「見て見ぬふりをする人ね」
渋みのある男の声が総山の箸を止めた。
掴んでいた煮付けがぼろぼろと皿の上に落ちる。それも気にせぬまま、総山は唐突に届いた声に顔を顰めていた。耳から入ってくるというよりも、直接頭の中に囁かれたといってよかった。総山はこの感覚を知っていた。
飯屋は酔っ払いどもで大賑わいである。下卑た話題や笑い声がそこかしこで飛び交っていた。総山は視線を巡らせ、喧騒に阻まれることなく流れ込んできた声の根元を辿った。
「そこの君ね、黒髪に藍色の羽織の君、なにも思わんかね」
焦れた声の主が再び声を発した。あわせて、尾をびちびちと元気に跳ねさせるものだから、すぐ目の前にいた総山に水飛沫が振りかかった。
黒い、立派な鯉である。
魚を捌いていた店主が、突然暴れ出した鯉に驚きの声を上げた。卓上の桶に寝そべっていた鯉は、あまりにも近くに死が迫っているせいか、口早に語りかけてくる。
「いやまさかね、まさか鯉が喋るなんて思わなんだって顔してる君ね。聞こえているくせに黙るなんてどうしたんだね。今の状況がわかっているのかね」
「まさか鯉が喋るなんて思わなんだって考えてたんだが」
すかさず総山が返答すると、店主が怪訝そうな顔を向けてきた。それを無視する形で、鯉と総山は言葉を交わす。総山にとっては慣れたものである。
「いやあ、よかったよかった。やっぱり聞き届けてくれたね。言葉が通じたのはいつぶりかね」
「おまえさん、妖怪か?」
「ふふ、妖怪なわけないね。君は見る目がないね。もっと位の高いものだと気づかんかね」
「なんだ、神の類いだったか? 霊力なんてほとんど感じねえが。どうせ、片足をかろうじて突っ込んでる程度の神擬きだろ」
「神擬きとは言ってくれるね。確かに完全な神ではないね。でも、神に近しいものだね。ほとんど神と言っても過言はないね」
「よく喋る奴だな。こんな簡単に人間にとっ捕まるくれえだ。大した力はねえんだろ。だいたい、おれになんの用―」
「なにを一人でべらべら喋ってんですか、お客さん」
鯉と総山の応酬を遮ったのは店主の男である。見ていられなくなったのだろう。ちらちらと背後を見て、なにもいないことに安堵しながらも、わかりやすく気味悪がっている。
総山はにんまりと笑んで空の酒を軽く振ってみせた。途端、店主が眉根を寄せ、やれやれと嘆息した。引っかかりはするものの、結局は酔っ払いの戯言だと納得してくれたらしい。
神の声は人を選ぶ。総山は物心がついたころから神の言葉を聞くことが許されていた。四方八方からやってくる木霊の声に辟易していたぐらいには、神に懐かれる体質であった。なにも聞こえない店主が少々羨ましい。
余所見をする総山を見咎めた鯉が、ぼそりと呟きを洩らした。
「哀れだと思わんかね」
「なに?」
「ほら見て。こんな立派な鯉を、こんなチンケな桶に入れて、哀れだと思わんかね」
「ほお、人よりも上に座しておきながら、人に哀れみを乞うのかよ」
せせら笑う総山に、鯉が笑みを溢した。総山が放った嘲弄を、そっくりそのまま返してきたのだ。
「君は頭が足りてないね。哀れなのはわたしではなく、わたしをこんなところに捕らえた店主だね」
店主は総山には目もくれず、せっせと手際よく調理を進めていた。酔っ払いに溢れた飯屋だ。一人で見えざるなにかと会話する総山を気にする者は見当たらない。
「神にこんな狼藉を働いておいて、無事で済むとは思えないね。というか、無事では済まさないね、わたしがね」
まさか、具材として置かれた鯉が、穏やかな口調に怒りを含ませているとは、誰も思うまい。
「でもね、君がわたしをここから解き放ってくれるのなら、考え直してあげてもいいね」
「胡散臭ぇな。口だけならなんとでも言えるだろ。せいぜいそこの俎板の上で捌かれて終わるんだな。他当たれ」
総山はそこで話を打ち切った。皿にはぼろぼろに崩れた煮付けがある。この鯉もいずれこうなるだろう。人間の領域に踏み込んだ幼い神が捕らえられ、食われることはよくある話だ。もちろん、人が神に食われることも。命の回廊にいるのだから当然だった。
鬱陶しい鯉を無視し、総山が食事を再開しようとしたとき、異変が起きた。
突如として、床から水が噴き出したのだ。
「うぎゃあ!」
「な、なんだこの鉄砲水!」
店内がにわかに騒然となった。溢れ出る水は勢いを増し、強い流れを生んだ。あっという間に足首まで水が迫り、蛇のように纏わりついた。総山は舌打ちして立ち上がる。
「ほらほらー」
鯉が胸鰭を軽く動かしただけで、嵐のような暴風が吹き荒れ、床几や机を薙ぎ倒した。巻き込まれた客が床や壁に叩きつけられ、渦を巻く水に沈む。総山はすぐさま溺れかけた男を引っ張り上げて座敷に放り投げた。
慌てふためく店内で、鯉だけがのんびりとした態度を崩さない。
「罰がばっちり当たったね」
「おい神公、つまらねえからやめとけよ」
淡々と返したつもりではあるが、総山の焦燥感など鯉にはお見通しだったらしい。おそらく、話しかけられる前から、総山は人を守る者であると看破されていた。総山自身ではなく、他者を大勢巻き込んだのはそれが理由だろう。
鯉はすぐに脅しにかかってきた。まん丸い魚の目が、にい、と不気味に細まった。
「やめてほしいのなら、今すぐわたしをここから連れ出したほうがいいね」
「なに?」
「今度は君以外の全員に当てちゃうからね。もしかしたら、力加減を誤って、店を吹き飛ばしてしまうかもしれないね。濁流で町を飲んでやってもいいね。神様を舐めるんじゃないね。でも、生贄はたくさんあったほうがいいからね。わたしの力の糧となるがいいね」
果たして、総山は桶を抱えて町を出立していた。桶には少しの水と、立派な黒鯉が入っている。
総山が店主に向かって鯉を買い取ると宣言した途端、鉄砲水と暴風は止んだ。まるで生き物のように床を這いずって流れ去った淡水を目の当たりにし、店内は恐れ慄き、静まり返っていた。
腰を抜かした店主へ総山が再び話しかければ、軽く放心しつつも頷いてくれた。総山は無言の快諾と受け取った。こんな状況で突然なにを言っているんだと怒鳴られるかと思いきや、あまりの事態に混乱していて、思考が追いついていなかったらしい。そして、適当な代金を置いて、その場の全員が冷静さを取り戻す前に、そそくさと退散してきた次第である。
「で、おまえさんの望みはなんだ。言われた通りに町を出たが、どこに連れて行けってんだ?」
「それはもちろん、笠天滝だね」
心を磨り減らした総山に、鯉が追い打ちをかけた。
総山は叫んだ。
「笠天滝だァ!? ふざけるなよ神体山の奥地じゃねえか! 鈴の領域だぞ!」
そこは、水神が産まれ落ちる場所だと噂される、荘厳で雄大な滝である。総山も過去に一度見に行ったことがあった。笠天滝は山の奥地にあり、深山そのものが神の息吹のかかった幽世だ。なにか粗相をしてしまえば、己だけでなく総山に関わった者すべてに呪いが降りかかるだろう。山の祟りは恐ろしいものなのだ。
鯉はきょとんとした様子でひらひらと鰭を動かす。
「なにを怒るんだね? 君はなんだか山の清らかな残り香があるね。山なんて君の庭じゃないのかね?」
見事に言い当てられてしまい、総山はげんなりした。まるで己に神の手垢がついている気がして、ぱたぱたと着物を払う。
「こんなもん、木霊の爺どもに纏わりつかれてた名残だ。ここからおまえさんを抱えて神の庭を登れってか? 冗談きついぜ」
「まったく。非力で意気地なしな人の子ばかりで嫌になるね。とにかく、滝壺にわたしを放ってほしいね」
人を使役するのが当たり前だという姿勢に、総山は大きく溜め息を洩らす。なぜ、今日に限ってあの飯屋に入ってしまったのだろう。後悔がちくちくと総山に突き刺さる。
「神って奴ァ、どうしてこうもおれに頼るかね……」
「自惚れるんじゃないね。駒として選び抜いてやっただけだね」
「おい、道に捨ててくぞ。そのまま干物になりやがれ」
「やめてね。そんなことをしたら神殺しとして君を永遠に祟るからね。死んでも許さないからね。きっと末代まで呪ってしまうからね」
「ちっと噛みついただけでこれだよ。おまえさん、同じ神ならなァ、木霊の爺どもの温厚さを見習えよ」
総山にはもう選択の余地はなかった。笠天滝まで鯉を送り届けなければ、あの店にいた全員と総山の首筋に宛がわれた不可視の刃は下げられないだろう。ならば、さっさと終わらせようと、総山は歩を進めた。
「やはり君にして正解だったね」
鯉が満足げに笑んだ。まるで他にも候補がいたような物言いに眉根を寄せ、総山は振り返る。
一閃が飛来していた。
総山はこともなげに身を捻って躱し、二撃目を放った男に足払いをかけた。ものの見事に引っかかった男はあわあわと腕を動かすも、体勢を整えることなどできないまま、うつ伏せに倒れ込む。恰幅のいい男だった。藍白の羽織は一目で上質であることがわかる。
店を出てすぐに、後をつけられていることはわかっていたし、鯉口を鳴らしていることから敵意があることも察していた。隠すどころか気づいてくださいと意思表示しているようなものである。なんともわかりやすく不意打ちにはなっていなかったが、急に襲いかかってきたことには変わりはない。
「よう、お兄さん。おれに熱い視線をくれてたが、どういう了見だ」
総山は声を低くして問うた。にい、と唇は弧を描くが、目は相手の一挙手一投足を見定めている。
「話があるなら聞いてやる。悪いこたぁ言わねえ。ここで全部、腹ん中をぶち撒けてけ」
刀を抜かずに問いただす総山に、男は僅かに怯んだ。さすがに力量の違いには気づけたようだ。
「お……おれは、いや、我こそは!」
だが、威勢はあった。男は立ち上がり、眉をきっと吊り上げ、刀を天に掲げてみせた。陽の光を浴びる刃は幼く、生まれたての煌めきを放っていた。
「我こそは天の力を授けられし男、建兵衛! 人呼んで、伝説の建兵衛である!」
青雲にも届くであろう男の口上に、総山は白けた気持ちを隠せずにいた。天の力とはこんなにも弱々しいものだったのか。軽い足払い一つで倒された男が名乗るには、少々大袈裟な気がした。
「おまえの伝説なんざ聞いたことがねえ。もうちっと洒落た名をつけるんだな」
「なんだと……この無礼者めが……!」
建兵衛は総山のわざとらしい挑発にも簡単に乗ってきた。刀を強く振り下ろし、総山へと突きつけてみせたが、切っ先はあまりに落ち着きがない。小刻みに震えて狙いがろくに定まっていないのだ。徐々に下がっていく刀の穂先に総山は呆れていた。
「天の力に伝説、ねえ。一応訊いといてやる。おまえさんはなにができる? なにを成し遂げて伝説になったって?」
よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりに建兵衛は己の胸を叩く。
「我は神を知り、神の声を聞くことができる。そして、これから伝説を成し遂げるのだ」
では伝説でもなんでもないではないか、という気になる点はさておき、総山はちらりと小脇に抱えた桶に目をやった。神の声を持つ黒鯉がぴちぴちと尾を跳ねさせて、笑みを含ませていらえた。
「ふふ、君もわかる者だね。わたしをずっと見つめていたからね。火傷するかと思ったね」
「いかにも。我は貴様が神であるとすぐにわかったのだ」
天の力というのはあながち間違いではなかったようだ。となれば、先ほどの奇襲をかんがみるに、建兵衛の目的は一つしかないだろう。
「おまえさん、この鯉が欲しいのかよ」
「そうだ! 我がずっと狙いをつけていたのに、貴様は鯉を持ち逃げしたのだ! なんと卑怯な! 大人しく我に寄越せ!」
持ち逃げではなくきちんと買い取ったわけだが、そんなことは建兵衛にとっては些事だろう。
総山としては、こんな鯉をいつまでも抱えたくはないので、ここらで渡してやってもいいかもしれない、という気持ちではあったが、察した鯉が鋭く言い放った。
「伝説の君ね、わたしを捕らえて食べる気だろう。そんなことをしたら許さないからね。この町に去らない嵐を呼んでしまうからね。永遠に棲み続ける嵐をね」
「そんなことをされたところで、我は痛くも痒くもない!」
一蹴する建兵衛に総山は呆れ返った。同時に、焦りもあった。ありえない場所からの鉄砲水に、突如吹き荒れた暴風。自然を自在に操る鯉は、口ぶりはどこか親しげに思えるが、その実、人間に非常に冷たく、躊躇がない。
「おいおい、大勢の命を簡単に見捨てる伝説に成り果てたいのかよ。そもそも、こんな鯉食ったところで腹ァ壊すだけだぞ」
「貴様、知らんのか? 神を食らえば不老長寿や様々な才が手に入るのだぞ」
「様々な……って、大雑把だな。だいたい、そんなもん手に入れてどうするんだよ」
「我は神の力を得て、偉業を成し遂げたいのだ!」
まだなにも成し得ていないくせに、えへんとふんぞり返る建兵衛を前に、総山は鯉へと問いかけた。
「おまえさん、本当にそんな大層な奴なのか?」
「そりゃそうだね。わたしは神だからね」
総山としては、建兵衛の興味を失せさせるためにも、嘘でも力がないと答えてほしかったが、しっかりと肯定されてしまった。神様なら人心と空気くらい読み取りやがれ、と心の内で蹴り飛ばすと、鯉が言葉を継いだ。急いた総山を嗜めるように、尾で桶を叩く。
「でも、わたしはまだ正しく神には成れていないね。言ってしまえば神の幼体だね。笠天滝を昇ればわたしは立派な神になれるね。現に、もう嵐を起こす力がないね。もう微風すら吹かないね。幼体だから仕方ないね。ちょっと休憩させてほしいね」
「は? なんだよ。さっきのはハッタリか。脅かしやがって」
「でも、神の怒りは残るものだからね。わたしは決して鎮まる気はないね。命と引き換えに怒りの力で嵐を呼んでやるんだからね。神にはそれが可能だからね」
「めちゃくちゃだな、神様って奴らは」
嘯く鯉に吐き捨てた総山は、建兵衛に向き直り、打って変わって鷹揚に笑んでみせる。話を聞いていたはずの建兵衛は、唐突に総山に笑いかけられ、怪訝な面持ちを隠せずにいるが、刀をずっと握り締めたままだった。納刀する意思は、やはり見えない。
「と、いうわけだ。諦めろ。おれァ不本意だが、こいつに雇われた身なんでね」
そのまま、総山はおもむろに抜刀した。構える隙をあえて作ったのだが、建兵衛は怖じ気づいたのか、じりじりと後退った。総山は笑みを絶やした。透徹した目で建兵衛を見据えた。
「おいおい、その程度の覚悟でおれに喧嘩ふっかけたってわけか? 見逃してやるから、尻尾巻いて逃げろ。おれは背後から斬りかかったりしねえよ。おまえさんの命なんざ欲しくもなんともないんでね。これ以上の面倒事は御免だぜ」
これは挑発ではなく本心だ。敗走する相手に追い打ちをかける気など毛頭ない。すらりと解き放たれた刀は殺意など滲ませず、ただの鋼の輝きを晒すばかりだ。建兵衛が刀を下ろすそぶりを見せれば、総山はすぐに納刀するつもりだった。
だが、建兵衛は与えられた宥恕を読み違えた。総山が刃で押し入ってくると錯覚したか、やけくそのように吠えて、間合いに踏み込んだ。裂帛の声とともに、真銀の刃が放たれる。
総山はひょいと躱し、太刀筋が大きくぶれた刃の、次の軌道を読んだ。狙いはおそらく、右へ大きくずれる。総山は刀を閃かせた。
研ぎ澄まされた刃は光を浴びて、景色を映し透き通る。刃の軌道を追えなくなった建兵衛が硬直した。無防備に晒された刀の峰へと、これ幸いとばかりに総山は一撃を放つ。
鋭い音を立てて、建兵衛の刀が折れた。破片が煌めきとなって辺りに飛び散ってもなお、建兵衛は呆然と立ち尽くしたままだった。
折られた刀が手から零れ落ち、音を立てて転がったと同時に、建兵衛はようやく自我を取り戻した。
「刀が、消え……?」
「そんなわけあるかよ。目が曇ってやがるか。ああ、寝不足かもしれねえぜ。そりゃちょうどいい」
総山はにんまりと笑んだ。草履はすでに地を蹴って、呆けた建兵衛の背後に回っていた。
「しばらく寝てろ」
言うより早く手刀を叩き込む。建兵衛は声もなく倒れ伏した。
「鮮やかだね」
鯉が感嘆の声を洩らした。拍手のつもりか、鰭を腹に打ちつけている。
「言っても聞かねえなら叩き折るしかねえだろうが」
これで諦めろ、とぐったりと倒れ込んだ建兵衛へ言い捨て、先を急いだ。桶の中で、鯉が上機嫌に鼻歌を披露していた。
山に足を踏み入れた瞬間、鈴の音が総山を迎え入れた。響き渡った調べは黒鯉を歓待していただろうが、総山は全身が粟立つのを感じていた。一斉に神々の見えざる目が総山を射貫いたのだ。清冽な空気に全身を撫で回され、総山は唸る。
「熱烈だなあ、おい……」
獣香で満ち満ちる朱紐の内とは正反対に位置する場所だが、清浄も過ぎれば畏怖を生む。神の戯れには慣れていたはずの総山ですら気圧され、緊張に蝕まれつつあった。
「ったく、堅っくるしいのはなしにしようぜ」
馴れ馴れしい物言いは己を律するためのものである。あえて足音を立てて山を進む総山を面白がった鯉が、揶揄いの言葉をかけてくる。容赦なく小突き回してくる鯉をぶん投げてやりたい気持ちを抑えて、総山は笠天滝を目指した。
「おや、迷いがないね。道案内は不要かね」
「どうだかなァ。前に一回来たことがあるだけだ。記憶違いがあれば指摘してくれよ。くそ、楽しやがって」
「ふふふ。神を運べるなんて、なかなか得られる経験じゃないね。光栄と思ってもらいたいね」
罵言程度ならば神は見逃してくれるようだ。さやさやと木々が鳴く。水の流れや風音が、なぜだか笑い声のようにも聞こえた。
(鯉と一緒に嗤ってやがるか? ろくでもねえな……)
内心でぼやいたそのとき、背後から迫る足音に総山は気づいた。鯉は驚きもなにもなく、桶の中で落ち着き払っている。
総山はすぐに振り返った。気配からして人であることは間違いなかったし、その予想は当たっていた。だが、そこに立っている人物は、流石に予想外であった。
「ようやく追いついたぞ! 鯉泥棒め!」
なんと、建兵衛である。折れた刀は腰の鞘に収まり、大人しく眠っている。だが、いつ斬りかかってきてもおかしくないような、強い足取りで寄ってくるではないか。神から齎される畏怖など、気にするそぶりもない。
「……おいおい、まじかよ」
刀は折れても、男の心は折れなかったらしい。叩きのめされてもなお諦めない姿勢に、総山は呆れを通り越して感服していた。同時に、面倒なことになったと眉を寄せた。
ここはもう、神々の領域だ。
禁足地になっていないことが不思議なほど、荘厳な神の吐息がかかっていた。清けき流れが山一帯に漂い、ひそやかな話し声を運んでくる。滅多にやってこないはずの人の子に、木霊の群れがそわそわと顔を覗かせて、身を寄せ合ってささめいているのだ。
「おい、おまえさん。ここがどこか、本当にわかってやがるのか?」
「莫迦にするな! 笠天滝に行くと言っていたではないか! この山が滝を抱える霊山だろう! 木霊もわんさか湧いているしな」
「わんさかって……間違ってはいねえけどよ」
木霊が人前に姿を現すということは、笠天滝に血や穢れが持ち込まれていないことを意味した。いつもならすぐに木霊たちにちょっかいをかけられる総山だが、小脇に抱えられた鯉に遠慮しているのか、話しかけてくる者はいなかった。総山の後を辿ってきた建兵衛も危険性はないと判断されているらしく、木霊たちが興味津々に見つめている。
「恐るるに足らんと思われてんのかあ……?」
しかしながら、建兵衛は人の世と隔離された神々の住処で、神の一柱を刺し身にして食おうとしている極悪人である。踏み入ることを寛大にも許した神に対し、なんという裏切りか。そんな野蛮極まりない輩を連れてきてしまった己も、なにかしらの罰が下るだろう。木霊のように人に理解を示す宿り神もいるが、ほとんどの神は人間同士のいざこざなどに興味はない。間違っても笠天滝で傷を作り、穢れを流してはならない。
つまり、建兵衛を叩きのめして置いていくこともできないのだ。総山を追って山を彷徨くことは、火を見るより明らかだ。目覚める前に帰ってこられる自信は、正直なかった。
これまでの行動を見るに、建兵衛は無茶をするし、考えなしのところがある。目を離した隙に山から転げ落ちて死ぬ可能性など十二分にあった。こうなっては、鯉だけでなく建兵衛を守りながらの行動が求められる。
「なあ、伝説よ。さっきの話、覚えてるか? こいつを食うのはまだ早いと思うぜ」
だからこそ、総山は説得にかかった。力でだめなら言葉でなんとかするしかない。ただ帰れと言うだけでは相手は余計に反発するだけだ。
建兵衛は鯉の言葉を思い返していた。顎に手を当て、神妙に頷き、でも、と続ける。
「ナマモノは足が早いというではないか」
「刺し身にする気なんだね。やめてね」
鯉が茶々を入れたが、総山はすぐさま遮った。
「待て待て、こいつは神の稚魚だぜ。笠天滝に行けば、本当の神様になれるって話だ。稚魚を食って中途半端な力を得るよりも、立派な神を食ったほうが、より優れた力が宿るんじゃねえか?」
「むむ、確かにな」
決して欺瞞ではない。総山は本当のことだけを言っていた。建兵衛もわかっていた。だが、鯉を食わせてやるなんて、一言も洩らしていない。それに気づかない建兵衛は、あまりにも素直な男だった。
「では、我もついていこう! 神となった瞬間、貴様をこの刀でおろしてやるぞ!」
うまく事を運べたが、建兵衛の無謀かつ無礼な発言を、総山は肯定できなかった。
神々の御前だというのに、なんたる命知らずな発言か。しかし、どこからもお咎めはなかった。建兵衛と総山どちらにも。やはり、実際に行動に移すまでは、手を出さないつもりなのだろう。どうせ神殺しなどできやしない、と高を括って見物している可能性すらあった。気分は悪いが、救われた気持ちだった。
「……だそうだ。うまく逃げろよ」
声を潜めて伝えれば、鯉は総山の苦労を知ってか知らずか、愉しげに尾を動かした。
「ふふ、善処するね」
総山が先を進み、建兵衛が後に続く形となった。総山の言葉を真に受けたためか、建兵衛は大人しかった。これだけ素直なら、もう少し違う角度から攻めてみれば諦めるのではないだろうか。だが、諦めの悪さは健在だろう。まあ、いい。駄目元で諭してみようかと、総山は前を向いたまま口を開いた。
「伝説よう、木霊の爺どもが見てるぜ。あいつらは人に好意的な奴らだ。物騒なことをぬかしたおまえさんの身を心配してか、おれたちについてきてやがる。あいつらの前であんまり酷えことはしてやるなよ」
返事はない。草木を踏む音すら聞こえてこなかった。まさかと振り返れば、建兵衛が離れたところで膝に手を当てて息を切らしているではないか。
「おーい、どうした伝説。足が止まってやがるぜ」
山に入って数刻しか経っておらず、笠天滝にはまだ程遠い。総山は建兵衛に迷われた果てに死なれても困るので、それなりに歩きやすい道を選んで進んできたつもりだった。この後はさらに足場の悪い道とも呼べぬ道が続く。そもそも、滝壺に向かうのだから岩場も越えてゆかねばならないのだ。これでは先が思いやられる。
「まさか、この程度で音ェ上げるってんじゃあねえよな」
呆れた総山が問えば、建兵衛が肩で息をしながらも強く否定した。
「そんなことはない! 我は、偉業を成す伝説のぉ……っ」
「息上がってんぞ。置いていくからな」
「待て! 抜け駆けは、許さんぞう……っ!」
総山の挑発は、やはり建兵衛には効果覿面である。休んでいる暇はないのだ。夜の山登りなどという無謀な挑戦は避けたかった。総山はからからと笑い飛ばして建兵衛を掻き立てた。
「あーあー、声がひっくり返ってらァ。なあ、伝説さんよ、無理なら諦めろ。山を越えたことなんかねえんだろ。刀の重みにすら持っていかれるくらいだ。出直せ」
「そんなっ、ことをしたら、鯉がっ、手に入らん、だろうがっ!」
「吠える元気はあるか。なら、まだ踏ん張れるな」
発破をかけて総山は踵を返した。すいすいと淀みなく歩を運ぶ総山に、鯉が揶揄いまじりに言う。
「君はお人好しだね」
途端、総山は苦虫を噛み潰したような顔になった。嫌なところを突かれ、胸の奥がぢりぢりと毛を逆立てていた。
「やめろ、気色悪い。置いていって死なれたら、ここらの木霊どもに悪いだろうが」
「ふふ、神を大切にするのはいいことだね」
なんとも含みのある言い方だった。総山は眉を跳ね上げたが、すぐに心宥め、言葉通りに受け取ろうと努めた。神って奴は、平気で人を暴こうとしやがる。そんな胸中での悪態も、もしかしたら鯉には筒抜けかもしれなかった。
気づけば空が紅く滲み出していた。焦りというものはすぐに全身を支配して現れる。
「おい、伝説! てめえを担いで登る余裕はねえぞ! ここで大人しく留まるか!」
総山の叱咤が山に響き渡った。声を張り上げたのは、そうでもしないと遠くで寝転がる建兵衛に届かないという理由もあるが、ほとんどは苛立ちのせいである。
「い、いかん……! 貴様、鯉を……放流、する……だろう……!」
器用なことに、息も絶え絶えになりながら建兵衛が叫び返してきた。刀を杖代わりにして上体を起こし、よろよろと歩き寄ってくる。
「そりゃあ、神様の頼みだからな。こっちは人質を取られてるんでね」
言いながら、総山は深く息を吐いて、己の昂ぶりを宥めた。神に振り回され、人に振り回され、冷静さを欠いていたことに気づいた。神の視線が四方から降り注ぐ中、精神を握り込まれるような嫌な感覚が、総山を急かしていた。落ち着け、と総山は己に言い聞かせる。長居はしたくないが、妖畏の出る山とは違い、身の危険は少ないのだから。
水も飲まず歩き詰めで、建兵衛は限界だった。だが、しぶといのだ。これは焚きつけすぎたかもしれない。建兵衛はどんな無茶でも死に物狂いで成し遂げてしまうような、危うい男だった。
やはり多少の休憩は必要である、と総山は反省し、岩場にどっかりと腰掛けて頬杖をついた。
「おら、ここまで来いよ。ちっとばかし休んでいこうぜ」
「ぐうぅ……!」
呻きながらも岩場までやってきた建兵衛に水を渡しながら、総山は問うた。
「おまえさん、なにがしたいんだよ」
刀を折られ、気を失い、それでも苦しみ喘いで山を登り、一気に水を呷った建兵衛を、ちらりと横目で見やる。答えられる余裕などなかったらしく、待て、と手のひらを総山に向けたまま、しばらく荒い息を繰り返していた。
鯉は二人に休むなと怒りを放つことはなかった。ただじっと、総山とともに、黙って建兵衛の言葉を待っている。
「神の力を得たいのだ」
唐突に建兵衛が口を開いた。疲れは滲んでいるが、堂々とした声だった。
総山はすぐに頭を振った。
「いや、そうじゃねえよ。そこまで神様の力にご執心になる理由だ。少しくらいは教えてくれてもいいじゃねえか」
「伝説を成すのだ」
間髪を入れずに建兵衛がいらえた。総山の眉間の皺がさらに深くなる。
「……いや、伝説ってなんだよ」
「何度も言わすな。我は偉業を」
「だから、その偉業っつうのはなんだって訊いてんだよ、おれは。堂々巡りじゃねえか」
総山はうんざりして言い返した。建兵衛は面食らったようだが、やはりまた、聞き飽きた言葉を並べるだけだ。
「わ、我は、人とは違い、素晴らしいおこないを……」
「ああくそ、わっかんねえ奴だな。偉業だの伝説だの素晴らしいおこないだの、つまりはなんなんだよ」
建兵衛はきょとんとした顔を晒した。総山の言った通り、なにを言っているのかわからない、という顔だった。総山は己の力が抜けていくのを感じていた。疲れがどっと押し寄せてきた。同時に、なぜ自分は不要な苦労を背負わなければならないのかと、抑えたはずの苛立ちが再び湧き上がってきた。
「さっきから聞いてりゃ、おまえさんは具体的な目標がなにもねえじゃねえか。ただ己を誇示したいだけに見えるぜ。人に褒めそやされたいだけか? だったらそのためになにをすべきだ? 鯉を食って様々な才を得た、その後だ。神の力を宿したおまえさんは、一体なにを成すんだよ。得た才をどうする。持っただけじゃあ、なにも変わってねえのと同じだろうが」
溜め息をいっぱいに吐いて、総山はやおら立ち上がった。休息は充分だろう。それに、これ以上は無意味な気がした。先ほどから同じ問答の繰り返しで、いい加減辟易していたのだ。
桶を抱えて総山は歩き出した。羽織が山風にあおられる。木々のさざめき、水の音、呼吸。そこに、小さな声が混ざった。
「称賛されたいと思うのは、良くないことなのか?」
総山はゆっくりと振り返る。憮然とした面持ちで、建兵衛が洩らしていた。総山の言葉を汲み取ろうという意思が、ようやくちらりと顔を覗かせていた。
建兵衛の様子は総山にも冷静さを取り戻させた。余裕を僅かに欠いて語気を荒げた己に、総山は若干の気恥ずかしさを覚えていた。だからこそ今度は努めて平静に説いた。
「悪かねえよ。むしろ健全じゃねえか。そうやって上を目指す奴らが、この世をより良く整えていくんだからよ。ただ、そこへ至るためになにをしたらいいのか……いや、どこへ至るのかすら、おまえは考えられてねえ。そんな様子じゃ、いつまで経っても伝説にはなれねえし、誰にも認められやしないぜ」
「我は……。なにが、したいのか……?」
「そうだ。おまえさんはなにがしたいんだよ。神様の尻を追っかける前に、しっかり己と向き合えよ」
そこで、建兵衛は押し黙った。口を噤み、しっかりと踏み締めるように歩を運んだ。総山も口を閉ざして山を登った。
山は徐々に纏う色を変えた。神々の息吹もさらに濃くなり、ぴりぴりと肌が痺れた。それ以上に、二人と一柱の間に流れる空気が、登り始めたときとはすっかり変わっていた。決してそれは悪いことではなかった。建兵衛は純真な男だった。彼は必死に考えていた。そうわかった。だからこそ、心の在り方を見抜いた神は、彼の侵入を許していたのだ。
しばらくして、建兵衛が口を開いた。歩みは止めず、呼気も荒く、それでもぽつぽつと心情を語った。
「我は昔から、人に莫迦にされてきた」
総山も鯉も口を挟まない。沈黙を保った。
「弱かったのだ。誇れることなど、なにもなかった。体だけは大きかったが、戦いの才はなく、顔も頭も……人よりも、劣っている。なにをしても鈍臭く、三日坊主が当たり前。笑われるだけの人生が、辛かった。変わりたいのだ、我は。誰でもいい。認められたいのだ……」
建兵衛の声音は、悲嘆に暮れてはいなかった。ただ、初めて抱えていた気持ちを吐露し、自身へと伝えようとしていた。まさしく自己との対話である。鯉がふっと笑った。総山もようやく建兵衛に声をかけた。
「変わってはいるみてえだな。そのしつこさ、三日坊主には思えねえよ。おまえさん、自分で気づいてねえだけで、もう充分、一人でやれるじゃねえか」
「そ、そうなのか?」
「自覚ないのがすごいぜ。やりきろうとする力が、諦めの悪さがあるじゃねえか。あとは次の目標を決めるだけだ。別に責任背負えって話じゃねえ。楽しめよ。際限の中の、限りある命だ。好きなもん見つけて、好きなことのために生きりゃいいんだ」
「好きなこと……」
「なんでもいいんだよ。別にな、この世は戦える奴が偉いわけじゃねえ。強い奴しか褒められねえわけじゃあねえだろ? 生半可な思いで刀を振り回すよりも、なにをしたいか考えたほうがいいぜ。探してみろ。世の中こんだけ広いんだ。一つくらいはおまえ好みのものが見つかるだろうよ」
おお、と建兵衛が感嘆しながら、総山を追った。のしのしと歩む足音は、疲れはあるが力強い。
「人の子が偉そうに語っているところを見るのは、とても面白いね」
ついに鯉が口を挟んだ。言葉通りに、愉快でたまらないといった様子で。
「わたしとしては、どんぐりの背比べに見えるからね」
「そうかよ」
「さすがは神だな。あまりに上から目線だ」
苦々しい顔を隠せない総山をよそに、建兵衛はからからと笑い飛ばした。
「おお……これは、すごいな!」
霊山の抱える雄大な滝を前にして、建兵衛が口をぽっかりと開けたまま目を輝かせた。大きな山肌に囲まれた滝は、頭上遥かからごうごうと音を立てて落水し、辺りに水飛沫を振り撒き、白い霧を生み出している。滝壺は激しく泡立っていたが、こんなところに放流されて、果たして神の稚魚である鯉は無事で済むのかと、柄にもなく心配になった。
「山を登ったのは……これが初めてだ。こんなにも大変で、こんなにも清々しい」
笠天滝に圧倒される建兵衛に気取られぬように、総山はすぐさま桶をひっくり返した。するりと水中へと身を躍らせた鯉は、なぜかその場を動こうとしない。
「なにしてる。さっさと逃げろ。刺し身にされるぞ。それとも怖じ気づいたかよ?」
「そんなわけないね。それに、もう逃げる必要はなくなったからね」
「はあ?」
思わず大きな声を出した総山の背後に、建兵衛が歩み寄る。しかし、腰の柄へ手を回すそぶりは見せなかった。うん、と大きく頷いて、力強く拳を握ると、刀に代わって天に掲げた。
「鯉は諦めよう。こういうのは、自らの力で到達しようとすることが大事なんだ。神である貴方と、そして、愚かだった自分とは、ここでお別れだ」
鯉はにっこりと笑み、ヒゲを揺らした。そう宣言することを知っていた、とばかりに。
思考といい口調といい、憑き物が落ちたと思えてしまうほどの変わりようである。総山は訝しんだ。やめておけばいいのに、つい問いかけてしまうほどだった。
「おいおい、どういう心境の変化だ。あっさり手放すじゃねえか。いいのかよ?」
「いいんだ。稚魚である貴方が立派な神になるように、我も……おれも、胸を張れるような人間になってみせる。これからおれは自分探しの旅に出るんだ。やりたいことを探し、見つけて、それを極めよう。世は広い。神を追い求める暇なんて、最初からなかったんだ」
きっぱりと言い放つ建兵衛を、総山は唖然としたまま見ることしかできない。いつの間にか狐と入れ替わったのではないかと、ざっと全身を見たが、妖気は感じられなかった。
「なにを疑うんだね。君が彼を諭したんじゃなかったかね?」
心底不思議そうに鯉が言った。確かにそうだ。彼は変わろうとしていた。自分自身に向き合っていた。だが、あくまできっかけを与えたに過ぎないだろう。こんな短時間で、すっぱりと神への執着を断ち切れるものなのだろうか。
「あの程度の言葉でこうも変わるか? さすがにおかしいだろ」
「君は自分自身を過小評価しているね。じゃあ、君が納得できそうな答えをあげようかね。彼は君の言葉をきっかけに、己と向き合ったね。そして、この山の清らかさに触れて改心したのだろうね。心の淀みやほつれを整えられたようだね」
「つまり?」
「場の空気に呑まれたってやつだね」
「……恐ろしいなァ、おい。やっぱりさっさと退散したほうがよさそうだ。神になんざ染められてたまるかよ」
ぞっと悪寒が滑り落ちた。嫌な気配は、やはり間違いではなかったようだ。人の体をベタベタと撫で回すだけでは飽き足らず、心にまで手を突っ込んでいたのだ。神に侵食され浄化されるなど、たまったものではない。
心底嫌そうな顔を見せた総山をせせら笑った鯉は、深く潜ったかと思うと、激しい水流に抗って、強く水面から飛び上がった。
「それでは、ありがとうね、人の子。その優しさがあれば、近いうちに、二人に良いことがあるかもしれないね」
水煙の上がる中、天から溢れ出る水の橋に飛び込んでいく。鯉の姿がすっかり見えなくなったところで、総山は踵を返して建兵衛を引っ掴んだ。
「ぐおおっ! な、なんだ、どうしたんだ!」
「こんなところ長居できるわけねえだろうが。帰るぞ」
「い、いや、しかし、滅多に来られないではないですか。おれはもう少し見ていたいのですが」
「まさか、自覚がねえのか!? ほとんど別人じゃねえか! おまえ誰だよ!」
「おれはずっと建兵衛ですが……」
「やべえな、とっとと帰るぞ! おまえさんみたいに神に掌握されてたまるか!」
「いや、おれは貴方の言葉を聞いて……って、ちょっと! 引っ張らないで!」
喚く二人の周りで、再び山風が吹いた。木の葉が擦れる音と激しい水音が、見えざる山の神々の笑い声に聞こえたのは、決して気のせいではないだろう。
後日、町は一つの噂で持ちきりになった。笠天滝から新たな神が産まれ落ちたという。その神は黒き龍の姿で、慈雨を引き連れながら悠々と空を泳ぎ渡っていった。