昨日、ユウヒの所有者が消えた。
原因はすでに判明している。端的に言えば、ユウヒが臆病だったせいだ。管理を怠ったのだ。育児放棄をしたら、子どもは衰弱して、下手すれば死に至る。こんなことは誰でもわかることだった。
伊吹芽依。ユウヒの所有者は、十五歳の気弱な少女だった。
所有者の喪失を認識した途端、後悔に溺れて愛着機構に縋り付いたユウヒだったが、今すべきことはそんなことではないと言い聞かせ、今日も彼女のかわりにキッチンに立つ。
「朝ごはんできたら呼ぶからな」
所有者がユウヒを残していなくなった。生成系統模造種白鋼型を残して。
少女がそれを自覚していないのなら、ユウヒはいつもどおりの生活を再現するしかない。
こうしてユウヒがキッチンに立つのは初めてではない。所有者が疲れ切っているときや、体調を崩しているときに、こうして料理の腕を振るった。
料理など得意ではなかった。それでも失敗はしたことはない。彼女が立派な参考書を買っていたのだ。それを見ながら指示どおりに行動すれば、食べられるものにはなる。
美味いか不味いかは味覚を失ったユウヒにはわからない。所有者の反応がすべてだった。表情、動き、言葉、それらを見て判断する。
彼女がとくに喜んでいた料理も、ユウヒにはインプットされている。もうレシピも記憶した。冷蔵庫に手を伸ばし、卵を二つ取り出した。
「う、ああー!」
かつん、とひびを入れたところで、突如声が上がった。思わず力の操作を誤って、手の中にあった卵が音を立ててひしゃげた。傷一つないほうの卵に、崩れた黄身が落とされた。
「あ、うう、う」
声がこもる。ユウヒは慌てて手を拭いて、少女の部屋に向かう。
「う」
俯せの少女が、枕に顔を押し付けて、爪を立ててシーツを引っ掻いていた。
少女の背中がぶるぶると震え上がっている。ユウヒは見逃さなかった。そこに本来あるべき動きが見られない。ユウヒは彼女の体を仰向けにして、頭を支えた。
「呼吸を」
先ほどとはうって変わって、少女がぐったりと脱力した。力の抜けきった体は普段よりも重く、異常に熱い。
発汗。発熱。恐らく、頭痛と咽頭痛も発症している。そこに酸素の欠乏。
「吸息」
すん、と空気を吸う音を拾う。
「呼息」
少女はユウヒの言葉を理解し実行していた。酷く弱々しいものだったが、自発呼吸はできている。アタッチメントは呼吸をしない。人工呼吸などができない今、彼女自身の力に祈るしかなかった。
幸い、その後も規則正しい寝息を繰り返し、昨日のように暴れ出すこともなかった。ユウヒは軽く少女の額の汗を拭い、立ち上がる。
「……ん」
ユウヒの足に、堅いなにかがぶつかった。
ぐちゃぐちゃに絡まった鉄板が、床に転がっていた。
「なんだそれ」
と、あのときユウヒはそう尋ねた。
「あ、ごめん、なさい」
自身の所有物にも臆してしまう気弱な所有者は、たどたどしく謝罪の言葉を呟いた。そのままユウヒが指し示した物体をそっと隠そうとするものだから、安心させるように語気を和らげた。
「怒ってるわけじゃない。能力の発現は悪いことじゃないから」
「うん」
「むしろ制御できるように練習しておくべきだ」
「うん……」
「で、これは一体?」
「……今日、花瓶、割っちゃったでしょ」
「ああ」
「だから、新しいの買うまで、わたしの力で作ったものを使おうって思って」
「これ、花瓶?」
「う、ん」
「ほー……」
可鍛性の白銀を、ひたすらに薄く伸ばし、円柱状に固めたうえで、真上から叩き潰した。そうとしか表現できない代物だった。それをまじまじと観賞していると、所有者が堪え切れないとばかりに顔を赤くして声を上げた。
「も、もういいよ! 見なくていいよ!」
「独創的な花瓶だな」
「これでも……ちゃんと、見てイメージしたんだけど」
「そっか」
「……わたし、下手だよね」
「模造種は制御が難しいんだ。造形をよく見て記憶して理解しなきゃならない。すぐに上手くはならないさ。焦らなくていいんだ。ゆっくりやっていこう」
「……うん」
生成系統模造種白鋼型。見たものの完全再現。いかに構造を理解できているかでクオリティは段違いとなる。観察する目も、それをアウトプットする精密な思考も、すぐに養われるものではない。
「メイちゃんが劣ってるとか、そんなことはないから」
「……うん、ありがとう」
ようやく笑顔を浮かべた所有者を見て、安堵感が満ちていく。大丈夫。自分は所有者を不安にはさせない。存在する意味がある。所有者にとって価値のある存在だ。
ユウヒは所有者の手の中にある、花瓶になり損ねた物体を指さした。
「その試作品は、そのうち消えるから大丈夫だよ」
「うん」
「無理せず練習していこうな」
「うん。わたし、頑張るから」
「ああ」
「だから、こんな所有者だけど、よろしくね、ユウヒくん」
なにが存在する意味がある、だ。
嗤ってやるとユウヒの奥底で声がした。気付けなかったではないか。能力の暴走だ。能力放出を怠ることで発症する能力熱ではなく、負のストレスによる能力の揺らぎ。そして暴発。体外へ能力が放出されたからよかったものの、もし彼女が体内で能力放出をしていたらどうなっていた。自身の能力に対する抵抗力があるとはいえ、体内は惨状になっていたはずだ。
彼女がなにかに対してストレスを感じていた。
ユウヒはそんな彼女に、なにもしてやれなかった。
「価値なんて、どこにあったんだよ」
ぞっとするように一人ごちた。
そうしている間にも、いなくなった所有者の肉体が、声を殺して熱に耐えていた。
翌朝、症状の悪化が確認できた。
緩慢な動きで起き上がった少女が、指先を動かして宙になにかを描いている。獰猛さすら感じる笑みを敷き、子どものように無邪気な笑い声をこぼしながら。
そうして楽しげに鋼の螺旋を出現させていたが、それが思うように形が整わないとわかった瞬間、強く唇を噛んで、荒っぽく手を払った。主に見捨てられた丸まった鋼が、ベッドや床に捨てられた。少女は癇癪を起こしたように頭を掻き毟り、ベッドへと突っ伏してしまった。
「おはよう」
そんな背中へユウヒは声をかけた。びくんと一度大きく震えた後、少女はゆっくりと振り返る。彼女の両手には、先ほど掻き毟ったせいか、亜麻色の髪の毛が数本絡まっていた。
「ユウヒく、ん?」
「ああ」
「そ、う。見、てた?」
たどたどしい呟きに、ユウヒは押し黙った。とてつもない緊張感が漂っていた。危うげな少女は、その間も一切ユウヒから目を離さない。見定められていた。一歩間違えれば崩壊する空間にいた。ユウヒが現状を打開するすべを思い付く前に、彼女の纏う空気が一瞬にして変貌を遂げた。
「わたし、下手、だから。そう、でしょ」
はっとしてユウヒは口を開くが、声は出なかった。なにもできなかった。いつもどおりの振る舞いなど、一切できていなかった。
少女が、憎しみをあらわにしていた。
殺意じみた感情に当てられて、愛着機構が停止しかけた。それは恐ろしいことだった。
「待て!」
思わずそう叫んでいた。一歩踏み出した瞬間、少女が喉を震わせて吠えた。
その咆吼に、スイッチを入れられた。愕然とする間もなかった。ユウヒは歯を食いしばって耐えたが、排除機能が目覚めの兆しを見せる。どうしようもないほど、ユウヒは支配下にあった。それでも抗ってみせたが、いつまで保つかはわからなかった。
そんなユウヒの目の前で、生成系統が展開された。
少女の細い身体を守るように、揺れ動く鋼が出現した。彼女の全身からたちのぼる警戒心が、そのまま能力を蠢かす。模造種にすら至らない、完成されない鋼の群れを。
手負いの獣のような唸り声を上げて、少女がユウヒを睨み付けた。その双眸が薄緑に変色し、不自然に発光している。
その病態を目の当たりにして、目の奥がちらついた。そのまま瞳孔が絞られ、ユウヒの身体が自動的に標準を合わせた。それと同時に手が伸ばされる。その先にあった代物を認識した瞬間、ユウヒは本能に全力で抗った。
漆黒に塗り固められた艶やかな箱。それがただの箱ではないことを、ユウヒは嫌というほど理解している。使い方を遺伝子のように組み込まれていた。この獰猛さがアタッチメントのもう一つの本質だと言われること自体、ユウヒは認めたくもない。展開箱の中身を、手に取ってはならない。開いてはならない。
開くとしたら、どれにすべきだろう。大型の刃の断罪か。細身の刃の制裁か。小型で複数の刃の懲罰か。至近距離なら制裁で充分だが、鋼ごと断つのなら断罪のほうがいい。
「やめろ」
思考に入り込んだ排除機能から、ユウヒは意識を引き剥がす。自分は、なんてことを。展開箱の中身のうち、どの道具で少女を処分しようか考えていたのか。そんなことを考えてしまうほど、愛着機構は押し負けたのか。
「あ、あー、ああー!」
少女が、どんどん膨張する能力と熱にうなされ、のたうち回った。意味を成さない声には苦悶と憤怒が混じり合っていた。仰け反って晒された細い首に、ユウヒの眼球が狙いを定める。ほとんど反射的に跳ね上がった腕。道具など不要だった。アタッチメントには力がある。骨を砕く程度の握力が。擦り切れたユウヒの自我が渦を巻いた。
「やめろ!」
ユウヒは拳を握り、床を叩き壊す覚悟でそのまま振り下ろした。幸いなことに傷は付かなかったものの、殴った衝撃が腕から分散し、響き渡った。
咆哮じみたユウヒの声は、確かに自制のために発せられたものだった。それを少女は、自身への敵意と判断した。
「あ、あ、あ!」
ぐるりと螺旋を描いて展開する白銀の刃。帯状に伸び、絡まって、形を保つ前にユウヒに狙いを定めた。まさに槍の切っ先だった。
明確な攻撃意思だ。そう判断したユウヒの体内で、強烈な電気信号が迸った。
「やめ」
遮断。
起動音。接続。修復作業。排除機能の停止を確認。愛着機構の動作は正常。ようやく、拡散した自我が収束する。
意識が飛んだ、としか表現できない空白が刻まれた。わずか数秒のことだったが、その間に伸ばした覚えのない手が、しっかりと展開箱に触れていた。起動した形跡はない。ないのだが、ユウヒの足下には確かに無数の鋼の塊が落ちていた。粉々に打ち砕かれた残骸が。
はっと顔を上げれば、少女が気を失って仰向けに倒れている。
「お、い」
彼女の口元とベッドを汚す吐瀉物を視認した瞬間、ユウヒは慌てて少女の口を開いた。彼女が吐けずにいることを確認し、すぐに上体を起こす。ユウヒは少女の口に強引に指をねじ込んで、喉奥を刺激した。
それまで出てこなかった残りを掻き出したところで、少女が荒く呼吸を再開する。何度か咳き込んで、それでも苦し気に弱々しく震える少女を、白外套を敷いた床へ、横向きになるように寝かせた。
荒い呼吸を繰り返す少女。その顔に付着した汚れを拭い、ユウヒは許しを乞うように目を伏せた後、恐る恐る少女の服を剥いだ。
汗ばんだ肌には、傷一つ付いていなかった。全身の力が抜けていく感覚に襲われ、ユウヒは抗うことなくその場に座り込んだ。
あの残骸は、間違いなく彼女が具現化した能力だ。恐らく、ユウヒを狙って突き出されたそれを的確に砕いただけで、彼女自身にはなにもしなかったのだろう。もし、ユウヒがそのまま少女めがけて拳を振るっていたら。ユウヒは、自身の描いた想像に苛立った。
怒りの感情を制御し沈静化したユウヒは、すぐに少女に服を着せた。その際に、指先が少女の素肌に触れ、ユウヒはぎくりと身を強ばらせた。
ヒトとは、こんなに柔らかい生き物だったか。
かつてユウヒも、ヒトとして生きていた。そのころの記憶は微かに残ってはいるが、自身が持っていた肉体の柔らかさなど、とうに忘れ果てていた。
ヒトはもっと脆い存在だ。
そんな当たり前の現実に、再び殴り付けられた。その痛みを受け止めながら、ユウヒはシーツを引っぺがした。
新しいシーツにかえなければならない。
なにもなかったのだと、帰ってきた所有者を安心させるために。
ごとん、ごとんと、重い音がいくつもあがった。
それと同時に、愛着機構が警告を発した。所有者が強いストレスを感じている。なにが原因かはわからないが、その状態での能力の使用は認められない。
ノックして所有者の部屋に入れば、怯えたように少女が振り返った。
「あ、あ、あの、これ」
憔悴しきった少女。その額に、汗が滲んでいた。落ち着いて、と声をかける前に、少女は言う。
「し、試作品、なの」
「ああ」
「うるさくして、ごめん」
そのまま、少女は目をそらす。足下に転がった、ねじれた鋼の山。
「焦らなくていいって言っただろ。今日はもうだめだ」
「だ、め?」
「ああ。これ以上の使用は認められない。休むんだ」
「わたし、だめ? 一回も、成功して、ない」
「メイちゃん」
「わたし、頑張るから」
所有者は泣き笑いのような表情を見せた。切なさだけが帯びていく少女に、ユウヒはなんと声をかけるべきだったのだろう。返答に迷ったユウヒが正解を見つけ出す前に、所有者は情けなく眉を下げて言った。
「ごめん、ごめんね、ユウヒくん」
まさしく懺悔だった。その有様を見て胸中に湧き出た不吉な予感は、見事に的中した。
翌日、所有者はいなくなったのだ。
いつか、手を繋いで歩く所有者とアタッチメントとすれ違ったことがあった。
しっかりと手を握り合って、楽しげに会話する二人を、ユウヒの所有者はじっと見つめていた。声をかけたユウヒに振り返り、何度か口を開いたが、結局なにも言わずにユウヒの隣を歩いた。
その夜、所有者はユウヒをベッドに誘った。それは決して色香のある誘いではなく、ただ寄り添うための、ぬくもりを求める子どものお願いだった。
それを、ユウヒは断った。
奉仕するべきだと愛着機構が抗議したが、それからユウヒは目をそらした。奉仕欲求よりも、自身の思考に従った。
所有者の体を休めるための大事な空間を、自身のような所有物が埋めてしまうことが嫌だった。アタッチメントとしての自分は、所詮ヒトの付属品であり、ヒトの世界を奪うことはあってはならない。その教えが、遠慮が、少女を傷付けた。彼女のあたたかな体温を、ユウヒはきっと奪ってしまう。もしかしたら、あの日のように、ユウヒの手が所有者を。
所有者を。
恐怖が全身を駆け巡った。電気信号などではない。もっと生々しい、柔らかなものだった気がした。女のようななまめかしさだった。ちらついたノイズ。空白。
「……?」
そこから先はわからなかった。今まさに思い出そうとしていた光景が遮断された。今度こそ、電気信号によって。
「こんなわたしでごめんね」
いつからそれが、所有者の口癖になったのだろう。
なにが少女をそうさせたのだろう。
一度や二度ではなかった。ユウヒは何度、所有者との触れ合いを断ったのだろうか。手だって繋がなかった。所有者へ自分から触れに行ったことがあっただろうか。
有用性とはなんだ。
アタッチメントとはなんだ。
愛着機構と排除機能の支配下にいる、加工された死者の魂の残滓。拵えられた機械体の中に組み込まれたモノ。ヒトに寄り添うために作られた肢体は、傷を付けないためにも柔らかく設定されていた。疑似蛋白質でできた人工皮膚は、ヒトの肉体に限りなく近いものだった。ヒトの肌に触れることを許されていた。
安心させればよかった。それが可能な肉体をユウヒは持っていた。
言葉は見つからなくても、体は動かせたはずだった。
抱きしめればよかった。自分はずっと待ち続けると、自分はずっと所有物として添い遂げると、安心させればよかったのだ。
そんな簡単な答えに辿り着いたのは、少女がいなくなってからだった。
もう、遅すぎた。
あの楽園は、もうどこにもなかった。少女が休まる楽園を、ユウヒは奪ってしまっていた。
少女はあのときユウヒを威嚇した。奪い去るものとして見られていた。切っ先を向けて、いつだって排除してやると、少女の身を守るように能力が具現化していた。おまえが少女を守らないのだから、こうして出てきてやったのだと言うように。
思考を愛着機構に鷲掴みにされた。アタッチメントの優しさ、あり方を履き違えたのだ。おまえは見逃した。失敗したのだ。そう訴えられていた。そんな愛着機構の背後で、排除機能がじっと様子を窺って息を潜めていた。怯えが全身を支配した。二つの本質に同時に脅かされていた。
ごとん、と鋼が産み落とされる。少女は意識を失ってもなお能力を発現した。大きな円を描いた鋼のカーテンが、とろけるように下へ伸びて、幾多もの鋼の塊を吐き出す。それぞれの塊がちぎれた箇所を整えようと修復作業をおこなうが、生みの親がなにを作るかなど意識していないため、中途半端に絡まっただけだった。
置き去りにされているようだった。完成を放棄され、捨て置かれた物体。完成に満たない試作品の群れが、次々と生み出された。いずれは廃棄されゆくものたちだった。その中にユウヒ自身が含まれているのだと告げられているような気がした。
ユウヒは嫌な思考を拒んでかぶりを振った。じりじりと焼き切れかけていた精神の安定を保つために、鋼を生み出している少女の細い体を抱き起こした。そのまま、力の抜けた少女の手を取った。ひたすらに安心を求めていた。
どっと湧き出たのは、どうしようもないほどの郷愁だ。自己保存の欲求と所有者への愛で胸を焦がし、愛着機構の底を震わせた。その膨らみきった愛は、もう二度と所有者と会えないかもしれないという疑念とぶつかり合って、ばらばらに飛び散った。その破片さえもユウヒの心に傷を負わせた。
手のひらの熱はおさまらない。こぼれ落ちてしまうのではないか。そんな焦燥にかられる。どうかみっともなく縋ることを許してくれと、甘えるようなことを思った。荒れ狂う感情を抱きながら、ユウヒは握りしめた少女の手のひらに、頬を寄せた。
「ここにいてくれ、メイちゃん」
咽頭の音声が耳朶を叩いた。その声が自分のものであることに、ユウヒは少し驚いた。 ほとんど無意識に吐き出された言葉だった。
そして、ずっと少女の名前を呼んでいなかったことに気付く。その恐ろしさを自覚し、全身が戦慄いたような気がした。
「メイちゃん、だよな、きみは」
この少女は誰だったか。あの所有者は、どこへ行ったのか。そんなことはわかりきっていたはずだった。それなのに、この少女を所有者と呼べていなかったではないか。愛着機構が監視していたというのに、この少女を所有者とは呼べないと判断していた。
感応だ、とたった一つの答えがようやく絞り出された。波長が合う所有者は、正しくユウヒの心に感応していた。ユウヒの遠慮が、少女を傷付けた。ユウヒの疑念が、少女を不安にさせていた。どうしようもないほどのプレッシャーを抱え込んだまま、ふさわしくあろうと無理をした。自身が劣っているからユウヒが離れたのだと、そう思いながら。
無理をして破壊される寸前となった精神を保ちながら、自らを修正しようとしても、少女の帰る場所はどこにも用意されていなかった。
ユウヒが彼女を否定したのだ。おまえは決して、所有者ではないと。暴走者。人格を覆うように現れる、自我を持ってしまった能力そのものだと。無意識の結論が少女をその場へ押し留めていた。排除機能によって操作されたわけでもない。自分自身が生前から持っていた思考が、動作に影響を及ぼした。
他者に怯える少女は、それ故に機微に敏感だった。目立ちたくない。それでも、遅れをとりたくない。それをわがままだと寂しく嗤いながら、少女は周りの視線や言動に警戒していた。それが今もユウヒの目の前でおこなわれていた。
自覚した瞬間、愛着機構が暴れ出した。それこそ排除機能を粉砕する勢いで。体内を攪拌されたかと思うほどの衝撃が、機械体を駆け抜けた。
これは罰だった。体内の断罪者が声を荒げた。所有者を否定し、拒んだ。無意識下であっても、おまえはまだ、戻ってこられる所有者の保護を放棄した。未だ愛着機構が作動しているというのに。
懺悔するように頭を垂れる。それと同時に心に激昂が生じた。自分自身への怒りの熱が、衝撃で固まっていたユウヒの体を操作していた。
「メイちゃん」
少女の名を呼ぶ。紛れもない所有者の名を。そうして、ユウヒはそっと少女の体を揺さぶった。細心の注意を払って。力任せに掻き抱いて、置いていくなと縋り付いてしまいそうな精神を押さえ付けながら。
「メイちゃん、メイちゃん、ごめん。ごめんな」
詫びることしかできなかった。なにか言わなければならないと思いながらも、少女に対する言葉はそれしか出てこなかった。それなのに、言葉にならなかった感情が心臓部に詰まった。張り裂けるかと思うほどだった。ユウヒは確かに悲鳴を上げていた。音声として出力されなかった叫びだった。それが愛着機構によるものか、自身が唯一過去から引き継いだ魂によるものかはわからなかった。
そのとき、ユウヒの内側で暴れていたものたちが、しん、と静まりかえった。
「……ユ」
ユウヒの叫びを聞く者がいた。ほとんど呼気に溶け込んだ声だったが、ユウヒの聴覚センサがその音を聞き逃すことなどなかった。
「ユウヒ、くん」
絞り出された声。遠い昔に聞いたような、懐かしい声音。ついに表に現れた少女の自我に、ユウヒは引き込まれていた。名を呼ばれているのだから、応えねばならない。そんな思考が遅れてやってきた。
口を開く前に、焦れたように少女が手に力を込めた。酷く弱々しいものだったが、ユウヒの意識を引き戻そうとする動きだった。
「ユウヒく、ん?」
あのときの、ぎらついた異常な生気は感じられない。
「きみは」
囁きに近い声だった。それでも少女はユウヒの言葉を待っている。
「きみは、生成系統模造種白鋼型じゃない」
「……もぞうしゅ、だよ」
「違うんだ。ごめんな。きみはずっと、所有者である伊吹メイちゃんだったんだ」
こんなわたしでごめんね。そんな悲しい言葉が口癖の、ユウヒの所有者。
「ずっと押し込んで、見て見ぬふりしてごめんな、メイちゃん」
「…………ユウヒくん」
「ずっと、近寄れなくて、ごめんな、メイちゃん」
意味を成さない形を保とうとしていた試作品の群れが、音を立てて崩壊する。あまりにも軽いその響きが、ユウヒの深層を大きく揺さぶった。
「ユウヒ、くん」
待ちわびた声だった。それでも、今までずっと聞こえていた声だった。
「わたし、頑張る、から」
「ああ」
「こんな所有者だけど、いい、かなあ」
「いいに決まってるだろ」
「……そっかあ」
「メイちゃん」
「ユウヒくん」
「ああ」
「…………ただいま」
「…………ああ」
ようやく笑顔を見れたことに酷く安堵しながら、ユウヒは絞り出すように、再び所有者の名を呼ぶ。