薔薇の花束はいらない


 男性型アタッチメントが、人間の男を思い切り殴り飛ばした。

「ひ、い」

 その男性型アタッチメントの所有者とおぼしき少女が、喉の奥で微かな悲鳴をもらす。アタッチメントは、少女を庇うように前に出て、倒れた男を冷ややかな目で見下していた。

 その異常な光景に、町行くヒトは皆、動きを止めた。

 アタッチメントがヒトを殴る光景を間近で見た者は、この世に何人いるだろう。

 失敗したとアヤハは思う。こんなことなら、惰眠を貪っていたトモエを強引に毛布から引き剥がすのではなかった。ぱさぱさになりかけていた携帯栄養食と生ぬるい水を、寝起きで半開きになった少女の口に無理に流し込む必要もなかった。頬をぱんぱんに膨らませた少女に制服を着せて、乱暴に手を引いて健全な中等教育学校に連れて行くのではなかった。いつも通りに家を出たからこそ、少女に刺激の強い光景をリアルで見せてしまうことになったのだ。

「アヤハちゃん、あれ、なあに?」

 あまりにも純粋な問いかけに、返答に窮する。アヤハは自分自身と、その事件の当事者たちを一人ずつ殴りに行きたくなった。そんなアタッチメントらしからぬ不埒な思考に、体内の機構が警告を発する。所有者に直接的な被害はない。少女はいたって健康だ。精神面も、恐らく問題ないはず。勢いよく水をかけられたように暴力的な欲求は一瞬で鎮火したが、少女の心拍数が上昇していくことに気付いた瞬間、じわじわと嫌なものが心の中で渦巻いた。

 なんてことをしてくれたんだ!

 我慢ならずアヤハがそう悲鳴じみた怒号を放つ前に、健全な二色とされる白と黒で塗り固められた一台の車がやって来た。アタッチメントの製造管理と、不健全者の更生をする施設の車だ。殴られた男と、男性型アタッチメント、そしてそのアタッチメントに庇われる形で後ろに蹲っていた所有者の少女のもとに。

 殴られた男は車に乗せられ、一部始終を目撃した警備員と、暴力を振るった男性型アタッチメントが施設員に事情を説明していた。その間も少女は顔を真っ青に染めたままだ。それでも精一杯アタッチメントの手を握りしめていた。そこにしか拠り所がないようだった。確かに、能力保持者が一番頼れる存在はそこにしかいなかった。アタッチメントは男を殴った手で、少女の手のひらをそっと握りしめていた。

 それをまじまじと見つめているのがアヤハ一人ではないことを、一瞬忘れていた。振り返れば、トモエがその光景に釘付けになっていた。アヤハがヒトであったなら、今ごろ顔面蒼白になり、冷や汗を垂らしているところだろう。誰にも見られたくなかったものを見られたような、最悪な気分だった。

「見ない!」

 意識を呼び戻して自身に固定させるように、アヤハはぴしゃりと言った。トモエの肩が可哀想なくらいびくりとはねあがる。舌打ちしそうになって、自制のためにアヤハは唇を噛んだ。

「う、う、んん、ん」

 困惑の声。意味のない言葉。トモエの癖。複雑な思いを言葉に変換できないときに出るそれだった。

「あんなの見るな」

「んん、ん」

 翻った外套の裾を見ながらトモエは頷く。言葉にする前に忘れてしまえとアヤハは強引にトモエを引っ張った。

 男が少女にしつこくつきまとったのかなんなのか、事情はよくわからなかった。詳しく知りたいとも思わなかった。早くこの場所から逃れたかった。

 アヤハは一度も振り返らなかった。アヤハの手のひらは、学校に着くまでトモエの手を一度も離さなかった。

 教室に着いて、トモエの手首にくっきりと痕が残っているのを見て、アヤハは言いようのない不快感に押し潰された。トモエはその痕をずっと凝視していた。痛むのか、それとも忘れられず反芻しているのか。気になるのにそれを問いただす勇気はなかった。それでも気にしないようにするなど到底不可能だった。

 授業中、ずっと指先で弄り回して、痕がなくなってもずっと手首を気にしている少女に堪え切れず、一日のカリキュラムが終わると同時にアヤハはトモエを教室から連れ出していた。きつく手を握りしめ、強引に引っ張って廊下を突き進んだ。

「アヤハちゃん」

 さようなら、というトモエのお友達の声が聞こえる。どれがどの人物の声かなんてアヤハにはわからないが、それらがすべて好意に満ちていることは知っている。善意。親しみ。友愛。トモエはとても恵まれていて、そのくせ誰の一番にもなれない寂しい子。

「アヤハちゃんってば」

 彼女の小さい手は、ぞっとするほど頼りない。籠の中でぬくぬくと育ってきた弱々しい生き物。そんな彼女の所有物は誰だ。乙守アヤハただ一人。今はアヤハだけがトモエを一番として考える。一番大事。一番のとびっきりの愛。

 いや、それは違うと、アヤハの遠くで声が上がった。アヤハの片足は海に囚われている。波打ち際で笑う少女と、深い海に手を引かれ、どっちつかずのアタッチメントになり下がっている。

 それでもトモエには、アヤハしかいないのだ。アヤハにしか、トモエは愛を語らない。こんな所有物を愛していると言った優しい子ども。アヤハが誰を好きであっても離さないとまで言い放った、とても残酷なあたたかい子ども。

 そんなトモエは、今朝の出来事を見てどう思ったのだろう。

「アヤハちゃん、痛いよう」

 体が硬直した。一瞬の後に体から力が抜け、あっさりとトモエから手が離れた。強制的な脱力。所有者が嫌がる行為や、傷付ける行為を防ぐための措置だった。その行為規制をしっかりと味わってしまい、はっと我に返る。

「ご、めん」

 後悔と焦りがどっと噴き出して、アヤハは足を止めた。振り返って、知らぬ間に傷付けていた細っこい手首を恐る恐る撫でさすった。

「……痛かったろ」

 少女の顔を窺えば、わかりやすく眉がハの字に下がっていた。所有者をストレスから守る役割の道具が、どうしてストレスを与えているのだろう。自責の念と自己嫌悪にかられたが、少女はそんなアタッチメントの行動と声かけに安心したらしく、すぐに満面の笑みを咲かせた。

「もう痛くない!」

「そう」

「大丈夫だよ!」

「…………そう」

 大丈夫なのだろうか。疑問と不安が一体化して、大きな波を生み出した。痛みはなくても、もっと他に、小さな不安や不信が降り積もったのではないのか。

「ト、トモエ」

 背中をなにかに押されて、つい声が出た。つい、名を呼んだ。

「なあに、アヤハちゃん」

 はくはくと唇を動かすが、今度は肝心の声が出てこない。ついに故障したのか。それでもぐっと力を込めれば、意味を持った言葉がつるりと現れ出た。

「行きたいとこ、言って」

「行きたいところ?」

 なにを言っているのだろう、とアヤハは思った。しかし今更引っ込みはつかない。だって見てみろ。ちょっと嬉しそうな、期待したような表情の所有者がいるだろう。この子はアヤハの言葉を待っている。ならば続けるしかなかった。

「買い物したいとか、なにか食べたいとか、遊びたいとか、なんでもいいから」

「なんでもいいの?」

 きらきら、と表現するしかない瞳に圧倒され、アヤハは慌てて訂正する。

「い、いや、さすがに前みたいに急に海に行くとかはなしだ。明日も学校あるでしょ」

 甦るのは、苦すぎる記憶。味覚などとうに失われたにもかかわらず、そうとしか表現できないものがじわりと滲んで溢れ出した。思わずぐっと歯を食いしばる。あの後結局、トモエは風邪をひいて数日寝込んだ。自分のせいだと嫌というほど理解しているからこそ、アヤハは自分自身が大嫌いだ。

 思い出したくもない記憶を呼び覚ましてしまった失態に、舌打ちを一つ。アヤハの態度に怯む様子など見せず、むしろその嫌な感情を払拭させるように、トモエがはしゃいだ。

「甘いの食べたい! お腹へった!」

「甘いのってなに」

「ケーキ!」

 アヤハの所有者であるお姫様は、頬をほんのり赤く染めて破顔した。

 ああ、確かにそうだ、とアヤハは思う。苦いよりも甘いほうがいい。苦いのは嫌いだ、という無意識下で吐かれた言葉に、トモエは大きく頷いて肯定を示した。

 

 白状すると、アヤハはトモエ好みの店なんか知らない。トモエの好みがわからないわけではないが、小洒落た店などの知識は情けないほど欠如していた。導くことができなかったアヤハは、大人しくトモエの半歩後ろを歩く。従うこともアタッチメントの役割の一つだと言い聞かせるころには、トモエは扉を開いていた。からんころんと鐘の音が響く。トモエが選んだにしてはシックなカフェだった。扉が閉まる前にアヤハも慌てて入店した。

いらっしゃいませ、という言葉にアヤハが答える前に、トモエがアヤハの外套の裾を遠慮なく引っ張った。

「二人です!」

「所有者様とアタッチメントですね、かしこまりました」

 こちらへ、と案内されたのは、奥にある二人席だった。トモエは行儀悪く脚をぶらつかせ、メニューを開いた。アヤハも外套を脱いで席に着く。

 落ち着いた雰囲気ではあるが、免疫がないアヤハは思わず周囲を見回した。人が少なくて助かったとさえ思うほど落ち着かない。

「アヤハちゃん、こういうところ好きじゃない?」

 意外と鋭いトモエが無邪気に問う。悪びれた様子もない。ただ気になったから訊いただけとでもいうような子どもの疑問に、アヤハは首を振って否定した。

「嫌とかじゃ、ないんだと思う。慣れてないだけで」

「カフェとか来なかった?」

「知らないよ。生きていたころの乙守アヤハのことなんて」

 アヤハは容赦なく生前の自身との間に線を引いた。同一視する必要などないのだと言い聞かせたつもりだったが、トモエに伝わったかどうかはわからなかった。

「ケーキ食べるだけだから、緊張することないよ!」

「まあ……そりゃそうだけど」

 と、言って思わず顔をしかめる。緊張していたことを肯定しているようなものだった。格好がつかないにもほどがある。少しはこの少女の能天気っぷりを見習おうとしたところで、トモエがとろけるような歓喜の声を上げた。

「これー! これ食べたい!」

「……食べれば?」

「いいの?」

「いいに決まってる。おまえがしたいのならすればいい」

 アタッチメントは、健全さから遠ざかる行為以外は否定しない。そんな当然のことに、トモエが本当に幸せそうに笑うものだから、目が離せなくなった。楽しいと思えた気がした。そのときのアヤハの表情が相当見物だったのか、トモエもアヤハを凝視していた。そして、みるみるうちに見たこともない甘い表情に変貌した。気恥ずかしい空気に包まれる。先に我に返ったのはアヤハだった。勢いよく手を上へ伸ばし、店員に視線を送った。ぱたぱたと駆け付けた店員にメニューを半ば押し付けながら、トモエが食べたいと言ったパンケーキを指さした。かしこまりました、と戻っていく店員の背中から再びトモエに視線を戻せば、まるで恋する乙女のように頬を紅潮させた少女がいるではないか。

「なんて、顔してんだ」

「嬉しかったから!」

 体が熱くなった。どうしようもなく体は素直であることがわかり、愛着機構をぶん殴りたくなった。いやに恥ずかしかった。付き合いたてのカップルか、とツッコミを入れそうになった自分にもびっくりしたし、同時に恐れを抱いた。アヤハが欠陥品になるところだった。

「恋は、禁忌だぞ」

 トモエと自分自身に対する忠告。しかしながら、アヤハはこれがどういった気持ちなのか完全に理解はできていない。恋だの愛だの、アヤハには難しすぎる。それこそ欠陥品になりそうなくらいだ。知ってるよう、とちょっと不本意そうな声を出しながら、トモエは自信満々に胸を張っていた。

「でも、アヤハちゃんも似たような顔してたと思う!」

 悲鳴を上げてやろうかと思った。

 運ばれてきたパンケーキは、あっという間にトモエによって無残な姿へと変えられた。苺ジャムを口周りに付けたトモエは、これでもかと大きく口を開いて一気に頬張っている。アヤハは先ほどのときめきをすっかり忘れてしまった。あの感情を返せと詰る気も起きない。

 その間にもどんどん口周りが汚れていくのだから、我慢ならず紙ナプキンを数枚抜き取った。

「汚い」

「んう、う?」

 幼稚に唸る少女に手を伸ばす。

「顔出して」

「う……?」

「出せっつってんの」

 途端ににっこり笑って顔を差し出すトモエの口周りを、ごしごしと拭ってやる。拭いてもらうことにまったく抵抗を見せないおめでたいお姫様に、ため息を溢したくなった。ちらりと睨み、行儀悪く頬杖をつく。

「ベビーシッターになった覚えはないんだけど」

「アヤハちゃんはアタッチメントでしょ?」

 と、のたまった。呆れ返るしかなかった。それでも嬉しいと思えるアヤハがいた。安堵感で包まれるのは心地いい。それでも消えないものに、アヤハは急かされ続けていた。そうとは知らずトモエはご機嫌に腹を満たしていく。

 アヤハは予備のフォークを手に取った。くるくると指先で回しながら、内に燻り続けている嫌な気分から目をそらす。何度か繰り返していると、少女の感嘆の声が耳に届いた。いやに真正面から強い視線を感じる。アヤハが顔を上げると、爛々と目を輝かせた少女がそこにいた。

「アヤハちゃん、器用だね!」

 トモエがパンケーキを口に運ぶのも忘れて見入っていた。素直な賞賛の声に、思わず手が滑る。勢いよく手からすっぽ抜けたフォークは、銀の軌跡を描いて床へ落ちた。らしくない失敗だった。

「あー! アヤハちゃん、いけないんだあ」

 笑いながら咎められ、思わずムッとしつつも、アヤハは反論しなかった。大人しく椅子を引き、身を屈めてフォークへと手を伸ばしたところで、突如頭上から制止の声がかけられた。

 なに、とアタッチメントらしからぬ不機嫌な表情を剥き出しにしたアヤハのかわりに、店員がかっさらうようにフォークを拾い上げた。行き場を失ったアヤハの手が空を切る。なんだか自分は今、ちょっと情けない姿を晒しているのではないか。そんな考えが頭をよぎる。

「あの……」

 と、声をかけられてアヤハは慌てて姿勢を正した。乱れた衣服を軽く払い、行儀悪くフォークを回したことなど知らぬとばかりに、澄まし顔を保つ。

「新しいものをお持ちしますので」

「不要だ」

 ほとんど反射的な返答。もういいから放っておいてほしかった。店員は所有者であるトモエに振り返ったが、トモエが便乗するように「いーらない!」と無邪気に言うものだから、ちらちらと気にしつつもその場を後にした。

 やっと二人きりになれた、とアヤハは全身の余分な力を抜いた。

「アヤハちゃん、はい!」

「ん?」

 そんなアヤハの眼前に突き出されたのは、少女が握りしめていた銀のフォーク。反射的に払いのけそうになったが、ぐっと堪える。

「…………危ないな。なんだよ」

 咎めたところで反省しないトモエは、にこにこ笑顔を絶やさない。

「フォークこれしかないから!」

 だからあげる、と半ば強引にフォークを押し付けられる。アヤハは少女の手から、ゆっくりフォークを抜き取った。

「もう回したりしないよ」

「いいの?」

「べつに回すのが好きとかじゃないから」

「なあんだ。アヤハちゃんの好き、もう一個見つけられたって思ったのに」

「好きなものかよ。だいたい、フォークは回すものじゃなくて、食べるときに使うアイテムで……」

 そこで、アヤハは口を閉じる。手の中には、食事の道具であるフォークが。目の前には、飯も上手に食べられないちょっと馬鹿で憎めない少女。そして、少女の前には、烏に漁られたのだろうかと思えるほど、無残に散らかされたパンケーキがあった。

「……失礼」

 アヤハはトモエから皿を奪った。とられた、などと喚くこともなく、どこか期待するような眼差しを向けながら、トモエは身を乗り出す。

「アヤハちゃん、食べられるの?」

「馬鹿言え、そんなことアタッチメントにできっこないよ」

「んん、ん、じゃあ、どうしたの……?」

 今度はきょとんと間抜けな顔を見せるトモエの前で、アヤハはパンケーキの最後の一切れにフォークを突き刺した。そのまま皿に散らばっていた苺のソースを塗りたくる。べったりとソースに濡れたパンケーキに満足したアヤハは、トモエの口元にそれを突き付けた。

「ん、う?」

 変なところは鋭いくせして、こういうところで察しが悪いのがトモエだ。そこはもうわかっている。アヤハは手本のように口を開き、喉奥から声を出力した。

「あー」

 トモエはぱちぱちと瞳を瞬かせる。なるほど、これでも気付かないのか。それでもアヤハは我慢して続けた。

「あーん」

「……う?」

「あーん!」

 焦れて、もういっそ強引に口にねじ込んでやろうかと構えたところで、ようやく合点がいったらしく、トモエが大きく口を開けた。間抜けな顔だった。やはり、どうも憎めない。

「ん、ん、んう、む」

 よく味わって、咀嚼して、嚥下する。そうやって幸せだと頬をほころばせる少女の愛らしい表情に、思わず本音が漏れた。

「食べさせがいがあるな」

 口の中が空っぽになったところで、トモエが小首をかしげる。

「ほんと?」

「ほんと」

 先ほどのときめきが舞い戻ってきた瞬間だった。そのときめきを生んだ張本人であるトモエは、褒められたとばかりに頬を染める。無邪気な少女にアヤハは敵わなかった。

「おまえ、今朝だってやってやったじゃないか」

「ん?」

「あーん、の話。気付くの遅かったからさ」

 察しが悪いのは今に始まったことではないが、アヤハは思わずそうぼやいた。だんだん照れくさくなってきたのだ。その羞恥心を拭い去るための適当な話題だった。

「知ってるよう。あーん、でしょ?」

「そうだよ」

「でも、アヤハちゃんがしてくれるって思ってなかったから」

「え」

「アヤハちゃん、なんだか今日、優しいね!」

 ひゅう、と胸の奥で風が吹いた。

「わたしが理由なくそんなことするやつには見えないって?」

「うー……うん!」

 普段は優しくないアタッチメントだと、トモエに判断されていた。

 いや、世話はしていたはずだ。今朝だって朝食を食べさせて、服だって着替えさせた。風呂上りだって、水浸しで普通に練り歩くものだから、タオルを持っていつも待機している。世話はできていた。していたはずだ。ちゃんと、アタッチメントらしく。

 トモエはアヤハの深淵を欲している。見透かす瞳を持っている。もしかしたら、愛ではなく義務として動くアヤハのことも、全部看破されていたのかもしれない。

「ごちそうさま!」

 ぱん、と手を打ったお利口さんなトモエが席を立つ。アヤハも席を立ち、白外套を身に纏った。

「行こう、アヤハちゃん!」

 幼い所有者が外套の裾を引く。アヤハは頷いてトモエに続いた。

 夕暮れが街を朱く染めている。アヤハは日没がはやい季節をあまり好まない。暗くなればなるほど、冬の海に横たわるトモエと、醜態を晒したアヤハを思い出す。今日が曇りでなくてよかったなと、一人ごちた。

 肌の感覚を研ぎ澄ます。空気は澄んでいるが、どこか柔らかい。ふとした拍子に皮膚に傷が付きそうな寒さが漂っていたあのときより、うんと春に近付いた。

 もう少しすれば穏やかな春が来る。そうすれば、トモエが凍えることも、風邪をひくこともなくなるだろう。

 隣で陽気に歩く少女は、そんなアヤハを気にせずに、楽しそうに周りを見渡している。次に入る店を探しているのだ。

 一人ではしゃぐトモエの声を聞きながら、ぼうっと足元ばかりを見つめていたアヤハの耳に、なにやらメロディが流れ込んできた。聴覚センサに集中し、風が運んできた音楽に耳を澄ませる。そのまま歩を進めれば、どんどん音も大きくなっていった。ようやくトモエも気付いたようで、尾のような髪を揺らして駆けた。

 路上ライブというものだろうか。二人の女性が弦楽器をかき鳴らし、集まっていた聴衆とリズムを取り合って、陽気な歌を披露していた。

 とても上手、とは思えなかった。それでも拙さが初々しく、瑞々しいメロディと合っている。聴き応えはあるな、とアヤハはトモエにならって足を止め、聴衆に混ざった。

 癖になる曲調で、トモエもリズムに合わせて揺れていた。小さく手拍子が加わり、それは瞬く間に広がって一体化した。

 歌い終わっても一呼吸置いたらすぐに次の歌へと切り替わる。これが何度か続いた。どれもこれも聴いたことない曲ばかりだ。そのどれもがトモエのお気に入りになったらしく、彼女たちが深々とお辞儀をしても、まだ興奮から抜け出せず、リズムを取り続けて揺れていた。

 そろそろ行こうとアヤハが突けば、トモエはアヤハに向き直って口を開いた。

「すごいすごーい! 楽しかったねアヤハちゃん!」

 とにかくこの興奮や楽しさを誰かに伝えたくてたまらなかったらしく、アヤハの反応も待たずに、どこがどうお気に入りだったか話し続けた。とりあえずその言葉をすべて聞き取りながら、うんうんと頷いて相槌を打つ。

「わたし、歌、大好き! よくみんなのお父さまと歌ってた!」

 それを、アヤハは知っている。インストールされた所有者情報にも記載があった。しかし情報として知っているだけだ。こうしてトモエに伝えられたのは今日が初めてだった。

「おまえの歌、わたしはちゃんと聴いたことがない」

 でたらめのような鼻歌は聴いたことがあるが、胸を張って堂々と、楽しそうに歌うトモエを見たことなどなかった。

「……歌ってもいいの?」

「聴きたいし」 

 片付けを終えた女性二人が帰っていく。二人きりとなった道で、トモエがもじもじと手を後ろに組んでアヤハを窺った。

「うるさいって、言わない?」

 大切な所有者の歌声を、不快だと思うようなアタッチメントだと思われていたのか。

「……言うものかよ」

 どんどん精神が削り取られていく。アヤハの柔らかな残滓が消えるまで、この拷問は続くのか。所有者から信頼を寄せられていると思い込んでいたアヤハの思考を、容赦なくトモエの言葉が殴り付ける。

 なによりも、トモエがアヤハの顔色を窺ったことが一番辛かった。アタッチメントという存在に気を遣っている。こんな無邪気で、馬鹿で、ヒトを振り回すような子どもに、そこまでさせてしまっている。

 負のストレスを与えているようなものだった。本来、それを取り除くために寄越された存在であるにもかかわらず。

「……もう、いい」

「アヤハちゃん?」

「好きにすればいい」

 なにを言っているのかわからなかった。止められないことにも愕然とした。

「う、う?」

 ほら見ろ。所有者が困惑している。情けなく眉を下げている。可哀想に。威圧されて、突き放されて、それでも俯いたアヤハの顔を覗き込んで離れない。

「ほら、好きに行動しなよ。見てるから」

 可哀想だと、深層で声がする。きゅるきゅると機械の音がざわめいて、愛情を強制的に量産する。

 愛着機構が確かに息づいていた。それからアヤハは目を逸らした。

 可哀想なのはどちらだと、声を荒げたくなった。

 無視を決め込んでいるのだから、トモエは諦めて辺りをうろつき始めた。時折アヤハを窺っては足を止めたりしていたが、もうそんなことはしなくなった。

 そんなトモエに若干苛立ちを覚えるあたり、本当に子どものようではないかと、アヤハは己を恥じる。しかし、トモエに信用されていなかったことには変わりなかった。

 自分は被害者だと言い聞かせるアヤハと、今すぐ謝りに行けという愛着機構の間に挟まれて、唇を噛む。

「そこのアタッチメントさん」

 背後からの呼びかけに反応したのは、周囲に自分以外のアタッチメントがいないことを把握した後だった。

「なにか」

 声の主は花屋の店員だった。小さな花の店。呼ばれるまで、背後に花屋があることにすら気付いていなかった。

「こっち来て、こっち」

「…………はあ?」

 妙齢の女性店員に手招きされ、アヤハは呆れ返った。所有者が近くにいないアタッチメントに、こんな気軽に声をかけてくる人間がいるとは。

 本来ならば従う必要などないが、しつこいくらいに呼びかけられて、アヤハは諦めて花屋のカウンターまで歩み寄った。その間も、アヤハはトモエから意識を背けない。トモエはそんなアヤハのことなど知らず、ショーウインドウの煌びやかな洋服に夢中だった。

 トモエを視線でとらえたのは数秒だったが、その赤い瞳の動きを、店員は見抜いてしまっていた。少し身を乗り出してトモエを見やり、すぐにごそごそとカウンターでなにやら包みだす。手際はよかったが、アヤハにはじれったい時間だ。用がないならと踵を返そうとしたところで、そっと胸に押し付けられるものがあった。

「これ、あの子にやりな」

 ぐしゃ、と押し潰されそうなわずかな音を拾い、アヤハは思わず半歩下がり、それを受け取っていた。

 目が冴えるような真っ白い薔薇の花束だった。健全な色といわれる、今まさにアヤハが羽織っている外套と同じ白であるのに、それよりもうんと無垢な色合いだった。いつかテレビで見た、花嫁のブーケそのものだった。生者の道具であるアタッチメントには無縁の代物だ。

 健全な白。無邪気な色。トモエのほうが似合うよな、と思わず花束を持つ少女の姿が脳裏に浮ぶ。それでも花束を持たされているのは、他の誰でもないアヤハ自身であった。

 たじろぐアヤハに、店員が追い打ちをかけた。

「仲直りしたいんだろう、そのきっかけになれたらいいのだけれど」

「……仲直りだあ?」

 欠陥品のごとき態度の悪さが語気にも口調にも現れ出た。市民に対してなんて態度をとっているのだと、アヤハは目を閉じて自身の精神を落ち着かせた。

「喧嘩なんてしていないが」

 それでも隠しきれないものが声音となった。ここまで精巧な音声など不要だった。こんなアヤハを呆気なく晒してしまう人工の声帯など。

「見てたよ、あなたの所有者のお嬢さん。一番大はしゃぎしてるんだもの。気になっちゃってさ」

 アヤハの無礼や怯えを意に介していなかった店員は、返答を無視して話を続けた。

「あんなふうに言い合いされちゃ、こっちがハラハラしちゃうよ。所有者とアタッチメントは仲良くないとね。だから、ほら」

 花に詳しくないアヤハでも、これがそれなりに高いものだということは理解できていた。アタッチメントは金銭を持たない。それを伝える前に、店員は首を横に振った。

 ぱたぱた、と軽い足音が聞こえる。トモエがはしゃいで先に行こうとしているのだ。すぐに追いかけようとするが、手の中の花束をどうすることもできず、アヤハは縋るようにトモエの背を見やる。

 そんなアヤハの背を、店員の声が押した。

「行っておいで。わたしのことは、もう忘れていいからさ」

 他者の力を借りないと、関係を修復することすらできないのか。

 焦りや不安がアヤハを責め立てる。それでも口から漏れ出したのは、ヒトに対する忠告だった。

「いいヒトすぎるのも、健全さから外れてしまうと思うよ」

 こんなことを言っている場合ではなかった。アヤハの足が一歩、踏み出される。

「いつもこんなことしてるわけじゃないさ。今日は良いことをしたい気分だっただけ」

 だから、ほら。

 もう我慢できなかった。早くトモエのもとに帰りたかった。アヤハは花束を抱え直した。

「……感謝する。ありがとう」

 投げ捨てるように礼を吐き、アヤハは走る。後ろでなにやら声が聞こえてきたが、足を止めはしなかった。そんな余裕は、アヤハにはない。

 こんなときに、他者のことなど、考えていられない。

 

 トモエは別の店のショーウインドウに張り付いていた。大きなクマのぬいぐるみに釘付けの彼女に、アヤハはなかなか声をかけられない。思わず花束を強く握りしめてしまい、アヤハは慌てて力を抜いた。アタッチメントの本気の力に、こんな花束が耐えられるわけがない。崩れた包装をちまちまと直している間に、アヤハにぐっと近寄る人影があった。見ずともわかる。アヤハの所有者だ。

「アヤハちゃん、お花買ったの?」

 アヤハははっとした。トモエの声音が少し控えめだ。

 怯えてしまっている。アヤハにあんなことを言われたから。

「ち、違うよ、もらったの」

「よかったね!」

「おまえ馬鹿か」

 違う。こんなことが言いたかったのではない。罪悪感や照れくささを誤魔化してヒトを傷付けるようなアタッチメントにはなりたくなかった。

 それでも捨てきれない気まずさを抱えたまま、少女の胸に押し付けるように花束を差し出した。

「あげる」

「わ、ああ」

 おずおずとトモエが花束を手に取って、爛々と目を輝かせる。

 やはり健全に溢れた彼女には、白い薔薇はよく似合う。

「嬉しい! ありがとう!」

「……ああ」

「でも、アヤハちゃんがもらったんだよね」

「誰が他人のアタッチメントに花なんか贈るかよ」

 まただ。どうしたってアヤハの口からは、いささか乱暴な言葉ばかりが湧き出てくる。自分の嫌なところばかり自覚して、結局それを直すことすらできないのだからと、アヤハは開き直ってしまった。

「笑っていいよ。詰ったっていい」

「ん、う?」

「馬鹿みたいだろ。おまえに喜んでほしいからやってんのに、やっぱり恥ずかしいし居心地悪いし強く当たっちゃうんだよ。そのくせこんな花渡してさ、なにやってんだって感じだよね」

 自責は楽だと一体誰が言ったのか。今まさにアヤハは楽になりたがっていた。愛するトモエからの逃亡。本当に自分はアタッチメントなのかといつものように吐き捨てる前に、トモエが目を細めた。

「そっかあ」

 トモエはまったく気にすることなく、それどころか殊更優しく笑んだ。安堵しているようにも見え、アヤハは片眉を上げる。

「なんでほっとしてんの」

「えへへ」

「……なんだよ」

「よかった!」

「なにが」

「アヤハちゃん、怒ってたわけじゃないんだなって思って!」

「……トモエ」

「なんか、今朝からずっとアヤハちゃん怒ってたから、わたし、昨日なにかしちゃったかなあって思ってた」

 今朝からと、彼女は言った。アタッチメントの暴力沙汰を目の当たりにしたあの瞬間から、トモエはずっとアヤハの苛立ちが自分自身に向けられていると勘違いしていたのだ。

刺されたような痛みと痺れが走る。アタッチメントとは、なんだろう。愛しい少女の観測すらろくにできていないではないか。いや、アヤハはずっと見ていなかったのかもしれない。自分がトモエにどう思われているかばかり気にして、トモエの本心を見つめていなかった。アタッチメントらしくしよう。優しくしよう。嫌な思いをさせないようにしよう。自分のことばかりで、肝心の所有者の気持ちにしっかり目を向けていなかった。

「おまえは悪いことなんかしてないよ。いい子だ」

「いい子?」

「わたしにはもったいないくらいだ」

 ヒトを正しく愛そうとする愛し子。それゆえに深層を知りたがる。心が傷つこうとも、他者の本質を見つめ、容認する。そこに自分への愛が含まれていないとしても。

 アヤハちゃんの可愛いは、可哀想って意味なの、わたし知ってるよ。

 かつての言葉。アヤハを最も深く理解し、踏み込み、切り刻んだトモエの言葉だった。

それに対しなにも返答はしなかった。衝撃で自然脳の残滓が揺らぎ、アヤハはただトモエの手を引いていた。

 そのとおりだと、今のアヤハは心中で肯定する。アヤハしかいない少女。一番になりたいお姫様。素直で元気で馬鹿な所有者。アヤハの大切な命綱で、アヤハに愛を注ぐだけの、寂しい子ども。

「ごめんなさい、トモエ」

 そんな危うい少女へ、本心からアヤハは謝罪した。煮え切らなくてごめんなさい。勘違いさせてごめんなさい。いつだって不安定なアヤハは、同じく不安定な少女に許されたがっている。

 トモエはにっこりと笑んだ。満面の笑みだ。小さな八重歯が覗いている。

「いいよ!」

 トモエには許さないという選択肢はないのだろう。トモエはアヤハが大好きなのだ。それに応えられないことがもどかしい。そのくせ、こうやってアヤハはトモエに縋り付く。命綱とはよく言ったものだ。アヤハは彼女に生かされていた。

 だからアヤハは怖れを抱いた。簡単な話だった。

「トモエは……アタッチメントのこと、怖いって思う?」

 結局、これだけのことだった。さっさと訊けないほど、アヤハはその可能性に怯えていた。

 ヒトを殴ったアタッチメント。それを見てしまった無垢な所有者。その少女の手を引く所有物は、黒い展開箱を背負っている。アタッチメントの別の側面であり、もう一つの本質。それに触れられて、アヤハは震え上がった。

 関係を断ち切る黒い刃がそこにはあった。所有者と所有物。赤い糸。生と死。境を断絶するには充分な代物。断罪、制裁、懲罰。三つの名を冠する殺処分のための道具。

 アタッチメントの暴力によって、その負の側面に触れられた気がした。どんなに愛を囁いても、アタッチメントは展開箱を離さない。

 怖がられたら、どうしよう。

 嫌われたら、どうしよう。

 そうなったらアヤハはもう、存在する価値を失ってしまうのだ。

「ううん」

 呆気ないものだった。

「アタッチメント、怖くないよ」

 当然だと、少女が胸を張る。

 知らず縮こまっていたアヤハの前で、自信たっぷりに言い切った。

「…………ほんと?」 

「うん! 可愛いって思う!」

 トモエが首肯する。アヤハの不安の火種を、トモエが無邪気に踏み潰した。

「アヤハちゃん可愛いもん!」

「わたしを勝手にアタッチメントの代表にしないで」

「わたしのアタッチメントは、アヤハちゃんだもん。アヤハちゃん、怖くないよ」

 音を立てて決壊していくものがあった。アヤハは思わず口を開いた。そこから空気など漏れ出るはずもなく、それでもアヤハは深く深くため息をついている気分に浸った。今までかかっていた機械体と柔らかな部分への負荷が減退した。

 もう怯える必要などないのだと、アヤハ自身がようやく納得した瞬間だった。

「おまえ、本当に」

 そこから先は途絶えた。言ってしまえば再びトモエが勘違いすると思った。ただその言葉を伝えたかったが、それが本当に純粋な意味であるのかすら今のアヤハには計り知れなかった。

 それでももう二度と、可哀想などと解釈してほしくなかった。

 アヤハはすっと手を差し出した。自身は導くモノであり、寄り添うモノであり、従うモノであると伝えるように。

 トモエは何度か目を瞬かせて、アヤハの顔と、アヤハの手を交互に見やった。きゅっと唇を噤み、大事そうに花束を片手で抱いた。そして、恐る恐るアヤハの手を握り、頬を紅潮させた。

 きらきらと大きな瞳が光を放つ。夕暮れの朱が浸透し、煌めきを生んでいる。

「嬉しい!」

 トモエが言う。内に広がったものが限界を越えたみたいに、言わずにはいられないとばかりに喜びをあらわにする。

「アヤハちゃんに手繋いでもらったから嬉しい!」

「…………なんだそれ」

 手を繋ぐことは初めてではない。あの海で繋いだことがある。今朝の忌々しい出来事から逃げるときに、繋いだことがある。何度だってアヤハはトモエの手をとった。それがなにより嬉しいと、トモエが笑う。

「今が一番嬉しい!」

 こんなちっぽけなことで嬉しいと、トモエが笑う。

 いつだってトモエは待つばかりで、その喜びに自分から手を出そうとしない。それが酷く寂しくて、アヤハは思わず訊いていた。

「おまえから手を繋ごうとは思わないの」

 沈黙が入る。トモエがうんうん唸って、アヤハを見つめた。ちょっと心配そうに眉を下げている。アヤハは次に出てくるトモエの考えが理解できていた。学習してしまった。罪悪感を覚えながら、答えがわかりきっている返答を待った。

「アヤハちゃん、嫌じゃない?」

 かつてキスを嫌がったアヤハ。トモエを嫌いだと言い放ったアヤハ。それらすべてが目の前の少女を引き裂いていたのだ。その傷は未だに化膿している。

「振りほどかない?」

 追い打ちのようにトモエが訊いた。それはアヤハの中の苛烈さを呼び起こすものだった。煮え切らない自分自身に対する怒り。無垢な少女に不安を与えた未熟な自分自身に対する怒り。愛着機構に支配されたアヤハ自身が、それでも過去に縋り付こうとするアヤハの胸倉を掴んでいる。胸倉を捕まれたアヤハは、めちゃくちゃに抗議しながら、手を振りほどこうともがいていた。

 それでも、少女のささやかな思いを切り捨てるようなことはできない。もうしたくなかった。いつだってどちらにも手を伸ばすのが乙守アヤハだ。

「そんなこと、するものか!」

 可愛い所有者の手を振りほどくことなど、したくなかった。

「おまえ、お喋りなんだからさ。もっとわたしに話してくれよ」

「う?」

「おまえの好きなこと、わたしは知ってるけど、おまえの口から聞くことは本当に少ない。好きなことを言って、好きなことをしてくれよ」

「アヤハちゃん」

「したいことをしてよ。してほしいことを伝えてよ。本当に残念だけど、欠陥品なんかじゃないけれど、断じて違うけど……わたしは一級品でもないんだよ」

「アヤハちゃん」

「一級品じゃないからさ、おまえのことがわからないんだよ」

「アヤハちゃん……」

「おまえのことも知りたいよ」

「アヤハちゃん、泣かないで」

「……泣くわけないって、言ったよな」

「うん」

「もしも本当に泣いたとしたら、それは全部おまえのせいだから」

「うん、ごめんね」

「責任取れよな」

「うん!」

 大きく頷いたが、トモエは少しためらうように一瞬目を迷わせた。それでもすぐに顔を上げて、まっすぐアヤハを射抜いた。

「あのね、わたしね」

 照れくさそうに少女が言う。控えめに。今まで秘密にしてきたことを、初めてヒトに言うように。

「アヤハちゃんの前で、歌ってみたい」

「うん」

「歌、本当に好きなの」

「ああ」

「アヤハちゃんに、聴いてほしいな」

「歌ってよ。聴きたいからさ」

「わたしの好きな歌で、いい?」

「うん。おまえの好きなもの、教えてよ」

 今日一番の笑顔がアヤハの目に飛び込んできた。

「うわーい! アヤハちゃん、大好き!」

 我慢できないとばかりにトモエがアヤハに抱き付いた。犬のようにじゃれ付く少女の体を抱きとめて、遠慮なく頭を撫でてやる。細っこい体だ。アヤハがちょっと力を間違えれば、背骨も肋骨もすぐに折れてしまう。

 繊細な彼女を、許される限り強く抱いた。少女が痛いと叫ぶことはなかったし、それどころか甘えるようにアヤハの肩口に頬を擦り付け、小さく笑い声を上げていた。

 しばらくしてアヤハは身を離した。それでも手は離さない。ふにゃふにゃの手を握りしめ、軽く引いた。

「帰ろ。おまえまた風邪ひくよ」

「また看病してくれる?」

「どうかな」

「えー」

 白い薔薇の花がちらりと視界に入り込む。今更ながら今までの自分の愚行に泣きたくなったが、そんなことは不可能だったので、アヤハは八つ当たりのようにトモエの手を強く握りしめた。それでもトモエは手を振りほどこうとはしなかった。それどころか、その力に負けまいと、トモエが力いっぱい握り返してくるものだから、もうアヤハはなにも言えなかった。最初から、これだけでよかったのだ。

 一体なんのためにこんなものを渡してしまったのか。

 所有者に大事に握られた花束は、当分はアヤハたちには不要の代物だ。