立派な桜だったように見えた。窓の外に数秒だけ映った花の色を、少し身を乗り出して目で追おうとしたが、すぐにそれも遠ざかって見えなくなった。しばらくそのまま窓に張り付いていたが、結局あの華やかな姿を見ることは叶わなかった。どうやらこの付近に咲いている桜はあれ一本だけだったようで、シズカは大人しく背もたれに身を委ねた。
「惜しいことをした」
「なにが?」
シズカの対面に腰かけていたリョウが、タブレットをいじりながらさほど興味なさげに問いかける。どうやらこの少年は、電車から見える景色よりも、自身に届いたメッセージの確認に夢中らしい。声はシズカに向けられていても、結局視線は一度も自身の所有物をとらえようとはしなかった。シズカは目を細めて所有者の顔を眺め、頬杖をつく。
「桜の木があったんだ。気付いたんだが遅すぎたな。一瞬しか見ることができなかった」
「ふうん。おまえ、花とか興味あったんだな」
「桜は特別だ。おまえを連想する」
「恥ずかしいやつ!」
リョウの意識がぱっとタブレットから引き剥がされた。勢いよく顔を上げ、堪え切れないとばかりに声を荒げる。赤らんだ頬とその勝ち気そうな瞳がこちらを向いたことにシズカはようやく満足し、にやりと嫌に渋く笑んでみせた。
電車は大きな揺れを乗客に感じさせることなく目的地へと走る。車内は穏やかな空気が流れていた。だからこそ、リョウの声に訝し気な視線をやる乗客が多かった。少年はそれらの視線に当てられて、真一文字に唇を引き結ぶ。ついで、じとりと不埒な発言をもらしたアタッチメントを睨み付けた。
「おまえ、わざとやっただろ」
「どうだろうか」
「いつもと違って悪意を感じたんだけど」
「そんなタブレットに現を抜かすからだ」
「小さい男だな!」
もっと優秀な機械が目の前にいるだろう、と言外にほのめかすシズカに、リョウは呆れたように大きく息を吐いた。
少年の目が追っていたのはメッセージだ。データのやりとりはアタッチメントでもさすがに不可能だった。確かに小さかったなとシズカは自責する。そんなアタッチメントの心中など知らない所有者は、タブレットの電源を落とすと、見せつけるように乱暴にリュックへと詰め込んだ。
電車は春の草原を越えた。車窓から覗ける景色から徐々に緑が失われ、見慣れた無機質な白が増えていく。健全な色。穢れのない色。それでいて染まりやすく、眩しいくらいに目を焼く、思春期の心の色と定められたもの。
「でもさ、おれのどこが桜だよ。苗字に桜があるってだけだろ」
シズカと同じように窓枠に肘を置き、行儀悪く頬杖をつく。そんなリョウの大きな瞳が、流れゆく景色ではなくどこか遠くを見つめていることをシズカは察した。
「桜木綾」
じん、と失われた心臓に沁み入るなによりも大切な響きを、シズカは噛みしめる。名を呼ばれた少年は、シズカの声に反応を示し、ぱちぱちと目を瞬かせている。
「いい名前だな」
「そうかあ? いつもアヤちゃんってからかわれてたんだぜ。おまえだって、その名前で女の子と勘違いされまくったんじゃねーの」
冬原シズカは、確かに生前はそうからかわれていたように思う。もう今のシズカにとって、そんなことは別人の生活としか思えない。映画館で一人、モノクロで時折ノイズがはしる、不完全で普遍的な日常風景を見ているような感覚に等しい。
「そうだったかもしれないな」
「他人事だな」
「他人事だ」
「それも……そっか」
そこで会話はふっつりと途切れた。とくにそこに気まずさなど漂ってはいなかったが、再びリョウは目を細めてガラス越しの光景に目をやった。
おそらく彼は、窓の外を眺めながらも、今まさに会いに向かっている両親のことを思い出していたのだろう。その行為は生者にのみ許されたものであり、境界線に佇んでいる付属品の群れには不可能だ。心臓が動いて、血が通っていたころの、自分そっくりな誰かのログを見返すくらいしかできなかった。それはアタッチメントのシズカにとっては無意味なものでしかない。目の前の少年が興味を示すならば、読み返して話す気にもなれるが、それを望まれていない今、所有物に過去は不要だ。シズカが望むものは現在であり、未来だ。もちろんそれは自身ではなく、愛の対象であるこの少年のもの。
シズカはもう窓の外は見なかった。ただじっと、夜色と称された人工物の瞳で、心臓が動いて、血が通っている少年を見つめている。
二人の口から言葉が発せられたのは、電車が駅に着いたころだった。
連休の昼間だからだろうか、無機質な構内にはヒトが溢れかえっていた。友人や家族と出かけるヒトもいれば、リョウと同じようにアタッチメントとともに行動している学生らしきヒトの姿も見られた。シズカは自身と同じく白の外套を纏い、黒い展開箱を背負ったアタッチメントを一瞬目で追いかけたが、無意味だと判断し視線をリョウに戻した。ごくりと生唾を飲んで、僅かに目を瞠ったリョウは、頭一つ分上にあるシズカの顔を見つめ、前方を指さした。
「ここを突っ切ってくとエスカレーターがあるから、そこで降りて左に曲がる。そのまままっすぐ行くと改札あるから、出てすぐのところで待機な。はぐれたらとりあえずそこ向かってくれ」
普段は学生寮から徒歩で学校に向かっているからだろうか。リョウは人混みに慣れていない。駅は巨大迷路だと言われたこともあるほど複雑な作りになっている。ちらりと電光掲示板を見れば、そこの前にヒトが横一列に並んでいるのが見えた。もしくは手元のタブレットで駅構内の地図を開いて歩いているヒトも確認できる。だからこそリョウはシズカに道順を伝えたのだろう。
しかしながら、リョウは失念している。アタッチメントと所有者は基本的に離れることはあってはならない。もちろんトイレや風呂など、あまりにもプライベートなものは除く。同じ屋根の下にいるのであれば同じ部屋にいる必要はないが、ここではぐれてしまえばシズカはリョウを認識できなくなる。それは罰せられるべきものであり、シズカが恐れていることだ。
ぴんと立ったままの少年の指先を、シズカはそっと下ろさせた。眉根を寄せて様子を窺うリョウの手の平を、そのまましっかりと握りしめる。
「え」
「なぜ、はぐれることを前提に話す?」
あっと少年は口を開き、シズカの言わんとすることを理解した。シズカがアタッチメントの正しさからそれる行為を嫌っていることも思い出し、それでもなにかと葛藤していた。そのなにかの正体をシズカは当然見破っているが、とくにそれに触れる気はなかった。触れればきっと、少年は勢いよく手を振りほどき、シズカを置いていく勢いで人混みを突っ切るだろう。所有者が所有物を置いていく行為は、さすがに褒められたものではない。
「えっと、だって」
「なにか他にいい案があったか」
「……ない、です」
「なら、これでいいだろう」
「よくねえだろこれ!」
リョウは困惑したままそう叫んだが、電車内と違ってリョウに視線をやる者はいなかった。彼らは地図と格闘し、あるいはこれからの予定に胸を躍らせ、友人や家族との話に夢中になっている。リョウもそれに気付き、自身の手を握りしめた所有物に羞恥と迷いの混じった瞳を向けたが、結局肩を竦めるだけで、乱暴に振りほどこうとはしなかった。
「離せって言ったら離せよ。今はいいけど」
「もちろんだ」
嘘くせえ、というリョウの引き攣った呟きは聞き流す。少年はそのままシズカの手を握り返し、意を決して人波に飛び込んだ。少年の動きに同調しつつ、シズカは彼の首周りを見つめた。パーカーの裏地の春色のストライプに、電車で一瞬だけとらえた桜の木を思い出す。
「リョウだな」
その呟きは、喧騒と人の波に意識を持っていかれている所有者の耳に届くことはなかった。
少年の手はエスカレーターの前でようやく暴れ出した。約束通り抵抗も躊躇いもなく手を離す。リョウは虚を突かれたように振り返ったが、そんな自分の反応にも驚いていた。 シズカに内蔵された愛着機構によって様々な感情の衝突が観測されたが、そのまま言葉もなくエスカレーターに乗り、肩を並べて改札を目指した。シズカの手はリョウの体に触れることはなく、リョウも気にするそぶりを一切見せなかった。
改札を通り、巨大なモニュメントのあるポイントに着くと、リョウは見慣れた顔を探していた。しばらくきょろきょろと周りを見回したかと思えば、リュックからあのタブレットを取り出し、メッセージを指先で開いていった。ぽん、と小気味良い電子音とともに受信されていくものの、リョウはそれをスライドして消し去っている。結局迎えがまだとわかり、二人そろって駅広告の前で待つこととなった。ぐるりと円を描くように展開する映像広告を横目でちらりと見やったが、興味を引くようなものはなかった。薄型のディスプレイパネルから次々と飛び出す文字やキャラクターの誘いを無視し、背負っていた漆黒の展開箱を下ろす。
「おまえ、やっぱ素直だよな」
同じく映像広告を流し見ていたリョウが言った。シズカはその発言がいつのことを指しているのか見当がついたが、それに触れるべきか考え、返答に数秒かかった。
「好ましくないか?」
「いや、いいやつだなって思った」
シズカは少年の笑顔と音声を自身のメモリーに忘れずに刻み込んだ。ついで自信たっぷりに人工声帯を震わせる。
「おまえが選んだだけはあるだろう」
「おまえのそういうところはなんかやだよ!」
返答に誤りがあったとシズカは一人反省し、大人しくリョウの隣に佇んだ。
喧騒を一時的にシャットアウトし、愛着機構でリョウの心拍数と体温をはかる。結果は一瞬で算出された。緊張はしていない。無駄な発汗もなく、ドーパミンも正常値。手持ち無沙汰の行為ではあったが、所有者の健康を認識し、シズカは一人で満足に浸る。
外部の音を受信し直し、モニュメントの先にあるロータリーを一瞥した。穏やかな春の陽気がそこにあった。そんな春に満ちた外の世界からふわりと空気が流れ込む。夜色の髪と白い外套の裾がひらめいたが、どちらも指先で軽く払って整えた。
遮光と断熱の機能を搭載した特殊な外套は、首に巻いたチョーカーと同じく、アタッチメントとヒトの見分けるためのトレードマークとなっている。とうの昔に不気味の谷を越え、完全にヒトと見分けがつかないところまで開発が進んでいたアタッチメントだが、中身はヒトとは言えない代物で溢れかえっている。
稼働する肉体。ヒトの残滓である精神。慈しみの愛着機構と殺戮の排除機能を組み込まれた心。それらを打ち震わせるリソースはただ一人しかいなかった。
保存されていた少年のログに再び目を通す。これが一冊の本であったなら、もう擦りきれてボロボロになっているだろう。もしそうなったとしてもシズカは手放さない。そしてこの内容を、誰かに話すつもりなどなかった。プライバシー保護のための音声出力のブロック機能が常時作動していることもあるが、それがたとえ機能しなくても、彼の道を軽く口にすることはしないと誓っている。
少年のこれまでに、彼にとっての大きな存在が多数見られた。彼が学生寮に入るまで、ずっと近くにいた存在が。シズカよりもずっと長い間、彼を思いやって慈しんできた重要人物。きっとその想いはこれからも変わることはないだろう。
そんな少年にとっても、少年を好ましく思うアタッチメントにとっても大切な存在に、ログではなく、初めてリアルで対面する。
「お、来た」
快活な少年の声が発せられる前に、シズカはこちらを認識し歩み寄ってくる人物に気が付いていた。シズカは姿勢を正し、半歩後退した。少年の従者のように慎ましやかに。
すぐ傍までやってきた黒髪の女性はその少し気だるげな瞳でまじまじと見つめ、思わずといったように笑んだ。唇から覗いた小さな八重歯と、後ろで束ねられているものの落ち着きなく跳ねている髪に、ああ、紛れもない本人だとシズカは思う。彼女が纏っていた先ほどまでの気だるさは掻き消えて、少年と同じ色の瞳で、シズカをまっすぐに射抜いていた。挑発的なくらいに。それでいて、どこか信頼感を覚えているような馴れ馴れしさを含んで。
「元気だね、よし。久しぶり」
落ち着いた色合いのスプリングコートを翻し、今度こそ本当に彼女がシズカと対面する。かつん、と低めのパンプスが床を叩いた。
「あと、初めまして。冬原シズカくんだよね」
その問いかけに無言で肯定の意を返したシズカは、そのまま目を閉じて顎を引き、深々と頭を下げた。所詮は付属品だという理由からか、アタッチメントは他者にヒトのように丁寧に挨拶の言葉を発しない。シズカも自身の底に組み込まれていたアタッチメントの礼儀を作動し、自身が持ち得る丁寧さを最大限に体現した。そこでようやくシズカは自身の心の動きを正しく認識した。自分は今この瞬間、少なからず緊張しているのだと。
「ふは、本当に、おまえなあ」
勝ち気な少年を想わせる口調で、女性は笑った。彼女の指す「おまえ」に反応を示したのはリョウであり、どこか居心地悪そうにじとりと彼女を見つめていた。
「好みがわたしと似てるわ。馬鹿丁寧な子好きでしょう」
「いや、こいつわりと雑なところあるぞ」
「はは、そのギャップが好きなくせに」
リョウは呆れたように肩を竦めたが、すぐにシズカに振り返った。少年の黒髪がその動作によって揺れ、毛先が落ち着きなく跳ねた。
「おれの母親です」
「桜木ツムギです。まあ、アタッチメントだし、よろしくはしなくていいからさ。名前だけでも覚えといてよ」
シズカはもう一度、今度は先ほどよりも浅く頭を下げ、自身に投げられた言葉を受け取った。そこにアタッチメントに対しての侮蔑や差別の意味が含まれていないことをシズカは把握している。所有者の家族や友人に敬意を表すことができても、アタッチメントは結局自分にとって唯一の人物を優先し、それ以外は簡単に切り捨ててしまう創造物だということを、彼女がしっかり理解しているだけの話だった。
「とりあえずお話は家に着いてからしようね」
ツムギは軽くリョウの背を叩き、鼻歌を歌いそうなくらいご機嫌な様子で歩き出した。なにが彼女をそんなに喜ばせているのか、シズカは思い至らなかった。
「駐車場行くぞ。そこから車で家行くから」
リョウに促され、シズカはようやく少年の隣に立った。
「……あのさ、別にそんな気遣わなくても大丈夫だと思うんだけど」
リョウが内緒話をするかのようにシズカに囁いた。シズカの一連の動きを彼はちゃんと察していたらしかった。それでもシズカはその気遣いにノーを示した。
「そういうわけにはいかない」
「ええ……」
「それともなんだ、俺に頭を撫でられているところをご両親に見せたいのか」
「おまえなんで中間を作らねえんだよ! やだよ!」
〇と一しかない、というのがリョウのシズカに対する評価だった。それは違うとシズカは伝えたが、どうも所有者は納得していないようだった。
少年とともに駅をあとにする。ディスプレイパネルから飛び出した旅行のキャンペーンガールのキャラクターが、最後まで愛想よく笑顔を振り撒いていた。
桜木紡。少年の過去によく出てきた人物。能力保持者ではなく、アタッチメントとも無縁だった彼女。シズカは気分よく車を走らせるツムギと、シズカの隣でなにをするでもなくぼうっとしているリョウの顔を見比べた。髪質や小柄な体躯、自己主張の激しい勝ち気そうな大きな瞳。少年が母親似だと再認識した。そんな少年はぱっとなにかに反応し、車の窓を半分開けた。流れ込む春の息吹に撫でられてくすぐったかったのか、小さく肩を震わせる。
「桜」
少年の唇がたった三文字を紡いだ。シズカはその言葉に誘われるように彼の瞳の先を追った。あのとき見た桜よりも立派とは言えないが、それでも充分見ごたえのある桜並木。 風に乱された髪をゆるく払いながら、リョウがおかしそうにシズカを一瞥した。
「シズカがさ」
名を出されてもシズカは口を開かない。ただ彼の発言を促すように無言を差し出した。
「おれのこと、桜と重ねてるんだってよ」
「へえ」
「おれそんな儚いかな」
「いや、散りそうにないね」
からからと少年のように笑いながら、ツムギはハンドルを切る。いささか乱暴ではあるが、白線をはみ出すことも、点滅する信号を一気に突っ切るようなこともしない。それが彼女の本質を表しているようだった。
「……あー、でも、わかる」
先ほどまでの少年らしさは身を潜め、かわりに彼女の声音に母親らしさが満ちていく。シズカには彼女の感情の観測など不可能だったが、それでも直感で得られるものはあった。
「あんたときどき、びっくりするほど勢いよく散ろうとするよ」
「は?」
その発言に小首をかしげたのは少年だけだった。彼は結局、春の空気が沁み渡っていた車から降りるまで、ずっと桜と自分がイコールで結ばれることに疑問を抱いていた。少年と寄り添ってきた母親も、過去のログをインストールし何回も読み耽っていたシズカにも、心当たりは山とあった。
そんなこととは知らない少年は、車から降りると軽やかに地を蹴って真っ先に玄関に向かった。そう急かさない、と車をロックしたツムギが言う。シズカは目の前の二階建ての建物をざっと見通した。横長の長方形型の、大きくも小さくもない一般的な家。穏やかな白の外壁。アクセントのように玄関扉とベランダは落ち着いた黒にされている。健全な、ごく普通の色。ここで少年は、両親から愛情を注がれてきた。他者も自分自身も愛せるリョウというヒトの時間が刻み込まれた場所。シズカにとって、そこは簡単に踏み込んでいいのかと躊躇う場所だった。離れる気など毛頭ないが、それでもなかなか一歩が踏み出せない。
「どうした?」
リョウが後方で立ち止まったシズカに声をかける。こっちに来い、と楽しそうに手招いて。まるで、今まで大切にしまってきた宝物を見せびらかす子どものように。
シズカは知らず強ばっていた人工物の肉体をある程度弛緩させた。ヒトで言うリラックスした状態になるまで。純白の外套を脱いで脇に抱え、ゆっくりとリョウのもとへ歩み寄る。そのころにはツムギはすでに玄関扉を開け放ち、二人を置いて家の中に入ってしまっていた。
「さっきも言ったけどさ」
少年の手の平がシズカの背中を軽く叩く。
「なんにも遠慮することねえからな!」
シズカは元気な笑顔を見せた少年の頭に手を添えた。ぐしゃぐしゃと髪を撫でてやるか迷ったが、結局そこで手を離した。
家にあがったリョウは、まず洗面所に向かった。シズカは大人しく廊下でリョウが出てくるのを待っていたが、そこでばったり重要人物と出くわした。二階から降りてきたその中肉中背の男性は、一人で廊下に佇む見慣れない男を見て、ひゅっと息を呑んだ。ツムギから聞いているはずじゃないのかとシズカは小首をかしげたが、恐る恐る近寄ってくる黒髪の男性にしっかり向き合った。そこで手を洗い終えたリョウが、ようやく洗面所から戻ってきた。不自然に対峙する二人の男を見やった少年は、まずは怯えている男性を安心させようと動いた。
「こいつがおれのアタッチメントの冬原シズカ」
「あ、え……っと……え?」
「怪しい男じゃないから大丈夫だっての」
困惑をあらわにして疑問符を浮かべた男性に呆れながら説明し、リョウはシズカに振り返る。
「おれの父親です」
そこで、沈黙の時間が数秒挿入された。男性はまじまじとシズカを見つめていた。凝視と言っていい。頭の上からつま先まで、じっくりと。それこそ鑑定されている気分だった。奥の部屋からコートを脱いだツムギがやってくる。やりとりは聞こえていたらしく、面白そうに笑っていた。そしてようやく男が意味を持つ言葉を発した。
「…………桜木コウキです」
あまりにも重々しい名乗りに、なにかこの短時間で彼の気を悪くさせてしまったかと自身のおこないを省みようとしたが、シズカはアタッチメントの礼儀作法を優先した。決してヒトを害するモノではないのだと証明するように、深く長い礼を。
「ごめんね、なんか緊張してるみたい」
今回は勘弁してやって、とまで言ったツムギに承知の意を示すために小さく目礼する。シズカも彼の全身を覆う緊張感は見て取れた。少年のログで見たとおり、人見知りをする性格のようだ。そんな彼はシズカを見つめながら、なにかを言おうとしたのか再び唇を開きかけた。そこで再び停止。そして逡巡。彼は緊張したまま口を閉ざした。そのままゆっくりと薄い小型のプレートを懐から取り出そうとしたが、それをやんわりとリョウに止められていた。一瞬見えた「桜木晃紀」の文字に、ああ、とシズカは声をもらす。名刺なんてアイテムは、もらう機会などないと思っていたのだから。
「お気遣いなく。ヒトではなく、ご子息の所有物だと思っていただければ幸いです」
意思を音声として出力。設定された、落ち着いた低い男の声。コウキはシズカの声を深く噛みしめるかのように、ゆっくりと頷く。無理やり自分を納得させているように見えて、シズカは再び小首をかしげた。
それからシズカは受け身の姿勢でいた。アタッチメントとして当然の姿勢だった。所有者以外には積極的に接しない。それを忠実に再現し、リョウの傍で大人しくしていた。ツムギがシズカに話しかければ、それに応答した。
コウキがちらちらと視線をやっていることにも気付いていたが、いざ目を合わせれば目を伏せるのだから、シズカはやはり口を出すことはなかった。それでも思うところはあり、シズカはそっとリョウの部屋に移動した。気を遣わせている自覚はあったため、せめて目につかないところにいようと思っての行動だった。同じ家にいればリョウの様子は察知できる。
しばらくそこで本を拝借して読んでいたが、少年がばたばたと階段を駆けあがってくる音を聞き、本を閉じた。そのまま本棚に戻して、ついで時計を見る。随分長い間読み耽っていたようだ。それでも続きは気にならなかった。少年が来たのだから、本に目を向ける必要はない。扉を開けた少年に、忠告を一つ。
「慌てると転ぶぞ」
「大丈夫だよ」
苦笑しながら少年は畳んであったシズカの白外套を手に取った。
「散歩行こうぜ」
「こんな時間にか。もう六時過ぎだぞ」
「この時間だから独り占めできるんだよ」
少年はそのままシズカに外套を投げ渡して階段を下りていった。シズカはそれを身に纏い、部屋の隅に置いていた展開箱を背負って後を追う。キッチンからツムギとコウキが顔を出し、身支度を整えたリョウとシズカを見て、おや、と瞬いた。
「どこ行くの、二人とも」
「ちょっと散歩」
リョウは玄関まで走っていき、スニーカーを履くと、靴紐をきゅっと縛った。
「行ってらっしゃい」
ひらりと手を振るツムギに手を軽く振り返し、リョウは元気に飛び出した。
手入れの行き届いた公園だった。丸く形を整えられた小樹が公園をぐるりと囲むように連なっている。パステルカラーのブランコにジャングルジム。乳白色の砂場に、緩やかな角度の滑り台。そんな遊具の向こう側に、大きな木が一本生えていた。その樹のまわりに、円を描くように木製ベンチが設置されている。近くには純白の水飲み場と洗い場があった。一切の穢れを許さないという意思を感じる。
シズカは大木に駆けていくリョウをゆっくりと追いかけながら、立派な漆黒の時計台を見上げた。そこに埋め込まれた銀盤の上で、長針が時を刻んだ。六時二十分。六時の鐘はとっくにその仕事を終えている。公園にはリョウとシズカ以外、誰もいなかった。
よっこらせ、というどうも年寄り臭い掛け声とともに、少年は遠慮なくベンチに腰掛けた。ここが特等席だと言わんばかりに。そんなリョウの隣に座るべきかと思案するシズカに、少年は苦笑して隣を軽く叩いた。ならば遠慮は不要だった。展開箱を下ろし、シズカも腰を落ち着ける。
「おれ、小さいときの記憶なんて全然ないけどさ、この公園のことは結構覚えてる」
少年の目が細められた。懐かしさを帯びて。真っ黒な、シズカとはまた違う色合いの瞳が、まっすぐに遊具をとらえていた。
「あのジャングルジムで怪我したんだ。小学一年生のとき……だったかな」
ジャングルジムの角は丸く、外側は薄く柔らかい素材でコーティングされている。大切な子どもたちを傷つけないための加工。それでも少年は怪我をした。シズカはログを思い出すが、もう知っているなどという無粋な発言は控えた。少年の声と言葉で綴られる過去に耳を傾ける。
「とにかく天辺に登りたくてさ、怖かったけど毎日ちょっとずつ登ってたんだ。それで、やっと上まで行けるようになって……嬉しかったなあ。そのときはやれなかったことがやれたって気分良かったんだけど、よかったのはそこまでで、下見たらさ、すげえ高くて。降りるとかほんと無理だって思った」
「今と変わらないな」
思わず声が出た。指摘せずにはいられなかった。リョウは首を振って否定したが、すぐに先を続けた。
「でも、そこで六時になっちまって。みんな帰り出したんだ。おれも鐘が鳴ったら帰ってこいって言われてたからさ、ずっとこのままだと怒られるって思って、怖くなって思い切って飛び降りた」
「天辺から?」
「当たり前だろ?」
深くため息をつきたい気分だったが、そんなことはアタッチメントには不可能だった。仕方なくシズカは続きを促した。
「それで、思いっきり着地失敗してさ。まあ、そりゃそうだよなあって思うけどな。怖くて目瞑って飛び降りたんだから着地なんてできるわけねえし。案の定頭打った。でもさ、たんこぶだけで他に問題はなかったんだ。あとは擦り傷とかで済んだし。肩は青痣になってめちゃくちゃ痛かったけど……肩から着地してたからセーフだったのかもなあ」
「落ちた時点でアウトだ」
「まあ落ちちまったもんはしょうがねえって! 骨折もしてないし!」
「………………それで、続きは?」
「そんな怖い顔するなよ。えっと、そのときはもう誰も他にいなかったからさ。一人で頑張って帰ったよ」
「泣きながら?」
「なっ、泣いてねえよ! 泣いてない……はず」
「……そうか」
「それは、まあ、置いといてだな。ちゃんと帰ったよ。でも、なんか母さんが家の前にいた。いたっていうか……ちょうど玄関から出てきたって感じだった。多分おれが遅いから心配になったんじゃねえかな。珍しいなーって思った。なんか、いつもおれのこと放っておいてくれたからさ」
ツムギは子どもに深く干渉するタイプではない。それに対して良い悪いと評価する気は全くなかった。ただ、そういう家庭でこの少年が育ったのだということを再認識しただけだった。
「怒られるかなーって思ったらさ」
「ああ」
「すげえびっくりされて。そのまま家に入れられて。事情聞かれた。喧嘩したのかって。見たことない顔だった。あんな苦しそうな顔するなんて、思いもしなかった」
「心配だったんだろう」
「うん。それで事情話したら、怖がりなくせに思い切りが良すぎるってめちゃくちゃ叱られた」
「そうか」
「そのまま病院に直行して、そのあと、帰りの車の中だったかな。そのときに謝られた」
「なにを?」
「そのとき傍にいてやれなくてごめんねって」
風が吹いた。乱された前髪で、少年の瞳が隠された。シズカからは、彼がどんな目でこのことを語っているのかわからなかった。少年の声音は喜びや寂しさなど、簡単に言い表せるものではなかった。
「まあ、好き勝手したのはおれだったから大丈夫なんだけどさ。小学生になったんだから親と遊ぶのも恥ずかしいって思ってたの、母さんもわかってくれてたんだと思うし。それでも母さんが、そういうときは誰かに助けを求めなさいって言ってくれた。そのときは、誰もいなかったからああするしかなかったんだけど」
少年がようやくシズカを見る。どこか誇らしげに、それでいて、安心しきった笑顔で、彼は右手を差し出した。
「今は、おまえがいるもんな」
シズカは思わずぱちぱちと目を瞬かせた。弱いところを撫でられたようだった。ときどき少年は、こうして好意を剥き出しにしてくることがあった。いっそ無防備だとも言えるそれに触れてもいいのかと思わせるほど。それでも少年の好意を受け止めようと、シズカも手を差し出した。そっとリョウの手を握りしめながら、痛いと怒られたことを思い出す。少年の震え上がった肩と、握りすぎて赤くなった手と、しかめられた顔。そういったものも一緒に思い出したが、今の少年とはまるで違った。穏やかな少年の顔。少年がこんな表情をしてくれている。アタッチメントとしてちゃんとやれているということを認識させられた。
「熱烈だな」
「そうでもないだろ!」
アタッチメントは拒まない。この手を振りほどくのは、所有者しかありえない。所有者がこの手を振りきって先に行ってしまうのはいつだろうか。そのときが能力の終期であってほしいと、シズカはひっそりと願う。この少年は、ときどき勢いよく散ろうとしてしまう子どもだということを、シズカは嫌というほど理解していた。
「なんか懐かしくなってきた」
そう言うと少年はジャングルジムに歩み寄って、軽々と天辺まで登り切ってしまった。そのまま飛び降りる気かとシズカは身構えるが、色々学んだリョウはそんな真似はせずにゆっくりと降りてきた。
それでは物足りなかったのか、次はブランコを漕ぎ出した。背中を押してやろうか、とシズカが訊けば、手加減なさそうだからやだ、と少年は言う。あのとき見せた信頼感はとっくにそこらに放られていたようだった。シズカも隣のブランコに腰を下ろすが、リョウのように漕ぐことはしなかった。
何回か鎖がこすれる音が続く。そこに小さな別の音が混ざった。シズカはそれを聞き逃さない。見れば満月のような盤の上で、長針がまっすぐ天を指し示し、短針が七に移動していた。
「いい子はもう帰る時間だ」
少年はブランコからぴょんと飛び降りて、きれいに着地してみせた。軽く服を払って、どこか不満げにシズカに歩み寄る。
「ガキ扱いはやめろよ」
むっとしたようにリョウが言い返したが、そこまで強い嫌悪感は感知されなかった。シズカは立ち上がって背筋を伸ばした。自身を研ぎ澄ますように。そして大袈裟に一礼してみせた。脳内で完璧なまでに燕尾服を着た自分自身をイメージし、それを実行した。いたずらをする子どものような気持ちだった。
「ご主人さま、お体が冷えてしまいます」
「な」
「そろそろお戻りに」
「ストップ、ストップ! ガキ扱いでいいから!」
ご主人さまである少年は、自身の従者の行動と言動に赤面していた。傅かなくてよかったな、とシズカはご主人さまにばれないように、こっそりと呟いた。少年は本当に寒かったようで、盛大なくしゃみをして、身を震わせた。
行きと同じ閑散とした住宅街を歩く。眩しすぎない優しい色合いの街灯。少年はここをいつも一人で歩いていたようだ。
「カレーの匂いするな」
「ああ」
「今日の夕飯なんだろうなあ」
「おまえの好物じゃないのか? 久しぶりの帰省だろう」
「じゃあカレーだな」
少年が嬉しそうに言い切った。
「父さんもカレー好きなんだ。だから多めに作ってるかもなあ」
そこでシズカがはっとする。彼はあのときシズカになにか言いたげで、それでもシズカと目が合うと遠慮がちに目を伏せてしまっていた。
「俺は彼に、なにかしてしまっただろうか」
遠慮するのはアタッチメントのほうだというのに、所有者の親を遠慮させてどうするのだとシズカは反省する。
「あ、それなんだけど」
少年が振り返りもせず、シズカの思考を断つように言葉を投げかけた。心配はいらないと言い放つ口ぶりだった。
「シズカのこと女の子だと思ってたからびっくりしたんだってよ」
停止した。思考も、肉体も。シズカが立ち止まったことに気付いたリョウも歩みを止め、ようやく振り返った。シズカの面貌を見て、意外そうな顔をしたかと思えば、すぐに面白くて仕方ないとばかりに笑い声をあげた。どうやらとんでもなく情けない顔を晒していたようで、シズカは気を引き締め、努めて冷静に問う。
「ツムギさんは知っていただろう」
「母さん、名前だけ伝えて性別は教えてなかったらしいぜ。シズカだから女の子だーって父さんも納得してたみたいで、でも背の高い男が来たからびっくりしたってさ」
「……そうか」
「謝りたいけどそんなこと言ったら気を悪くするんじゃないかって困ってたぞ」
「……そういうことだったか」
あまりにも子どもっぽい、無垢な響きを帯びた呟きだった。胸に刺さっていた小さな棘が取れた瞬間だった。
「嫌だったか?」
と、少年が顔色を窺うので、シズカはかぶりを振る。
「いや、不快感はない。むしろ安心した」
「ならよかった」
ほっとしたように少年が言う。
「二人とも能力保持者じゃなかったからさ、母さんは平気だけど父さんはどう接すればいいかいまいちわかってないみたいだ。でも話したがってる」
楽し気に笑いかけながら、リョウが一歩踏み出した。シズカもそれに倣って歩を進めようとしたところで、迫りくる音を拾い上げた。咄嗟にリョウの手を引く。
「お、わ」
曲がり角から自転車が勢いよく飛び出してきた。若い男性だった。すぐ傍に少年がいることに気付き、ぎくりと顔を強ばらせたが、そのままスピードを緩めることもなく走り去った。すみません、という申し訳程度に置いていかれた言葉は、リョウにはまったく届いていなかった。
「あ……ぶなかったあ……っ!」
少年が胸を押さえて言う。心臓の一瞬の収縮と体温の上昇を感知。相当驚いたようだった。実際シズカが手を引かなければリョウは自転車に轢かれていた。
「変な汗かいた……」
「こちらも止まるべきだったが、ルールを無視したあの男が悪いな」
一時停止の表示を無視して走っていった男の背中を目で追おうとしたが、もう姿は見えなかった。秩序を乱す行為と、それを平然とおこなうヒトをとことん嫌うシズカだが、憎い相手に執着する性質ではない。少年は無事だ。シズカはもうあの男のことは忘れ、引き寄せた小柄な主人のことに意識を向けた。ぴょんと普段は元気よく跳ねている黒髪が、どこか萎れているように見えた。
「ごめんな」
少年の、少し疲れたような声音。まだ心拍数は正常値に戻らず、本人が言うとおり発汗も確認できた。おまえが無事ならそれでいい、という意思を音声に変換する前に、リョウが心配そうにシズカの顔を覗き込む。
「本当にごめん、嫌な思いさせたな」
その言葉の意味をとらえ損ね、音声出力を停止する。
少年の安全を保障したところで、シズカはあの距離でやっと自転車の音を聞き取った自分自身の怠慢を責めた。少年の会話と少年の思い出の地に、意識を向けすぎていた事実を。 それでもシズカはこの一連の心の整理を顔には一切出さなかった。これが、少年の指す「嫌な思い」なのだろうか。
シズカがなにかを言う前に、リョウは続ける。
「おまえ、怖がってるだろ?」
「怖がる……?」
シズカの恐怖はリョウを失うことと、社会から自分が欠陥品だと貶められることだ。
確かに危険はあり、対処も幾分か遅れたが、確実に回避できるとシズカはわかっていた。リョウが被害を受けないことを充分に理解していた。ここに恐怖は見られなかった。見られなかったが、言われてみれば、胸の奥底にある最も柔らかな部分でなにかが渦巻いていた。それがなんなのかわからなかった。少年が指摘した恐怖がこれなのかも確認しようがなかった。
「もう大丈夫だ、大丈夫」
リョウがシズカの肩をさすった。まるで、怖い目に遭った子どもを慰めるかのように。そんな少年の腕をずっと握りしめたままだったことに、ようやく気付く。食い止めるために伸ばされた腕が、今の今まで縋るように少年の腕を手繰り寄せていたことに。
恐怖。その二文字を理解しきれないまま、シズカは少年の腕を離した。そっと。名残惜しむように。
「おまえは無事だ」
「うん。すげえ元気」
「なら、俺が怖がることはない」
「……おれの勘違い?」
「むしろ、怖がるのはおまえのほうだと思うが。ああ、ようやく落ち着いたな」
リョウの健康状態を観測。そのどれもが正常値を示している。少年も自身の胸を撫でさすり、やっと自覚したようだった。
自身でもわからないくらいシズカはほっとした。この異常なまでの安堵はなんだ。少年の無事はわかっていたというのに。自身のフィールドに別人が侵入して感情をジャックされた。たとえるのなら、そんな気分だった。
さて、家に帰れば、少年はきらきらと目を輝かせた。自身の予想が当たったと、口元を緩めた。それでも確認せずにはいられないと、少年が問う。
「今日、夕飯なんだっけ」
勢いよくニンジンを切りながら、そんなの決まっているだろうとばかりにツムギが言う。
「カレーだけど」
「よっしゃ!」
少年は無邪気にはしゃいだ。
「一番風呂、どうぞ」
そんなツムギの勧めをリョウは素直に受け取り、さっさとリビングから出ていった。シズカはまたリョウの部屋に戻ろうかと考え、すぐに少年の言葉を思い出してソファに腰を落ち着けた。彼らが話したいと言ってくれているのに、部屋に閉じこもるようなことはもうしたくなかった。キッチンでツムギが食器を洗っている。彼女の鼻歌を聞きながら、そのときを待った。その瞬間はすぐに訪れた。
「いい、かな」
遠慮がちに声をかけたのは少年の父親だった。あのとき可哀想なくらい狼狽していた彼からのアクション。シズカは腰を上げかけるが、コウキにやんわりと押しとどめられ、再び腰を下ろすこととなった。シズカは無言で隣にずれ、そっと促した。その一連の動きで、シズカが他者の言葉を聞く準備を整えたとわかったコウキは、差し出された場所に腰かける。シズカは彼が切り出すのを待ち続けた。数呼吸の間、コウキは指を組んでじっと思索していた。
「きみのことを、デリケートだと思っているよ」
いつの間にか生まれていた二人の間の緊張を取り払うように、コウキが本題に入る。下手に前置きを作れば作るほど、気まずい空気が流れると思っての行動だったのかは、シズカにはわかりかねた。そして、今の言葉も一瞬誤解しかけた。コウキが言ったのは個ではなく総合に対しての評価。彼は冬原シズカ個人のことではなく、アタッチメントの話がしたかったようだった。
「そんなにも傷つきやすい形をしているんだ」
語りはぎこちない。自分で自分を探っている様子だった。なにを伝えたいのか、なにを聞きたいのか、脳内で一つずつ整理している。
「ヒトはどうしたって、ヒトの形をしたものに同情してしまうよ」
そこでようやくシズカは口を開いた。
「アタッチメントは付属品だと、割り切ることが難しいのですか」
彼はさっと顔を強ばらせたが、すぐに困ったように頬を緩めた。そんな苦笑にシズカは首を振る。悪いことではないのだと、ヒトを安心させるように。
「人々は、アタッチメントはヒトとは違うと理解しています。それでも、アタッチメントを道具だと割り切るヒトはなかなかいません。それこそ接し方がわからないあなたのようなヒトは多くいますが、規則どおりにむやみやたらに他者のアタッチメントに声をかけないようにしているだけです」
「頭で理解していても、感情はそうじゃない……ってこと、かな」
「はい」
やっとここで、彼は余計な力を抜いていた。不安や緊張といった負のストレスから解放され、安堵の息を吐いていた。強ばっていた体を解きほぐすように。
「よかった、ぼくだけがおかしいのかと思ってしまったよ」
胸を撫で下ろし、彼の柔らかな本質がやっと顔を出した。様々なもので塗り固められていた彼の言葉が、油断しきっていたシズカに向けられた。
「きみを、息子扱いしてしまいそうになったから」
予想外のところから貫かれ、これにはさすがにシズカは面食らった。体内で漣のように動揺が走った。
「おかしいと思ったんだ。息子が増えた気分に、なったんだ」
どういうことだといつものように問いたくなったが、そこは一度堪えた。彼はなにか勘違いをしているのかもしれないと、過ちを正すようにシズカは恐る恐る口を開いた。
「俺は、彼の兄弟でも配偶者でもありません」
今度はコウキが面食らう番だった。ぷふ、と口から空気が漏れたかと思うと、すぐに声を出して笑った。それに不愉快な思いはしなかったが、間違えたのだとシズカは少し恐縮した。
「ああ、それはちゃんと理解しているよ。けれど、家族が増えたと思ってしまったんだ」
これか、とシズカは思った。頭で理解していても、感情は別だということ。アタッチメントには血は流れていない。呼吸もしない。生命と呼ばれない。結婚もできなければ、ヒトのように自由に欲求を抱くことすらできない。それでも魂はあった。複製され加工された魂が。ヒトの形をした作りものの魂を持つヒトの付属品。彼はそれを理解したが、それでもシズカを息子と思った。
「わかっているよ。きみたちが、一人のことしか愛せないってこと」
「……俺はアタッチメントですから」
「でも、きみは優しい。リョウが選んだってことは、そういうことだろう」
シズカは黙り込んだ。次の衝撃に耐えようと努めた。
「その優しさに付け込んでもいいかな」
呆れかえるとは少し違うが、それに似たどうしようもない感情が生まれた。全身の力が情けないほどゆるゆると抜けた。そのまっすぐすぎる図太さに、ヒトであったなら、大袈裟にため息をついてみせているところだった。
「本当に、あなたはリョウの父親だ」
けれども、それは決して不快などではなかったのだと、シズカは降参を示した。
「俺は、他者からの愛を受け取ることはできません」
「ああ」
「その愛に報いることも。俺はもう、あの子で手いっぱいだ」
「あの子を愛しているんだろう」
「当然だ」
シズカは居住まいを正した。大切な告白をするために、凛と胸を張る。
「俺はリョウを、あなた方のご子息を愛している」
少年の父親は真剣だった。その双眸が真摯な色を湛えていた。
「もちろんこれは、アタッチメントの愛の感情だ。アタッチメントとして、俺は最大の愛を以て彼に接している」
「……ああ」
「あなたのその好意は違反ではない。福祉に反しない。応えることは一切ないが、社会が容認できる範囲であるものならば、俺はそれを見逃せる」
そこで、シズカは纏っていた空気を切り替える。真面目なやり取りはここまでで充分だった。
「これでは不満か?」
にやり、と笑んでみせる。過去に意地悪そうだと評された笑顔だった。いいや、とコウキは否定した。照れくさそうに頭を掻いて。
「充分すぎるよ。ありがとう」
それからリョウが一度リビングに顔を出したが、すぐに階段を上がって自室へと向かった。肩にかけられただけのタオル。きっと自然乾燥に任せっきりにするつもりだろう。注意するタイミングを逃してしまった。しまったとばかりに眉を寄せるシズカを、コウキはおかしそうに、それこそ見守るような眼差しで見つめていたが、すぐに腰を上げた。
「じゃあ、また」
コウキがシズカに頭を下げ、風呂場へと向かった。シズカもすぐに立ち上がり、コウキに向けて礼を一つ。息子扱いは見過ごすという形で容認したが、所有者の父親に頭を下げられる行為は流石にむずがゆかった。複雑な感情が入り混じるが、仕方のないことだ。
ふと、視線を感じて振り返る。直感どおり、キッチンからツムギが顔を出し、ふらふらと缶ビールをちらつかせている。コマーシャルでも何度か見た、春限定の商品だった。
「いいかい」
芝居がかった口調で許可を求めるツムギに、もちろんだと頷いた。
「お酌はできませんが、それでもよければ」
と、からかうように付け加えた。
「いいよいいよ、そんなん。このまま飲んじゃうもの」
ツムギはつかつかとシズカに歩み寄って、乱暴なくらいどっかりとソファに座り込み、缶ビールを煽った。
「それに、そんなことさせたら、リョウに怒鳴られる」
シズカの口に知らず笑みが敷かれた。少年のその姿をあっさり想像できてしまう自身に対しての笑いだった。それだけあの少年の傍にいられた自分に感じるものがあった。
「で、なに話してたの」
シズカの意識を呼び起こすようにツムギがリモコンに手を伸ばしながら訊いた。見たことのある女優や芸人が大笑いしている。それが誰だったかを思い出す前にツムギは何度かチャンネルを変えていったが、結局最初のバラエティー番組に落ち着いた。
ちょうどいいタイミングでコマーシャルに切り替わる。穏やかなメロディ。これをいつかリョウが口ずさんでいたことを思い出しながら、口を開く。
「告白をしてきました」
ちょうど缶ビールに口を付けていたツムギが、前のめりになって噎せた。噴水のように酒が絨毯へと降りかかることはなかったものの、ツムギの口から抑えきれなかった分が軽くこぼれる。そのまま顎を伝って落ち、彼女の服の染みとなった。
「どうした」
思わず敬語も忘れて問いかけた。
「いや…………なんて?」
信じられないものを見るような目付きに訝しみながら、彼女が噎せた理由を考える。そして、とてつもない語弊があったことに気付き、詫びると同時に訂正した。
「俺はリョウを愛していると、告白をしてきました」
「は、ふは、はは」
小さく咳き込みながら、ツムギが笑う。
「ははは、はは、あはは、なんだ、そういうことか」
ぐったりとソファにもたれきって、安堵の息を吐いた。アルコールを含んだ熱い息だった。
「あはは、はあ、おかしい」
誤解を招くような言い方をしたシズカに非があったが、それでも認識を改めさせたいという想いに背中を押され、シズカはわずかに身を乗り出す。
「アタッチメントは浮気などしません」
「一途だもんなあ」
「はい。あの子以外に好意を寄せる気はありません」
「ふふ」
真剣な言葉を笑い声で撃ち返された。シズカはたじろいだ。不愉快というよりも、やりにくいという感情が胸を鷲掴みにしていた。シズカが思わず眉を寄せると、ツムギは謝るどころか楽しくて仕方がないとばかりに心中を述べる。
「そんなこと真顔で言っちゃうのか。あはは、好き。やっぱりあの子の好み、わたし譲りだ」
好き、という言葉にはさすがに抵抗を覚えた。きっとコウキが抱いていたものと似たようなものだろうが、やはり受け取ることはできなかった。見逃すことが精いっぱいだった。色々なものを押しとどめて冷静さを保つ。
「あはは、ごめんよ」
顔に出さずともツムギには伝わっていたようだった。少年の妙に聡いところは母親譲りだった。
「よし、シズカくん。そんなまっすぐな言葉聞いてあげたわたしの言葉も、ちょっとは聞いてよ」
一口酒を含んで、飲み込む。その流れを目で追って、シズカは小さく頷いた。
「リョウってさ、父さん譲りで怖がりなの」
「はい」
「でも、変な落ち着きのなさっていうか、豪胆さっていうのかな。それをわたしからばっちり受け継いでるからさ。結構無茶したりするの」
公園で少年が語ったことがまさにそれだ。怖がりなくせに、無茶をする。それ以外にも当てはまることはたくさんあった。怯えておきながら首を突っ込むこともしょっちゅうだ。
「だからさ、教えてやってよ、過去を振り返って」
「過去を、ですか」
教えることはアタッチメントの仕事の一つだ。従い、監て、教え、護り、愛する。そしてもう一つ、言葉にしたくもない最悪の仕事がある。それを避けるためにも五つの仕事に全身全霊で取り組んでいるのだが、そこにアタッチメントの過去など必要なのだろうか。
「あなたがなんで死んじゃったのか、何歳で死んだのか、事故なのか、病気なのか、事件なのか、そんなこと一般人のわたしにはわかんないけどさ」
ツムギの声に重みが増した。言葉の重みではなく、その言葉を吐く声に、少年を思いやる母の気持ちが乗せられていた。
「もしも過去の自分のああすればよかった、こうすればよかったっていう教訓になりそうなものがあったら、教えてやってくれない? あなたには酷な話かもしれないけど」
アタッチメントの過去。生前の記憶。それらは不要な部分だけ切り取られ、継ぎ接ぎ状態となっている。性格の根源となった出来事は、その個体の個性が喪失してしまうということで、加工はされているが残されていた。あんなことがあった。ああして過ごしていた。しかしそれらは所有者には関係のない話だ。もう終わった話だった。
「昔も変な行動力で怪我したりしてたからさ、絶対死なせないように、注意しといてよ。怪我とかはしょうがないから、あの子絶対怪我とかするから、死ぬとか、痕に残っちゃうこととかは、避けるようにしてよ」
あの子の味方でいてほしい、とまでツムギが言う。言われるまでもないことだったが、それに深く頷いた。ほっと力を抜いたツムギに、シズカは思い出したように口を開いた。
「俺の記憶は、十八歳の誕生日、今の俺となる脳のデータを提出するために、施設で目を閉じたところで止まっています」
はっとする。驚くほどスムーズに、なんの抵抗もなく過去の自分の来歴を語っていた。今ここにいる冬原シズカの完成に至るまでの道のりを。リョウにねだられて初めて開示する無価値のデータを。そう思ったのはシズカだけではなかったらしく、ツムギが微かに瞠目していた。大きな黒い瞳。リョウのそれとよく似た形。その目はすぐに細められた。眩しいものを見るかのように。穏やかな色を湛えて。
「そっか。死ぬ直前のこと覚えてないのか」
「データ化していないので」
データ化していないため、自身のログに残ってはいないが、施設員のタブレットに保存されていた記録には目を通した。アタッチメントの冬原シズカとして目覚めた際に、過去の自分の顛末を描いたデータを渡されたのだ。生々しい写真とともに。きっとそれを見せたのは、もうヒトではなくなったということを強く認識させるためだったのだろう。死体を見て目をそらし、恐れおののくアタッチメントなどいないと聞いた。シズカも当然その群れに属していた。それこそ他人の人生を読んでいる感覚だった。懐かしさも、哀しみも、シズカの胸中に溢れることはなかった。
「そっか……十八歳かあ。早いなあ。やだなあ」
目の前の女性のように、うなだれて憐れむこともなかった。
「そんなふうに死んじゃうところ、見たくないなあ」
いっそ優しいとさえ思える瞳で、冬原シズカを見つめることも。
シズカもツムギも口を閉じ、テレビから流れてくるバラエティー番組の歓声をただ聞き流していた。なぜ画面の中の彼らが声をあげたのかわからなかったし、わかろうともしていなかった。ツムギは残り少なくなった缶ビールをかき混ぜるようにゆるく回して、思考の海に身を投じていた。シズカもツムギから瞳をそらし、胸の奥にアクセスし、新品同様のログを読み返した。無意味だと思っていた昔話に、少年のためになりそうなものはあるのかと読み漁ったが、結局出てきたものは、誰もが聞き慣れた注意の言葉だけだった。
ここで起きた断裂。冬原シズカの二度目の誕生。それが起こる前の数秒間、きっと冬原シズカは少年が指摘したとおり恐怖を覚えていただろう。それとも、そんな思考の時間は与えられていなかっただろうか。どちらにしろ、もう確認しようがない。施設員のタブレットに記されていた死因。ありふれた場所での、ありふれてしまっている出来事だった。
ツムギと別れ、シズカはすぐに二階に向かった。所有者が許すのならば、今日は朝まで少年の部屋にいようと決めていた。
「話終わった?」
ベッドに俯せで寝転んで漫画を読んでいた行儀の悪い少年が、上体を起こしてシズカに問いかける。シズカが返答する前に少年は漫画を適当に片付けて、ベッドに座り直す。髪の先端から水滴がぽつぽつと垂れて、シーツを濡らしていた。タオルは肩にかけられただけで、やはり予想どおり使われた形跡がない。
シズカはリョウの隣へ腰を下ろし、その濡れた髪に指を挿し入れた。
「うわ、濡れるぞ」
「そんな柔じゃないさ」
そのまま軽く何度か梳く。ぬるい水がシズカの腕を伝って服を濡らした。少年がふるりと身体を震わせるので、シズカはそれ見たことかと呆れたように肩を竦める。
「風邪ひくぞ」
「ふぁい」
少年はあくび混じりに言葉を返した。じわりとその目に涙が滲み、蛍光灯の光をきらきらと反射させている。シズカは少年の頬に手を添えて、顔をこちらに向けさせた。濡れた黒髪が頬に張り付いたままだ。しっとりと水分を含んだ肌を親指の腹で軽く撫で、ぽたぽたと雫を落とす髪を指先で払ってやった。
居心地悪そうにしながらもされるがままだった少年が、眉根を寄せる。
「なんだよ」
「顔が見たくなった」
「いつも見てるだろ」
「そうか? ここまで緩みきったおまえは初めて見るぞ」
いたずらっぽく言えば、少年はシズカの手を押しやった。今さら羞恥がふつふつと沸き上がってきたようだった。
「そんなこと言ったらなあ、おまえだって」
負けじと少年が言い返す。その頬の赤みが風呂上がりゆえではないことを知り、無表情の下でひっそりと喜びを抱いた。
「そんな嬉しそうな顔、今日初めて見た」
「久しぶりにおまえにちゃんと触れたからかな」
「いつも触ってんだろ!」
からかいすぎれば少年はわかりやすくそっぽを向く。これまでの無礼を許してほしい、とシズカが努めて真面目にリョウを見つめた。コウキが言っていた優しさ。それを可能な限り少年へと向けた。少年もそれを察して、何度か瞬いてシズカの行動を待った。
「再認識しただけだ」
今日ほど他者と語り合ったことはなかった。所有者以外と、二人きりで会話するなど。敬意を持って話すことなど。それらは新鮮なものであったが、やはりアタッチメントとしての自分自身の在り方は変わらない。冬原シズカはアタッチメントだ。目の前の少年の所有物だ。
「所有者といることが、一番の幸せだ」
途端に、少年の表情が複雑な色を帯びた。喜びで頬が赤みを増し、しかし眉は情けなく下がっている。寂しげに笑うものだから、シズカは僅かに焦りを覚えた。また間違えてしまったのだろうか。自身の失態で所有者にこんな顔をさせてしまったのか。
「おまえ、それで充分なわけ」
苦笑と言っていいものだろうか。独り言のような呟きは、それでも確かにシズカの答えを待ち望んでいた。
「ああ」
はっきりと肯定を示せば、少年は仕方ないとばかりに両腕を広げた。その意味を拾い損ねたシズカに焦れて、少年は膝をついてにじり寄り、シズカの頭を抱き寄せた。
リョウの脈動に触れていた。それらがじんと柔らかな部分を優しく叩いて回り、愛着機構に響き渡った。
「よしよし」
すぐ上から、少年の声が聞こえる。宥めるようにシズカをしっかりと抱きとめて撫でさすった。
「おまえ、いい子だからさ、ご褒美くらいねだれよ」
傷付いていたわけでも、疲れていたわけでもない。不愉快な思いだったわけでもないのに、シズカは強い安らぎを覚えた。安堵感に包まれ、睡眠が不要になった体で、心地いい微睡みに似たものを感じた。ここに留まってしまおうと目を閉じたところで、体内の機器がかちりと作動して、はっと目を瞠る。
生成系統創造種光糸型の展開、発現を感知。シズカは思わず身を離した。リョウもわかりきっていたようで、あっさりとシズカを解放した。シズカが身を離そうともがいたことを気にかけることもなく。
淡い光が視界を埋め尽くした。穏やかに明滅を繰り返し、細く長く展開していく。それらが渦を巻くように絡み合って、小さななにかを象ろうとしていた。シズカはただリョウに向き直ってその行く末を見守った。雛鳥の誕生を待ちわびる親は、こんな気持ちなのだろうか。そんなことを考えながら。
「ほい」
光の糸がゆらめいて、リョウの手の平に舞い降りる。それを少年は両腕を広げてぱっと辺りにばらまいた。シズカはひらひらと舞い降りたそれを一つ摘み、小首をかしげてリョウに説明を求めた。
「そういや花見してなかったなって思ったから。桜、好きなんだろ」
光から新たに生み出された桜の花びら。足元に散らばった春の色。自信と期待に満ちた少年の眼差しに苦笑を返す。
「散ってしまっているじゃないか」
「さすがにでっけえ桜はここでは作れないって。おれだって満開がよかったけど」
そう言いながらも彼の指先は次々と糸を編み、光の花を咲かせていった。せっかくだからと、シズカは少年の了承を得て部屋の照明を下げた。お互いの顔をなんとか視認できるくらいの仄暗い闇の中で、ぽつぽつと淡い光が灯されていった。この世に現れるとともに、重力に従ってひらりと落ちていく。きれいだな。そんな少年の呟きにシズカは頷いた。
「そういえばさ」
「ああ」
「満開の桜って酔いそうになるよな。酒なんて必要ないくらい」
「もう少し年相応のことを言え」
酒の味も、酔うということも知らない未成年が、冗談めかしてそう言うので、シズカはリョウの髪に絡まった花びらを摘むついでに、彼の頭を手の甲で小突いてやった。少年は思わずといったように両目をきゅっと瞑ったが、すぐにまたシズカを見つめ、小首をかしげる。シズカも無意識のうちにやってしまっているその仕草。少年も所有物の癖がうつってしまっていたようだった。嬉しくもあったが、所有物としてどうなんだ、という複雑な気持ちも生まれ、それらがちりちりとぶつかり合った。
「酔うには物足りなかったか?」
どこかずれた発言をする少年に堪えきれず、シズカは声をもらして笑った。
「いや」
いっそのこと、この甘い花の色に酔ってみせるのもいいのでは、と考えたところでかぶりを振る。そんなことは今更だった。シズカはすでに酔いしれて、夢のような場所にいる。 それでもここは現実なのだと、クリアな視界に映る景色が教えてくれていた。人工物の瞳に映る唯一の存在。愛着機構が歓喜で打ち震えている。沁み入る感情に身を委ねた。喜びが溢れかえって溺れる寸前だった。
「俺には充分すぎるよ」
それが本心かどうか確かめたかったのか、リョウは口を開いたが、シズカは問答無用で少年をベッドに押し倒した。疑う必要はないのだと言い聞かせる気持ちだった。ぎくりとリョウがわかりやすく身を強ばらせたが、シズカをじっと見つめて、すぐに全身の力を抜いた。
「聞かれるのは嫌だろう」
おどけるように言う。リョウは自身の早とちりに気付くやいなや、かっと顔を真っ赤に染めた。それこそ酔っているように。
「おまえ、やっぱり、いい子じゃねーよ」
「そうか」
拙い響きの罵倒をしっかりと受け止めて、毛布にくるまった主人のベッドから立ち上がる。
「もう寝るといい」
そう一声かければ、毛布から腕が伸ばされ、しっかりとシズカの手を掴む。ここにいて構わないと、少年が所有物を引きとめていた。
「おまえ、いい子じゃねーけど」
ここにいる、と握り返せば、安心しきってリョウが力を抜いた。あっさりと二人の手がほどけたが、お互いに不安もなにも生まれなかった。
「寮に帰ったら、本当の花見しようぜ。二人で外に行って」
「本当の……?」
「こんなもん、偽物だろ。だから、行こうぜ、花見」
舞い散った桜が、創造者の言葉通りに、偽物であることを示すように歪んだ。シズカはそれらの動きを目で追ってから言葉を返した。少年の満足げに笑う声に、シズカも満たされた。灯りを消して、シズカはじっとそこから離れず、足元の桜を見届けた。
少年が眠りにつき、明滅を繰り返していた桜がついに崩壊を始めた。
「散ってくれるなよ」
返事はなく、ただの静けさが充満した。
桜の花びらが光を帯びて、ふつりとほどけていく。燐光を撒き散らし、それこそ花咲くように拡散して、静謐な空気の中へ溶けて消えた。
この家で二回の夜を過ごした。三日目の朝に、シズカはコウキに別れの挨拶をした。また会おう、という言葉に頷きはしたものの、それが果たされるかどうかはシズカにはわからなかった。もしかしたらこれが最後になるかもしれない。それはコウキもわかっていたようで、どこか切なそうに笑っていた。リョウの能力終期がいつなのか、それは誰にもわからなかった。終わりがなければいいとは思わない。ただ、少年が幸せに暮らしていけるのならば、シズカはそれで満足だった。なにも恐れる必要はなかった。
ツムギはリョウとシズカを乗せて駅まで車を走らせた。車から降りたリョウは元気に手を振っていて、別れに未練はないようだった。シズカも展開箱を持ち、車から降りる。そこでツムギが窓を開け、シズカの名を呼んだ。呼びかけに反応したシズカに、ウインクを一つ。
「リョウのこと、よろしく」
シズカは深く礼をした。初めて出会ったときのような緊張はもうどこを探しても見つからなかった。
黒い展開箱を背負い直す。本当は背負いたくもない代物だったが、アタッチメントである以上、不携帯は許されない。所持すれど使用せず。そのようにあらねばならないと、シズカは改めて誓った。
車が走り出す。彼女もまた、別れに未練はないようだった。これが最後になったとしても問題はなかったらしい。最後の言葉に、彼女の想いがすべて乗せられていたのだろう。
歩き出した少年の後を追う。シズカは思わず声をかけていた。
「リョウ」
「なんだよ」
「俺の真似はしなくていいからな」
「ふは、なんだそれ」
やろうと思っても絶対無理だからな。そんな楽しげな声を、負の感情に塗り替えるような真似はしたくなかった。否定も肯定もせず、寄り添うように隣を歩いた。
「交差点は気を付けろよ」
リョウは一度しっかりとシズカの瞳をとらえた。真面目な表情はその一瞬だった。
「わかってるよ」
すぐに彼はしっかりと頷いて、シズカを安心させるように笑ってみせた。
少年と電車に乗り込む。少年は席を確保すると同時に窓のブラインドを上げた。振り向きながら、きれいな桜があるといいな、と無邪気に言う。そんな少年の気遣いを受け入れ頷きはしたが、シズカはもう桜の木に興味を抱いていない。目の前に満開の、どこか危うさを孕んだ少年がいるのだから、よそ見している暇などありはしなかった。
電車が揺れる。傍らに置いた展開箱が揺れに合わせて、ごとんと重い音を立てた。