甘味処にいた。
一人である。店の外にある床几に腰掛けて、タキはもくもくと団子を囓っていた。
つかの間の休息だった。ワクラバはタキにしばらく戻らないと言い残し、出かけてしまった。買い出しだろうか。もしかしたら、大衆浴場にも行くかもしれない。さて、自分もなにか必需品を、と荷物を確認してみたが、血や泥で汚れた服もある程度は古着問屋で買い揃えていたし、下駄もまだまだ履けそうである。応急手当のための巻き木綿も、丸薬も残っていた。はて、では自分にできることはなにか、と考えてみるが、寝起きの頭はまだぼんやりとしていて、答えの代わりに小さな欠伸が洩れた。
戦わず、逃げて隠れることを求められているタキは、身軽でなければいけなかった。観賞用に買った荷物はすべて緒花姫の紗羅御殿に置いてきたし、ワクラバと行動するようになってからは、小物や装飾品の類いはほとんど買わなくなった。
なにもないなあ。そう独りごちた。なんだか途端に取り残されたような寂しい気持ちになって、身支度を整えると長屋を出た。
簡単に食事を済ませて、ふらふらと町を見て回った。寂しさを紛らわせるために町に出たというのに、町人たちの賑わいにあてられてあっさりと疲弊したタキは、人通りの少ない場所を目指して彷徨った先で、小さな甘味処を見つけた。そうして今、閑古鳥が鳴くなかで、一人で団子を頬張っている。
なんという弱々しさだろう、とタキは呆れ返った。団子の優しい甘味に慰められている気がした。タキが来てからしばらく経つが、客が寄ってくる気配がまるでなかった。暇そうな店主の男には悪いが、しばらくはこのままでいたいと思えるほど、落ち着きがあった。
食べ終わって銭を払ったが、タキはここから動く気がしなかった。昼下がりの穏やかな陽気が眠気を誘った。うたた寝をしても怒られないだろうか。ちらりと店内を見やれば、タキと同じく眠気と戦う店主がいた。ふわあ。大欠伸が出た。もう逆らえない。こくこくと勝手に頭が揺れ動き、船をこぎ始めた、そのとき。
平穏な空間に、下駄と鈴の音が割って入った。どこか異質さを帯びた音にタキははっとして顔を上げる。目を丸くした。眠気など一気に霧散した。音だけではなかった。それはまさしく異質な風体だった。
大柄の男だろうか。紅い厚板に、黒い狩衣。大口袴は目が冴えるような白だ。なにより目を引いたのは牙を剥いた鬼面である。ぎょろりと大きく飛び出た両目の真ん中が刳り抜かれているが、その奥にある双眸は窺えない。舞台からそのまま現れたような風采で、肩口までの黒髪を揺らしながら、ゆっくりと、しかし迷いなくタキの前にやってくる。ふわりと香る甘いような、腐ったような嗅ぎ慣れた匂いに、タキは今さらながら総毛立った。
――妖畏だ。
はっとして再び店主を見るが、なんと居眠りをしているではないか。タキは再び目の前の妖畏を仰ぎ見た。もはや手を伸ばせば触れられる距離である。ワクラバはいない。今朝、タキを置いてどこかへ行ってしまった。この場にいるのは眠りについた店主と、声すらも出せずに固まるタキだけだ。格好の餌であった。
妖畏がすいと腕を伸ばした。タキの頬に指が触れ、そして角に手を這わせた。優雅さすら感じる動きだが、それがさらにタキを畏れさせた。目を逸らせない。
このまま縊り殺されるか、それとも……。
(そう怯えずとも食いませぬ。万尾様と母君からの指示です)
澄んだ水のように角に流し込まれた念が、タキの見えない拘束を解いた。ぎくりとした。ついでぱちぱちと目を瞬かせ、警戒心はそのままに、恐る恐るタキは問うた。
「……万尾様……?」
妖畏の長の名だ。総山に斬り裂かれていた姿や、その傷口を手当てしたのを思い出す。
対する妖畏は、タキの言葉にしっかりと頷いてみせた。
(ええ、其方が手当てを施した畏れの長ですとも。しかし、万尾様に言われずとも、このような肉の薄い娘など、啄む気がしませんがね)
妖畏の念が淡々と言葉を紡いで角を滑り落ちていく。すぐには飲み込めなかった。怪訝な面持ちのままであるタキに、なんと妖畏が恭しく一礼してみせた。
(名は瓦将。対話を試みる万尾派であるわたしが、まさかこんなところで牙を剥くような恥を曝したりはしませぬ。町のなかに現れない、という約定は……この通り、破ってしまいましたがね。しかしこれは致し方ない)
タキはぽかんとした。己が舞台の上にいるように錯覚した。芝居がかった振る舞いをする妖畏など、見たことも聞いたこともない。こんなふうに滔々と、敵意なく語りかけられるなんて。すると、まるで心まで読み取ったように瓦将が続けた。
(食わぬ妖畏も、語る妖畏もいるのです。其方は白駒の背に跨がったことがあるでしょう。奴もわたしも万尾様の配下であり、母君である百鬼歯様に与するものです)
真白の毛を携えた狼が脳裏に蘇った。長い尾で体を拘束され、背中にくくりつけられる形で拐かされ、挙げ句の果てには乱暴に石畳に振り落とされたが、牙を突き立てられることはなかった。
タキはさらに困惑した。ならば、なぜこの妖畏は町に現れたのか。観光するでもなく、こうしてタキの元に現れたのか。妖畏を前にして感じるはずの、生命を食われることへの恐怖がほとんどなくなっていた。万尾玄流斎の手当てをするために石段を駆け上がったときと同じである。そしてそのことにタキ自身すらも気づかぬまま訊いていた。
「……あ、あの、なぜ、ここに……わたしに、な、なにか……?」
(其方と話をしてみたかったのです。本来ならば、約定に従い町の外でと思っていましたがね。其方の男が傍にいれば、斬り伏せられてしまいますから、今しかありませんでした。まったく、やっと出てこられましたよ。其方たちは常に二人なのだから)
そうして、瓦将はタキの隣へと腰を下ろした。タキはそれをじっと見やり、瓦将もタキを見つめ返した。鬼面がじっとタキを見定めていた。しばらく沈黙が続いた。眉を下げて困惑を露わにするばかりのタキに、ふ、と瓦将が息を洩らした。笑みであった。
(……やはり其方は、流されやすい)
蔑みが含まれている気がしたが、怒りは生まれなかった。この場で最も強い者は瓦将だ。タキのような人混みにも疲れ果ててしまう人間が敵う相手ではないのは明白である。
タキはただ、眉を下げるばかりだった。それでも逃げて助けを求めるという当たり前の行動をしようという気持ちは浮かばなかった。ただぼんやりと、確かにワクラバに知られれば、凄い勢いで叱られそうだと思った。烈火のごとく怒りを露わにしたワクラバに怒鳴られるか、それとも以前のように黙りこくったままの憤怒に焼べられるか。
突如、タキの思考を裂くように、どん、という強い音が遠くで鳴り響いた。
地震か。それとも雷か。仰天したタキの隣で、瓦将が念を洩らした。
(おや、あの畏気は大旗ですね。まったく、万尾派とあろうものがなんたる失態を……。まあ、其方の男が相手をするでしょう。奴にはいい薬になる)
たいしたことはない、という口ぶりだった。どうやら妖畏が出たらしい。思わず腰を上げかけたが、瓦将がタキの手首を強く引いた。なにも念は聞こえなかったが、言われる前に、自分が行ってなんになるのかと思い至り、再び座った。足手纏いになるだけである。わかりきっているが、どうしようもなかった。
(其方はとても危ういが、其方の男も同じです)
タキの手を解放した瓦将が笑みを含めて言った。
(其方、嫌な男に見初められましたね)
かつて万尾玄流斎にも言われたことがあった。あの畏れの長とは違い、瓦将はワクラバのことを指しているのだと察した。嫌な予感がざわざわと心の奥からタキを刺激した。
(気配がするのです。奴の執着が膨らみ、いずれケダモノに成るのではないかと。母君を携えたものが、よりにもよって畜生へと堕ちるのではないかと)
「……ケダモノ?」
瓦将が頷いた。ついで、タキを見やって説くように答えた。
(ケダモノとは、畏気を食み、自由を得たものを言います)
「自由……?」
(ええ、自由です。恐ろしいものですよ)
タキにはわからない。確かに、妖畏と契約しているのだから、ワクラバが微量の畏気を体に纏わせているのは確かだ。だからこそ、常人であれば致命傷たり得る戦いの傷も、時間をかければ癒える。それはタキも同じだ。ワクラバもタキも、いずれはケダモノに堕ちるというのか。自由を得ることによって。自由とは。かつて桜の宿で大旦那に諭された。したいこと、やりたいこと、言うことも、することも、悪いことでも、怖いことでもないのだと。自由とは、良いことなのではなかったのですか。
(自由には二つあります。良いものと悪しきもの。母君のような自由と、制約がない、縁を越えたもの……)
「良い、自由が……な、百鬼歯、様……?」
(ええ。其方は、母君がどのような姿で、どのように振る舞うか、これからも知ることはない。しかし、わたしにとって、良い自由のなかで息づくものといえば……やはり母君に他ならない。其方には理解しがたいでしょうが、どうかご容赦を)
容赦だなんて、とタキは思う。ちっぽけなタキに、力もなにもないタキに、圧倒的な力を持つ妖畏が、努めて優しく語った。
(母君はなによりも自由に思えて、その実、なによりも自由などないのです)
おや、とタキは小首を傾げる。百鬼歯は自由であると語ったばかりの瓦将自身が、すぐにそれを否定した。瓦将はなおも続けた。タキは黙って角を欹てた。
(母君の刀としての本体は、彼女がかつて袂を分かった人に握られねば、力を振るうことはありません)
妖畏を斬るための刀だ。同士討ちができない妖畏には、彼女を扱うことはできない。だからこそ、畏れの長からワクラバの手に渡ったのだ。ワクラバの声と引き換えに。
(それでも母君は、これこそが己が求めた自由であるのだと、刀としての在り方を良しとしたのです。妖畏と、使い手として認めたものにしか、言葉を交わすことも、姿を見せることもない、美しい獣。妖畏の母。血衣の君……)
謡うような念だ。百鬼歯の刀としての姿しか知らないタキにさえ、彼女の姿を思い起こさせるような不思議な力があった。美しい女が浮かんだ。刀身と同じように、透き通った白い肌に、彼女を包む鞘と同様、艶やかな朱の着物を纏った女が。きっと鈴のような声で、たおやかで、それでいて勇ましく凛々しいのだろう。
見えない姿に思わず見惚れたタキを、瓦将が肩をそっと叩いて引き戻した。
(そも、制約のない自由とは、恐れなのです)
「恐れ……」
(本当になにものにも縛られず、制約を踏み越えて、ありとあらゆるものから解き放たれてしまったものは、それこそ道理を知らぬ畜生でしかないのですから)
人と妖怪と妖畏が交わした三界の約定。そのうちの一つである禁狩の約。町に立ち入らず、また、長を討伐することを禁じる決まり事。すべては命の均衡を守るためのものだ。堕ちた妖畏の長に付き、約定を越えて、道を踏み外してしまった男の名を、タキは知っている。長い黒髪に深い藍の羽織がちらついた。唇を噛んだ。
(人も妖畏も等しく同じ。生を抱き、生を産み、生を食らう回廊の内で、己の欲するものを欲し、手に入れる。だからこそ満たされる。これが本来の自由でありましょう)
「せ、制約が、ある……から、満ちるの、ですか」
瓦将は首肯した。
(縁を越えて回廊の外へと身を躍らせたケダモノは、間違いなく、内側で育まれた命を、外側から余すことなく食い潰すでしょう。際限のない欲望に心を食われ、満たされることを求めるあまり、さらに新たな命を摘むのです。境の内がすべて餌場と化し、人も妖怪も、妖畏であれど血肉と臓腑が撒き散らされるのみ。そうして、境の隔たりがなくなり、境を示す鈴の音すら鳴り響くことのない、混沌と狂乱が残る……)
ぞっとした。血の海と化した町で、幽鬼のように立ち尽くすワクラバを思い描いた。全身に血を浴びて、次の獲物を探している。嫌な想像を振り払い、タキは縋るように訊いた。
「そ、そんな、ものに……ワクラバが……?」
(畏気を帯びるものは妖畏だけではありませぬ。それは其方もよく知っているはずかと。そして、奴は執念深い。妖畏とよく似ている。ただしあれは人だ。だからこそ、質が悪いのです。妖畏と違い、人は同族殺しができるのですから。人の容から溢れた畏気によって、人としての肉体すらも歪ませる……)
「そんな……」
(そして、人も妖怪も妖畏も殺せてしまう、悪鬼羅刹に成り果てる。いずれ、妖畏が居らずとも、母君が鞘から抜けるようになりますよ)
非情な物言いに聞こえた。タキはたまらなくなった。ひどい罵言を吐かれた気分だった。さらに瓦将が続けた。タキを追い詰めるかのようだった。
(母君は認めはしないでしょうが、本来、彼女は妖畏の道を外れたものであれど、噛み砕くことができるのです。彼女は畏気を強く帯びたものに触れ、畏気を抱えた生命を断ちます。妖畏であろうと、その成れの果てであるケダモノであろうと。そして……その精神を暴いてしまえるような使い手がいれば、母君はただの……いえ、これ以上は……)
言い淀んだ瓦将がタキの手を取った。縋られているとさえ思えるほどの、深い悲しみがあった。
(それは避けたいのです。母君を悲しませ、万尾様にすら危害が及ぶ。命の均衡が崩れる。これは忠告です。其方が止めるのです。今、奴の傍にいるのは、其方なのだから)
タキは口を開いたが、ぐるぐると心のなかで渦巻くばかりで、ちっともなにも出てこなかった。瓦将が強くタキの両手を掴んでいる。あまりの力強さに顔を顰めた。このまま粉々に砕かれるのではないか。そう思っても抵抗ができない。こんな女に、なにができるというのか。己で己を責め立てた。だが、それだけだ。自嘲の念に貫かれるばかりで、やはりなにもできない。なにをどうすればいいのか。命令に慣れきってしまった体が、途方に暮れていた。
ふと、タキの手が解放された。
(……と、思いましたが、これではいささか不安になる。その名の通り、火に焼べられて燃やし尽かされるのが落ちか、それとも、火の勢いを増す薪と成り果てるか……)
はあ、と大きな溜息が聞こえてくるようだった。諦められた。呆れられた。そうわかった。だからこそ、瓦将が手を離したのだと思った。当然である。ワクラバに縋られるように押し潰されたあの日、タキは彼に求められたことと、彼を抱擁して受け止めた己に、確かに喜びを覚えたのだ。なんと醜い感情だろう。守られているくせに。なにもできていないくせに。まるで彼を守っているかのような錯覚に陥り、それに酔いしれるだなんて。流されてばかりの、ただの足手纏いであるにもかかわらず。
瓦将の話を聞いて、タキは忸怩たる思いでいっぱいになった。こんな浅ましい女が、本当にワクラバを守ることなど、できるわけがないのだ。そんなタキの思惑を塗り潰すかのように、視界いっぱいに黒が迫った。
あまりにも唐突だった。タキは瓦将に抱き竦められた。獣香がふわりと鼻腔を擽り、タキの肺をすぐに満たした。畏気で編んだ狩衣がタキの頬を撫でた。背中に回された逞しい腕の感触に、タキの体は痺れたように動けなくなる。大きな手が這い、タキの細身をしっかりと捕らえていた。気づけばタキの体は持ち上がっていた。瓦将の両腕以外に、タキを縛りつける感触があった。瓦将がタキを抱えたまま立ち上がっていた。指先が動かない。ふらふらと揺れるタキの足から下駄が落ちた。からん、と転がった音がひどく遠くに聞こえた。そこでわずかに瓦将が身を離し、タキの顔を覗き込んだ。タキも瓦将を見つめ返した。鬼面の刳り抜かれた目の奥には、なにもなかった。本来瞳があるはずの場所は、奈落の底のような闇が広がるだけだった。人の容をした妖畏に絡め取られている。途端、思い出したかのように悪寒が滑り落ち、体が震え出したが、タキはあっさりと解放された。
情けなくも腰を抜かして座り込んだタキに、瓦将が哀れみを湛えて言った。
(其方はもう少し、立つことを覚えたほうがよい。念で対話を試みるとはいえ、妖畏は妖畏。わたしの言を疑わぬとは……其方はあまりに脆く、恐ろしい)
叱られた。タキは己を詰った。まったくもってその通りだった。いつでも殺してくださいと言っているようなものだ。だからこそ、万尾玄流斎と別れたあと、ワクラバはタキを離すまいとしたのだ。
(弄されるだけでは縁の内にいようが外と同じ。まったく、其方たちはあまりにも対極だ。だからこその均衡か。しかし、なんと危うい……)
独り言のように瓦将が呟いた。もうこの妖畏はタキに触れようとはしなかった。ぱちぱちと目を瞬かせるタキを見て、再び笑みを含めた念を紡いだ。
(母君が聞けば怒り狂いそうだが、其方はかつての母君とよく似ている。わたしが其方を気にかけるのも、それが理由かもしれませんね)
「……な、百鬼歯様、と、わ、たしが……?」
タキはぎょっとした。ついさっき思い描いた美しい姫君のような女と、空っぽでなにもない女が、似ているはずもない。そんなことを言っては、妖畏でないとはいえ、煌めきを零す白刃に容赦なく微塵切りにされてしまう気がした。タキは身震いした。
そんなタキの畏れを、瓦将が面白がるように見やった。
(あまり暴き立てては母君も黙っていないでしょう。……いえ、怒り狂うのは母君だけではない。其方のためにも、今日のことは、どうか内密に)
しい、と鬼面の大きく開かれた口に、瓦将が人差し指を添える。タキはこくこくと頷いた。百鬼歯もそうだが、もっと恐ろしい男がいた。百鬼歯とは違い、タキに触れ、言葉を交わすことができる男が。そして、今さらながら己の体からうすらと漂う独特の匂いに気づいた。タキは顔を真っ青にしたが、ああ、と瓦将があっけらかんとした様子で笑い飛ばした。
(獣香の心配なら無用です。どうせ、其方の男は我が同胞と戯れている。今ごろ、其方よりもさらに濃い匂いを纏わせているでしょう)
かん、と強く下駄が鳴った。そのあとに鈴の音が続いた。一歩一歩踏み締めて瓦将が去っていく。その姿が陽炎のように揺らめいて、完全に溶けて消える、その寸前。
(務めを果たすまでは、消えぬよう)
その念が最後だった。瓦将の姿は完全に空へ消えていた。取り残されたタキは、しばらくぼんやりと近くに転がっていた己の下駄を見つめていた。
その晩、ワクラバは瓦将の言う通り、獣香となにやら酸いた匂いを纏って長屋に戻ってきた。ひどく剣呑な視線がタキを捉えたが、すぐにふて寝するかのように布団へ寝転がってしまった。
タキは胸を撫で下ろし、瓦将の念を反芻した。角がぴりぴりと痛んだ。背を向けて眠るワクラバをしばらく眺めて、軽い水浴び程度では落ちなかった獣香と、細い肉体を抱き締めて眠った。明日、大衆浴場に行こう。嫌なことから目を逸らすように考えた。
翌日、半壊した大衆浴場の前で、タキは途方に暮れることになる。