百鬼歯は刀である。腹を痛めて産んだわけではないが、妖畏の母と称されている。畏気を抱えた生命のみを断つ、妖畏の長である万尾玄流斎の嫁刀。
百鬼歯自身、この在り方をいたく気に入っていた。なめらかで無垢な白肌は、その実、鋭く猛々しい。ときに燦と輝く刀身をしっかりと抱擁する朱鞘は、畏れの長からの賜り物だ。百鬼歯はこの血衣以外纏う気はなかったし、妖畏の前でしかその身を晒さない己の気高い性分も気に入っていた。野蛮に振る舞い、それでいて美しさはしっかりと備え、たやすくその本来の艶めかしさを晒さない。己の素肌をそこらの野蛮な連中に振りかざすなど、あり得ないことだ。そんな己が誇らしく、だからこそ己が認めた使い手と、妖畏以外に触れられることは堪えがたき屈辱であった。
蝕まれた葉の名を持つ男は、百鬼歯を得てすぐに、この刀の本性は女であると理解し、そして視認した。これから百鬼歯を振るう使い手なのだから見惚れる程度なら許したが、豊かな黒髪の幻影に触れようとしたことは、あまりに命知らずで恥知らずな行為であり、見逃してやる気などしなかった。不埒な手を朱い爪で鋭く弾いてやったときの、男の驚きの顔を思い出す。あのころはまだ、多少は可愛げがあったように思う。
ワクラバは百鬼歯の欲望を満たすために容赦なく妖畏を斬った。かつての使い手である総山ほどの手練れではなかったが、使い手としては充分な男であり、大きな不満はなかった。
時折危うさを帯びるが、そこは百鬼歯が手綱を握った。かつて、怪我を治癒するために、男が畏気を食みすぎたときがあった。取り込みすぎた畏気に心を食われぬようにと、男の意思が薄らいだ瞬間、百鬼歯がその体の所有権を奪い、代わりに己の本体を振るった。
そのときに流れ込んできた、男の狂気の片鱗に、百鬼歯は酔いそうになったことを覚えている。しかしながら、今のところは様子見である。零れ落ちていく命が唐突に息を吹き返したのだ。生存本能が怒濤に押し寄せた結果、軽い狂気に犯されることもあるだろう。
さて、そんな百鬼歯の使い手は、最近とある女にご執心であった。恐れへと堕ちたあの忌々しい無幽天留斎から角を与えられたという、哀れな女だ。望まぬものを押しつけられたことには同情するが、この女、とにかく百鬼歯の神経を逆撫ですることに長けていた。
百鬼歯は弱いものが嫌いなわけではない。死にたくなければ抵抗や逃亡といった行動をとり、それが不可能であれば助けを求めるために声を出す。声すらも出せぬときは、機会を待ち、諦めない。そういった在り方を好むのだ。
しかしこの女は、弱く脆く、それを自覚しているにもかかわらず、変えようとしない。流されるだけ流されて、それで終わり。そんな女だった。死にたくないはずなのに、逃げろと言われるまで動かない。そして、従うことになんの抵抗もなく、ワクラバにとって都合のいい女で落ち着いている。初めて出会ったころと比べれば、多少はよくなったかと思ったが、やはりワクラバにいいように扱われ、抵抗どころかそれを良しとしている節がある。とにかく他人に身を委ねすぎなのだ。まったく嘆かわしい。
しかも、この女は百鬼歯に勝手に触れ、軽いなどと侮ったことがあった。そのときは怒りにまかせて熱を送り込み、血腥い悪夢を見せつけてやったが、それでもまだ懲りていないらしく、最近はちらちらと喧しい視線を送りつけてくる。美しいという称賛ならば受け止めてやれるが、なにも言わず、どういった感情かすら見えない瞳で、穴が空くほど見られるのだ。百鬼歯には堪えがたかった。
つまり、百鬼歯はこの二本角の女――タキという女が、嫌いで仕方がないのである。
それを百鬼歯は隠さずにいるのだから、使い手であるワクラバも知っているはずだった。だというのに、ワクラバはあろうことか、百鬼歯の本体をタキの枕元に放り投げていた。妖畏討伐を終えた夜、いつもの長屋での出来事である。
ぎゃあ。ガランガランと転がった己の本体と、その先で待ち構えていた女に、百鬼歯は叫んでいた。まったく優美さの欠片もない声だ。百鬼歯にしてはかなり珍しい声にも、ワクラバは一切反応を示さない。それどころか、すでに布団に潜り込んで、こちらに背を向けて完全に眠りにつこうとしている。そして、そんなワクラバを気にする様子もなく、百鬼歯をじいっと見つめるタキがいる。なんということだ。なにもかもが百鬼歯の敵に思えてならなかった。百鬼歯は憤激した。
「ぬしよ! これ! 放るにしても、場所を考えろ!」
(放るのはいいのかよ)
こちらを見向きもせずに念だけ雑に飛ばしてくる。なんというふてぶてしさか。しかも、その念も眠気によっていつもの鋭さを失っている。目も閉じているだろう。緩みきった、そして舐め腐った態度に百鬼歯は血衣を膨らませて喚き散らした。
「もはや、ぬしの粗暴さはその命尽きるまで治らぬだろうよ! そんなものに、いちいち腹を立てることにはもう飽いた。それよりも、刀をこの小娘の傍に放置するでない!」
対するワクラバはやはり一瞥もくれず、面倒くさそうにのそのそと腕だけ布団から出し、百鬼歯とタキの背後にある土間を指し示した。百鬼歯とワクラバの念の舌戦が始まったことを知らぬタキは、その指と土間を交互に見て小首を傾げたが、すぐにまた百鬼歯を見やった。なぜか。近頃見られることが多くなったと思っていたが、なぜこんなにもじろじろと不躾な視線を浴びなければならないのか。声はどうした通弁人。目で語るな目で。いや、語れてもいないではないか。こんなものを一晩中浴び続けるのか。そんなことは御免である。
百鬼歯は威嚇するようにワクラバを見据えた。百鬼歯の怒りに、ついにワクラバが上体を起こした。その表情は、苛立ちと眠気が半々である。それが余計に癪に障った。
(おまえ、人がこれから寝るっつってんのに、いつも枕元でちょっかいかけてきやがってうるせえだろうが。おれは疲れた。今日はそこから動くな。番犬にちょうどいい。吠えるついでに一晩中見張ってろ)
確かに、夜間に騒ぎ立てて、ワクラバを狩りへと連れ出したことは多々あった。だが、万尾派の妖畏がそこそこ配下に戻ったことで、百鬼歯の身も元の重みを多少は取り戻しつつある。毎晩のように襲いかかってきた飢餓感もおさまったため、最近はおとなしくしていたというのに。普段ならば軽くあしらえたはずの言動だが、気に入らない女の傍に捨てられたことが百鬼歯の心を乱していた。決めつけられた上に犬呼ばわりされたことがあまりにも悔しく、むうと頬を膨らませた。叱られた子供そのものの振る舞いであることに、百鬼歯は気づいていない。すぐに怒鳴った。
「誰が犬じゃ! 疲れ切ってへにゃへにゃに萎びたぬしに討伐など頼まぬわ! そんなことより、この小娘をなんとかしろ! 視線がうるさくてかなわぬ!」
(てめえのほうがうるせえだろうが。番が嫌なら月に向かって存分に吠えてろよ。その気になったらいつでも言え。ちゃんと放り出してやる。溝板の上にな)
ワクラバが百鬼歯を一睨みした。そのすぐ横には、布団の上にちょこんと正座するタキがいる。怒りのまなざしにタキがぎくりと身を強張らせたが、どうも視線が微妙に合わないことに気づいたようで、ちらと再び百鬼歯の本体を見た。見るな。一対一の口論のはずが、なぜか二対一に感じる。もはや折れてやることなどできるわけがなかった。なんとかしてこの男、叩き斬ってやれないか。そんな怒りに支配されたが、この時点ですでにワクラバに軍配が上がっていた。
百鬼歯は口論にはめっぽう弱かった。なにせ、百鬼歯には真っ向から相手と言葉のみでぶつかり合った経験がほとんどないのだ。お粗末な暴言などは適当に流し、どうしても我慢ならなければ己の誇るべき刀身や悪夢で相手を懲らしめた。しかし、今の相手はワクラバである。悪夢を流し込むための精神の揺らぎもなく、刃も通用しない。そして、タキの傍から百鬼歯をどけられるのは、ワクラバしかいなかった。
ここで百鬼歯がワクラバに頭を垂れて許しを請えば、なんとかどかしてくれはするだろうが、自尊心の塊である百鬼歯には到底できぬ芸であった。百鬼歯は反撃した。奮闘むなしく、駄々っ子そのもののような喚きである。
「ぬしよ、唯一持てる刀に対して、なんという振る舞いじゃ! この朴念仁!」
(待遇が気にくわねえか。ならちょうどいい。そこの女はおまえのことをおれより丁重に扱ってくれるだろうよ。好きにさせてろ。別に見られたくらいで死にゃしねえだろうが)
「こんな流されるだけの小娘の肩を持つか……っ! わたしを扱っておきながら! わたしに守られておきながら! 薄情者め! 鞘に閉じこもるぞ!」
(どっちもどっちだ。この女も臆病なくせして、おれの忠告を聞きゃしねえ。触れられたらまた趣味の悪い夢でも見せとけ。そうすりゃ、こいつもいずれ懲りるだろ。こんなクソくだらねえ喧嘩におれを巻き込むな)
「け、喧嘩だと……ぬしにはなにがどう見えている!?」
(くだらねえことに変わりねえだろうが。妖畏どものお姫様はずいぶん甘やかされてきたみてえだな。我が儘がいつまでも通用すると思うな。ちったあ我慢を覚えろ)
「ぬしも大概であろうが! 不遜にもほどがある!」
(月に吠えてろっつっただろうが。おれに向かってぎゃあぎゃあ喚いてんじゃねえ。喧しいにもほどがある。ご自慢の一張羅ごとそこらの肥溜めにぶち込むぞ)
「そんなことをしてみろ! 旦那様に知れたらぬしの声は腹に溶かされるぞ! 妖畏の長の新たな声じゃ。他の刀も握れぬまま取り戻すべきものさえも失うぞ!」
(笑わせるな。虎の威を狩るなんとやらだな。偉そうに振る舞ってやがるが、自分じゃなにもできねえらしい。そんな姿で噛みついたところで、いっそ可愛いくらいだぜ)
にやりともせずにワクラバが淡々と返した。痛痒を感じないといった様子である。あと、可愛いなどとは微塵も思っていない。そういう顔をしている。百鬼歯でなくともわかる。
百鬼歯は己が冷静になっていくのを感じた。そしてようやく、みっともなく相手を嘲り、どうにかして支配下に置こうとした己を恥じた。決して百鬼歯の声はタキには届かないのだが、それでも幼い面を見られた気がした。タキの視線は変わらず百鬼歯に注がれている。居心地の悪さと羞恥心を払拭するためにも、こほん、とわざとらしく咳払いをして居住まいを正した。
「ぬしは可愛げが足りぬのじゃ。まったく、かつての素直に惑わされていたぬしはどこへいったのやら……。なにもかもを斬り捨てるような男になりおって」
ワクラバは心底うんざりしたように百鬼歯を見ている。当然、その場から動こうとはしなかった。百鬼歯は大きく嘆息した。あわせて血衣が力なく揺れ、ぺたんと萎んで床に伏した。
「そのくせ、子供のようにその小娘に入れ込んでいる始末じゃ。懇ろになるのは構わぬが、外での振る舞いには気をつけろ。幼子であれば愛らしいが、近頃のぬしのそれは、いっそおぞましいぞ」
ワクラバは片眉を上げた。なにを言っているか本気でわからない。そんな様子であった。
(てめえ、ついに耄碌したか。それとも腹が減りすぎて気でも狂ったか。誰が誰を好いてるって?)
「呆けてなどおらぬ。そもそも、人の尺度でわたしを測るなよ。とにかく、わたしは今、真剣に話をしているぞ、ぬしよ。はっきり言うが、ここ数日のぬしは目に余る」
(なんの話だ)
「ところ構わずべたべたと乳繰りおって。吐きそうになるぞ。この前の妖畏も、必要以上にいたぶったではないか。ぬしよ、わたしの使い手という自覚を持て。こんな男を認めたなどと思われたら、わたしの立つ瀬がないではないか」
斬られることを望んでいた古鵄を、ワクラバは散々に刻んだ。百鬼歯を探し求めていたが、その姿や気配を認識できないほど錯乱した妖畏だった。暴れ狂い猛攻を繰り出すような妖畏であれば仕方がないが、古鵄は眼前の百鬼歯をようやく視認したかと思うと、自ら身を捧げるために動いたのだ。そんな妖畏など、一撃で仕留められたはずだ。それをワクラバはあえて急所を外し、百鬼歯を使って滅多刺しにした。母の元に還る悦びと、悪意に満ちた激痛に対する恐れがない交ぜになった妖畏の念は、百鬼歯にしか聞こえなかっただろう。あの行動の理由は、確実にタキにある。異常なまでの男の変化に、百鬼歯は眉をひそめていた。慕情は見逃せるが、やはり行き過ぎである。それに対しての忠告だった。
そんな百鬼歯の嫌悪感や危機感が伝わったらしく、ワクラバが、つまり、とまとめた。
(てめえの節穴でしかねえ目には、色恋の類いが映ってんのか)
百鬼歯は頷いた。ワクラバは悪びれる様子など一切見せずに念を放つ。
(それこそくだらねえ。あいつはおれの女だぞ。自分の声に恋慕なんざ笑えねえ冗談だ)
照れ隠しでもなんでもない、事実を淡々と述べるような、外連味のない態度である。むしろ、それに対して苦言を呈する百鬼歯が異常なのだと突きつけるかのようだった。
(これ以上、奪われてたまるものかよ)
と、付け加える始末であった。これには百鬼歯も開いた口が塞がらなかった。なんという男だ。度し難い。ここまできたら、もはやお手上げである。傲慢な男だとは思っていたが、さすがにこうも堂々と振る舞われては言葉もない。嫌な予感が胸中を渦巻いた。自分は、なにかとんでもないことを見逃しているのではないか。だが、百鬼歯の忠告をワクラバは受け取らない。そういう男だ。それでもなにか言ってやるべきかと親切心で思案する百鬼歯を、ワクラバはじろりと横目で見た。そして、とんでもない暴挙に出た。
(タキ、しばらくこいつの面倒見てろ)
「なっ……!」
「え、っと……?」
ワクラバは百鬼歯とタキ、二人の女に同じ念を放っていた。タキに対してはそのまま命令の意であり、百鬼歯に対しては、完全に嫌がらせである。
(夜泣きがうるせえ。人恋しいんだとよ。なんでもいいから話してやれ)
悲鳴を上げそうになった。それを気力で押し込んだが、百鬼歯はとても冷静さを保てなかった。恥じらいなど感じている場合ではない。髪を振り乱して喚いた。
「よりにもよって、なんてことをっ! 誰が幼子のように泣くか! いい加減に」
「な、百鬼歯様が……? わ、たし、なんかが……よ、よいので、しょうか」
言い切らないうちにタキが口を開いた。遮られた百鬼歯は顔を真っ赤にして袖を振り回した。
「よいわけなかろうが! このっ! あまり調子に乗るなよ!」
百鬼歯の必死の叫びはタキはもちろん、聞こえているはずのワクラバにすら無視された。ワクラバは百鬼歯とタキに対してはっきりと念を放った。
(いいから黙って喋ってろ)
二人の女はまったく同じ顔をした。なにを言っているのか自分でわかっているのか。困惑が頭を埋め尽くしていた。この男、傲慢を通り越して、もはや無茶苦茶な莫迦である。だというのに、その無理難題に困惑しながらも頷いたタキも、もはや手遅れなくらいにどうかしているとしか思えなかった。いや、最初からそうだった。この二人は、互いに人として様々なものが欠けていて、だからこその均衡を保っているのだ。危うさしかなかった。まさかこんな形で向き合うことになるとは。
(おれは寝る。朝まで起こすな)
タキがなにか言い差したが、背を向けて寝転がったワクラバに忠実に動いた。すなわち、もうワクラバには話しかけず、目の前で横たわる百鬼歯に向き直った。頼むから勘弁しろ。そう呻いた。やはり、そんな想いは届くわけがなかった。
タキはどこか驚いた様子で百鬼歯を眺めていた。金の鐺から喰出鍔、そして柄まで視線をやり、おそらくどこに視点を合わせるべきか考えている。刀と会話しろなどと言われ、律儀に顔を見て話そうとしているタキに百鬼歯は呆れ返った。疑うことを知らぬのだ。言われればなんでもやるらしい。さすがに黙りながら喋るのは無理だとしても、それでも女にとって百鬼歯は物言わぬ刀でしかないというのに、男に忠実に動いている。万尾玄流斎から百鬼歯は妖畏の母であると聞いているとしても、実感は薄いだろうに。
(死ねと言われれば死ぬのか? 貴様は……)
ワクラバの言うことはなんでも聞かねばならないという強迫観念でもあるのか。守られているという事実が女をこうしているのか。ならばなぜ、自分のために逃げようとしないのか。女が戦いの際に逃げるのは、ワクラバに言われたからである。人を守ることに抵抗のあるらしいワクラバから言われた、出会ったころの約束事。この女は、それがなければとっくに死んでいるだろう。そもそも、今も生き長らえているのが奇跡的なのだ。
あのとき、古鵄討伐時に、タキは逃げなかった。タキを囮にした戦いとはいえ、間違いなく殺される寸前だったにもかかわらず、一歩も後退ることも、声を上げることもなかった。ただ驚いたように目を瞠るばかりで、怯えているくせになにもしない女がそこにいたのだ。掌から伝わってきたワクラバの怒りも納得である。
恐れを抱いているくせに、なぜ爪が届くその瞬間まで留まっていたのか。
「な、百鬼歯様、も……泣く、ことが……ある、のですね」
ようやくタキが話し出した。姿勢を正して、百鬼歯の朱鞘の真ん中あたりを見ていた。どうやらそこが百鬼歯の顔であり、中心であると判断したようだ。当然そんなはずもなく、百鬼歯と視線が交わることもなかった。しかしながらそのおかげで、己に話しかけられているのはわかっていたが、どこか俯瞰的にその光景を見て、そして聞くことができた。
百鬼歯はふわりと揺らめきを起こして浮かび上がった。血衣が肌を覆い、揺り籠のように広がる。百鬼歯はふんぞり返って血衣に腰掛け、タキと己の本体を見下ろし、黙して耳を傾けた。ほとんどヤケではあったが、冷静さが勝っていた。ワクラバとの口論で怒りの薪がほとんど燃やし尽くされていた。今はただ、その余炎が微かに震えている。そんな気持ちだった。
「百鬼歯様は……あの、お美しい、女人、なのでしょう」
あまりにも唐突な賛辞に百鬼歯は面食らった。まさか、ご機嫌取りでもしているつもりなのか。この男が夜泣きなどと余計なでたらめをぬかしたせいか。それを褒め称えて泣き止ませようという魂胆か。一瞬そんな不快感に襲われたが、百鬼歯はこれが本心であるとわかった。
女の言葉はあいかわらずたどたどしいが、思ってもいないことを無理矢理捻り出しているというよりも、自分の心を正しく表す言葉をなんとか選び抜き、声で紡いでいるといった様子だった。確かにこの女はワクラバの命令によって無理に一方的な会話を強いられているが、言わされているとは感じられない。ただし、それだけではないこともわかった。あのまなざしは、こんな純粋な憧れの光など湛えてはいなかった。
「そ、して、その……刀身、のように、折れず……しなやかで、お、お強くて……」
そこから、欠伸が出そうなくらい延々と称賛が続いた。百鬼歯様は赤い衣を纏った玉のような肌の持ち主なのだろうとか、たおやかであり凛々しくて勇ましい女人なのだとか、外も中も立派であるといったことをとにかく言い立てた。見た目に関してはおおよそタキの想像通りであり、はて、ワクラバや万尾玄流斎が教えてやったことなどあったかと疑問を抱いたが、そんなことは些事に過ぎない。
ちらりと背後を見れば、ワクラバは聞き耳を立てている様子もなく、どうやら本当に寝入ってしまったようだ。この女の拙い語り口が子守唄と化したのか、ずいぶんと早い入眠である。対する百鬼歯は歯がゆい気持ちでいっぱいだった。だから、なんだ。いい加減そう怒鳴りたくなった。
「ワクラバと、ともに、山を……駆けて……」
やはり称賛の言葉は陰を孕んでいた。言葉尻は掠れて、震えを帯びている。どうも自身に言い聞かせている節があった。そしてついに、それは明確にタキの口から述べられた。
「……な、百鬼歯様と、わたしは……天地ほど……差が、あ、あるの、でしょう……」
声に諦念が満ち溢れた。口調は弱いが、それは断定の言葉に他ならなかった。
「ワクラバを、守れる……。その、ことが……その、とても……羨ま、しいと……。いえ……なにを、言って……いるので、しょうか」
女が俯いた。視線は百鬼歯から逸らされていた。膝上で握り締めた己の手を見つめているようだ。もはや前髪で表情は隠れ、宙から見下ろす百鬼歯からは窺えない。
「わたし、などでは……そ、そんなことを、思うこと、すら……」
呟きはすでに己へ向けた刃と化していた。錆びついた刃先でゆっくりとその身を削り取る。そうすることでむしろ安らぎを得ようとしているような、あまりにも矛盾を孕んだ行動だった。百鬼歯は奥歯を噛み締めた。腹の奥底で炎がのたうち、百鬼歯を内側から焦がしていく。ひりついた痛みが喉を焼いた。タキは喋ることをやめない。百鬼歯を燃やし、己をも嬲る言葉を吐き出し続けた。
「い、けませんね……。ワクラバに、嗤われ……いえ……呆れて……、もしかしたら、また……叱られて、しまうかも……。わたしは……なんの役にも……。ワクラバに、さ、差し出せる、もの、なんて……体しか……体すら、ほとんど、薄くて、なにも、ない……」
百鬼歯はついに顔を歪めた。自身でも気づかぬまま、それは悲痛さを帯びた。ずっと昔に切り離したはずの痛みが蘇り、荒々しく舌打ちした。美しさや艶めかしさ、気高さなどを重んじている百鬼歯だが、これはあまりにも品性の欠片もない行動だった。
そんなことに、タキは当然気づかない。ただ、はっとしたように振り返り、ワクラバの背中に控えめに呼びかけていた。そんな女を、百鬼歯はただじっと睨み据えた。
返ってこない念や、身動ぎしない男の姿にほっと安堵の息を吐いた女が、改めて百鬼歯の鞘を見た。あいかわらず眉は下がり、大きな瞳はどこか仄暗い。
「寝て、しまって、ます。よかった……。な、にか、ずっと、怒って……ました、から」
そして、こうも続けた。
「……わたしの、せい……でしょうね」
百鬼歯の血衣は、怒りに反応して大きく揺らぎを生んで広がっていた。タキの背後の壁すら覆うように波打ち、それこそタキを締め殺さんとばかりに袖を伸ばしたが、夢路ならともかく現実でその体に干渉することなど不可能である。結局、朱い衣は透けてふっつりとほどけていった。行き場のない怒りを孕んだ衣に包まれているとも知らず、タキはさらに俯いた。許しを請うかのようだった。
「わ、わたし……だめ、ですね。もっと……ワクラバの、ために……。死なない……ように……こ、声を……声と、して……それなのに……わたし、なんか、なにも……」
そのくせ、慰めなど期待していないことも同時にわかってしまった。タキは百鬼歯の言葉など一切求めていない。百鬼歯を透かして己を見ているのだ。決して到達できない、思い描いた強さの象徴を見ることで、己の脆弱さや弱々しさを痛感する。ただそれだけだ。
(なんじゃ、この女は……!)
できるできないはさておき、くだらない言の葉がこれ以上連なるというならば、その薄い肉体ごと叩き斬ってやろうかという思いだったが、その刃のような憤怒が届く前に、ことごとくが灰燼と帰すのだ。どうしようもなかった。
(ようやく吐き出したものすら、自らで燃やしているではないか!)
否定されることに慣れている。だからこそ容赦がなかった。こんなくだらない自己否定の捌け口にされたことが、さらに百鬼歯を苛立たせていた。
「す、みません、百鬼歯様……こんな、弱い女の……言葉など……」
そんな百鬼歯の炎に反応したとは思えないが、タキが我に返ったように言った。しかし、それすら己を卑下するものである。百鬼歯は唖然とした。
「百鬼歯様は……な、泣き、止まれ、ましたか……?」
沈黙がおりた。タキは正座を崩さず、先ほどからなんの変化もない鞘を見守る。聞こえないことは承知の上で、百鬼歯がなにかを言おうとした矢先、タキがふうと深く息を吐いて布団へと寝転んだ。
その呼吸が寝息に変わったころ、百鬼歯は動いた。タキの枕元にまで浮いて移動し、その寝顔を覗き込んだ。あれだけ散々自分を切り刻んだくせに、穏やかな顔である。
(救いようがない。己の身を削り、榾にするなど……それに安らぎを得ているなど……)
百鬼歯はもう我慢の限界だった。痛烈に叫んだ。
「なにかを変えようと思うならば動け! 動けぬとしても訴えよ! 思う心がまだあるではないかっ! なにが声じゃ! そのくせ諦めに身を委ねおって……! 己を貶めることになんの意味がある!? そのまま留まれば貴様は死ぬぞ! 己自身すら守れぬ者に、他者など守れるかっ!」
届かぬとしても、黙ってなどいられない。しんと静まりかえった空間に怖気が走った。タキは当然ではあるが、ワクラバでさえも百鬼歯の叫びに気づいていなかった。一人取り残された気持ちだった。恐ろしいころに戻った感覚だった。百鬼歯は静謐と孤独に潰されまいと、己の身を抱き締めた。血衣が感応し、ふわりと舞い上がって百鬼歯を優しく包み込んだ。そして、音もなくその姿が透き通り、わずかに赤い煙を残して消えた。百鬼歯は己の本体へと身を還したのだ。女の枕元で横たわる朱鞘の刀へと。
ここまで己を掻き乱すタキという女が、百鬼歯はやはり嫌いで仕方なかった。それでもその晩は、タキの傍から離れられなかった。