噎せ返るような土草の芳香と、汗と鉄のにおいが染みついた着物を、池の畔に畳んで置いた。ちりちりとささめく虫の声を聞きながら、魚一匹見当たらない池に、タキは汚れた爪先を差し入れる。
水面に浮かぶ、丸々と太った美しい月が、ゆらゆらとその姿を歪ませた。戸惑うように揺れる水草を両足で踏み締めて、そのまま痩せこけた裸体を池へと沈める。両膝を水底に付けて、やっと肩まで浸かれる程度の、浅い池だった。
鬱蒼とした青い山の中。木々は交差に入り組んで、風が吹くと重なった枝葉をざわめかせている。冷たさに震えた身を抱いて、タキはようやく、深く深く、息を吐き尽くした。
先程まで、この山を妖畏が駆け回っていた。巨体の狼の姿をかたどった、二匹の妖畏だった。群れない妖畏にしては珍しいことに、二匹は行動を共にしていた。
山を踏み締めて進むワクラバとタキの足音を、彼らは聞き逃さなかった。獣香を散らしながら草陰から躍り出て、まずはタキに狙いを付けた。柔らかく、逃げ足も遅そうで、武器を持たない、力も気の弱そうな女だと。案の定怯んだタキに、妖畏の一匹が涎を垂らして飛びかかったが、間に割り込んだワクラバに、あっさりと斬り飛ばされた。
朱鞘から抜き放たれた白刃は、妖畏と同じように荒い呼吸を繰り返し、白い靄を発していた。両断された一匹は、撒き散らした血とともにそのまま刃に溶け込んだが、様子を窺っていたもう一匹の妖畏は、尾を翻して山の中へと消えた。
この妖畏が、非常に俊敏で、執念深かった。
ワクラバとタキの行動を読み、先回りをして、タキに襲いかかっては、刀をひらりと間一髪で避けて、姿を消す。これが何度か続いた。野宿など到底できるわけもなく、さっさと山を抜けてしまおうと、ワクラバとタキは歩を進めた。
夜も更け、山中を歩き回って、二人に疲れがたまったころに、妖畏は再び姿を現わした。月の明かりさえ届かない、山の奥深くの沼地だった。夜目が利かないうえに、足場が悪い沼地での襲撃。妖畏の動きに、ワクラバの反応が遅れた。
狙いはやはりタキだった。飛びかかった妖畏に、ワクラバは左腕を突き出して、鋭い牙を受け止めた。妖畏の牙は深々と腕を貫き、肉を裂き、血を撒き散らした。庇われたタキは、飛び散ったワクラバの血で顔を汚し、ひく、と怯えて縮こまった喉を鳴らしながら、情けなく腰を抜かした。尻や手を泥で濡らしながら、じりじりと後退し、ワクラバが妖畏の首を断ち斬るのを見届けた。
だらりと力を失って垂れ下がった腕をそのままに、ワクラバは乱暴に刀を鞘へねじ込んだ。タキの全身をざっと見やり、ぽつりと怪我の有無を問う念を飛ばしてきたワクラバへ、タキは否定を示した。その答えを聞くやいなや、ワクラバはふいと前を見据えて歩き出した。鼻腔に染みこんだ鉄のにおいに、かちかちと歯を鳴らしながら、タキは腰を上げて、必死に後を追った。
そうして辿り着いた場所が、ここだった。
水浴びをするタキを、ワクラバは池のすぐ傍にある大岩にもたれながら見つめている。肌がひりつくような、強い警戒心を纏った瞳だった。池に着くころには、ワクラバの腕は繋がり始めていたが、完全に治ってはいないようで、まさに手負いの獣であるワクラバは、ちょっとした物音にも敏感に反応している。木々や草木がざわめくたびに、右手の指が、刀にかかる。タキもあたりを警戒しながらも、水面に顔を沈めて、ワクラバの血を洗い流した。じわじわと水に滲んでいく色に、胸が痛む。あのとき転ばなければ。早く反応していれば。せめて身を守れる力があれば。後からそう思うことは容易だが、実際に動くとなると、体が竦んで動かない。自分の重みを他者に預けてばかりいた。流され流され生きてきた。痩せこけた体は、自分の重みにすら耐えきれない。
そうやって己を傷付けて眉根を下げるタキに、ワクラバが唐突に念を飛ばしてきた。
(顔)
「あ……っと、は、はい……」
びくりと反応した体に合わせて、冷たい水が、ちゃぷちゃぷ音を立てる。ワクラバは目の鋭さを失わないまま、水が滴るタキの顔を見据えている。
(悪かったな)
血がかかったことを言っているのだと、頭でわかった瞬間、タキの胸の苦しみは一気に膨れ上がった。タキを守って傷付いた男が流した血だ。嗅ぎ慣れてしまったにおい。何度も触れた感触。この男は何度、血を流したのか。雨の中帰ってくる男は、いつもどこかが赤く滲んでいた。痛くてたまらないはずだ。辛いのはワクラバだ。
今だって、謝るべきなのはタキであるというのに、この男はどうして己に謝るのか。
きゅう、と喉が鳴る。言わなければならないことがたくさんあった。
「あ、の……わたし……」
ろくに喋れず、声も出せず、己の思考がまともに伝えられない。
「すみま、せん……でした……あの、わたしが、わたし……」
わたしが、わたしが。後悔が降り積もり、大きな山となって、タキを押し潰す。もう、これ以上はなにも言えなかった。ただ、頭を下げることしか。
ワクラバの返事はなかった。タキが頭を上げたころには、ワクラバは、切っ先のように鋭利な視線を、周囲に巡らせていた。
タキは結局、思いのほとんどを胸の底に沈めて、汚れた己の身を清めることになった。
手のひらにまみれた泥をすすぎ落とす。転んだ際に付いたのか、小さな擦り傷ができていた。傷だ、と認識したころで、ちくりと肌を刺す痛みを感じた。傷口の泥も念入りに落としたあと、その手で汗ばんでいた体を、撫でるように洗った。こつこつと浮き出た骨を辿り、腹から足へ、手を滑らせる。
薄く、細い体だ。己の重みを放棄した、頼りない肉体。この体に、ワクラバは縋ることがある。肩口に顔を埋める。胸に鼻先を押し当てる。腰に腕を回し、熱い奔流から逃れようとする。
ワクラバは二人分の重みを抱えていた。ワクラバと、タキの命だ。タキが押し付けた代物だ。タキはただ、そんなワクラバの背に、腕を回すことしかできない。
タキは今も、空っぽのまま立っている。
水面に映る己の顔を、不釣り合いな二本角を、タキは見据える。体の奥が、どんどん冷えていく。
堪えきれなくなったタキが体を震わせて、小さなくしゃみを漏らしたときだった。
ワクラバが、身を起こした。
ほぼ同時に、かさり、と音を立てて近付くものがあった。濃い陰の奥、草木を掻き分け、なにかがやってくる。
ワクラバはいつでも刀が抜ける体勢をとっている。タキは、池の中で身を竦め、庇うように己の裸体を抱いた。
一瞬、音がやむ。タキも、水音を鳴らさぬようにしながら、息を殺してその先を見つめた。
ついに、張り詰めた空気を切り裂いて、それが現れる。
ひょこりと、頭と、首が出る。草陰から姿を現わしたものは、小柄な鹿だった。
タキと目を合わせたかと思うと、警戒するように一瞬動きを止め、すぐにまた、茂みの向こうへと駆けていった。
その背を見送った後、どちらともなく、ワクラバとタキは顔を見合わせた。そして、両者ともに、ふう、と安堵の息をつく。
タキはとくとくと早鐘を打つ胸を撫でさすりながら、刀から手を離したワクラバの、血にまみれた左腕を注視した。
ずたずたに裂かれていた腕は、引き攣った傷跡を残しつつも、しっかりと繋がっている。
ワクラバが身を起こすと同時に、タキも池の畔に歩み寄った。休息はここまでだ。新しい着物に着替えて、また、山の中を進むのだ。
草木と夜のにおいに包まれながら、小さな物音を聞き漏らさぬように、男の後ろを付いていくのだ。
池の底を踏み締め、追い縋るように張り付く水を弾きながら、池から上がり、しっかりと両足で立った。
水に濡れた体は、とても重く感じた。