獣の縁を踏む


 タキと名乗った女は、ワクラバにとって都合のいい女だった。

 用心棒として生きてきたワクラバの目には、この二本角の女は、自分の身さえ守ろうとせず、己の重みを他人に預けるような、情けない女として映っていた。頭を下げ、地に伏せ、自尊心などかなぐり捨てた姿勢に嘲笑をくれてやりたかったが、それでも通弁人として、嗄れた声を出す女を、ワクラバは見捨てなかった。

 ワクラバは声が出せない。妖畏の長に奪われ、代わりに細く軽い、百鬼歯という刀を与えられた。刀があっても意思の疎通はできない。怒りに蝕まれながらも、どうしたものかと悩んでいたときに、この女が寄越された。どうやら、この二本角は妖畏の声を聞くらしい。妖畏との契約により、畏気を帯びたワクラバの念すらも聞き届けた女は、きれいとは程遠いしゃがれた小さな声で、ワクラバの言葉をなぞった。

 妖畏の長との契約。刻まれた狩免。もう一匹の妖異の長である無幽天留斎を屠るまで、ワクラバの声は戻らない。奴を仕留めるには、散らばった妖畏を斬り、百鬼歯に力を蓄えさせなければならなかった。ただひたすらに妖畏を斬り、刀に食わせ、次の獲物を探して歩き回る。こんな生活が、何日も続いた。

「匂うな、ぬしよ。白い畏気じゃ」

 百鬼歯の品のよい唇が弧を描き、熱い息を吐き出して、ワクラバの首筋をくすぐった。おんぼろ旅籠の一室で、百鬼歯に対して舌打ちを一つ。それにびくりと大げさに反応したのは、二本角の女だった。普段から情けなく下がっている眉を、さらに弱々しく歪ませて、おろおろと顔色を窺ってくる。この女には百鬼歯の姿なぞ見えないのだから当然ではあるが、いい加減慣れろとしか思えない。

 そんな臆病で、受け身な女ではあるが、帰りを待たせてくれ、と言ってきたことがある。ただでさえ体力もなさそうなくせして、一睡もせずにワクラバを待つのだと。愚かしいとは思ったが、それでも付いてこれると言うのなら、ワクラバは止めなかった。

 今日もきっと、ワクラバを待つのだろう。

「あ、あの……」

 行ってらっしゃいませ、という声を置き去りに、ワクラバは戸を閉める。夕餉の時間だと喜ぶ刀を引っ提げ、黒い木々に囲まれた山へ歩を進める。振り返らない。

 妖畏を斬るのに、言葉は不要だ。

 

 おんぼろ旅籠から出て、町を進み、林を突っ切って山に入る。薄気味悪いほど黒い山だ。生き物の蔓延る気配に百鬼歯が、いる、と言い切ってみせた。この山に間違いなく、無幽の影に堕ちた妖畏がいると。

 しばらく歩き回るうちに肌が総毛立っていく。異様なものがいる。その気配を感じながらも山の奥の茂みを掻き分け、突き進んで、止まる。生臭い血のような、そして芳しい蜜のような、独特のにおい。目を凝らし、その巨体の全容に目を瞠ることとなった。

(なんだ、ありゃあ)

「ふふ、無邪気なものじゃ」

 百鬼歯が笑う。とうてい我が仔に見せるような貌ではなかった。

「見たものすべて、身に纏うとはなあ」

 六つ手の獣がいた。

 異様に太い四肢で立つそれは、肋骨から筋肉質な人の腕を生やしていた。全身の黒い毛は炎のように逆立って、夜闇に半分溶け込んでいる。猿の顔面に八つの目を光らせ、じっとワクラバを見据えていた。まさしく混ざり合った化け物だった。思わずワクラバは息を呑む。肌に痺れが走り、指先がひくんと震えた。その恐れを、妖畏は捉えていた。猿顔に不自然な笑みが浮かんだ。百鬼歯の笑みとよく似たそれに、反射的にワクラバは鯉口を切っていた。ワクラバは気圧されていた。

「戻れ、獣曹(じゅうそう)」

 唐突に、真剣のような鋭い声で、百鬼歯は語りかけた。有無を言わさぬ声音を受けて、眼前の妖畏はにまりと残虐な笑みを深くした。

 溢れ出す百鬼歯の呼気を一瞥した妖畏は、身をかがめ、右腕を背後にぐるりと回す。ずっ、ずっ、という、肉を引きちぎるような、異様な音を鳴らしながら、妖畏の背から抜き取られるものがあった。

 白い、よく太った刀である。

「おお、これは見事じゃ」

 これには百鬼歯も感嘆した。目を瞠るワクラバに耳打ちするかのように顔を寄せ、呟く。

「刀とはな。ぬしの真似事をしたいようだぞ」

(あの刀、実物を真似て作ったってのか)

「だろうな。妖畏の血肉の匂いしか漂ってこぬ。畏気で編んだ刀じゃ」

 自身の肉体を変化させ、分離させ、刀にした代物。人の手によって生み出されたものではないのなら。

「今のわたしでは、そう簡単には折れぬが……案ずるなよ」

 ひらひらと刀を揺らし、妖畏がワクラバを誘っている。

「本物の刀でないのなら、わたしは奴に触れ、折れずに受け止めることができるぞ」

 妖畏から一瞬たりとも目を離さぬまま、ワクラバも抜刀した。感覚を研ぎ澄まし、刀を構え、そして。

「望みどおり斬り結んでやれ」

 剣撃。

 ものの一瞬で、鍔迫り合いに持ち込まれた。恐るべき速度で間合いを詰めた妖畏の刃を、ワクラバは獰猛な女刀で受け止めた。

 強く地を蹴った妖畏が、白刃を押し込んでくる。刃がこすれ合う嫌な音が響いても、百鬼歯は苦悶の声など洩らさない。

 力を真っ向から受け止め続ける選択肢などなかった。ワクラバは、すぐにいなした。ぐらりと前に倒れ込む妖畏に、ワクラバは容赦なく刃を見舞う。閃いた刃は妖畏の肩口を撫で上げ、一番上の左腕を斬り落とす。

 血飛沫を上げながら、妖畏が身を翻した。長い獣の前脚でワクラバを振り払い、ついでまっすぐに切っ先を心臓めがけ突き出してきた。空を裂く音とともに迫る刃を百鬼歯で弾き、八つ目を斬り上げる。妖畏は器用に身を捩るが、三つの目を失った。かわりに、猩々緋の輝きを帯びた五つの目が、かっと見開かれる。

 豪剣が迫る。弧を描き、ワクラバの首を落さんと振るわれた刃を食い止めるが、鋭い爪を生やした前脚が突き出された。奥歯を噛み締め、ワクラバは身を低くして刀をいなしながら、間合いをとった。びり、と腹部あたりの衣類が破かれ、腹に一筋、血が垂れる。

(なんて姿してやがる)

 やりにくいことこのうえない、と舌打ちを一つ。それを嗜めるような百鬼歯が囁いた。

「垂らすのは血だけにしておけ。ほれ、来たぞ」

 どんどんと地を叩きながら突進してきた妖畏を跳んで躱し、背後から白刃を振り下ろすが、妖畏は刃を持ち替え、振り向きもせずに受け止めてみせた。ぐっと上から押し込もうにも、妖畏の力に人間が勝てるわけもない。諦めて刃を引き、そのまま勢いよく振り上げられた刀を避け、妖畏の腰から脇にかけて斬り裂いた。肋骨から生えた腕にはとうてい刃は届かず、めちゃくちゃに振り回された刃を止めつつ間合いをとるが、すぐに今度は豪腕が追った。脇腹を引きちぎる勢いで迫った指先を斬り飛ばし、視界の隅で動いた刃の輝きを、確実に捉える。

 残光が目に焼き付くほど勢いよく振り抜かれた刀に、百鬼歯が食らいつく。削り合う音。豪腕によって押し込められる刃は、ワクラバにいなされる直前に、身を引いた。すぐさま刃は、ワクラバの脇腹から肩口を斬り裂く軌道にうつり、空気を裂いて閃いた。弾き切れなかった切っ先が、ワクラバの腹に線を引く。それでも百鬼歯は止まらない。重心を低くしたワクラバによって振り上げられた白刃は、お返しとばかりに妖畏を袈裟懸けに斬り上げた。

「浅い」

 百鬼歯の声に、ワクラバは応えなかった。

 金属がぶつかり合い、火花が散る。剣閃を翻し、妖畏と夜の中で斬り結ぶ。

 刃だけではない。鋭い爪を生やした二本の前脚からも身を守りながら、殺気を纏う妖畏の刀を受け止め、流し、弾き飛ばした。

 黒い山の中。獣と血のにおいが漂い、煌めきが零れる。理性などない魔性の獣の瞳が赫々と輝き、風を鳴らしながら斬り込んでくる。魔性の刀は折られない。刃毀れもしない。天に響く剣撃の末、勢いよく四つ足で飛びかかってきた妖畏のすぐ横に身を捩り、その後ろ脚に斬撃を食らわせた。

 とても斬り飛ばせるようなものではなかったが、それでも容赦なく、百鬼歯は肉を食いちぎる。

 体勢を大きく崩し、ふうふう荒っぽく息を吐きながら、妖畏が転がった。すぐに間合いを詰め、首を斬り落さんと刀を握り込むが、妖畏は、顔を真っ赤に染め上げて二本脚で立ち上がって刀を振り回した。わずかに反応に遅れたワクラバを追い込むように、真上から、刃を押し込んで、角度を変えて何度も何度も打ち据える。

 妖畏が自身の肉体で生み出した刀を、一心不乱にワクラバに振るった。

 なんとか隙を探ろうにも、腕にとんでもない衝撃を与えられ、少しでも気を抜いたら体を真っ二つに裂かれる勢いであった。

(血肉が、火花なんざ、散らすかよ……っ)

 百鬼歯は一切その細身を削ることなく、乱打をすべて受け止めていた。

 力で押し潰さんとばかりに妖畏が踏み込んだ。真上から体重を乗せられ、ワクラバの足が地に沈む。歯を食いしばって耐えたその先。再度打ち据えようと振り上げられ、即座に振り下ろされるその僅か一瞬。

 ワクラバは、右足を滑り込ませ、先ほど斬り裂いた妖畏の脚に、足払いをかけた。とても巨躯を転がせるようなものではなかったが、傷口を抉られ、妖畏の動きが一瞬だけ、鈍る。ワクラバはがら空きの胴に狙いを定め、そして。

 膝の下が、ひしゃげる音がした。

 衝撃が生まれ、それは瞬く間に灼熱へと変化した。すぐに視線が、足に向かう。

 鞘、だ。

 妖畏の持つ鞘に、恐るべき速さで左脚を穿たれたのだ、と理解したころには、ワクラバは体勢を大きく崩していた。

 迫り来る妖畏の次の攻撃など、対処のしようがない。風を切る音が耳に届いたが、もう遅すぎた。

 腹のど真ん中に、拳が一発。

 破裂するような打撃音に脳天まで貫かれながら、ワクラバの身体は軽々と吹き飛ばされていた。

 莫迦みたいに重い一撃が、ワクラバの内臓を打ち抜いたのだ。肺の中に詰まっていた空気がすべて、血反吐とともに吐き出された。

 そのまま何度か地を転がり、湿った樹の根元に激突して、ようやく止まる。

 頭が真っ白になったかと思えば、思い出したかのように痛みが炸裂した。地に爪を立て、喉を痙攣させ、何度も何度も血を吐き出した。ぶわ、と全身が逆立ち、冷や汗が流れ、気が狂いそうな熱と痛みに悶絶した。

 地面を引っ掻く爪がひび割れる。息がまるでできなかった。溢れ返る胃液と血が口元を、喉を汚す。

 それを、妖畏はじっと見据えていた。瞳をにんまりと細めて、か、か、と笑い声のようなものを真っ赤な口から零しながら。

 立ち上がろうにも、全身に渡りきった痛みに支配され、身動きが取れない。かすんだ視界の中で、妖畏は笑い、そして、身を翻した。草木を掻き分ける音が、遠ざかっていく。

 は、は、とようやく細かな息を漏らしたワクラバの肌を叩くものがあった。それは徐々に勢いを増していく。

 ざあ、と空が鳴き、木々や地面が穿たれる。驟雨だった。

「奴め、鞘まで作っていたとはな。まったく、サムライにでもなったつもりか?」

 見逃されたのだ。あの妖畏に。畏れのものに。こんなものかと嘲笑って、ワクラバを置いて、山に戻っていく。黒い肉体は驟雨と夜闇に溶け込んで、消えていく。どす黒い感情が、破れた内臓の中で膨れ上がったが、すぐに意識が朦朧としだした。

「ぬし、これ、ぬしよ」

 ひくひくと、傷口が開いた喉を震わせ、口内に溜まりきった血を泥濘んだ地面へ吐き流す。こんな状態で、あの化け物を追えるわけがなかった。雨に一気に体温を奪われ、思考がまともに働かない。

「なんじゃ、わたしをなまくら刀にするのか?」

 百鬼歯の白い手が、ワクラバの顔を這う。頬と額を撫でさすり、そっと抱き込まれた。熱い。血を失った体に、どんどん熱が流れ込む。

「病葉とはな。雨が降ろうと、ぬしはよく燃える。果てるなよ」

 女が、そっと呟いた。ワクラバのすぐ傍で、我が子に言い聞かせる母のように。

「止まらぬだろう、この程度では」

 一瞬だった。

 熾火のように光る女の爪が、ワクラバの身体にまさしく火を灯した。熱は徐々に広がって、業火となって体中を駆け巡り、心の臓を掌握した。そのまま脳髄を焦がされたころに、ワクラバはようやく思い知る。

 女の低い声が、ワクラバの体内から発せられた。

「動け」

 立ち上がった。

 ワクラバの脚が、独りでに地を力強く踏み締めたのだ。

 底なしの闘争心と欲望に、ワクラバは立たされていた。砕かれたはずの左足の骨は、苛烈なまでの執着心と、流れ込んだ灼熱によって繋げられていた。痛みと熱に蹲る暇さえ与えられず、ワクラバは喉を震わせる。血とともに吐き出された獣の唸り声が喉を灼き、首に巻かれた晒を血で濡らした。

 今や百鬼歯と同化しつつある肉体が、ワクラバの意思を置き去りにして、山を駆けた。

 血色に浸食されたワクラバの双眸は、すぐさま焦点を結び、ただ一直線に妖畏を追う。

 木々の間にちらちら蠢く、逆立った体毛。あんなにも、眩いものであったか。夜に紛れそうな、黒い獣だったではないか。これほどまでに、目を灼くような、目を離せない存在だったか。眦が灼熱を湛え、あの魔性の獣と同じ赤い輝きを零しながら、すぐに振り返った妖畏の瞳を射貫いた。

 一瞬の閃きの後、妖畏の背から血が噴出した。すぐさまワクラバに向き合って、刀を再び握りしめた妖畏を、百鬼歯がワクラバの腕を使い、自身を振るった。痩せ細った女刀は、その姿に収まりきらないほどの獰猛さを容赦なく発していた。

「まずは腕」

 指示どおりに、腕が軌道を変える。

 刀を握った筋肉質の腕を容易く斬り飛ばし、返す刃で胸を撫で斬りにする。

 先ほど指先を失った妖畏の前脚も、ばつん、という嘘のような音を立てながら切断する。流麗な刃は真っ赤な血と脂で身を潤しながら、妖畏の体を斬り刻んでいく。精彩さに欠けていたワクラバの動きを、獣性で塗り潰していく。

 百鬼歯から手を離すことなど不可能だった。熱によって手のひらが柄と溶け合って、そのまま刀に身体を操られていた。使役するのはワクラバであっても、百鬼歯は決して支配者という立場を譲ることなく、唸りを上げる刃で、猛威を振るっていた。

 突如、その唸りを消し飛ばすほどの咆吼が轟いた。ほとんど悲鳴じみていた。

 妖畏が三本脚で逃げ出したのだ。

「逃げるな。苦しむだけじゃ」

 百鬼歯が言う。全速力で山を駆ける妖畏を、ワクラバも追った。百鬼歯と同化した己の体が、心が、おかしくなっていく。ふわりと浮くような軽さと、ずんと腰にくる熱い響きに襲われる。高揚感と、恍惚感。百鬼歯と同化したのは肉体だけではない。ワクラバは理解した。おそらくこの女は、すべてが無邪気な仔との戯れだと、楽しんでいるのだ。その思考に、感情に、すべてが浸食されていく。

 楽しい。ワクラバにも伝播する狂喜。楽しい。楽しい。魔性と獣性に満ちた目が光り、知らず唇に笑みが敷かれていく。追い込むのが、楽しい。斬り結ぶのも、圧倒するのも、追い詰めるのも、楽しい。足りなかったものが、失くしてしまったものが、再び手に戻っていく感覚は、気持ちがいい。逃げられると、追いたくなる。相手より上の階に立ち、相手を蹴落とすのは、気分が良い。

 それをもたらす獲物を失うのは、惜しい。すぐに殺してしまうのは、あまりにも。

「う……っ!?」

 唐突に、百鬼歯が呻いた。初めて聞く女の苦悶の声だった。

「ぬしよ、なにを……いや、今は、いい」

 ブツブツと何事かを呟き、再び百鬼歯が刃を煌めかせて妖畏を追い詰める。

 たっぷりと妖畏を追い回した末、行き着いた先は崖の上であった。もはや後退りができない絶壁を背に、妖畏が吠える。いっそかわいらしいとも思える程度の、妖畏の声。

(母様の莫ァ迦)

 ふと、声がした。人の声か。人の言葉だ。夜の、驟雨の降り注ぐ山の中に、こんな幼い声を出す者など。ああ、いや、莫迦だ。忘れるなど、ありえない。この声は、我が仔の声に、違いないだろうに。そんな考えが溢れてくる。いとおしい。苦しむおまえを、このわたしが、逃がすわけがない。

 体の修復のために流された強い畏気によって、ワクラバはこのとき初めて、妖畏の念を聞いた。

 そして、百鬼歯の仔である妖畏は、崖めがけて跳んだ。

 慌ててワクラバの体も崖の先まで進む。おそらく、そこまで高さはない。足が一歩、踏み出された。

「多少の無茶は許せ。わたしが死なせぬ。……逃がすなよ、わたしのかわいいかわいい、幼子じゃ」

 黒い外套がひらめいた。夜風をその身に受けながら、ワクラバの足は一切の躊躇なしに、崖の先端を蹴る。

 飛び降りる。

 ごう、と舞い上がる風に肌を叩かれながら、ワクラバの体は落ちていく。百鬼歯をしっかと握りしめ、視線を巡らせ、赤い魂を見据えた。苛烈な、妖畏の魂だ。見える。見えるのならば、あとは斬るだけだ。

 入り組んだ枝をへし折りながら落下した妖畏の巨躯に狙いを定め、ワクラバは刀を両手で握りしめた。真下に切っ先を向け、折れた枝に服を裂かれながら、妖畏の体の真上まで落ちたワクラバは、着地と同時に勢いよく百鬼歯を振り下ろす。

 あらゆる重みをすべて背負った百鬼歯の切っ先が、妖畏の脳天を貫いた。

 ひしゃげた妖畏の頭から、どっと噴出した大量の血を浴びながら、ワクラバの身体も、ようやく止まった。

 

(殺すのね)

 ずいぶんと幼い声で、妖畏が言った。ほとんど拗ねたような声音である。今までワクラバが追いかけていた獲物は、すっかり寝転んでしまっている。もはや敵意など、恐れなど感じられない。本来ならば空に溶け、百鬼歯の刀身にすぐさま吸われるはずなのだが、気力で無理に現界を保っているようだった。弱々しく光る目をワクラバに向けている。正しくは、ワクラバの中に溶け込んだ自身の母を、恨みを込めて見据えていた。

(母様、あんなにしつこく追いかけてくるんだもの。殺すのね、ぼくのこと)

「違う」

 ワクラバの肉体に宿った百鬼歯が鋭く即答する。

「連れ戻すだけじゃ」

 凜とした声が幼い妖畏を叱りつける。

(斬るくせに)

「そこらの刀で切られれば妖畏は死ぬぞ」

 だからこそ、ワクラバは刀の制約に縛られていた。ワクラバは、百鬼歯以外の刀が握れない。用心棒時代にあれほど振るってきた刀の重みに耐えられない。とてもじゃないが、重くて持ち上げられない。そういった呪いを受けた。すべては、この百鬼歯で妖畏を斬らせるために。妖畏を殺さず、百鬼歯に食わせるために。

「わたしは死なせぬ。決して、殺さぬよ」

(それでも痛いもの)

「当然じゃ。言っても聞かぬ愚か者だろう、貴様は。戻れと言ったときに戻れば、こんなに叩かぬわ」

(怖いもの、母様は)

「ふふ、莫迦な奴め。さっさと戻ってこい」

 ああ、もう。そんな、自棄になった声が最後だった。ふわりと溶け出した妖畏の肉体は、すべて百鬼歯に集まっていく。血も脂も、妖畏ごと吸い取って、百鬼歯が満面の笑みを浮かべながら、ずるりとワクラバから剥がれ落ちた。

 ワクラバは震える手で、ようやく百鬼歯を鞘へ収めた。

 あれだけ扱った肉体が、欲望から解放されて一気に冷めていく。百鬼歯もすっかり大人しくなり、本来の痩せ細った刀へと身を還していた。憑き物が落ちた肉体を、ワクラバは引きずって歩く。傷など一つも残されていなかったが、傷付いた際に生じた激痛の記憶はこびりついたままだ。散々酷使された肢体は、ワクラバが流した血によって汚されている。

 ようやく自分自身を取り返したワクラバは、ただ夜の中を進む。なにかを考える余力がほとんどなかった。先ほどまで茹だっていた頭は、熱を失ってもなお上手く回らなかった。

 それでも、凪いだワクラバの中に、ゆっくりと沸き上がる願望があった。獣の欲にまみれていた脳に、人としての願いが、たった一つだけ。

 ワクラバが必要でないと置いてきたもの。荒々しさとは、あまりにも程遠い存在。

 あの女のもとに、帰りたい。

 

 おんぼろ旅籠の一室。ワクラバが戸に手をかける前に、どうやら足音で帰りを察した二本角の女が、そっと戸を開いて顔を覗かせた。猫のような大きな目が、さらに大きくぱっと見開かれるが、そんな女を押しやってワクラバも室内へ入った。 

「ち、血が……」

 青ざめながらワクラバに歩み寄り、それでも触れていいものかと手を彷徨わせる女のすぐ傍に、乱暴に腰を下ろす。

(治った)

「治った、って」

(わかるだろうが)

 知っているはずだ。傷付いても、畏気を流し込まれて治されるのだと。

「あ、の……」

 こうして傷だらけで帰ってきたのは今日が初めてではないのだ。妖畏の気の名残で体が火照り、欲に蝕まれ、目の前の女を食らい尽くしたくなるときだってあった。獣性を帯びて、血まみれで帰ってくるワクラバを、女はいつも悲痛な面持ちで出迎える。

「寝、転がった、ほうが……」

 今だって、あらゆる欲望がぐるぐると渦巻いて、女を押し倒したくてたまらない。口内に溢れかえる唾液を無理に飲み下し、傷が塞がったばかりの喉が痛みに震えた。汗を滲ませ、じっと見据えられて、女は、なにかを感じ取ったのだろう。ワクラバに寄り添う形で膝を正し、緊張した様子で、ワクラバを見つめ返した。

「……その、もし、よければ」

 そして、ぽんと、太腿を叩く。

「ど、うぞ」

 なんだ、それは。

 ワクラバは眉根を寄せるが、女はワクラバから目を離さない。なにか念を送ってやろうという気が、徐々に失せていく。

 ワクラバは結局、差し出された女の膝へ、頭を落ち着かせた。剥き出しになりかけた欲は、不思議なことに、すっかり消えてしまった。ここでようやく思い知る。今のワクラバが求めていたのは、そういった類いのものではなかったのだと。

「い、痛く、ない……ですか」

 細い女だった。ふとした瞬間に砕けてしまいそうな脆さがあった。誘われるままに頭を預けた膝も、人の重みに耐えられるか不安である。

 女が身に纏っているのは薄手の肌襦袢と裾よけだけで、ほとんど女の肌を感じているようなものだった。

(かたい)

「あ……そう、です……よね。すみません……」

(……もっと食ったほうがいい)

「……あの、頭、痛く、ない……ですか。や、やめたほうが、その……いい、でしょうか」

 恐る恐る女が言う。それでも離れがたいぬくもりがあった。ワクラバはそのまま女の腹に顔を埋め、丸くなった。甘えていることは理解していた。縋りついているのだと。そんな情けなさを覚えながらも、どうしても手放したくはなかった。安心できる場所をひたすら求めて、辿り着いたところがここだった。そうとしか言えなかった。

 返事もしないワクラバに怒ることもなく、それどころか女はそっとワクラバの髪を撫でた。躊躇いがちに何度か繰返し、ワクラバがなんの反応も示さないことに安堵の息を吐いて、ゆっくりと頭を撫でた。

 女の腹の音がする。生きている音だった。血潮の流れる音が響いたが、やはりそこも、ぞっとするほど頼りない。

(明日から)

「は、い……?」

(ちゃんと食え。骨が出なくなるまで)

「あ……は、い。頑張り、ます……」

 微睡みに誘われながら、その返答にワクラバは安心していた。あの剣撃の音と強い雨音はもう聞こえない。かわりに流れ込んでくるのは、女のあたたかな命の脈動だった。ワクラバは無意識に女の腹にすり寄って、ゆっくりと訪れた睡魔に抗うことなく瞼を閉じる。

「……ワクラバ」

 控えめに女が名を呼んだ。少し掠れた頼りない声だ。お世辞にも綺麗な声とは思えなかったが、決して不快な声ではなかった。

 聞こえていると、わずかにワクラバが身動げば、女はふっと息を吐いた。

 小さな震えが指先から伝わってきた。ワクラバはじっと待っていたが、その先の言葉はそこまで聞きたいわけではなかった。女がその気にならないのであれば、ワクラバも気にせずにこのまま眠りにつくつもりだった。

 沈黙が漂う中に、ワクラバと女の呼吸と衣擦れの音だけがあった。

 女は手を止めようとしない。きっと、ワクラバの意識が暗闇に沈むまで、手を休めることはないのだろう。

ふと、深く息を吸う音がした。そして、女は再び口を開く。

「わ、たしに、できる、ことは……その、こ、こういう、ことくらい……しか、ありません」

 通弁人のくせに、声を出すのも、喋るのも下手で、力もなければ、意志も弱い。

「もし、もし、必要で、あ、あれば……いつでも、大丈夫、です……から」

 そんな女に、ワクラバは縋る。

「言って、ください、ね」

 流されて生きてきたのだと言った女が、待ちたいのだと、ワクラバに言った。

 荷物で、弱くて、情けなくて、狩られるだけの、ワクラバにとって都合のいい女。

「……わたしは、聞こえ、ます、から」 

 ワクラバ、と名を呼ぶ女。

(……タキ)

「……はい、ワクラバ」

(タキ)

「はい」

 ワクラバはもうなにも伝えなかった。気付けば名を呼んでいた。確かめるように文字と音をなぞっただけで、話がしたいわけではなかった。

 女もそれは察していたようで、先程のワクラバのように続く言葉を急いたりはしなかった。ただ、タキという女はここにいるのだと、ワクラバに言い聞かせるように、穏やかな返事をしただけだった。

 ああ、そうだった、とワクラバは思う。

 この女の名は、タキというのだと。