あまりにも弱い女だ。ワクラバが少し体を踏めば、中身をぶち撒けて死んでしまいそうだった。その姿を思い描き、ワクラバは腸が煮えくり返った。血を被ったワクラバを、タキは震えながら見上げていた。悲鳴すらも上げられぬ恐怖にタキは陥っていた。そのくせ痛ましげにワクラバの黒ずんだ左腕を見て、泣き出しそうになった。それがさらにワクラバを苛立たせているとも知らずに。

 涙など流せぬくせに。おまえには、おまえのものなど、なにもないくせに。

(タキ、おまえ)

 黒腕で胸ぐらを掴んだ。怒りで頭が沸騰していた。すべての行き場のない欲が凝縮され、目の前の女ただ一人に注がれた。

(おれ以外に潰されるな。いいか、そんなに死にたいなら、おれに言え。すぐに食い殺してやる)

 タキが引き攣った息を洩らした。女としての声は出てこなかった。その表情は暗澹たる思いに塗れていた。重さに耐えきれずに力なく崩れ落ちた。悲嘆に暮れて俯くばかりの女を置いて、ワクラバは己と獲物が築いた血と畏れの舞台を歩く。踏み躙った。血が跳ねた。

 逃げ惑い、奪われて、蹲っていただけの子供はもういなかった。ワクラバは今度こそ、本当に奪う側の者として、赤く汚れた森を突き進んでいく。

 宵闇が迫っている。