邂逅記 河童の章


 

  猛暑が続いていた。

 蝉の鳴き声が山中に響き渡り、ワクラバはうんざりしながら木陰に腰を下ろした。

 妖畏退治の任務の帰りである。妖畏の動きが異常に鈍く、討伐自体は簡単であったが、この蒸し暑さがワクラバとタキの体力を容赦なく奪っていった。鈍くなった思考を冷ますために、荷袋から竹筒を取り出し、一気に呷る。生ぬるい水が体の奥を滑り落ちていく。喉の渇きは多少和らいだが、溜まった熱はそう簡単に発散されなかった。もしかしたら、妖畏もこの夏の日差しにやられてしまっていたのかもしれない。

 タキはというと、薄い襦袢一枚だけを身に纏い、池で水浴びをしている。畔には荷袋だけでなく、先ほどまで履いていたらしい褌が堂々と置かれていたが、タキも頭が茹で上がってしまったのか、羞恥心など失せているようだった。

 時折、タキが水中に潜り、勢いよく水面から顔を上げる。そのたびに水飛沫が舞い、陽の光を反射してワクラバの目を灼いた。大きな池の真上には枝葉など存在せず、雲一つない晴天が、燦然と輝く太陽を抱えている。ワクラバは眉を寄せて目を閉じた。

 視界が遮断されれば他の五感、とりわけ聴覚が鋭敏になった。蝉の鳴き声などどれも一緒だと思っていたが、こうして聞けば違いがわかる。わかったところで熱が冷めるどころか煩わしさばかりが募っていくだけだ。タキが水浴びをする音だけが僅かな清涼感を運んできたが、それが突如、悲鳴と激しい水音に変わった。

 ワクラバはすぐさま目を開き、タキの元へ馳せ寄った。タキが畔に手をかけ、なんとかして池から出ようとしているが、なにかに引きずり込まれているのか、うまく立ち上がれないようだった。だが、そのなにかがワクラバには見えない。獣香は感じない。百鬼歯も反応を示さないところから妖畏ではないだろう。そう考えながらタキの手を掴むと、細い体を抱き込んで引っ張り上げた。

 水を含んだ体は重く、勢いそのままにワクラバは背中から倒れ込んだ。タキが身を捩り、ワクラバの胸に縋りながら、痛い、と小さく悲鳴を上げる。見れば、タキの襦袢が肌に張りついているが、尻の部分だけ異様に大きく盛り上がっている。先ほどまで無色透明だったはずだが、陸地に引き上げたことで正体を現したのか、青とも緑とも言える小柄ななにかが視認できた。ワクラバは襦袢を捲り上げた。

「もぐぁ」

 巨大な両目を爛々と輝かせて、タキの尻を囓っている河童がそこにいた。

 わかめのような前髪を垂らした顔面を掴み上げると、河童はあっさりとその嘴を開き、タキを解放した。裏側にびっしりと並んだ棘のような歯に、これは痛いわけだと思いながら、そのまま河童を池に打ち捨てた。

 歪な歯形が残った尻を撫でさするタキを置いて、ワクラバは立ち上がる。うつ伏せで浮かんでいた河童はもう姿を隠すつもりはなかったらしく、平泳ぎして池の汀まで戻ってきた。

 タキは噛まれた怪我の具合が気になるのか、なんとか首を捻って尻を覗き込もうとしているが、当然見えるはずもなく、その場をぐるぐると回り続けている。犬が己の尻尾を追いかけている姿に似ていたが、とりあえず放っておく。

  仁王立ちしたワクラバと回り続けるタキを交互に見た河童は、にへらと笑って弁解した。

「すももだと思いました」

 そんなわけあるか。

 ワクラバの蔑むような視線に慌てたのか、河童は下半身だけ池に浸かったまま、畔に嘴を打ちつけて謝意を示した。 

「ひいん、許してください。悪気はなかったんです。食い気があるだけで」

(食う気満々じゃねえか)

 誰にも届かぬ念を放ってしまったが、河童はなにかを察したらしく、再び顔を地面に擦りつけて謝った。そんな中途半端に入浴しているような謝り方をされたところでワクラバにはなにも届かない。

 ようやく人間は己の背中を見ることができないと思い出したらしいタキが、常よりも情けなく眉を下げて、ワクラバの背後から河童の様子を窺った。謝るたびに頭の皿から水が零れるのが心配になったのか、なにか言いたそうにしているが、ワクラバと河童を交互に見て、結局押し黙った。

 そこに同情や憐憫が含まれていると気づいた河童が、今度はタキに対して弱々しい主張をした。

「おなかが減って力が出ないんです。胡瓜だってここ数年食べてないし、最近は雨も降らないし、食べ物を探しに行くのも面倒……じゃなくて気力が、あっ、元気、元気もなくて。だからつい」

 まさしく同情を買おうとしていた。今の言葉から強かさが滲み出るどころか完全に姿を現していたが、タキは騙されたようだ。尻を噛まれたくせになぜ憐れむのか。水浴び程度では茹で上がった頭は治らなかったらしい。

「すもも……お尻がだめなら尻子玉でもいいんですけど。本当はあんまり美味しくなくて好きじゃないんですけど、背に腹は代えられないんで……。大丈夫です、全部を食べるのはだめなので、弁えてるので、捻り出してちょっと囓ったら元の場所に押し戻しますから」

  とんでもないことを言い出す河童の顎を百鬼歯の鞘で打ち、剥き出しになった白い腹をそのまま鐺で突いて池の底に沈めてやろうとしたが、目を覚ました百鬼歯が烈火の如く怒り出したため途中でやめた。どうやらぬめった河童の肌の感触が嫌だったらしく、軽く水で濯いで再び腰に戻した。それだけでは納得いかないようで、すぐ隣でぎゃんぎゃんと喚いているが、無視を決め込むことにする。

「人間はやはり怖いですね……なんて野蛮な……! こんな可愛い小妖怪を苛めてなにが楽しいんですか……!」

 少しも可愛いことを言わない河童がわざとらしい涙声を上げた。すんすんと啜り泣くたびに皿から水が零れ落ちる。タキがついに陥落したらしく、畔に膝をつき、両手で水を掬って河童の皿にかけ始めた。河童が目を潤ませ、拝むように手を合わせた。

「ああ、あなたは天女様か……。その慈しみの心に感謝します。できれば、なにか食べられるものもいただけると、ああ、天女様……」

 図々しいお強請りにワクラバは大きな溜め息を洩らした。タキは気づいていないかもしれないが、河童が手を合わせながらいつでもタキを池に引きずり込めるようにと様子を窺っている。このままワクラバがタキの首根っこを掴んで逃げようとすれば、それよりも早くタキは水中へ沈み、肛門から内臓をもぎ取られて終わるだろう。河童というのは小柄であれど力が強い。当然、水中ではワクラバよりも俊敏に動く。

 なぜこんなくだらないことで真面目に頭を働かせているのだろう、とワクラバは我に返った。やはり己の頭も暑さにやられているらしい。そもそもタキを止めなかった己が悪いと判断し、とりあえず河童を引き剥がすことを優先した。

 木陰にあった荷袋をすべて回収し、奥底にしまっていた代物を池の中心めがけて投げた。「供物だ!」と歓声を上げて泳ぎ出した河童を見つめていたタキに、畔の荷物をすべて押しつけて池から離れるよう指示した。ついでに脱ぎ捨ててあった褌も渡すと、ようやくタキに羞恥心が戻ってきたらしく、顔を赤くしながら逃げるように茂みまで走り、急いで着替え始めた。

 しばらく池の中心でぼんやりとしていた河童が、すいすいと泳ぎながら戻ってきた。

「あの、なんですこれ。気持ち悪いんですけど」

 河童が困惑を露わにしたままワクラバが投げた物体を掲げる。節くれ立った骨とも枝とも言える棒状の物体だ。着替え終わったタキが茂みから顔を出した。河童の手に握られたそれを見て、顔を青くした。

「……えっ、と、あの……ワ、ワクラバ……」

 見覚えがあるのは当然である。あれはもともとタキが胡散臭い商人に引っかかって買ってしまった代物なのだ。煎じれば薬になると言われたようだが、まったくそんな気が起きず、ずっと荷袋の底に眠っていた。なんとなく処分に困っていたが、ようやく手放すことができてワクラバは僅かながら開放感を覚えていた。そのまま念を飛ばすと、タキが信じられないとばかりにワクラバを見た。顎をしゃくって通弁を促すと、タキは躊躇いながらそっと口を開いた。

「…………河童の腕、です」

 今度は河童が信じられないとばかりにワクラバを見やった。

「あなた、人の心がないとかよく言われませんか?」

 持ち主ではないが、同種の元に戻ってよかったんじゃないか。そんな気持ちは伝わらなかったらしく、河童が冷え切った声で問いかけてきた。妖怪に人の心を語られるのはどうなんだ、と思っていると、河童が大きく咳払いをして白けた空気を一変させようと動いた。

「ぼくは寛大なので許します。でもこれ、河童以外にとってはかなり貴重なものだと思うんですよ。どうせ高く売りつけられたんでしょう。そういう匂いがします」

 これに俯いたのはタキだ。図星である。ワクラバはなんとなく嫌な予感がしていた。

「そこの角娘と交換なんてどうです?」

 ワクラバは河童の顔面を踏みつけていた。じたばた藻掻く細腕がワクラバの脚を捕らえようとする。鋭い爪に引っ掻かれる前にワクラバは河童を蹴り飛ばした。

 池に落下した河童が泡とともに浮き上がってくる。めげない河童である。これくらいの胆力は見習うべきかもしれない。

「天女様! そんな人間と一緒にいてもろくな目に遭いませんよ! ぼくと一緒にいたほうが何倍も安全ですし楽しく生きられます」

 河童はタキに対して手を振った。尻を噛んでくるような奴と一緒にいて楽しいわけがないだろうが、やはりこいつも暑さで頭がおかしくなっている可能性があった。ワクラバの度重なる暴力も原因の一つかもしれないが。

 当然、タキは動こうとしなかった。茂みから様子を窺い、ワクラバを待っている。河童はついに諦めたか、嘆息しながら言う。

「物好きな鬼もいたもんですね。妖気も一切感じないし、化けるのだけは異様に上手いようですが……そんなんじゃ食われるだけ食われて終わりですよ。もっと強気に出ないと。今度ぼくがお手本を見せてあげますから」

 今度なんてあってたまるかとワクラバは踵を返した。休息のはずだったが、面倒なことに巻き込まれて疲れがどっと増しただけであった。さっさと町まで戻って大衆浴場で汗を流したかった。そう思いながらタキと合流したところで、突如、ワクラバの後頭部を衝撃が襲った。

 頭を押さえて足元を見れば、なんと、河童の腕が落ちている。振り返ると、にやりと目を細めて嘲弄している河童がいた。なるほど、お手本とはこういうことだったか。やはりまったくめげていなかった。

 ワクラバは河童の腕を拾い上げ、勢いよく振りかぶった。まっすぐに投擲された腕は河童の顔面に吸い込まれるように激突し、仰け反った河童の「ぎょわーっ!」という珍妙な悲鳴とともに空へ舞い上がった。水飛沫と日差しが煌めく、眩い真夏の空だった。