邂逅記 鶴の章


 

 夜の町に、怒号が飛び交っていた。明かりのない裏通りである。

 長屋へ向かう途中だったワクラバとタキは、どちらともなく立ち止まった。なんの騒ぎか。獣香はないため妖畏ではない。おそらくは喧嘩か捕物か。提灯を持ったタキはワクラバを仰ぎ見る。面倒に巻き込まれるのを嫌がったらしく、ワクラバは動こうとしなかった。タキも倣って大人しく佇んでいたが、しばらくすると叫び声は途絶え、一人の洋袴を履いた男が転がるように逃げていくのが見えた。男を追う者はなく、いくつかの呻き声だけが微かに残されていたが、すぐにそれも聞こえなくなった。

 ようやくワクラバが歩を進めたが、タキは不安を拭えずにいた。一体なにがあったのかと、びくつきながらワクラバの半歩後ろを歩いた。突き進んだ先の光景に、ワクラバは顔色一つ変えなかったが、タキは己が持つ提灯に照らされた眼前の有様に、目を見開いて狼狽した。

 男が三人、地面に突っ伏しているのだ。何者かに襲われたらしい。男たちの向こう側で腰を抜かした女が、喉を震わせながら泣いていた。被衣で顔はよく見えない。彼女は己の体を両腕で抱き締め、恐れをなんとか抑え込もうとしていた。タキはそこらに散らばる銭と、酒を流す徳利と、半分に割れているつげ櫛に視線を移した。察するに、男たちは酒に酔い、その勢いで女を捕まえて、乱暴しようとしたらしい。

 騒ぎを聞きつけたのはワクラバとタキだけではなかったらしく、人の声や足音が近づいてくるのがわかった。舌打ちしたワクラバが、タキを置いて男の屍を跨ぐ。堂々とした、彼らにまったく関心を持たぬ足運びだ。

 ワクラバの足音に、女がはっとしたように顔を上げた。歩き去ろうとするワクラバを、女はじっと目で追っているようだったが、一人の男がゆっくりと立ち上がるのを目の当たりにし、小さく悲鳴を上げた。

 悪態を吐きながらよろよろと立ち上がった男は、筋骨隆々の鬼である。すぐ目の前にいるワクラバに、なにを思ったか拳で襲いかかった。八つ当たりか、それとも勘違いか。ワクラバはそんなことはどうでもよかったらしく、振り抜かれた拳を軽く避け、お返しに男の顔面に右の拳を突き刺していた。鉄拳に打ち抜かれた男は再び昏倒した。対するワクラバは手を払って、すたすたと夜道を進んでいく。いつもより歩幅が大きく、速い。タキはおろおろしながらワクラバと女を交互に見たが、さっさと来いというワクラバの念に従い、逃げるように走った。

 これが嵐の前兆だということを、ワクラバもタキも知るよしもない。

 

 こんこん。

 戸が鳴り出したのは昼のころだった。土間のすぐ傍にいたタキは小首をかしげ、戸に振り返った。聞こえているはずのワクラバは応答する気は微塵もないらしく、なんの反応も示さずに寝転がっている。そもそも、こういった対応はタキに任されているのだ。

 こんこん。

 急かすように再度、戸を叩く音がした。慌ててタキが応え、戸に手をかける。

 こんこんこんこんこんこんこん!

 手を止めた。なんとなく、嫌な予感がしたのだ。

「…………えっと……」

 こんこんこんこんこんこんこんこんこん!

「……な、なに……?」

 こんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこんこん!

 どんどん多く、強く、速くなっていく。本当に、開けてもいいのだろうか。微かに漂う妖気に気づき、思わずタキは戸から離れた。それを気取られたか、突如として怒号が飛んできた。

「そこにいるのはわかっておりますのよ! 早くここを開けなさいな!」

 タキは仰天した。まったく心当たりがないが、これは取り立て屋かもしれない。甲高い女の声に、タキは怖じ気づいた。ビクビクするだけでなかなか戸を開こうとしないタキに、見兼ねたワクラバがついに立ち上がる。苛立ちか、それとも外に対する威嚇のつもりか、わざと足音を立て、吹き飛ばすような勢いで戸を開いた。

「ごめんくださいまし」

 鶴がいた。首に荷袋を結び、大きく翼を広げて。

 ワクラバはすぐに戸を閉めた。

 タキは呆然と戸を指差したが、ワクラバの「おれはなにも見なかった」という顔に、無言のまま頷く。しかし、一瞬の沈黙の後、怒鳴り声が戸の外側から発せられた。ワクラバとタキのやりとりを許さぬとばかりに。

「ちょっと! ごめんくださいまし! もうっ!」

 見間違いでなければ、あれは鶴だった。だとすれば戸を開けられる心配はなさそうだが、ワクラバは少々不安に思ったらしく、百鬼歯を戸に立てかけた。なんと、心張り棒である。百鬼歯様は許してくれるだろうか。朱塗りの鞘がいつもより、気のせいかはわからぬが、ぎらぎらと燃える色を帯びている。浮上したタキの懸念はすぐに薙ぎ払われた。

「照れてないで、出てきなさいな! なにこれ、開かないじゃありませんか!」

 戸が揺れている。明らかに、手で戸を引こうとしている。やはり妖怪だった。姿を変化させて強引に押し入ろうと動いていた。だが、開かない。百鬼歯は鞘に包まったまま、心張り棒としての役目をきちんと果たしていた。

 しばらくすると、がたがたと戸を引こうとする音は、鈍く激しい音に変わった。拳で戸を叩いているのだ。合間に癇癪を起こしたような女の声が混ざったが、ふと、その音が不自然に止んだ。

 ワクラバもさすがに警戒を露わにし、丸腰ではあるが身構えた。それはすぐに来た。

 戸が吹き飛んだのだ。

 轟音が室内に炸裂した。軋み、圧し折れ、あらゆるものを巻き込んで、外れた戸が軽々と土間を越え、薄縁に叩きつけられた。タキはとっくにワクラバに庇われる形で押し倒されている。ぐるぐると渦巻く視界が、舞い上がった土煙や埃で咳き込む姿を映した。

 少女がいた。細く白い指先を口元に当て、ふう、と一息ついたかと思うと、乱れた白い髪と金の刺繍が施された着物を撫でつけ、転がった荷袋をそっと抱え上げた。あまりにも清楚な仕草だった。この可憐な少女こそが、長屋の一室を破壊した元凶なのだと、今まさに目撃したワクラバとタキ以外、誰も思うまい。

「ごめんあそばせ」

 楚々とした少女がにっこりと笑んで、とろけるような黒い瞳をワクラバに向けていた。細身ではあるが、タキとは違ってしなやかで美しい。相手の庇護欲を掻き立てるような少女に、タキはどきりとした。たっぷりと見惚れたタキだったが、身を起こしたワクラバが剣気と怒気を放っていることに気づき、はっと我に返って姿勢を正した。かなり風通しが良くなってしまった長屋の一室に、ワクラバの怒りなどお構いなしに、美貌の少女――鶴がちょこんと正座した。これで三人が座ってそれぞれを見つめ合うという、奇妙な空間ができあがった。

「またお会いできて、嬉しく思いますわ。わたくし、夕顔と申します。うふふ、旦那様、お好きに呼んでくださいまし」

 口火を切ったのは鶴だ。ワクラバしか見えておらず、タキには一瞥もくれなかった。ワクラバが怪訝な表情を隠さず、タキに問いかけるよう念を飛ばしてくる。念の中にあらゆる暴言が含まれていたが、そこは軽く濁してタキは問うた。旦那様とはなんのことか。また会えた、とはどういう意味か。戸はどうしてくれるんだ。等々。

 タキが話し始めると、夕顔は打って変わって冷たい視線を投げつけてきた。言わずともわかる。おまえには用はない、の顔である。ワクラバの通弁人であることを伝えれば、一応は納得してくれたようで、何度か頷いた後、すっぱりとタキへの視線を断ち、ワクラバに愛らしく笑んでみせた。

「嫌ですわ、旦那様。わたくしを助けてくださったのは貴方様でしょう?」

 ワクラバがさらに眉間の皺を深くするが、夕顔は怯えるどころか、むしろ前のめりになって顔を覗き込んだ。今にもワクラバの手を掴んでしまうような勢いで。

「貴方様の熱い想いに、わたくしは救われました!」

 すぐさまワクラバがタキに振り返った。タキはぶんぶんと首を横に振る。思い出を探る必要すらなかった。こんなに強烈な鶴に出会っていたのなら、どちらかが絶対に覚えているだろう。だが、タキは知らない。こんなにぐいぐい迫ってくる鶴をタキは知らない。タキの精一杯の否定に、ワクラバも僅かに頷いて、再び夕顔に向き合った。二人のやり取りをしっかりと両目で見ていたはずの夕顔は、別段気にした様子もなく、にっこりと花咲くように微笑む。

「本当に、ありがとうございました! あのときのご恩は、一生忘れません!」

 どのときだろう。

 ワクラバとタキは、再びどちらともなく視線を交えた。ワクラバの目は酷く疲れて、ほとんど死んでいると言っても過言ではない様相だ。どうやら有無を言わさぬ可憐さに当てられ、疲労が怒りを上回ったらしい。タキは黙ったまま眉を下げた。状況を打開するための言葉など浮かんでこなかった。

 これは悲しい事実であるが、ワクラバもタキも動物にはまったく好かれない質である。おそらくは体内に流れる畏気のせいだと考えられるが、それゆえに動物と出くわすこと自体少なく、会ったとしてもすぐに逃げられる。それがなくとも、ワクラバが鶴を助ける姿など、タキには想像もつかなかった。

「精一杯、これから末永く、しっかりと恩返しさせていただきます! もちろん戸の修理代はいくらでも出しますわ。これで足りるかしら」

 夕顔は自信満々に、喜色満面といった様子でワクラバに銭を掲げて言い寄っている。戸どころか家が数軒建てられるほどの、とんでもない大金だった。受け取るのが怖くなり、ワクラバもタキも触れずにいたが、どんと置かれてしまったので、どうしようもない。

 夕顔の身を包む着物もかなりの上物で、良家のお嬢様か、お姫様である可能性が高い。それゆえに遠慮という概念が存在しなかった。欲しいものは絶対に手に入れる。それが当たり前なのだという気概すら感じた。

 桜色に色づいた頬が可愛らしいが、それを打ち消してしまうほどの気迫で、夕顔が続けて言った。

「すでに女連れであろうと、わたくしは諦めませんよ」

 嘴で容赦なく突かれたような気分だった。夕顔が威嚇するようにタキを見据えたのだ。金縛りにあったように、タキの体は恐れをなして硬直した。夕顔は満足げに微笑を湛えた。

「貴女……ええ、地蔵よろしく固まっている、通弁人の鬼娘。貴女とわたくしは今この瞬間から宿敵と相成りました。貴女がどれほど旦那様と長く時間をともにしていたのかは存じませんが、わたくし、絶対に旦那様の妻の座を勝ち取ってみせます。いいですね?」

 そもそもタキはそんな座に君臨した覚えなどないのだが、夕顔の放つ強烈な圧力と問いかけに押し負け、赤べこのように首を振ることしかできない。もちろんそれは肯定、もしくは挑戦状と受け取られ、夕顔の瞳に好戦的な光が宿った。あまりの眩しさにくらくらした。

 タキは夕顔から逃れるように目を逸らし、その流れで助けを求めようとワクラバに視線をやった。ワクラバは非常に面倒くさそうな顔を見せたかと思うと、戸とともに吹き飛ばされた百鬼歯を掴み上げ、長屋から出ていってしまった。わからぬまま頷くしかないタキの頼りなさと、夕顔の熱烈な訴えと想いに嫌気が差したらしい。

「ああっ! お待ちになって、旦那様!」

 夕顔が慌てて追い縋る。タキもつられて長屋を飛び出したが、驚くほど遠くに黒い羽織を見つけて、夕顔と一緒に「わあっ」と瞠目した。たった一瞬で、あんなにも遙か彼方に逃げ果せることができるのか。これが本気を出した人間の力か。タキは畏れすら抱いた。間違いなく、ワクラバは本気で逃げていた。

「なんて素早いの……! さすがは旦那様。ですがこの夕顔、欲しいものは絶対に逃がしませんわ! そこの貴女、わたくしはあの方を追いかけます。留守番は任せましたよ!」

 猛禽類を思わせる輝きを瞳に湛え、夕顔が一息に言い捨てた。タキが目をまん丸にしたままとりあえず頷くと、夕顔は満足したように笑んで、すぐさまワクラバに負けないくらいの速度で駆けていった。もはや嵐そのものである。舞い上がった風に毛先を掻き乱されながら、タキは呆然と二人を見送った。

「…………ええ、と」

 タキはしばらく立ち尽くしていたが、夕顔の声が聞こえなくなったところで、そっと長屋に戻った。下駄を脱ぎ、ぺたんと座り込む。はてさて、これからどうしようか。横たわる戸を一瞥し、考える。

 ワクラバが一人になりたがって外に逃げたのであれば、追いかけるべきではない。あの俊足ならば、きっと逃げ切れるだろう。あれだけ騒がしかったのが嘘のような、外の喧噪が少しだけ聞こえる程度の静かな空間にタキはいた。自分でもよくわからぬ胸のざわめきを感じつつ、タキは溜め息を吐く。

 それを見咎める者がいることに、タキはもちろん、ワクラバも夕顔も気づいていなかっただろう。

「なにをぼうっとしているんだっ! 悔しくないのかい!?」

 タキは飛び上がった。突如としてタキの耳を劈いた叫びはどこか悲鳴じみている。その出どころはすぐにわかった。向かいの裏長屋の陰から男が乗り込んできたのだ。なぜか頬を赤く腫らした男は、唖然とするタキの両手をしっかりと掴むと、一気に捲し立てた。

「突然現れた女性に、君の想い人が取られてしまったのに、なぜ抵抗しないんだ! 寂しいだろう、悔しいだろう! わかるよ、おれには君の気持ちが嫌というほど!」

 もう少しで鼻先が触れ合ってしまう至近距離からの大声である。タキは頭をくらくらさせながら、とにかく状況を整理しようと口を開いた。訊きたいことが山ほどあった。

「あ、の、わ、わたし」

「わかるとも! 一人でこんな汚い長屋にいるのは嫌だろう! だが、勇気が出ないのもわかる。おれだってそうだった。隠れて見ることしか……。ならば、二人でならどうだ。わかり合える者同士で、あの二人を追いかけて取り戻すんだ! 君の悲しみとおれの悲しみが重なるとき、大きな力を生む! 相手を想う力だ! さあ、立つんだ! 出陣だ!」

 男に右手を掴まれたまま、勢いよく振り上げられる。肩から変な音がした。危うく脱臼しかけたが、痛みに怯えることなどできぬまま、タキはこくこくと頷くことしかできない。ワクラバ同様、タキは大きな、そして傍迷惑な嵐に巻き込まれつつあった。

 

 男は絢悟と名乗った。聞けば、あの鶴のお嬢様に懸想している一膳飯屋の一人息子である。白い襯衣に紺の洋袴、そして黒い前掛けという格好をしているが、仕事を放り投げてやってきましたと言わんばかりの風采だった。

「びっくりしたよ。彼女、何度か飯を食べにきてくれたんだ。おれの顔なんて覚えてないだろうけど……」

 ワクラバたちを追う道すがら、ぽつりと絢悟がそう洩らした。

「もっと良いものを食べてるだろうに、美味しい美味しいって言ってくれてさ。その笑顔や仕草や声が全部……。呆れられるだろうけど、おれは夕顔さんに惚れたんだ」

 どうやら彼はそれ以降、夕顔を気にかけるようになり、こうして付き纏いに発展してしまったらしい。以前から想いを寄せていた女性がワクラバに言い寄ってしまった。それを阻止したい。だからといって一人で抗議する勇気もなく、こうしてタキを巻き込んだ、というわけである。彼女の横恋慕は必ずや止めてみせる、と鼻息荒く言明した絢悟に、タキはあえてなにも言わなかった。訂正したところで、なにも状況が変わらないことは察しがついていた。

 絢悟は犬のように鼻が効くのか、なんと見失ったはずのワクラバと夕顔に追いついてしまった。こそこそと建物の陰に隠れた絢悟とタキは、二人の様子を目で追った。

「旦那様、そんなに照れないでくださいませ」

 夕顔はめげていなかった。むしろ、こうして一緒に町を歩けることが嬉しくて仕方がないといった様子である。対するワクラバは、表情までは窺えないが、間違いなく夕顔を無視していた。一度百鬼歯に手をかけたワクラバに、タキはぎょっと目を剥いたが、すぐに手を離したのを見て、ほっと胸を撫で下ろした。

「あっ、忘れておりましたわ、旦那様にお渡ししたいものが……って、ちょっと! お待ちになって!」

 早足で逃げるワクラバを、夕顔が慌てて追い縋った。しかし、ぴょこぴょこと弾むような足取りは彼女の機嫌の良さを如実に表している。それを健気と受け取った絢悟が寸時も目を離さずに、器用に小声で喚いた。

「見てごらんよ。あんなにも可憐な彼女を突き放すようなあの態度! 話しかけても視線すらやらない! ああ、もう、いつ拳が飛ぶか心配でならない……!」

 それはタキもうっすらと懸念していることである。さすがに夕顔の顔面に拳を突き刺すことはしないだろうが、これ以上ワクラバを刺激すれば、たとえ人の姿をしていたとしても、足か百鬼歯が出るだろう。見たくない光景である。

 そんなとき、ふと、見知った顔がタキの目に飛び込んできた。相手もワクラバに気づいてしまったらしく、片手を挙げてのしのしと近づいていく。

「おう、ワクラバ。久しぶりだな」

 確か、名を季之助といったか。大衆食堂でよく会う男だった。なにかとタキを気にかけてくれる、心優しき青年である。

 逃げてくれ、と思わず口走りそうになったのを、タキは耐えた。願うことしかできなかった。下手な刺激はしないでくれと。

「あれま、えらい別嬪さんだな。ところで鬼っ子はどうした?」

 しかし、季之助はあっさりと希望を打ち破る。タキの心臓は縮み上がった。

 果たして、ワクラバは当然なにも言わなかったが、代わりにぴったりと寄り添う夕顔が、毅然とした態度で返答した。

「別れますわ」

「は?」

「わたくしがこの方の隣を勝ち取りますもの」

「は……?」

 二の句が継げない季之助を置いて、ワクラバがなにもかもを振り切るように、大股かつ早足で歩き出す。すれ違う町人が思わず道を譲ってしまうほどの、強い怒りが立ち上っていた。これは、かなりまずいかもしれない。これ以上ワクラバを突けば刀か拳が振り抜かれるだろう。しかし、最も近くにいる夕顔は、豪胆なのか、それとも鈍感なのかわからぬが、にこにこと愛嬌を惜しみなく振り撒きながらワクラバを追いかけていく。

 しばらく顔が引き攣ったままだった季之助は、こそこそと後をつけるタキを見つけるやいなや、安堵と驚愕がない交ぜになったような、少々おかしな面をしたまま駆けてきた。

「タキ! おまえさん、なにやってんだよ。ワクラバが妖怪の別嬪さんを連れてたが……あの、というか、おまえらって本当に恋仲だったのか……?」

 なにから訊けばいいのかわからない、といった様子で季之助が詰め寄ってきた。タキも同じく、なにから答えていいのかわからなかったが、代わりに傍らに立つ絢悟が昂然たる口ぶりで言い放った。

「そうだ! 彼女は今、恋人を奪われて心を痛めてしまっているんだ。だが、どうか安心してほしい! タキさんと彼は、おれが必ず元の鞘に収めてやる!」

「おまえさんは誰なんだよ」

 季之助の至極当然である疑問は、誰にも拾われることなく捨て置かれた。絢悟がすぐに二人を追って走り出したのだ。タキはというと、絢悟に腕を掴まれてしまったので、当然一緒に走る羽目になった。たとえ足が縺れて転んでも、おそらくそのまま引きずられて連れて行かれるだろう。季之助に弁明する余裕などあるわけがなく、タキは必死に足を動かした。

「ああ……心配だな本当に……夕顔さん、ときどき危なっかしいから……」

 絢悟が唐突に言った。タキも同意見である。ときどきというか、長屋に押しかけてきたときから、彼女はずっと危ない綱渡りをしているようなものだ。世間知らずで他人に左右されない、まさに箱入りの妖怪のお嬢様だった。

 ワクラバも夕顔に怪我を負わせるのはまずいと理解しているらしい。彼女の身内、つまりは妖怪の集団に追い詰められた果てに暴行される危険性と、己の積み上がった怒りの発散を天秤にかけている。まだワクラバは冷静さを保てているが、それも時間の問題だ。というかもう、ぎりぎりである。これまで一緒に過ごしてきたタキは、ワクラバが短気であることを知っていた。露骨に不機嫌を顔に出す男であることも。絢悟もワクラバの相貌から滲み出る性格を、なんとなくではあるが察していた。

「せめてもっと物腰が柔らかい優男なら……それは、仕方ないことだし、おれもこんな付き纏ったりしないんだけど。でも、あの男はだめなんだ。なんか、暴力に躊躇いがなさそうというか、ちょっと怖いというか、危ういというか……。そもそも、あの子は勘違いしてるんだよ。ああもう、どうしたもんか……」

 おや、とタキは目を瞬かせた。思わず足を止めてしまったタキに、絢悟がはっとして振り返り、慌てて謝罪した。

「ああっ、いやっ、ごめんよ! 想い人を悪く言われるのは、気分が良くないよな。謝るよ、すまない……本当に」

 タキは頭を振った。絢悟の言葉が引っかかったのだ。

「勘違い……のこと、ご、ご存知、なん、ですか……?」

 もしかすると、解決の糸口を見つけたかもしれない。すべては彼女の思い込みで起きた騒動である。ワクラバもタキも、夕顔に会ったこともなければ、鶴を見かけたこともないのだから。

 なぜか絢悟は押し黙ったが、決まりが悪そうに頭を掻き、観念したように頷いた。

「恩返し、だろう? 昨夜さ、彼女は男三人に目をつけられて、襲われたんだ。いつもは付き人がいるんだけど、多分また、一人で出かけたくなったんだろうね。たまに被衣で顔を隠して、屋敷からこっそり抜け出してるから」

 タキはそこで、昨夜の倒れ伏した男たちと啜り泣く女を思い出した。被衣で顔が見えなかったが、あれは夕顔だったのだ。彼女はあのとき、ワクラバとタキを見ていた。提灯で僅かに照らされた、ワクラバやタキの姿を。己を置いて歩き去った、二人の行き先を。

「あの日、彼女を助けたのはおれなんだ。助けたと言っても、後ろからの不意打ちだったけど。彼女が二人の男を返り討ちにしてて、やっぱり妖怪は強いなって思ったよ。でも、鬼の男にはやっぱり敵わなかったみたいで……。隙をついておれが頭を殴ったんだけど、あの鬼男、しぶとくてさ、逆にぼこぼこにされちゃった。あとはあんまり覚えてないんだけど、本当にたまたま、幸運で……当たり所が良かったんだろうな。一発殴ったら、倒せたんだ」

 でも、情けない姿を見られたのが恥ずかしいから、彼女が俯いてる間に逃げちゃった。とまで絢悟は述べて、乾いた笑いを洩らした。タキはそれで、昨夜の記憶を完全に思い出していた。あの夜、慌てた様子で逃げていく一人の男の姿があったことを。

「でも、なんでだろうなあ。おれと君のお相手さん、背丈は近いかもしれないけど、顔なんて全然似てないし。どうして助けてくれたのは彼だと断言するのか、おれにはわからないんだけど……」

 タキはぎくりとした。後ろめたさはあるが、おずおずと口を開く。

「……その……実は……」

 そして、昨夜見た出来事を、かいつまんで説明した。きっと彼女は明かりのない道で、絢悟の顔を見ることはなかったのだ。

 今思えば、この騒動は、あのとき彼女を置いていってしまったワクラバとタキにも責任があった。嵐を生み出したのは、決して夕顔だけではなかった。

「そうだったのか……それで、彼にあんなに……」

 合点がいった絢悟はどこか悔しそうだった。言ってしまえば、手柄をワクラバに横取りされたのだから、当然の反応である。タキはたまらず訊ねた。

「あ、あの……なぜ、それを、つ、伝え、ないのです……?」

 それですぐに解決するだろう、と匂わせた。正直に言い出せば、夕顔の誤解は解け、ワクラバは自由になり、絢悟は夕顔に恩を売れる。なにも躊躇うことはないだろう。しかしながら、絢悟は困ったように眉を下げた。

「こういうのはその……伝えちゃうのは、違うだろう」

「どうして……」

 あまりにも切ない声音で、絢悟が続けた。

「伝えてどうするんだ? 君を助けたのはその男じゃなくておれだから、おれを選べとでも言えって? もし君がそんなことを言われたら、どう思う?」

 噛んで含めるような説明だった。タキが返答に窮すると、「そういうことだよ」と絢悟は苦笑した。

 そして再び、ワクラバと夕顔に追いついた。ワクラバは逃げることに飽きたのか、露骨に顔に苛立ちを浮かべながら、夕顔と向き直っていた。夕顔はワクラバがようやく己を見つめてくれたと喜んでいる様子だ。しかし、かなり危うい状況である。もし夕顔がなにか話しかけたら、もう間違いなくワクラバの手か足が出る。膨れ上がった怒気になぜ夕顔は気づかないのか。無頓着な彼女の元に駆け寄ろうとしたところで、道のど真ん中に獣香が漂った。急速に虚空で膨れ上がった肉体の正体に、近くにいる全員が気づいた。

「妖畏……! 逃げろ、みんな!」

 絢悟の叫びに、ワクラバが瞬時に反応した。すでに百鬼歯を抜き放っていたワクラバが、絢悟の隣で立ち尽くすタキの姿を捉えて瞠目した。

 長い尾を持つ狼の姿で顕現した妖畏は、すぐにタキに狙いをつけた。弱者であり、格好の獲物だと一目で見抜かれてしまったタキは、僅かに後退るばかりで、なにもできない。そんなタキに気づいた絢悟が動くよりも前に、妖畏の長い尾が彼を薙ぎ払った。逃げ場も助けも失ったタキめがけて、妖畏が四つ脚で突撃する。迫りくる巨大な牙に怯み、タキは目を瞑るという悪手を打った。獣香があまりに近い。すぐに訪れるだろう食われる痛みに怯え、タキは歯を噛み締めた。大勢の悲鳴が天に響き渡る中、タキはなにかに強く突き飛ばされて、地面に背中を打ちつけていた。肌はどこも噛み千切られていなかった。

 突如として上がった妖畏の咆哮に身を竦ませながら、タキは目を開く。見慣れた羽織が翻る。タキを庇うように立つワクラバがそこにいた。すでに斬撃を食らわせた後らしく、百鬼歯の鋭い白肌が妖畏の血で汚れている。だが、傷は浅い。妖畏は尾を振り回して場を蹂躙しようと動いた。砂埃が舞い、店先の床几や品物がひしゃげて転がる。我先にと町人たちが逃げていく。そんな中、妖畏はある一人に狙いを移した。ワクラバが戦える存在であると認識した妖畏は、彼の背後にいるタキを諦め、もう一人の女――腰を抜かしている夕顔に飛びかかった。

 ワクラバが鋭く舌打ちし、刀を握り直して駆け出した。だが、縦横無尽に動き回る妖畏の尾が邪魔をする。間に合わない。危ない、逃げろ、と町人たちが叫んだが、それを夕顔の絹を裂くような悲鳴が掻き消してしまった。夕顔が悲鳴ごと妖畏に飲み込まれるよりも先に、何者かが地を蹴って、なんと、素手のまま妖畏に躍りかかった。

「せえええい!」

 裂帛の声とともに妖畏に相撲を挑んだのは絢悟である。我武者羅であり、やけくそであり、ほとんど己の命を擲っていた。突然の乱入者に妖畏が鋭い爪を振りかぶった。絢悟は怯むが歩みを止めない。なんと、そのまま妖畏に体当たりを仕掛けたのだ。偶然にも妖畏の爪による即死を免れたが、躱しきることは不可能だった。浅く肩口を裂かれて、それでもなお夕顔に近寄らせまいと、己を餌として妖畏に突進した。妖畏にとって、痛くも痒くもない一撃だっただろうが、それにより充分すぎる隙が生まれていた。

 尾から逃れたワクラバが百鬼歯を振り下ろす。白刃の弧は妖畏の頭蓋を噛み砕き、辺りに大量の血と肉片を撒き散らした。声を上げることも許されないまま、妖畏が倒れ伏した。じわりと輪郭を溶かして、半透明の煙となって血で潤った百鬼歯の刃に吸い込まれていく。

 訪れた静寂を真っ先に打ち破ったのは、夕顔の泣きそうな叫びであった。

「大丈夫ですかっ!?」

 その場に崩れ落ちた絢悟に駆け寄った夕顔が、美しい顔を恐怖で歪ませて座り込む。その悲痛な声が、妖畏に恐れをなしていた町人たちを動かした。

「止血! 誰か布持ってこい!」

「兄ちゃん、しっかりしろ!」

 慌ただしく町人たちが動く中、夕顔は狼狽えることしかできない。絢悟に触れていいのかもわからず、手を伸ばしては引っ込め、冷静さをどんどん失っていく。

「そんな……わたくしを庇って……!」

 絢悟の咄嗟の行動は、まさしく蛮勇であった。素手で妖畏に立ち向かうなど、命知らずにもほどがある。屈強な鬼ならば多少は相手にできただろうが、痩躯に近い絢悟には無謀でしかなかった。誰もがそれをわかっていた。きっと、絢悟自身も。

 タキも絢悟の傍へ馳せ寄った。夕顔がタキを見上げて、どうしよう、と呟く。黒い瞳はみるみるうちに涙で満たされ、瞬きするとぽろぽろと涙が降り零れた。

「いててて……」

 夕顔の涙に気づいたか、絢悟が身動ぎ、上体を起こそうとした。夕顔とタキはこれ以上の無茶を止めようとするが、絢悟はへらりと笑ってみせた。

「だ、大丈夫、大丈夫だから……ほら、ちょっと掠めただけ」

 布木綿を持ってきた男が、絢悟の肩口に処置を施す。着物はばっさり切られていたが、絢悟の言う通り、傷自体は大したことはなかった。だが痛いものは痛いのだろう。きつく肩口を縛られ、絢悟が身を強張らせて顔を顰めた。そんな彼の懐から、なにかが滑り落ちる。一番に気づいたのは夕顔だ。涙で濡れた双眸をまん丸にして、恐る恐るそれを手に取った。

「それは……そんな、まさか」

 夕顔は懐から包みを取り出した。華やかな布に包まれていたのは、半分に割れた飴色のつげ櫛である。それと、絢悟の懐から出てきた、真ん中で折れたつげ櫛を合わせる。割れ目はぴったりと重なった。それはつまり、元々は一本の櫛であったことを意味した。

 あっ、とタキは声を上げそうになった。タキもこの櫛を見ていたのだ。あの夜、地面に落ちていたつげ櫛は、おそらく夕顔を助けた際に割れてしまったものだ。その片割れを夕顔は持ち歩いていたのだろう。恩人の落としものとして。

「もし、貴方様……」

「あっ、はいっ!」

 控えめに夕顔が声をかけると、絢悟はわかりやすく顔を赤らめて、上擦った返事をした。

「このつげ櫛は……まさか、貴方様のもの、ですか」

 差し出されたつげ櫛に、絢悟はわかりやすく目を泳がせる。夕顔はついに、絢悟に問いかけていた。

「昨夜、暴漢を殴って、この櫛を落としたのは……わたくしを助けてくださったのは……貴方様だったの……?」

 一拍の間を置いて、絢悟がこくりと頷く。たはは、と情けない笑いを上げながら、頭を掻いた。

「……うん。その、本当は……君に贈ろうと思って買ったものだったんだけど……」

 途端、夕顔が絢悟の手を取って、ぐっと鼻先を近づけて詰った。喜びや怒りが混ざった、心の底から絞り出すような声音だった。

「どうして仰ってくれないのです! わたくし、とんでもない勘違いを……!」

 そのとんでもない勘違いの被害をもろに食らっていたワクラバが、重い溜め息を吐いてタキに歩み寄ってきた。だが、夕顔にもう関わりたくないらしく、タキの背後で足を止めてしまう。完全にタキを盾代わりにしていた。

「貴方様、どこかで……もしかして、あのお店の……いえ……それ以外にも……!」

 ふと、夕顔が絢悟の顔をじっと凝視した。顔を近づけられてあたふたする絢悟に、構わず夕顔が言い募る。

「わたくしが階段で転びそうになったときに、背中を支えてくれたと思ったら、すぐに去っていったのも! 倒れかかってきた戸棚からわたくしを庇って、代わりに下敷きになったと思ったら、すぐに逃げてしまったのも! もしかして、あれは全部……貴方様なのですか!?」

 絢悟は少しだけ逡巡したが、結局は捕らえられた罪人みたいに、洗いざらい話し出した。

「はい……そう、です。あと、失くされた巾着を拾って屋敷の前に置いたのも、道を塞いでいた水溜りに着物を敷いたのも、甘味を食べたがっていた君がすぐ見つけられるようにと、甘味処の看板を派手に塗りたくったのもおれです。あ、ちゃんと君が帰った後に元に戻しました。雪が降った日に、君がいつも歩く散歩道の雪掻きをしたし、金魚を飼いたいって言った次の日に屋敷前に金魚鉢と黒い出目金を置いていったのもおれで、雑草がすぐ生えて困ると聞いて、屋敷の周辺の雑草全部引っこ抜いたのもおれです。赤い着物が少ないと嘆いていたのを知って、町の呉服屋に土下座して赤い着物を仕入れるよう頼み込んだのもおれです……あと、他は……」

 タキは口を閉じるのも忘れたまま、絢悟の言葉を真面目に聞き届けていた。夕顔に問いただされて、ようやく諦めたのだろう。しかし、出るわ出るわ、助けなど借りなくともなんとかできるような、些細な障害と要望のために奔走した絢悟の体験が、淀みなく次々と。中にはちゃんと人助けになっているものもあったが、ごく僅かだ。しかも、ところどころ罪っぽい事例が見つかる始末である。妖畏に襲われた後という重い雰囲気に呑まれて、町人たちは黙って二人を見守っていたが、耐えきれなくなった誰かが、こいつ気持ち悪いよ、とぼそりと呟いた。

「その……ごめん。迷惑だよな、こんなの……」

 夕顔の目に動揺の色が浮かぶ。タキはちらりと背後のワクラバを見やった。ワクラバは、心底気持ち悪いものを見るような目で絢悟を眺めていた。なにも見なかったふりをして、タキは再び二人に視線を戻す。

「その、それにおれ、君みたいに強くないのに、勝手にこんな……それに、返り討ちにあって、結局は他の人に助けてもらって……恥ずかしい奴なんだ、おれは」

「そんなことはありませんっ!」

 夕顔が鋭く怒鳴った。面食らう絢悟に、夕顔は続けて言い放つ。

「誰かを助けることは、決して恥ずかしいことなどではありません!」

 気圧された絢悟はなにも言えずに硬直している。その体の強張りをほどこうと、夕顔が彼の両手を白く小さな手で包み込んだ。 

「わたくしを、傷ついてもなお助けようとしてくれたその心……その想いに、わたくしは胸を打たれました」

 もう空気など読んでいられなくなったようで、まじかよ、こいつ、正気か、というどよめきが上がった。しかし、夕顔も絢悟もそんなことは意に介さない。というか、聞こえていない。二人はもう互いのことしか見えていなかった。

「そんな……確かにおれは、きみのことを好いている。けれど、こんなのは、ずるいだろう。こんな、恩を売るような真似を……」

「恩を返したい、という気持ちだけではありません」

「え……っと?」

「貴方様のひたむきで一途な心に、わたくしは囚われてしまいました」

「夕顔さん……それって……」

「どうか一生涯、わたくしを離さないでくださいませ」

 それは、誰が聞いてもわかる求婚の言葉であった。頬を桜色に染めて微笑む夕顔に、絢悟は池の鯉よろしく口をパクパクと動かす。感動のあまり言葉など出てこなかったようで、こくこく、と頷くだけになってしまった。そんな絢悟の初々しさに、夕顔が鈴を転がすように笑った。

「嫌ですわ、わたくしったら、まだ貴方様のお名前も知らないのに……」

 絢悟に若干引いていた町人たちだったが、ここに新たな夫婦が誕生したことはめでたいと思ったらしく、おおー、と拍手を送った。歓声を受けてはにかむ二人に、タキもつられてぱちぱちと手を叩いて祝したが、突然なにかに強く襟を引かれ、たたらを踏んだ。そのまま地面へ転がるかと思いきや、タキの背中はしっかりと誰かに受け止められる。その誰かなど、一人しか思い当たらない。案の定、すぐに両角に念が運ばれてきた。

(帰る)

「あ……ワ、ワクラバ……」

(帰る)

 当然、背後にいるワクラバの表情は見えなかったが、草臥れていることはわかった。突き放すような念のくせに、タキの腕をワクラバは放そうとしない。そっとするべきなのか、それとも一緒にいるべきなのか、タキにはよくわからなかった。

 そのままタキは長屋へと引きずられて、戸が堂々と寝そべったままの薄縁に、百鬼歯と一緒にぽいっと放られた。転がった百鬼歯とタキに続き、ワクラバが靴を脱ぎ散らかして、埃塗れの部屋にどっかりと座り込む。

(疲れた)

 タキは呆気にとられた。あまりにも幼く聞こえる、ぼやくような念だった。それ以上に、ワクラバがこうもわかりやすく弱音を吐いたことが信じられなかった。タキは尻餅をついたまま狼狽えた。

 ワクラバに声をかけるべきか、聞こえなかったふりをするべきか。しかし、念とは独り言ではなく、相手に伝えるという強靭な意思がなければ発せられない言である。わざわざタキに念を送りつけてきたとなれば、反応を求めているはずだ。だが、なんと返せばいいのだろう。そうですね、大変でしたね、お疲れ様でした、心中お察しいたします、等々。次々と候補が浮かぶが、なぜか他人事のような、思いやりのない響きである。こんな労いの言葉をかけたが最後、逆にワクラバの怒りを買って、溝板に放り出されやしないだろうか。

 頭から湯気が出始めていたタキへ、ワクラバが舌打ちとともに念を放った。

(膝)

「え……?」

 ぶっきらぼうな念が角を叩いた。たった二文字が、タキの思考の遙か上空を通り過ぎていった。なんと言っただろう。いや、間違いなく聞こえたのだ。そう、確か……。

(膝)

 そう、膝である。つまりワクラバは膝を。膝が。膝がなんなのだ。タキの頭を困惑と膝が埋め尽くしたのはすぐだった。

「えっと……あの……?」

 さっぱりわからないタキに、ついにワクラバが焦れて動いた。おろおろと彷徨うタキの腕を無遠慮に捕らえたのだ。だが、視線は交わらない。ワクラバは俯いていた。髪に隠れて表情は窺えなかったが、代わりに彼が明確に意思を乗せて、念を送り直してきた。

(膝っつってんだろうが……貸せ)

 ようやくタキは思い至り、心中でワクラバに詫びた。同時に、胸の奥がじわりと熱を帯びた。どこかむず痒さもあった。

 ぼろぼろの姿で帰ってきた彼に、自ら膝を差し出した日のことを思い出す。タキは確かに伝えたのだ。自分にはこんなことしかできないから、必要であればいつでも言ってほしいと。彼はそれをちゃんと覚えていてくれて、実行しただけだった。ワクラバの不器用な要求に、タキはひっそりと唇を噛んだ。なんだか顔がぽかぽかした。

 ワクラバが手を離すと同時に、タキは居住まいを正して、ぱたぱたと裳の汚れを払う。これ以上ワクラバの心を乱さないよう、黙ったまま膝を差し出した。ワクラバはすぐにタキの膝に頭を落ち着かせて寝転がった。

 つっけんどんな念とは裏腹に、ワクラバはタキの薄い腹に顔を埋めると、満足げに吐息を洩らして瞼を閉じた。タキは恐る恐る、ワクラバの髪に触れ、梳いてみる。あのときと同じで、ワクラバは文句なんて言ってこなかったし、それに対して身動いだりすることもなかった。そっと頭を撫でつけながら、タキもうとうとと微睡む。しばらくして、ワクラバは穏やかな寝息を立て始めた。タキも落ちてくる瞼に抗えず、目を瞑る。

 意識がぼんやりと遠ざかる中で、ふと、壊れてしまった戸をどう直そうかと考えたが、膝のぬくもりと久方ぶりの安息に誘われ、タキは眠りについた。安堵感がタキを抱きとめていた。騒々しくて目の回る、強烈な一日ではあったが、穏やかな夢が見られそうだった。