「絶対に妖畏の仕業ですよね。それ以外、考えられませんよね」
ワクラバは苛立っていた。妖畏退治の任を受けて依頼主の元に参じたわけだが、ついに外れを引いてしまった。話を聞く限り妖畏による被害ではないというのに、どれだけ説得しても依頼主の女は頑なに認めようとしないのだ。そもそも聞く耳を持たないのだから、タキの拙い通弁では敵うわけもなかった。
「……え、っと……それ、は、妖畏では、なくて……」
それでもタキは、きっと睨めつけてくる依頼主に、びくびくと縮こまりながらも懸命に言葉を紡いでいた。ワクラバの怒りが時間とともにどんどん積み上がっていくことに気づいていたらしい。二人の怒りに挟まれて、タキはわかりやすく肩を竦ませて俯いた。
「よ、妖畏が、あの、野菜だけ……その、盗るなんて……」
「妖畏だって人肉ばっか食べてたら、たまには野菜食べたいなってなるでしょう」
だが、必死になって紡いだところで、ばっさりと切られてしまうのだから、タキがついにワクラバに振り向いた。ハの字の眉毛がさらに下がって、心なしか煤色の髪もくったりと萎びている。
依頼主は八百屋を営む女であった。店売りしている野菜が毎日盗まれるというのだ。見張りをつけても外に人の気配はなく、気づけば野菜がなくなっている。神出鬼没の妖畏にしかできない芸当だと、依頼主は鼻息を荒くして言い切った。
それをワクラバは否定した。妖畏は人間か妖怪しか狙わず、どちらにもありつけない場合、ごく稀に動物を捕食する。つまり、妖畏の主食は肉なのだ。野菜ばかり狙う妖畏など聞いたことも見たこともない。妖畏は店売りされた野菜ではなく、そこに住まう人間を狙うだろう。しかし、住人や近隣に被害はない。また、本当に物好きな妖畏がいたとしても、獣香が残されていないとなれば、やはり妖畏の仕業とは考えられない。なぜ自信満々に言い切るのか不思議でならないし、決めつける依頼主の態度は業腹であった。
「獣香、は……あ、あるので、しょうか……?」
タキも同様の疑問を抱いたらしい。妖畏の残り香はそう簡単には消えないのだ。ワクラバとタキは妖畏退治の後に衣服を丸洗いしているし、風呂にも入る。そうして、やっと匂いが落ちる。今回は店の奥に並べていた野菜がなくなったらしいが、そんな空気が溜まった場所ならば、獣香が漂っているはずである。
「獣の香りなんざ、一晩経ったら消えるでしょうが」
「そ……そんな、ことは……」
「とにかく、妖畏なんですよ!」
ばん、と両手を床に叩きつけ、依頼主が喚き散らした。
「絶対に妖畏なの! たまに地響きみたいな変な音がするし、建物も揺れるし、きっと巨大な妖畏がやってきて野菜をつまみ食いしてるの! 食べてすぐに消えちゃうから獣香も残ってないとか、なんかこう、うまくやってるの! それをさっさと退治してほしいだけなのに!」
「……ど、どうして、妖畏、に……あの、拘るんです……?」
激しい剣幕で怒鳴った依頼主に、タキが怯みながらも問うた。背後のワクラバの何度目かわからぬ舌打ちに背を押されていた。
依頼主は身を乗り出して力説した。
「考えてもみなさいよ! 妖畏以外だったら人か妖怪しか考えられないの! つまりは泥棒ってことになるの! 毎日毎日、外を見張ってても野菜が盗られるの! 外からやってくるんじゃないとしたら、部屋の中にわたしの知らない誰かがいることになるの! でも、部屋を探しても誰もいない! 忍者なの!? 忍者みたいな泥棒に目をつけられてるなんて怖すぎるでしょ! わかる!? 妖畏のほうが数倍ましよ!」
ワクラバとタキはどちらともなく目を合わせた。女の言い分はまるで共感できなかった。神出鬼没かつ獰猛な妖畏のほうが、どう考えても怖いだろうに。恐怖は人それぞれなのだな、とワクラバは現実逃避のような感想を抱いた。
「とにかく、妖畏でないと主張するなら、証拠の一つや二つ持ってきて」
「……あの……」
「三つか四つ持ってきて」
「三つ……」
「五つか六つ持ってきて」
どんどん増える。
「………………ワクラバ……」
ついにタキが負けた。苦々しい顔をしたワクラバを見て、タキがしょげかえった。
絶対に持ってきてよ、という依頼主の台詞を背に受けながら、ワクラバとタキは店を後にした。
「無駄足じゃ。くだらぬ話を聞かせおって」
と、つまらなさそうに呟いたのは百鬼歯だ。波打つ血衣に身を包んだ百鬼歯は、ワクラバの目線の高さで揺蕩っていた。話を聞いている間、ワクラバのすぐ横で足を組んで大欠伸をしていた百鬼歯は、ワクラバと同じく、この事件は妖畏と関係がないと判断したらしい。
「妖畏が狩れぬのであれば意味がない。この依頼は早々に放棄するがいいぞ、ぬしよ。さっさと別の任を請けろ」
豊かな黒髪を揺らして顔を寄せてくる百鬼歯を払い除けつつも、ワクラバの足は迷いなく請け所に向かっていた。百鬼歯に言われずとも、ワクラバは話の途中から仕事を放棄することを決めていた。事情を説明して無幽天留斎絡みの妖畏討伐を請け直すつもりだ。
そうとわかった百鬼歯が満足げに笑みを敷き、くるりと宙を泳ぐ。そのまま舞い上がった血衣に優雅に腰掛けた百鬼歯は、おや、と目を瞬かせた。
「なんじゃ、あの小娘。変な姿で立ち止まりおって」
ワクラバはその声に振り返った。苛立ちですっかりタキのことを忘れていたのだ。すぐ後ろを歩いているかと思いきや、八百屋の近くで足を開いたまま、怪訝そうに地面を見ていた。さながら、くくり罠に引っ掛かった獣のようである。
ここからはよく見えないが、どうやら草履がなにかに引っかかったらしい。なんとか歩こうとしているようだが、結局はそのなにかのせいで前に進めず、転びそうになる始末だ。
ワクラバが歩み寄るよりも前に、つんのめったタキが店の庭を囲う塀に手をついた。
途端、塀の一部が回転し、脱げた草履を置き去りにして、タキを向こう側へと攫っていった。
これには思わず仰天するワクラバと百鬼歯である。
扉の奥からタキのか細い悲鳴が聞こえた気がしたが、すぐになにも聞こえなくなった。なにもおかしなことなど起きていないと取り繕うような、不自然な静寂が訪れた。
その静けさを素直に受け入れられるわけもなく、百鬼歯が感嘆にも似た声を上げる。
「どんでん返し……なぜこんな場所にあるのじゃ」
あまり妖畏以外には興味を抱かない百鬼歯だが、これは流石に気になったようだ。ワクラバとしてはどんでん返しの向こう側に消えたタキを放っておくわけにもいかないので、気にせざるを得ない。しかし、本音を言うと、関わりたくなかった。なにやら面倒なことに巻き込まれてはいないかと、ワクラバは重く長い溜め息を吐いた。
ワクラバは塀に歩み寄り、こんこんと手の甲で叩いて回った。なんの変哲もない塀だったが、タキがたまたま触れた部分だけ、ぎい、と蝶番が軋んだ音を鳴らした。軽く押し開いて見やれば、なんと、その先は大きな落とし穴になっていた。穴の側面には汚い縄梯子がぶら下がっていたが、タキは気づいたのだろうか。
(タキ、返事しろ)
強めに念を放つも、返答はなかった。目を凝らしても真っ暗な闇が溜められているだけで、タキの姿など見当たらない。これは、落ちたとみて間違いない。
ワクラバはタキの黒い鼻緒の厚底草履へと視線を移した。拾い上げようとしたが、地面から生えている鉄の顎にがっちりと食いつかれている。誰がなんのために道端に狩猟罠を埋め込んだのかは知らないが、そこをたまたまタキが踏み抜き、まんまと嵌まったというわけだ。
ワクラバは外側の板発条を踏みつけた。ぱっかりと口を開いた罠から草履を拾い上げる。側面にいくつかの穴が穿たれていた。厚底草履でなければ足に噛みつかれていただろう。不幸中の幸いである。
傷を負った草履を、ワクラバは穴へと放り投げてみた。音は返ってこなかった。そんな深い穴に転がり落ちていったタキは、果たして生きているのか。これはむしろ、罠に足を食われたほうがましだったのではないだろうか。
「なんとまあ……」
呆れと驚きの滲んだ声で、百鬼歯が唸る。
「しかし、なぜこうも……あの小娘はどんぴしゃに落ちていくのか……」
同感である。
しかし、呆れるばかりでは物事は解決しない。ワクラバは縄梯子を掴み上げ、両手で引っ張った。少しばかり朽ちている。眉根を寄せるワクラバの頭を、百鬼歯が行儀悪くひょいと跨いだ。穴の中へと身を躍らせた百鬼歯の袖が捲れ上がり、左右からワクラバを包み込む。このまま穴に引きずり落とされそうだな、とワクラバは思った。
「受け身は取れるな? さっさと小娘を回収するがいいぞ、ぬしよ」
(もう面倒になってるだろ)
概ね想像通りだった。平然と言ってのけた百鬼歯を睨み据え、ふと思い立つ。
(百鬼歯、下まで飛んで見てこい)
これが最適解だろう。ワクラバが墜落死すれば一番困るのは契約主の万尾玄流斎だ。当然、それに与する百鬼歯も避けたい事象のはずである。百鬼歯の姿は刀の本性であり幻覚に近い。肉体を持たない百鬼歯であれば、たとえ底になにが待ち受けていようとも実害はない。しかしながら、百鬼歯は即座に首を振った。
「それは無理じゃ。わたしは本体から離れられぬ」
(そうか。行ってこい)
言うが早いか、ワクラバは腰から百鬼歯を抜き取り、朱鞘に包まれた刀を躊躇うことなく穴へ投げ込んでいた。一連の動きは非常に洗練されており、口を挟む余地はなかった。
愕然と目を瞠った百鬼歯が、穴の底へと吸い込まれるように落下した。
「たわけーっ!」
闇に飲まれぬ鮮明な朱を引きながら、百鬼歯が最後の抵抗とばかりに吠えた。
帰還を期待したワクラバだが、すぐに己の過ちに気づいた。百鬼歯は刀から離れられない。つまり、刀を引っ張り上げられなければ、意味がない。刀に命綱など結んでいるはずもない。完全に落とし損である。愚行でしかなかったが、やってしまったことは仕方がない。ワクラバはがしがしと乱暴に頭を掻き、腹を括った。
縄梯子を下げ、足をかける。縄がぎちぎちと不安を煽る音を立てたが、構わずワクラバは降下していった。
一体、この穴はどこまで続くのか。そもそも、誰がなんのために掘ったものなのか。ワクラバはぼんやりと考えて、ついでに一日を振り返った。まだ昼すら迎えていないというのに、ワクラバの心は疲弊していた。野菜を盗む妖畏擬き、話を聞かない依頼人、道に埋め込まれた狩猟罠、どんでん返しと落とし穴。もしや、厄日だろうか。おそらく、この後もろくな目に遭わない。そんな予感がしていた。なにが起きても不思議ではなかった。だからこそ、縄梯子が千切れた瞬間も、ワクラバはわりと冷静だった。
ワクラバは百鬼歯の期待通り、着地に成功していた。底には穴を掘った張本人が用意したであろう布団が堆く積み上げられていたのだ。布団の上に散らばった枝葉は、落とし穴を覆っていたものだろう。
タキはというと、尻を突き出して布団の上に倒れ伏していた。体が呼吸にあわせて動いていたので、命に別状はなさそうである。タキの真上に落ちなかったことに安堵しつつ、ワクラバは斜め前に落ちていた百鬼歯を掴み上げて腰に差した。
予想はついたし、覚悟もしていた。百鬼歯が烈火の如く怒り散らしてきた。
「こんの、阿呆がっ! わたしの話を聞いていたのか!? 躊躇いもなく突き落とす莫迦がどこにいる! 一度、その頭を灼き切って考えなしを治してやろうか!」
膨れ上がった血衣がほろほろとほつれて、燃える血の泡となってワクラバの周りを飛び回る。ほとんど火の玉と化した血衣を、蠅を相手にするかのように追い払うと、ワクラバはタキに歩み寄った。
首根っこを掴んで持ち上げる。タキは完全に目を回したようで、意識をどこかへ飛ばしてしまっていた。頬を軽く叩いてみたが、うんうんと呻くだけである。手足もぐったりと伸び切っていて、まるで使い物にならない。ワクラバはタキを肩に担ぎ上げた。ふと、タキのすぐ傍に落ちていた厚底草履が視界に映った。もしかしたらこれがタキの脳天に突き刺さり、とどめを刺した可能性もあった。許せ、と心の中で呟きながら、草履を拾い上げる。
「まったく……」
言いたいことは山ほどあっただろうが、百鬼歯はすっかり諦めた様子でひらりと舞い上がった。千切れた縄梯子を眺めやり、首を振る。
「登るのは無理じゃ。これがただの悪質な落とし穴であったのなら、ぬしらはここで朽ち果てるしかなかったが……」
布団が敷き詰められた穴のすぐ隣には階段が続いていた。落としてすぐに上らせるとは。まるで意図がわからないが、出口はここしかないのだから、進むしかない。
急階段を行き、跳ね上げ式の扉を開けてタキを押し込み、ワクラバは這い上がった。
「なんじゃ……この、異様な空間は。黴臭くてかなわぬ」
百鬼歯が顔を顰めて口元を袖で覆う。階段の先には地下道が広がっていた。ぎいぎいと遠くで重い音がする。胸中をよぎった冷たさに、タキを担ぎ直したワクラバは眉を寄せる。頭の奥にも違和感を覚えた。
ワクラバの表情の移り変わりを見逃さなかった百鬼歯が発破をかけた。
「怖じ気づいたか? いつものぬしはどこへいったのじゃ……まあ、安心するがいい、ぬしよ。妖畏の気配なぞせぬ。絡繰が規則正しく動いているだけじゃ」
百鬼歯の言葉で、ワクラバはつい頭上を仰ぎ見てしまった。天井で犇めく機巧の群れに、ワクラバは硬直した。歯車が噛み合い、棒が押し上げられ、あれがこうでそれがなにで色々あって、つまりは動いている。
傍で浮遊する百鬼歯が、少しばかり目を丸くしてワクラバの顔を覗き込んだ。
「んん? どうした、ぬしよ。顔が悪いぞ」
(…………元からこの顔だ…………)
「色の話じゃ。血を失っていないというのに、青くなるなど珍しいではないか。先の落下で酔ったのか? それともまさか……あの絡繰が怖いのか、ぬしよ」
情けない話ではあるが、そのまさかである。ワクラバは昔から入り組んだ絡繰が大の苦手だった。複雑な内部構造を見ると、激しい頭痛に襲われるのだ。先ほどタキが被害に遭った罠程度の仕掛けならなんともないが、巨大なくせに緻密な絡繰仕掛けの腹の中にいるという事実に、ワクラバは戦慄していた。額に汗が滲み、体がうまく動かなくなる。
過去に用心棒を生業としていたとき、暁國に連れられて絡繰仕掛けの人形を見に行ったことがあった。人形がぎこちなく動いているのを眺めるだけかと思ったが、特別に、と絡繰の中身を見せつけられたのだ。これが堪えた。機械の内臓を一つ一つ指差し、撥条を回すとこうなって、この部品が噛み合ってここが動いて、つまりはああなってそうなって……等々。とにかく、よくわからない説明を隣で延々と聞かされ、意識が飛びそうになったことを思い出す。耳から流れ込む解説が体と頭をめちゃくちゃに掻き回し、逆の耳からずるずると抜け出ていく感覚は、ワクラバを非常に苦しめた。今すぐ逃げたいが暁國の護衛として同行しているのだから、彼を置いて逃げられない。その間にも次々と、理解の及ばぬ緻密な機巧の設計図を頭蓋に叩き込まれる。
そんな忘れたかった嫌な記憶が蘇った。今にも吐きそうだった。複雑に入り組んだ仕掛けを目の当たりにしたワクラバは、強烈な頭痛と吐き気と眩暈に襲われていた。
タキを担ぎながらよろぼうワクラバに、百鬼歯が一喝する。
「ええい、腑抜けるでない! 小娘が目を覚ます前に、とっとと抜け出すぞ! こんなみっともない姿の使い手なぞ、小娘にも見られたくないわ!」
蹴っ飛ばすみたいに百鬼歯の血衣が跳ね上がってワクラバの背を押した。本来あるはずのない幻覚の感触に余計に頭をくらくらさせながら、ワクラバは重い足を引きずって進み出す。
一本道をしばらく歩いたが、出口はどこにも見当たらなかった。絡繰が駆動する密室に閉じ込められたのだと自覚すると、さらに呼吸が苦しくなってきた。
しかし、ワクラバはタキが落ちたときのことを思い出していた。きっと、なにかが施されているはずだ。壁を押したり叩いたりして、どんでん返しや隠し通路を探して回るうちに、気を失っていたタキが目覚めの兆しを見せた。これに慌てふためいたのは百鬼歯だ。
「なにをぼうっとしておる! ぬしよ、しゃんとしろ! こんな情けない男に扱われる刀などと思われたくないぞ!」
百鬼歯がすかさず嗜める。大声のせいでさらに頭の痛みが増したが、言い返せないワクラバはタキを引きずり下ろして床に座らせた。
「うう…………」
小さく唸って、タキがゆるゆると瞼を押し上げる。ワクラバに支えられながら冷たい床に座り込む己に気づき、困惑を露わにした。
「あれ……? あの、ここは……? わ、たし……確か、お、落とし、穴に……」
タキの声は徐々に尻すぼみになっていく。どうやら落ちたときの記憶を思い出したようだ。顔面が蒼白になり冷や汗を流している。今のワクラバとよく似ていた。
状況が飲み込めないタキに、悲惨な事の有様を説明し、ワクラバは草履を手渡した。側面に刻まれた深い噛み跡にタキがさらに顔を青くしつつも、すぐに草履を履いて立ち上がる。途端、タキが頭を押さえて蹌踉めいた。立ち眩みでも起こしたのだろうか。
(…………どうした)
「あ……いえ、なんでも……す、すみません。ちょっと……くらっと、した、だけです。ただ……さっき、その……頭に、な、なにか、当たって……」
小首をかしげるタキから、ワクラバはそっと目を逸らした。百鬼歯はワクラバを睨むだけで、黙ってくれていた。
壁を叩いて回った結果、なんとかどんでん返しの扉を見つけた。落とし穴はないかと百鬼歯で地面を突き刺し、安全を確認してから乗り込んだ。タキは落ちた恐怖が体にこびりついてしまったのか、しばらく躊躇う様子を見せていた。
進むにつれて気づいたが、地下道は迷路になっていた。あっちへ行っては行き止まり、こっちへ行っては蛇や鼠の死骸が降ってくる。床が抜けたかと思ったら水が溜まっていて、引っかかったタキは濡れた裳をそのままに、寒さで身を震わせながら歩くのを余儀なくされた。小さなくしゃみが反響し、この地下道の広さを伝えてくるものだから、ワクラバはげっそりしていた。そんな注意力散漫なワクラバの足が、なにかに引っかかった。薄暗い中できらりと光るそれは鋼糸だった。
次の瞬間、ワクラバのすぐ目の前に、槍が降ってきた。
「ひっ……」
声を上げたのはタキだ。両手で口を覆い、竦み上がっていた。もう半歩前に出ていたら鼻先を斬り飛ばされていただろう。
「なんという体たらくじゃ……しっかりせんか、ぬしよ」
百鬼歯がワクラバの目の前でひらひらと血衣を振った。それを眺めながら、ワクラバは依頼主の言葉を思い出していた。
忍者だなんだとほざいていたが、これは本当かもしれない。しかし、こんな地下に素破がいるのだろうか。人の気配はないが、今のワクラバは万全とは言い難く、気づけていないだけかもしれなかった。なにか問題があれば百鬼歯が言い出すだろう、と決めつけて、ワクラバは慎重に進んでいく。
「ぬしよ、気をつけろよ。妙な穴があるのでな」
唐突に百鬼歯が言い出した。ワクラバの希望を汲んだのか、百鬼歯はなにか気に掛かるものを見つけては、甲斐甲斐しくワクラバに伝えてきた。普段ならば面倒くさがりそうなものだが、今のワクラバがてんでだめだと思ったらしい。感覚が鈍ってしまったワクラバは、素直に百鬼歯の助言を受け入れた。
左右の壁に四つずつ穴が空いていた。きっとまた鋼糸や床を踏んだ衝撃でなにか出てくるのだろう。毒矢だろうか。強い毒ならば体内の畏気が食い潰してくれるので、ワクラバとタキにはどうってことはないが、吹き矢ではなかったとしたら……。
タキも気づいたらしく、小首をかしげて壁に歩み寄った。不自然に刳り抜かれた穴を、タキが不思議そうに覗き込んでいる。
――覗き込んでいる?
ワクラバはすぐさまタキの腕を勢いよく引っ張った。ほぼ同時に穴が火を吹き、砲声を轟かせた。火花を散らしながらタキのこめかみすれすれを通過した弾丸が向かいの壁へとめり込んだ。
見ると、タキが立っていた床が、僅かに凹んでいた。つまり、床に起動の仕掛けがあったというわけだ。予想できていたのに、なぜタキを止められなかったのだろうか。
タキはワクラバの腕の中で目を白黒させるばかりだ。そんなタキを引き寄せたワクラバは、呼吸を完全に忘れていた。心臓がひっくり返る直前であった。頭痛に眩暈に吐き気という絶不調に、さらに動悸まで追加されてしまった。
一連の流れを呆然と眺めていた百鬼歯が、淡々と言う。
「……ぬしよ、そろそろ小娘に首輪でもつけたらどうじゃ」
一考の余地がありすぎた。
迷路の攻略はなおも続いた。天井からぶら下がった注連縄など、触るわけがない怪しい仕掛けにも遭遇した。足元や壁、そして天井を見ながら前進する。緊張感を保たねばならないため、体力も精神力もどんどん磨り減っていく。歯車の音がさらにワクラバを苛んでいた。思わず蹌踉めいたワクラバは、壁に手をついてしまった。壁が押し込まれた瞬間、なぜこうもどんぴしゃなのだろう、とかつての百鬼歯と同じ感想を抱いた。
地鳴りがした。振り返れば、なにか大きなものがこちらに向かってやってくる。
大玉だ、と認識した瞬間、ワクラバはタキを担いで全力でひた走った。疲れたなどと言っている暇はなかった。ごろんごろんと重い音を上げながら、大玉が勢いよく転がってくる。さすがに畏気があろうとも、こんなものに圧し潰されればワクラバもタキも即座にお陀仏である。三人は一心不乱に逃げるしかなかった。実際に走るのは、ワクラバ一人なわけだが。
「なにをしておるのじゃ! もっと速く足を動かせ!」
飛べる奴から叱咤されたが、ワクラバは怒りを抱く余裕などなかった。
この地下道は僅かに傾いているようで、大玉は勢いを殺すことなく三人を追い詰めた。こんなときに限って地下道は一本道が続いていた。なんでもいいから飛び込める穴はないかと視線を巡らせたが、そんな都合のいいものはどこにもなかった。
結局、嫌がらせみたいに奥に造られていた分かれ道で、なんとか大玉を振り切ることに成功した。体力には自信のあるワクラバだが、二人分の命を抱えての全力疾走で、完全に力尽きていた。頭痛は増すばかりで、吐き気は限界だった。
ワクラバは息も絶え絶えに、目を回しているタキを床に放ると、よろよろと移動し、隅っこで盛大に吐いた。胃の中身が掻き混ざり、胃液とともに一気に逆流してきたのだ。町中でたまに見る酔っ払いのようだったが、ワクラバはまさに絡繰酔いを起こしているので、否定はできなかった。
タキは床に仰臥し、譫言のように「大玉が」と零していたので、吐き戻したワクラバには気づいていないだろう。とりあえず、百鬼歯の面目は保てたというわけだ。百鬼歯は憐れみの目を向けてきたが、慰めの言葉はかけてこなかった。
口元を拭って、胃液に灼かれた食道に顔を顰めながら、ワクラバは意識を失ったタキを強引に起こして歩み出した。吐き気が治まったことで、多少は元の調子を取り戻していた。
のしのしと進みながら、ワクラバはふつふつと腹の底から込み上げるどす黒い感情に身を委ねつつあった。とにかく不愉快で仕方がない。そこらの人間を一人か二人、叩き切ってやりたい気分だった。そんな通り魔のような野蛮な思考を、かろうじて残っている理性が打ち消し、別の欲求へと転換させた。
すなわち、この傍迷惑な絡繰地下道を生み出した輩を微塵切りにしたいという欲である。しかしながら、それは叶わない。今のワクラバには百鬼歯しかいないのだから、人を斬ることなどできるわけがなかった。どうしようもない不動の事実に、ワクラバはただ悶々と怒りを募らせるだけであった。
そこから先も、酷い仕掛けがてんこ盛りであった。回転する刃が襲いかかってきたり、竹槍が仕込まれた落とし穴があったり、花火が炸裂したりと、やりたい放題である。開かずの扉や隠し通路、茶を差し出してくる絡繰人形といった無害な仕掛けにも神経を逆撫でされまくっていた。ぎちぎちと歯軋りしながら、ワクラバは新たな決意を胸に奥へ突き進む。覚悟しておけ、と顔も名前も知らぬ絡繰師へ、強い殺意を向けていた。ワクラバの背後で、タキが震えていた。
そうしてついに、ワクラバとタキは隠されていた階段を見つけた。一応、段差を軽く踏んで安全を確かめる。槍も降ってこないし、盥も落ちてこなかった。それでも慎重に階段を進んで、扉を跳ね上げた。
そこには、小さな和室があった。立つのもぎりぎりなほどの低い天井だ。
草臥れた布団に、本や設計図が散らばっていた。机の上には道具らしき代物の他、歯車や撥条や鋼糸が転がっている。部屋の奥には箪笥があり、近くに樽と壺が並べられていた。
そんな狭苦しい一室で、胡座をかいて座っていた老夫が胡乱な目つきでワクラバとタキを見やった。
「なんじゃい、おぬしら」
完全にこちらの台詞である。
「あ……ど、どちら、様ですか………?」
タキが思わずといった様子で訊ねた。老夫は眉間の皺をさらに深くした。
「勝手に人の家に上がり込んできたくせに、挨拶もなしかよ。まずは名乗るのが礼儀じゃろうに」
棘のある声に狼狽したタキが、ちょこんとその場に座って名乗った。ワクラバも倣って座ると、うんうんと老夫が満足げに頷く。
「客人は久しぶりじゃのう。わしは源蔵(げんぞう
)。この絡繰迷宮の主じゃよ」
刹那、ワクラバの貫手が源蔵と名乗った老夫の鳩尾を打ち抜いた。
「かはぁ……っ!?」
源蔵の喉奥から空気と掠れた声が絞り出された。
「い……いきなり老体を……貫手で突く奴があるか……この凶漢めが……」
浅手だったらしい。ワクラバは舌打ちした。もし百鬼歯以外の刀を握れていたら、すでに源蔵を串刺しにしているところだ。貫手程度で文句を言われる筋合いはなかった。ワクラバが拳をきつく握り締めると、タキが慌てた様子で源蔵に問うた。
「あっ、あのっ、なん、なんで……その、あんな地下道……絡繰迷宮を……?」
「ああ…………暇だった」
ワクラバは思い切り拳を振りかぶった。顔面を殴られた源蔵は、本や部品を巻き込みながら倒れ込んだ。ひくひくと痙攣していたが、しばらくすると両腕をついて上体を起こした。おかしい、とワクラバは眉根を寄せる。頭痛と眩暈と絡繰迷宮での全力疾走のせいで、ワクラバは普段よりもうんと弱くなっていた。それとも源蔵が打たれ強いのか。それならば、もう五発ほど食らわせてやろう。ワクラバが再び拳を握ると、源蔵が「やめて!」と強く叫んだ。
「わしは主じゃよ! わしが死んだら、おぬしらはここから二度と出られんぞい! 絡繰迷宮で彷徨って命を終えてもいいのか!?」
ワクラバは目を血走らせたまま拳を引っ込めた。源蔵だけでなく、なぜかタキも一緒に胸を撫で下ろしていた。黙って宙に漂っていた百鬼歯は、遠い目をしたまま朱い霧を残して姿を消してしまった。もう付き合ってなどいられない。そんな声が聞こえた気がした。
源蔵は取り繕うみたいにペラペラと喋り出した。
「暇というのは嘘ではないが……昔から絡繰屋敷に憧れていてな……しかし、町には建てられる場所がなくてなあ。一応、飯を食うために借りてる長屋もあるんじゃが、増築なぞできんから……こっそり地下道を掘って、大玉とか槍とか、面白そうな仕組みを取り入れて、なんかこう、ちょちょいとやったら、こうなったわ」
雑極まりない説明ではあるが、どうせ聞いたところで絡繰に強い苦手意識を持っているワクラバは理解しなかっただろうし、そもそも興味がなかった。さっさと出口を吐かせて脱出し、あの世に送ってやろうと思っていた。
ワクラバは源蔵の首を掴むことで問いただした。首を絞めては喋れないのだが、ワクラバは怒りと頭痛に支配され、少しばかり思考力を失っていた。
藻掻き苦しむ源蔵を見て、己の矛盾にようやく気づいたワクラバは手を離した。大袈裟なくらい噎せ返った源蔵が、体を震わせたかと思うと、勢いよく顔を上げて吠え立てた。
「こんの、阿呆がっ! わしの話聞いてたか!?」
なんだか既視感のある台詞である。
「ったく、最近の若いもんは……すぐに暴力で解決しようとする。争いはなにも生まんというのに」
人を葬る仕掛けばかり施していた者の口から飛び出た言葉とは到底思えなかった。黙りこくったワクラバとタキに、なにかを思い出したらしい源蔵が、先ほどとは打って変わって、いそいそと紙と筆を取り出して問う。
「せっかくの客人じゃ。今後の参考に、どこからやってきたか教えてくれんか。この迷宮には入り口が七つほどあってな」
「……七つも…………」
タキが青い顔でぼそりと洩らした。源蔵に促されるまま、タキが今まで辿ってきた道程を伝えると、源蔵は驚喜の色を浮かべた。
「あそこからやってきたのはおぬしらが初めてじゃよ。あれ、面白半分に作った入り口だったんじゃがなあ……。埋め直すのも塀を直すのも面倒なんで、近づくなという意味も込めて設置した狩猟罠じゃったが、まさか全部に引っかかるとは!」
タキが顔を真っ赤にして俯いた。小さく震えるタキの姿がよほど滑稽に映ったのか、源蔵がさらに大声で笑った。上機嫌だった。
「いやあ、こうもまんまと引っかかってくれると嬉しぐええー」
ワクラバは再び源蔵の首を掴んでいた。なぜだか自分も一緒に莫迦にされている気がしてならなかった。苦しみ喘ぐ源蔵の足がバタバタと暴れ回る。さらに力を込めたワクラバだったが、まだ死なれては困るのだと思い出し、舌打ちしながら手を離した。床に転がった源蔵は、か細い呼吸を繰り返した後、威嚇する猫みたいに歯を剥き出しにして怒った。
「酷いことをするな! いいか! 次やったら絶対に出口なぞ教えんからな! わしはなにがあっても吐かん!」
ワクラバの見立てでは、ちょっと叩けばすぐに吐き出しそうだったが、万が一を考えて大人しくするしかなかった。
「とんだ珍客じゃな……漬物でも食って落ち着くか……」
首をさすりながら源蔵が樽を開けたが、中身を見るとすぐに落胆した。
「そうじゃった、切らしとったわ……。ああもう、新しく漬けんといかんな。昨日の分は食ってしまったしなあ……」
ぼそぼそと呟きながら、源蔵が壁から生えた縄を引っ張る。
「よっこいせ」
天井が引き戸のように開いた。
「ここの野菜はなあ、漬物にすると絶品なんじゃよ」
気づけば、ワクラバは源蔵を外へと投げ飛ばしていた。人の話を聞いていたのかという言葉を、そっくりそのまま返してやりたくなった。
ワクラバはすぐに天井から這い上がった。腰に差した百鬼歯に手を伸ばしたが、倒れ込む源蔵の傍に立っていた人物に目を瞬かせた。
依頼主の女だった。
「てめえか、この野郎!」
絡繰迷宮は八百屋の床板と繋がっていた。
それから、源蔵はあっという間に拘束された。依頼主の女が鮮やかな手つきで源蔵を縛り上げたのだ。亀甲縛りにされたせいで、身動ぎするたびに縄が食い込んでいく。芋虫みたいに転がって苦悶の声を洩らす源蔵に、依頼主は鬼の形相で怒鳴り散らしていた。
「ド畜生がっ! 人の店の地下に変なもん造りやがって! なにかあったらどうしてくれる!」
今思えば、初めに依頼主の話を聞いた時点で、地下になにかがあることは気づけたはずだった。さすがに店の下に絡繰迷宮が広がっているとは、誰も想像できなかっただろうが。
「毎度毎度、一番新鮮な野菜ばっか盗みやがって! てめえにゃ雑草で充分だ! 死んで償え! でも死ぬ前に食った野菜を全部ここに吐き戻せ、おらァ!」
そんな老人の吐瀉物に塗れた野菜など誰も欲しがらないだろうに、依頼主はがくがくと源蔵を揺さぶっている。
人は自分よりも怒っている人間を見ると冷静になれるらしい。そろそろ首が抜けてしまうんじゃないかと変な心配が浮かんだが、別にそれでも構わないという結論に至ったので、ワクラバは行く末を見守った。
源蔵は激しく揺れながらもへらりと笑ってみせた。それが火に油を注ぐ行為だと、なぜわからないのか。その上、軽い調子で口を開く始末だった。
「漬物や鍋にして食ったわ。ごめんね。美味しかったです」
「てめえを漬けてやろうか、クソ爺!」
案の定、依頼主の大根足が源蔵の土手っ腹にめり込んだ。体重の乗った強烈かつ華麗な一撃により、源蔵はぴくりとも動かなくなった。それでワクラバの溜飲が僅かばかり下がったが、依頼主は物言わぬ源蔵を踏みつけ、怒鳴り続けていた。
「てめえにゃ特別な漬物石を使ってやる! 泣こうが喚こうが逃さないからな! 覚悟しとけよ、この盗人下衆野郎!」
後日、ワクラバとタキの元に報酬金とはまた別に、お礼の品が届いた。例の八百屋の依頼主からである。
漬物樽に手紙が括りつけられていた。先日の頑固な姿勢を反省するという謝罪から始まっていたが、要約すれば、美味しい漬物ができたからぜひとも二人で食べてくれ、である。タキの表情がみるみるうちに曇っていった。
「漬物……」
言わんとしていることはわかった。絡繰迷宮の主とのたまっていた老人は、とっ捕まって依頼主にこてんぱんにされていたわけだが、あの後どうなったのか。
「…………大丈夫、ですよ、ね……?」
タキの不安そうな問いに、ワクラバは答えられなかった。念を紡ぐ気力などあるわけがなかった。先日の絡繰迷宮の騒動を鮮明に思い出してしまったのだ。激しい頭痛と眩暈と吐き気と怒りに襲われながら、ワクラバは重い溜め息を吐いた。
あのとき五、六発は殴っておけばよかった。ワクラバは心からそう思った。