狐影束ねて


 厚い雲に覆われた夜の下、四方に置かれた燭台の火だけが辺りを仄かに照らしている。屋根に大きく穴が空いた廃堂の中、視界の隅に映る黒ずんだ床の血染めに、女は押さえ込まれた体を身震いさせた。

「人畏を剪定する三景(みかげ)家は、もともとは妖畏への生贄として存在していたのさ」

 女を後ろ手に縛った壮年の男が淡々と言う。周りの男たちは黙したままだったが、誰もがその言葉をなぞり、行動に移していることが知れた。女の身を解放する気など、誰も持ち合わせていないのだと。

 女は身を捩った。固く縛られた体は男たちの手から逃れることなど到底できなかったが、女の拒絶を目の当たりにした男たちが、一斉に口を開いた。

「三景が廃れてから世はおかしくなった。おれの子は、まだ三つになったばかりだったのに」

「家からも出られんなど、どうやって生きていけというのだ」

「畏れの澱みを町から遠ざけるための、大切な儀だ……」

「わかってもらえないか。誰かがやらなければならないことなんだ」

「すまんが、恨まんでくれ。皆を守る大役を拝命したと思って」

「すまない、すまないね……」

 それらすべてが弁明である。約定破りの畏れをここに留めるための人身供犠。それに選ばれてしまった女は、このとき初めて、神隠しの答えを得た。町の女たちが月が巡るたびにいなくなるのは、これだったのだ。そして、それを誰にも伝えられないまま終わることを悟った。

「急げ。畏れが来る前に……」

 男が言い終わる前に水音が響いた。女は絶叫した。人のものか獣のものかはわからぬが、あまりにも多量の血が己の全身を叩き濡らしたのだ。口内まで浸した強烈な鉄の臭いと味は、これが夢や幻などではなく凄惨な現実であることを女に突きつけてきた。床一面が新たな血で塗り潰される。いずれこの色も床の黒染みとなるだろう。これから食い散らかされる、己の肉片とともに。

「すまないね……」

 男たちが上っ面の謝罪を残して去っていく。複数人の足音が遠のいて、隔たりが生まれる。まさしく生と死の境だ。男たちは生き残るために歩き去り、女は手足を縛られ、全身に血を纏いながら誰も生き残らない廃堂に捨て置かれた。

 虫の声すら聞こえない、不気味な静寂が女を包んだ。血に濡れた髪が、同じく血の化粧を施された頬に張り付いている。

 女の歯がかちかちと怯えで音を鳴らした。妖畏のために用意され、これから生を終える女だった。死に怯えながら、女は己の中に次々と灯った火に目を向けていた。

 なぜ、己なのだろう。

 なぜ、男たちは生き延びる選択肢があり、己は死へと追いやられたのだろう。

 なぜ、己は供物に選ばれてしまったのだろう。

 なぜ、己はなにも選べない立場なのだろう。

 女はふと思い出した。ここに連れてこられる前のことを。まだ女がなにかを選べる立場にいたかもしれない日々を。ここにはいなかった老人が、己によく切なげな瞳を向けてきたことを。あれは、どうしていつも見てきたのだろう。知っていたのだろうか。近々、女が廃堂へ妖畏の餌として連れていかれることを。女が死の運命から逃れられぬことを。女がすべてを押し付けられて、無惨に散らされることを。

 女の目が見る間に涙で溺れた。嗚咽が洩れ、血に覆われた頬を涙が伝い落ちた。誰も女を慰める者はいない。ただ泣きじゃくることしか許されない女の周りに、生きている者は誰もいない。なにかが訪れたとすれば、それは人ではなく、哀れな女を貪り食らう、飢えた畏れの化身である。

 その嗚咽が呼び声となったのか、じっとりとした夜闇が震えを帯び、女に畏れの顕現を知らせた。

 夜闇に溶け込むそれが、輪郭を描いて大きく広がった。血肉を身に纏いながら熱い吐息を洩らし、巨大な妖畏が静寂を湛えた廃堂内を獣香で満たした。獣の唸り声が空気を震わせ、女を恐れへと追いやった。

 それが女を動かした。

 己は脅かされている。選ぶ余地もなく、なにも言えずに死ぬことなど、女には我慢ならなかった。夜闇に赫々たるまなざしを浮かべた獣に、女は許しを請うのではなく、溢れかえる痛切な思いを吐き出した。

「いや……こんなの、いや……っ、なにも、で、できない、まま、死ぬなんて、そんなの、いや……っ!」

 凍てつく恐怖心を連なる火がわずかに溶かし、女に叫ぶ力を与えた。死へと抗う、小さな力だった。

「わたし、死にたくない……っ!」

 

「お待ち申し上げておりました」

 妖畏退治の任を請けて参じたワクラバとタキを出迎えたのは、眉尻を大きく下げた老父である。ただじっと話の続きを待つばかりのワクラバに、再び頭を下げて弱々しく述べた。

「わたしが、依頼人の滋松(しげまつ)です。こんな遠い地に足を運んでいただいて……山道は大変だったでしょうに……まずは湯屋で休まれますかな」

(いらぬ気遣いだ。話を聞くに、そんな悠長なことは言っていられないはずだが)

 滋松の言葉に、ワクラバが鋭く念を返した。その宛て先はタキであり、つまりは通弁人としてのタキの仕事が始まったことを意味する。

 タキは拙いながらもワクラバの言葉をなぞり、すぐさま滋松に案内を依頼した。請け札を握り締めたタキは、ワクラバと共に滋松の後に続きながら、任の内容を胸の内で読み返していた。

 山を越えた先にある町だった。活気があるこの町に、ある日突然、妖畏が現れた。約定破りの妖畏への対処が遅れ、多くの死傷者を出したようだ。そして、町の隅にある、いつ倒壊してもおかしくない廃堂に、朱紐が張り巡らされたのだ。朱紐の向こうは鈴の領域であり、妖畏の住処である。朱紐が出現したのが一月前。それから今日に至るまで、八人もの男たちが行方不明になっているらしい。

「間違いなく……町の男たちは妖畏によって始末されております。行方知れずとなっていた男二人が……無惨な死体で、廃堂の前に置かれていたんです」

「廃堂の、前に……それは……妖畏の仕業、ですか……?」

「ええ。獣香の残り香が酷く……頭から下が、なかったんです。目が刳り貫かれた生首が、放置されていました。あんなもの、人の手によるものではありません。あの傷口は刀傷などでは……まさに、食い残し、でした」

 要は、廃堂を根城とし、男たちを襲うそれを討伐してほしい、という話だ。わざわざ二人の目を刳り抜き、晒し首のように放置するなど、普通の妖畏では考えられない所業ではある。タキの角の付け根が疼いた。町中に現れている妖畏は、無幽天留斎によって歪められた個体である。

 妖畏が人を襲うのは食事のためだ。だが、無幽天留斎の白い畏気を帯びた妖畏は、そこから逸れてしまう。蟻を潰す子どものように、戯れで人を襲うこともあった。

「実は、依頼するのは、これが初めてではないのです」

 廃堂までの道すがら、ぽつぽつと語り続ける滋松に、タキは目を伏せた。こうしてワクラバが呼ばれたということは、最初に任を請けた者が仕事を放棄したか、もしくはすでにこの世を去っているかのどちらかである。

「その人は、あの……」

「手練れと評判だった、若い男性の妖畏狩り……ですが、だめでした」

 滋松のしわがれた声が沈んだ。タキは請け札を握る手に力を込めながら、角に飛んできた指示通りに唇を動かす。

「あの……なにか、その、他に、よ、妖畏に対する……情報は……」

「……一人の、女です。獣の尾を生やしてはいますが……本当に、ただの女の子、なんですよ」

 その言葉に、ワクラバが片眉を上げた。瓦将のように人の形を得る妖畏は稀なのだ。ただ、それよりも滋松の含みのある言い方に、ワクラバとタキは違和感を覚えていた。そして、滋松が続けて述べた情報に、タキも目を丸くした。

「彼女は三日に一度……水と食事を要求してくるのです」

「食事……? そ、それは……あの……人を……?」

「いいえ。野菜や米、獣の肉です。人間と同じ食事ですよ」

 これは、奇妙な話である。野菜や米を食う妖畏など聞いたこともない。約定を破って幽世を築き、大勢の犠牲者を生んだ妖畏が、そんなものを要求するとは思えない。それこそ人間を生贄として欲しているという話ならまだわかるが、無幽の気を食んでいるとはいえ、どうも今までの妖畏とは毛色が違う。タキが再び問いかける寸前、嫌な気配がじっとりと押し寄せてきた。ぞわりと総毛立つ感覚に、タキは身を震わせる。

「見えましたね。あちらが……例の廃堂です」

 屋根に穴が空き、大きく傾いた廃堂がそこにあった。まだ朝だというのにその空間だけ異様に重い暗がりを抱いている。朱紐の外にまで溢れ出る血と獣香に、この奥の幽世がどれほどの魔の庭と化しているのかと、タキは小さく息を呑んだ。

 しかし、こんなものがありながら、町に住む人間は多く、怯える素振りを見せていない。すぐ近くに邪悪な幽世が広がっているにも関わらず、誰もが何事もないかのように生活していた。

 不思議に思って伝えたタキに、滋松が声を潜めていらえた。

「……皆、知っているんです。食事さえ欠かさず与えれば、誰も犠牲にならないことを」

「……それ、は……どういう……?」

「妖畏は、この廃堂から出てこないんです。食事を一度、与えなかったときに……一人の犠牲者が出ました。欠かさずに三日おきに米や野菜を与えさえすれば、妖畏はここから出てこずに、町を……他の妖畏から守ってくれるんですよ」

「妖畏が……守るん、ですか……?」

 怪訝そうに眉根を寄せたワクラバと驚くタキを眺めやり、滋松が頷く。

「これまで町の中で妖畏が姿を見せていましたが、この幽世が出来てから……強大な妖畏として、ここに棲み着いているからか、他の妖畏が寄り付かないのです。縄張りの意識が、あるのかもしれません……そのおかげで、わたしたちは、無事に生きていられるんです。女たちの笑顔も戻り、子どもも元気に走り回っています」

 約定破りの妖畏が、新たに人と約定を結んでいる。そして、町の者はそれに恩恵を感じているらしい。餌を与え、人を守る。それだけ見れば均衡を保っているようだが、あまりにも濃厚な獣香と廃堂に溜まった暗闇が、歪な関係性であることの象徴としてそこにあった。

「……妖畏狩り殿は……それでも、斬られますか」

「……えっ?」

 滋松の問いに、タキはぱちぱちと目を瞬かせる。

 対するワクラバの答えは、簡素なものであった。

(妖畏であるならば、斬る)

 タキはおずおずと滋松に伝え、ついでワクラバを見やった。視線は交わらなかった。ワクラバは鋭い視線で朱紐の向こう側を睨んでいる。その横顔を見ながら、タキは瓦将を思い出していた。

 かの妖畏も人の形をしていて、タキと言葉を重ね合う不思議な存在であった。語る妖畏も、食わぬ妖畏もいるのだと。ただ、忠告もあった。妖畏は妖畏。今は平穏な暮らしを築けているが、いつかその日常を破られる可能性など充分にあった。そもそもが町の中に出てくる約定破りの妖畏なのだから、滋松はこれを危惧してワクラバを呼んだのだろう。

 恩恵を感じて生活しているとはいえ、さすがに廃堂まで近寄る者は見当たらない、とタキが視線を巡らしたとき、一人の男が目に飛び込んできた。

 蓑笠の男だ。どこにでもいる旅人の装束であるが、その長身と腰の刀に、見覚えがあった。あれは、この町に来る前の出来事。囮となったタキは、己に飛びかかってくる妖畏と、それを惨殺するワクラバを血をかぶりながら目撃した。それを見ていたのは、タキだけではない。町の人間に紛れて、この男がいたのだ。あれから随分と離れた地に来たわけだが、この男も同じく妖畏狩りで、噂を聞きつけ参じたのだろうか。

 ワクラバも横目で蓑笠の男を睨み据えていた。わずかばかり身に纏う警戒心に相手も気づいたか、笠の陰に隠れた面が垣間見えそうに――。

「ああ、すみません。そういえば、妖畏狩り殿のお名前を聞いておりませんでした。そちらの、通弁の方も……」

 ワクラバとタキの意識を、滋松が引き戻した。タキは慌てて依頼人に向き直った。

「す、すみ、ません。あの、こちらが、ワクラバで……わたしは、タ、タキ、と」

「――え?」

 途端、滋松の顔が強張った。薄く開かれていた瞳が、驚愕でぱっと見開かれる。ぎょろりと剥いた黒い目にタキが困惑をあらわにすると、滋松はすぐさま取り繕うように喋りだした。

「……あ、ああ。いや、すみません。聞き間違えまして。タキさんですね」

 再び柔和な皺を刻んだ目元に、タキは小さく安堵の息を吐いた。

(なんであれ、無幽の手下が居着いてやがるのは間違いねえ。おれはここに潜る。おまえは依頼人と宿で待機してろ)

 ワクラバが百鬼歯に手をかけながら念を放った。親指で黒い喰出鍔が押し上げられ、白い刀身が覗いた。

 百鬼歯が鞘から抜けるということは、近くに妖畏がいることを意味する。人の餌を欲そうが、町を守ろうが、やはり妖畏は妖畏であり、それをワクラバは百鬼歯で断ち切ることができるのだ。

 鋭い剣気を纏いながら、ワクラバが幽世に踏み入った。りんりん、とけたたましい鈴の音が鳴り響き、朱紐が揺らぎ、ワクラバの姿が掻き消えた。

 幽世は現世と繋がっているようで、決定的な隔たりがある。空間だけでなく、時の流れが異なるのだ。幽世での一日が現世での一刻になることもあるし、当然、逆もあり得る。いつワクラバが帰ってくるかわからない。そもそも、帰ってこないという恐ろしい可能性も孕んでいたが、タキは男を信じて命令に従う他なかった。

 置いていかれたタキは、幽世の入り口を見つめ続けている滋松に声をかけた。

「滋松様……わたし、たちは、ワクラバの、帰りを……ま、待ちましょう。幽世から、離れた、場所で……」

「彼は、強い目をしていますね。これまで数多の妖畏を斬られてきたんでしょう」

 滋松が言う。タキは戸惑いながらも促した。

「は、はい……あ、あの、滋松様、お話は……別の場所で……」

「……失礼ながら、タキさんは、おいくつですかな」

「え……?」

 どこか焦燥感を帯びた相貌が、タキに向けられた。それでいて、その焦りとは裏腹に、問いかけ自体は世間話でもするかのような軽い内容である。

 唐突な質問に呆気にとられたタキだが、それでもいつものごとく、素直に口を開いてしまう。

「あの……二十四、です……」

「そう、ですか。鬼の中ではまだ、かなり若い……」

 滋松が何度か頷く。タキの答えをしっかりと覚え込むような仕草に戸惑いながらも、タキはワクラバの命に従うために動いた。

「え……っと、そ、それより……あの、ここにずっと、いるのは……危ない、です。だから……」

「タキさんは、妖畏と戦うことはあるのですか。中に入るのは彼だけなのでしょうか。鬼としての力があるでしょうに」

 それは、偏見に塗れた問いである。たとえ剛力を持ち得る妖怪であっても、喧嘩ができない者などざらにいる。力があることと磨かれた技があることは、まったく違う話なのだから。そもそもタキは鬼ではないし、この通り小柄で細身で、武器もない。たとえ百鬼歯のような逸品を持っていたとしても、己の身など守れない女であった。それを痛感する問いでもあった。声として存在するだけの、足手まといに他ならない。

「わ、わたし……ただの、通弁人で……そ、それ以外は……なに、も……なにも、ない、ので……」

 タキは俯く。ただ己の爪先と、足元に落ちる影を見つめた。その視界に滋松の古びた下駄が入り込んだと思った、その瞬間。

「きゃ……っ」

 タキの足が地から離れた。驚きが勝り、事態の把握と抵抗が遅れた。タキは滋松に担ぎ上げられたのだ。

 軽いとはいえ老体には辛かったのだろう。滋松が呻きながら、それでもタキをしっかりと掴み、なんと、朱紐の内へと勢いよく身を投じた。

 耳を劈くような鈴の音が、口を開く幽世に二人を迎え入れた。

 

「母様が来たみたい」

 己が腰掛ける尾をしならせ、女が顔を上げた。頬に張り付く髪を軽く払い、部屋を這う三本の尾を逆立て、警戒と歓喜をあらわにした。

「御母堂、様……ですか?」

 畳に膝をついた男が、歯をかちかちと鳴らしながらも訊き返す。女は赤い唇を釣り上げ、指先で弄んでいた眼球をそっと違い棚に置いた。

 そこにはすでに九つの目玉が並んでいた。女が戻したそれを加えて十個、血に塗れた目がそれぞれ女の姿を眺めていた。瞬きも許されず、ただじっと女を見続けるために置かれたそれに、女は機嫌よく壁から生えた尾を振りながら笑った。

「そうよ。わたしの大好きな……哀れで可愛い母様よ」

 すぐに獰猛な笑みと化した。床に生えている尾で、転がっている捻れた死体を隅に追いやった。血の池じみた畳の上に、零れ落ちた臓物の断片がこびりつく。

「母様ったら、来るんだったら言っておいてほしかったわ。母様のためにとびきりおめかしして出迎えてあげたかったのに」

 女はそのまま尾を揺らし、激しく血振るいした。赤い飛沫が跪く三人の男たちに降りかかる。だが、男たちは目を逸らさなかった。浅い息を繰り返しながら、女の動向を見守っている。いつなにを命じられてもすぐに動けるように。それは男たちにとって命を繋ぐ行為であり、女の機嫌を損ねたら最後、隅に追いやられた死体の山に加わることが決まっていた。

「母様、今は窶れて可哀想なことになってるの。もしかしたら、わたしの居場所にすら気づけないかも。迷ってるかもしれないから、案内してあげて」

 血が染みこんだ床の間を背に、女が嗜虐的に目を細めた。赤い隈取りの施された女の笑みを受け、三人の男が慌てて立ち上がる。赤黒く変色した畳を蹴り、男たちが一斉に外へと駆け出した。

 女は髪を梳いた。柔らかな焦げ茶の髪を揺らし、すん、と軽く鼻を鳴らした。

「……見ていなさい。わたしのほうが優れているのだと、おまえに証明してあげるわ」

 応える声は、どこにもない。それでも女は、赫赫に輝く大きな瞳を、喜悦に歪ませていた。

 

 百鬼歯の唇が、懐かしさを含ませながらその名を呟いた。

「隠狐(いんこ)じゃ」

 幽世に踏み入ったワクラバのすぐ隣で、百鬼歯が身を漂わせながら続けて言う。

「無幽に堕ち、どこかへ彷徨っていったが……こんなところに城を築くとはな。古びた神の真似事でもしておるのか」

 ワクラバは舌打ちし、目の前に広がる光景を金眼で睨み据えた。

 朱紐の内、魔性の鈴の調べが鳴り響くここに、廃堂など見当たらなかった。変わりに根を張っているのは、黒い靄に覆われた大きな屋敷である。

 ワクラバは、屋敷の広い庭に佇んでいた。赤黒い天に陽や月などは見えず、絡みつくような生ぬるい風がそよいでいた。真っ黒な木々は揺らす木の葉すらなく、ただ朽ち落ちてそこに立ち並んでいる。背後にある池は汚泥を溜めこみ、風に乗って強烈な死臭が漂ってくるほどだった。

 周囲は塀で取り囲まれており、ざっと眺めやったが、出口が見当たらなかった。幽世が口を閉ざして獲物を飲み込むことはよくある話だ。この幽世の核、つまりは城の主たる妖畏を斬るまで、ワクラバはこの畏れの庭から出ることが許されない。

 ワクラバは抜刀した。百鬼歯が笑みを深くし、寄り添うようにワクラバの背後に回った。冴え冴えとした白い刃は澱んだ空の下、ひとりでに鮮烈な煌めきを零していた。

 真正面には大きな寝殿へと繋がる階段と渡殿があった。複数の対屋も見えたが、ワクラバはすぐに魔の庭を踏みしめ、階段を上がった。

「一際濃いな」

 百鬼歯が呟く。ここは獣香と畏気が蔓延した領域だった。その中でも最も香りが濃厚な場所が寝殿であった。戸が閉じられていてもなお、畏れの香りや気配、鉄の匂いを漂わせている。

「隠狐は少々、自尊心が強い。やはり、奴は最も目立つ場所にいる」

 百鬼歯のひとりごちるような言葉を聞き流し、ワクラバは戸に手をかけた。感覚を研ぎ澄まして不意打ちに備えたが、ワクラバに飛びかかってくるものはいなかった。

 中に入り、それと差し向かった。ワクラバを見下ろすそれは、悠然と長大な獣の尾に腰掛けていた。

「あら、迎えは必要なかったかしら。せっかく遣わしたのに。ちょっと見くびりすぎたかも」

 白い襦袢を一枚纏っただけの小柄な女だった。恐らく背丈はタキに近い。紅い瞳の周りをくるむような隈取りは、百鬼歯のそれと同じものである。肩口までの髪と襦袢には血が滲み、それが行方不明となった男たちのものであることが知れた。

 ワクラバは眉根を寄せた。隠狐の言は、念ではなく肉声である。故に聞き取れた。ただの人型の妖畏ではない。だが、この気配は紛れもなく畏れの獣に違いない。

 ワクラバは心当たりがあった。似たような経験があった。体を壊されたあの黒い山での出来事。薄くなる自我の隙間から、百鬼歯がワクラバの中へと潜り込み、肉体を掌握したことがあった。忘れるわけもない忌々しい記憶に舌打ちしながら、ワクラバは問うた。

(斬れるか)

「無論じゃ」

 百鬼歯が耳打ちするかのように身を寄せて答えた。

「外は斬れぬが、容の中に潜り込んだ隠狐なら、わたしは届く」 

 そのとき、壁と床から生え、微動だにせず張り付いていたそれがうねった。女の腰辺りから黒い毛に覆われた尾が生えていたが、それと太さの異なるものが二本、ゆっくりと座敷内を這いずっていた。蛇のような動きを繰り返す尾を睨み据えた後、ワクラバは妖畏の背後に目をやった。

「会いたかったわ母様。そろそろ人も食い飽きてきたところよ」

 部屋の隅に死体が折り重なっていた。数は四。どれも人間の容の損傷が激しい。破れた肉に蠅や蛆が群がり、血の波紋を泳いでいた。

 喰われた形跡は、確かにあった。ただ、これはまさに食い残しである。食事のために男たちを幽世へと引きずり込んだとは思えない。やはり無幽に堕ちた妖畏の性質が色濃く出ていた。隠狐という妖畏は、殺したいから人を殺した。肉を食ったのはついでだろう。頭部が無事の死体が、ワクラバに顔を向けていた。凹んだ瞼と涙のように張り付く血に、両目がないことがわかった。雑巾を絞るように捻じ上げられた肉体に、ワクラバは眼光を鋭くさせた。

 一つの死体の懐に、見覚えのある札があった。任を請けたことを意味する請け札である。どうやらこの胴を引きちぎられた死体が件の妖畏狩りのようだ。

 ワクラバの剣気に、隠狐が嗜虐的な笑みを見せた。

「そんなに怒らないでよ。だったら、人を食うのは、おまえで最後にしてやろうかしらね、妖畏狩り」

「無幽に堕ちたおまえが、それに耐えられるとは思わぬがな。どうせすぐに我慢できずに人を啄むであろうに」

 すかさず返したのは百鬼歯である。ワクラバの目線で揺蕩いながら、隠狐を挑発して不敵に笑みを返した。対する隠狐は百鬼歯と同じ朱い目元を細め、優雅に脚を組み直した。

「悪いけど、わたしを他の奴らと同じにしないでくれる? わたしは支配されてるんじゃない。それも飲み込んでやったわ。わたしはもうすぐ外に行けるんだから」

「外などに価値はない。際限の無い世など、身と心を削り続けることになるぞ」

「価値を決めるのはわたしなの。母様ってそんなに説教臭かったかしら。あの瓦将の嫌な癖が移っちゃったのね」

 心底嫌そうに顔を顰めた隠狐が、ふと、ワクラバが入ってきた戸の方向を眺めやり、紅い瞳を丸くした。 

「……あら、あいつら、あんなところにいたのね」

 その声に先に反応したのは百鬼歯である。血衣と豊かな黒髪を翻して開け放たれた戸の向こうを見た。ワクラバは刀を握る手に力を込め、それぞれ別の動きを見せる尾を警戒していた。だが、それを百鬼歯の驚嘆の声が打ち破ることとなる。

「小娘……!?」

 ワクラバは弾かれたように振り返り、すぐに目を瞠った。

 幽世に潜ったワクラバが最初に降り立った庭に、タキと滋松の姿があった。滋松にのしかかられるように両腕を掴まれたタキは、腰を抜かしたまま動こうとしない。ろくに抵抗すら出来ない、されるがままのタキに、かっと頭に血が上った。

「ああ、なるほど……女ね」

 同じくその光景を眺めていた隠狐が、不機嫌な声を上げた。

 ワクラバはすでに畳を蹴って走り出している。冷静さはなかった。心に渦巻いた猛火に突き動かされていた。だが、研ぎ澄ました五感は生きている。空気を裂いて迫る音を拾い、ワクラバは咄嗟に横に跳んだ。床を這っていた尾が、弓矢の如き勢いで壁に突き刺さった。

「ちょっと、わたしを斃しに来たんでしょう。それ以上の余所見はだめ」

 壁から生えていた尾が勢いよく屋敷を滑り落ち、先端を細く束ねて戸を乱暴に締め、ワクラバにその切っ先を向けた。

 収斂されたあらゆる殺意を湛える金眼で、ワクラバは隠狐を見据えた。猛然とした殺意を受けても涼しい顔を晒す隠狐は、やれやれと肩を竦めた後、ちらりと歯を見せた。

「あいつら、あんなに美しく輝いてた母様とそこらの小汚い娘を見紛うなんて……あとで誰か殺してやらないと」

 それに闘志を帯びた百鬼歯がいらえた。

「その美しく輝く母様の言うことを、聞く気があるとは思えぬがな。わたしの真似事をしておきながら」

「母様は美しかったわ。けれど、今はちょっと、足りてないから」

「なに?」

「人間なんかの手に堕ちて、ただの道具に成り果てるなんてね。どうして懲りないのかしら」

 百鬼歯の朱い瞳が、ワクラバと同じく刃のような鋭さを纏ったが、すぐにいつもの調子で穏やかに、それでいて獰猛さを含ませて言う。

「これは、語るだけでは伏せぬようじゃ。やはり、斬るしかあるまいよ」

 ワクラバは構えた。畏れを断ち切る流麗な刃を前に、隠狐は愛嬌たっぷりに笑み、すぐに吐き捨てた。 

「母様、大好きよ。だから、今の母様は許せないわ」

 二本の尾は動かない。前後を挟まれたワクラバは百鬼歯の刀身よりも感覚を鋭く研ぎ、冴え渡らせた。

 人と刃の闘志を受けて、喜びと憎しみを綯い交ぜにして、隠狐が吠えた。

「人間に振るわれるだけの痩せ細った母様よりも、わたしの方がうんと強くて上にいるのだと、おまえを殺して教えてあげるわ!」

 

 タキは仰臥していた。赤黒い沼のようなそれが空であることにぼんやりと気づいた。思考が緩慢だ。意識に空白が生まれていた。それが辺りを舞う獣と血の匂いによってじわりと音を立ててなくなり、己が今どこにいるのか、どうしてここにいるのかを理解した。

 そのときにはすでに、タキの目の前に滋松が立っていた。

 見下ろす老父の表情は硬い。二つの色を持つ顔だった。決意を固めた様子を見せつつ、タキを哀れむまなざしがあった。タキは恐る恐る上体を起こした。

「ど、うして、わたし、まで……?」

 訊かずにはいられなかった。ただ、言いようのない不気味さを感じ、すぐに座り込んだまま後退った。

「あんな子じゃ……なかったんだ……」

 亡霊のような呟きだった。滋松がゆっくりと距離を詰めた。下駄が澱みのような靄が漂う地面を踏みしめていた。そうして、タキに腕を伸ばした。

「妖畏狩りじゃ、助けられないんだ……」

 滋松が半ば馬乗りになる形でタキの両肩を掴んだ。着物越しに肌に食い込む指先の力強さに、タキは顔をしかめた。タキの鼓動が不気味さに負けて速さを増していく。いつなにをされるかわからぬ状況で、タキはもう震えることしかできなかった。

 だが、滋松はそれ以上にタキを追い詰めることはしなかった。顔をくしゃりと歪ませ、タキ以上に弱々しく頭を垂れた。

「お願いです……タキさん……助けて、やってください……あの子は……違うんだ……」

 タキは呆気にとられた。一瞬、なにを言われたか、まるで理解できなかった。

「人を殺して、喜ぶような子なんかじゃ……あの子は、妖畏に……隠狐様に、変えられて、しまったんです」

 構わず続ける滋松に、タキはなにも返せない。

 この依頼は、妖畏を斬ることだ。滋松はそのために任を出し、ワクラバが引き受けた。タキはただ、依頼人とワクラバを繋ぐためだけの通弁人として来ているだけで、その任を果たすためにワクラバがすでにこの地に潜り込んでいた。

 なのになぜ、この老父はタキにそれを望むのか。

 妖畏狩りでは助けられないとは、どういう意味なのか。

 果たしてそれが本当だとして、滋松の言うあの子をタキが助けることなど、できるわけがないだろうに。

 諦めと困惑で満ちた。心がひりひりと痛んだ。火傷したみたいに。耳鳴りのように、すべての音が遠ざかっていった。暗がりに足を踏み入れかけたタキは、慌てて己の内から目を逸らした。ただ、目の前の老父を見た。

 タキに縋りつく滋松に、もはや不気味さなどなかった。不可解ではあるが、たとえようのない悲しみに浸った姿として、タキの双眸に映っていた。

 それでも、やはり語るための言葉が出てこない。タキは狼狽え、滋松を見やるばかりだった。

 そのとき、焦りの声が膠着状態の二人の耳を打った。

「滋松、なにをしている……!」

 はっとしてタキと滋松は顔を上げた。知らぬ間に、三人の男がやってきていた。壮年の男に、若い男が二人。男たちの着物に染みる赤黒い跡に、タキはわずかに息を呑んだ。

 滋松が口を開く前に、男の一人が勢いよくその老体を蹴り飛ばした。タキから手を離して地面に転がった滋松に、タキは小さく悲鳴を上げた。だが、すぐに覆いかぶさるように男の怒号が放たれる。

「隠狐様の御母堂様だぞ! 丁重に扱え……!」

 その言葉に、思考が追いつかなかった。苦悶の声を上げていた滋松すら、戸惑いが痛みよりも勝ったらしく、信じられないとばかりにタキを見た。

 タキは男たちに振り返った。三人の視線が、タキにだけ降り注いでいた。隠狐様。滋松と男の発言がタキの耳に残っていた。あの子は変えられてしまった。妖畏に。隠狐様に。隠狐様の御母堂様。それはつまり、それは、おそらく、タキなどではなく――。

「御母堂様……お迎えに、上がりました。隠狐様がお呼びです」

 男の一人が膝を付き、座り込んだままのタキに手を差し伸べた。その指先の震えと、瞳に滲む恐怖心に、タキはゆるく頭を振って否定を示した。

「皆、なにを言って……」

 未だ話せぬタキに変わって、滋松が身を起こしながら問うた。男の一人がそれを鋭く睨みつけて、滋松の身動ぎを制止した。やはりその瞳にも、尋常でない恐れの感情が読み取れた。

「彼女は妖畏の母君だ。それを、おまえのような死に損ないの老耄が気安く触れるか……!」

 滋松が愕然と目を瞠った。それが、男たち同様に恐れの色に染まっていく様を、タキは見てしまった。

「タキさんは……鬼では、ないのですか……?」

「馬鹿なことを抜かすな! 隠狐様が仰ることを否定するか! この方は妖気一つ漏らしていないのだぞ。おそらくこれは、妖畏角だ」

 タキの肩が跳ねた。妖気を抑え込む上級の鬼として誤魔化してきたタキだったが、神気も帯びていないただの男たちに言い当てられて、わかりやすい反応を見せてしまった。それが図星の反応だと、誰もがわかった。

 その、とき。

 どん、と地響のような音と振動が、辺り一帯に畏れを振り撒いた。

「隠狐様がお怒りだ!」

 男の一人が顔面を蒼白にして叫んだ。座り込むばかりのタキの手を掴み、強引に立ち上がらせた。嫌がるタキなど気にしていられないのか、それともそもそも気づいていないのか、ぎちぎちと力強く拘束して引っ張った。

「御母堂様、早く、早く来てくれ、頼むから……っ!」

 なんと、男は轟音の発生した寝殿へとタキを連れて行こうとしていた。ひく、と喉が窄まった。男に手を引かれるまま、タキはつんのめりながらも進むしかない。

「急げ! 早くお連れしろ!」

「これ以上、隠狐様を待たせるな!」

 男たちの叫びは、どこか現実感がなかった。だが、夢でもなんでもない、生と死の境目にタキはいた。一歩一歩、妖畏の住処に近づくごとにタキの肺腑を夥しい量の恐怖が覆い尽くしていく。圧迫感があった。荒い息がまず吐き出された。そしてようやく、タキはその場に押しとどまるように草履で血を踏み、大きく首を横に振った。

「……い、や……いや……っ、ちが、う、それは、わたしじゃ……っ」

 今度はタキが縋った。背後の滋松に助けを求めようとした。滋松は焦燥していた。だが、彼の口から飛び出た叫びは、タキの求めるものではなかった。

「まずい……! 彼が終わらせる前に、彼女を隠狐様の元へ……!」

 タキの望みが断たれた。だが、同時に新たなる望みが怯えるタキを宥めた。

 ワクラバが、ここにいる。タキよりも先に幽世に身を投じた彼が、百鬼歯と共に妖畏と差し向かっている。

 芽生えた安堵で、一瞬、力が抜けた。そんなタキの体が、立ち止まった男にぶつかった。先程までタキを無理矢理連れて行こうとしていた男だった。崩れ落ちかけたタキを中途半端に支えつつ、男が目を瞬かせた。

「彼……? 誰か、他に来ているのか?」

「そうだ……だから急いで……」

「誰が来ている?」

 もう一人の男が問うた。恐れがわずかにたわみ、小さな希望を抱いていた。そしてその希望の象徴は、明確に答えを求めて発せられた。

「もしや、妖畏狩りか……!?」

 滋松が押し黙った。沈黙は、紛れもない肯定だった。

 刹那、男たちの目に二つの感情が満ちた。それぞれ三人は顔を見合わせ、互いがどちらに従うかを擦り合わせているかのようだった。

 そうして、男が再びタキの手を引き、渡殿の先を指差した。

「……御母堂様、どうぞ、こちらに来てください」

 寝殿から離れた、小さな対屋だ。口調こそ柔らかいが、有無を言わさぬ力があった。振り払うことなどできない、男の力だった。

「ち、ちが……っ、わたしじゃ、ない……」

 タキは再び否定したが、果たして、それが男たちに届くことはなかった。どういうわけか、男たちはなにかに縋るようにタキの否定を聞き流していた。妖畏角が生えていることも、タキの否定を受け入れない理由の一つだろう。先程の恐慌はすっかり収まったが、男たちは今もなお必死と言ってよかった。

 ただ、滋松だけがタキの言を聞いていた。だからこそ、強く焦りを滲ませていた。その焦りがなにを意味するかはわからない。しかしながら、滋松がなんらかの理由でタキを寝殿へ連れて行くことを諦めていないことだけが確かだった。男たちは滋松が大人しくさえしていれば構わないようだ。

 ただ、タキは歩いた。手を引かれるままに、畏れに満ちたこの屋敷の一室に、男たちと共に入っていった。

 

 轟音が寝殿を揺らした。二本の尾がワクラバを貫かんと迫り、壁を穿った。尾を使役する隠狐は依然として尾に腰掛け、庭の鳥を眺めるかのように唇に笑みを敷いて頬杖をついている。薙ぎ払い、叩き付け、貫く。蛇のように床を這い、ワクラバの行動範囲を狭め、追いやろうと動いていた。

 ワクラバはそれらを跳んで避け、ときに斬撃を与えながら、これらの単調な動作に眉を寄せた。このまま核となる隠狐へと突っ切り、刃を見舞うことは簡単だ。だが、肌にぴりぴりとした嫌な感覚があった。そうすることを望まれているかのような、ワクラバを誘い込む空気があった。そのための道筋が、あからさまに見えているのだ。探り、そこを避けようとすると尾の猛攻が始まった。片方がワクラバの眼前に迫るとき、もう一方必ず死角へと回って槍のように跳んできた。ワクラバは前方の尾は見切り、後方から迫る尾を斬り飛ばした。傷を負った尾は激しく身悶えるようにして縫われ、見る間に肉を生やした。

 見定められている時間だとさえ思った。舌打ちし、警戒をそのままに、仕掛けた。

 尾の隙間を潜り、駆けた。座敷の奥で悠として座する隠狐へ刃を見舞う、その瞬間。

 足元から僅かな振動。ワクラバは大きく横へ跳んだ。ワクラバが立っていたその空間は、床から突如として突き上がったそれに噛み砕かれている。大きな口を持つ尾だった。尾の先端ががちがちと歯を鳴らし、獲物を逃したことに苛立ちをあらわにしている。

「あら、ばれちゃった」

 しなりながら迫った二本の尾を避け、ワクラバを迎え撃った尾の口の端を一閃した。そんなワクラバの頭上に、再び尾が迫る。落ちる陰を見定め、掻い潜った。その先で待ち受けていたそれに、ワクラバは足を取られた。

「でも、四本だなんて言ってないわ」

 ワクラバの足を絡め取った五本目の尾が大きく持ち上がった。勢いよく宙へ振りかざされたワクラバは、体を地面に叩きつけられる前に身を捻って足に巻き付く尾を斬り飛ばし、畳の上に着地した。

「すごい器用なのね。猿みたい」

 嘲笑する隠狐と尾の動きを目で追いながら、ワクラバは百鬼歯を呼び起こした。

(尾は全部で何本ある)

「わたしが最後に見たのが五本じゃ。だが、この畏気の量、相当蓄えたらしい。それよりも増えているだろうな」

(使えねえ。すぐに正確に嗅ぎ取れ)

「獣香が充満しておる。無理を言うでない」

 つまりはほとんど直感勝負だ。それぞれの尾はこの座敷内のどこからでも生えてくる。縦横無尽に駆け回る尾と、未だ姿を見せずに狙いをつけている尾の気配を探る必要があった。獣香に満ちた空間だ。出現前に濃く香る顕現の印を追うことは困難だ。槍の先端を持つ尾と牙を持つ尾が一気にワクラバに迫っていた。

 それらを一緒くたにして百鬼歯の玲瓏な刃で断ち切り、踏み込んだ。押し寄せる尾の群れを薙ぎ払い、素早くかわした。顕現した尾の数が増えたせいか、あのときのように瞬時に怪我を癒すことはなかったが、再生能力は他の妖畏に比べて早い。長期戦に持ち込まれることだけは避けなければならない。ワクラバの首を狙って飛びかかった尾を斬り払い、ワクラバの足元を薙ぎ払うように接近したそれを踏み台にし、ワクラバは一気に隠狐の懐めがけて跳んだ。

 隠狐の笑みが絶たれた。瞬時にワクラバは百鬼歯を振るっていた。隠狐ではない。そこに到達するより先に、ワクラバは視界の右端の空中から噴出した六本目の鋭い爪を持つ尾を両断した。そちらに意識を割きすぎた。ほぼ同時に、ワクラバの胸を、七本目の尾が殴っていた。凄まじい衝撃だった。ワクラバの体は後方に吹き飛ばされた。床に叩きつけられたワクラバに、すぐさま三本の尾が群がった。ワクラバは跳ね起き、一本の尾を切断して飛び退った。床に突き立てられた尾が、逃げた獲物を探してキョロキョロと首を動かす仕草を見せる。

「折れたでしょ」

 牙を持つ尾が大きく口を開いて飛んできた。ワクラバは刀を振り上げた。血を撒き散らしながら尾の先端が畳に落ち、うぞうぞと動いた。ワクラバは歯を食いしばってそれぞれの尾の位置を確認した。隠狐の言うとおり、重い一撃をもろに食らい、肋がいくつか折れていた。おそらくは破片がどこかに突き刺さっている。痛みから目を背けてワクラバは唾棄した。血が混ざっていた。

「気に食わないけど、綺麗な目ね。おまえのそれもここに並べてあげるわ」

 百鬼歯が熱を帯びた。ワクラバの体内に畏気を流し込み、怪我を癒やし始める。尾がワクラバに殺到した。それぞれ違う獰猛さで、ワクラバの命を食い潰さんと動いた。

 これだけ長い尾、それが七本となればさすがに畏気の供給も間に合わなくなる。切断された尾は蚯蚓のようにのたうち、ワクラバの肉体を叩き潰すために何度も床に打ち据えられた。ワクラバを絡め捕ろうとするもの、胸に大穴を穿たんと奔るもの、それぞれが違う動きでワクラバを追い込んでくる。

 ワクラバは猛然と百鬼歯を振るった。避けられるもの、相手をしてはならないものを金眼で見定め、視界に映らない尾の観測を百鬼歯に任せ、斬り進んだ。

 ワクラバに向かってくる尾自体は六本だ。穿たれて穴が開いた床を飛び越え、百鬼歯の柄から伝わる熱で背後の尾を振り向きざまに斬り捨て、足元の尾を踏みつけて血で汚れた畳の上を走った。何度血肉を浴び噛みつこうとも曇らない百鬼歯の閃きに、隠狐が忌々しげに唇を噛んだ。ワクラバは尾の蹂躙を打ち落とし、剣閃は滑らかに尾の肉を削ぎ落としていく。

 頭上に二本。落下地点を読み、ワクラバはあえてその先へ踏み込まずに迎え撃った。瞬きの後に、ワクラバが通過するはずであった空間は串刺しにされている。剣閃の煌めきの後に尾が床に転がり、ワクラバはそのまま隠狐へ突き進んだ。隠狐がついに地に降り立った。腰掛けていた尾を切り落し、赫々の目でワクラバを睨み据えた。

 長らく隠狐の腰掛けと化していた尾は、根元は切り落されて蠢いていたが、先端がなかった。すぐに姿を現した。真横から隠狐とワクラバの間を隔てるように振り下ろされた尾が床を殴りつけた。獣香が混ざり合い、砂埃が舞った。尾を両断したワクラバは、前方から押し寄せた尾を躱し、間合いに入った。腰から肩口を奔る軌道が見えた。切り飛ばした尾が激しく畳の上で転がり、地を揺らした。

 隠狐の肌に、百鬼歯が触れた。そこで止まった。ワクラバの右腕を倒れた尾の影から現れた別のそれによって、きつく拘束されていた。気づいた瞬間には、すぐに別の尾がワクラバを強く壁に叩き付けている。折られた肋を異形の力で再び叩き付けられ、ワクラバは血を吐いて崩れ落ちた。

 

 小さな対屋の中、タキは正座していた。対面する形で男たちと滋松が座っている。タキに向かって深く頭を下げる男たちは、口々に許しを請い始めた。

「許してください。お願いです」

「どうか、どうか、隠狐様を鎮めてください」

「我々をここから解き放っていただけませんか」

 命乞いである。タキは当惑した。だが、わかったことがあるのも確かだった。

 この三人は、例の行方不明となった男たちだろう。あの死臭や尋常ではない怯えからして、彼ら以外はすでに隠狐様と呼ばれる妖畏に食われてしまったと思われた。彼らは屋敷内を自由に動けるようだが、隠狐に見えざる首輪を繋がれており、いつ殺されるかわからない日々を強いられている。それを断ち切るようにタキに懇願しているわけである。

「わたし、違うん、です……あ、あの……わたしは……隠狐様と……なんの関係も、ないん、です……」

 タキは否定を繰り返した。だが、男たちは何度もタキに頭を下げ、生きて帰りたい意思を伝えてきた。

 言うまでもないが無理難題だ。どんなに求められてもタキにはどうしようもない。タキもここから出ることは叶わず、ワクラバが無事に妖畏との戦いを終えることを祈って待つ以外にできることなどなかった。

 妖畏狩りが来たという反応から男たちが生きる道筋を見つけたことは先の様子から明らかであるが、それでもやはり、過去に妖畏狩りが殺されたこともあって信じ切ることはできないらしい。それゆえにタキを頼みの綱として懇願しているが、その綱が切れるどころかそもそも繋がっていないことに、男たちは気づいていない。否、受け入れようとしていない。

 タキには妖気もなければ獣香もなかった。体には無幽天留斎との歪ではあるが契約の証として畏気が流れているが、それはあまりに微量で獣の香りを伴ってはいなかった。

 もはや幽世に獣香が漂いすぎて、それすらも把握できないようである。だが、幽世に入る前のタキを知っている滋松が、タキの否定をようやく受け入れ、男たちを説き伏せようと動いた。

「皆、落ち着け。タキさんは、妖畏の母ではないと言っている……」

 タキが慌ててその言葉に続こうとしたが、切羽詰まった様子の男たちに強く遮られた。

「御母堂様を否定するな!」

「お願いです、御母堂様。なんでもします。ですからどうか、命だけは……」

「滋松、貴様だけ御母堂様の慈悲を得ようというのか……!」

 もはや滅茶苦茶だ。自分たちの発言のおかしさに気づいていない。幽世に漂う黒い靄が、タキの心を覆っていく。タキは唇を震わせた。

 会話ができるはずだ。タキの声は相手に届くはずだ。タキだって、彼らの言葉を聞き届けている。角がなくとも、耳で受け止められる。だが、ひどい断絶があった。現世と幽世のように繋がっていながら、明らかな境があった。

 ひどく歪んだそれは目に見えない。どうすれば取り除けるかもわからない。人と人であるのに。瓦将とタキは会話ができていた。種族が違えど、捕食者と被捕食者という関係性であっても、互いの言葉を食み、食ませることができた。それでわかりあえた。

 聞き届けてもらえないことは、こんなにもおぞましいのか。

 誰も、タキをタキとして見る者がいないということは、こんなにも苦しいことなのか。

 吐きそうになった。込み上げた。強烈な、嫌悪の感情だった。今すぐにここを立ち去りたい。だが、今動かすべきは足ではなかった。再びタキは口を開いた。声を絞り出した。

「わたしじゃ、ない……っ、わたしは、妖畏の、母じゃ、ない、です……わたしは、違い、ます……っ」

 男たちの顔に、ようやく疑いの気持ちが浮かんだ。ほっとするタキに、滋松が深く頷いて支持した。

「そうだ、彼女は獣香もない。畏れの力を持たない。そこらの娘と同じなんだ」

 そして、こう言葉を継いだ。

「だから早く、新たな贄にしなければ」

「――え……?」

 理解が追いつかなかった。タキは己の足元が揺れ動いているような錯覚に陥った。ふとした拍子に真っ逆さまに奈落に落ちてしまうという、恐怖の漣があった。

 滋松は、タキに救いを求めた。隠狐の母であると聞き、男たちと共にタキを連れて行こうとした。隠狐が母を、百鬼歯を呼んでいる。だが、滋松はタキの言葉を信じた。タキは妖畏の母ではない、ただの娘だと。

 だからこそ、贄にするのだと。

 頭の中がぐちゃぐちゃだった。ここに、タキの味方はいないということだけが突きつけられ、それがさらにタキを恐れの渦に引きずり込んだ。

「まさか、まだあの娘を救おうとしているのか」

 男の一人が地を這う声で滋松に問いただした。滋松の答えを待たず、別の男が怒鳴り散らした。

「あれはもう違う! 畏れの化身だ! 件の妖畏狩りに余計な知識を吹き込んだのもおまえだろう!」

「そうでなければ、あのとき殺せていた!」

「この人殺しが!」

 男たちが一斉に滋松を罵った。それを振り払うように、滋松も声を荒らげる。

「あれはあの子の体だ! あの子は生きている! まだ間に合う! あの子を助けられる!」

 男が滋松の胸ぐらを掴んだ。

「諦めろというのが、まだわからんか……っ!」

「人がどれほど死んだと思っている! 人殺しの化け物になぜそこまで拘る!」

 滋松は退かなかった。男たちに囲まれてもなお、叫んだ。

「元はと言えば、なんの罪もない娘御を贄にしたのは誰だ!」

 途端、滋松ははっとして己の口を押さえた。自分が今まさに放った言葉に、瞳を泳がせ俯いた。

 そんな滋松を、男が殴り飛ばした。

「滋松様……っ」

 咄嗟に名を呼んだタキに、男が立ちはだかる。 

「御母堂様でないのなら、おまえは、ただの妖畏なのか」

 先程までタキよりも低い視線を保っていた男たちが、立ち上がってタキを見下ろしていた。蔑みのまなざしを受け、タキはぎくりとした。

「妖畏風情が……人の真似事をするか!」

 逃げる間もなかった。タキは男に組み敷かれた。体を強く打ち、呻いた。タキの細身は男の体重で押さえつけられ、起き上がることなど不可能だ。自由な足で床を蹴るが、それを別の男によって押さえつけられた。

 殺されるのか。犯されるのか。男たちがタキを傷つける意思を持っていることは明白だった。怖いという感情が血とともに全身に流れてタキを脅かした。助けを呼ぶことすらできなかった。後悔に近い感情が、さらにタキにとどめを刺そうとしていた。

 否定しては、だめだったのか。声を出すことは、いけないことだったのか。なにが正解で、どうすればタキはここから逃げ出せるのか。応える者がいない中、タキは見た。

 滋松が懐に手を忍ばせた。ずるりと抜かれたそれに、タキが真っ先に気づいた。だが、気づいただけだ。なにも言えず、少しも動けないまま、タキは途絶えた呼吸に顔を歪めた。

「人を舐めるな、獣ごときが……っ!」

 すでに男の手がタキの首を締め上げていた。タキが言葉による解決を試みたことを断罪するかのようだった。逃げ場を失った熱が首に留まり、激しい鼓動となった。タキがわずかに目を開いたそのとき、滋松がタキに覆いかぶさる男へ突進した。

 ずんと肉を刺す鈍い音と、男の呼気と共に洩れ出た意味をなさない声が、室内に落ちていった。男の手から逃れたタキは、何度か咳き込み、床に転がる二人を見た。

 動いたのは、滋松だけだった。男にのしかかっていた滋松は、再びそれを振り下ろした。二度、三度と。

 仰向けに転がった男の胸と腹から血が噴き出た。じわじわと赤い染みが広がっていく。鉄の匂いがした。視界に映る鮮烈な色に、タキは瞠目したまま滋松を仰ぎ見た。

 滋松はその場にへたり込んだ。震える手で短刀を握り締めていたが、血に濡れた手のひらはどんどん力が抜けて、ついに刃を手放した。

 二人の男は、ようやく動いた。怒りが驚愕を上回ったのだ。

「滋松、おまえ、なにをしている!」

「貴様、化け物に肩入れするかっ!」

 滋松は男に押し倒された。もう一方の男が竦み上がったタキを捉えていた。ぎょろりとした眼にタキは喉をひくつかせた。己に向けられた殺意に息を呑んだ。

 男が滋松の手からこぼれ落ちた短刀を拾い上げた。その血に濡れた刃を、タキに向けた。

「ひっ……」

 激しい憎しみを抱えた男が、タキに躙り寄る。タキは動けない。縫い留められたように。

「なにが、妖畏だ。なにが……っ」

 ついに、今まで溜められていた憎悪と殺意が迸った。男は思い切り刃を振りかざした。

「この世に不要な、醜い畜生の分際でっ!」

 次の瞬間、男の体が黒いなにかに壁へと叩きつけられた。

 砕けて破裂する音だった。様々なものが飛び散って皆の耳朶を強く打った。それは音だけではなかった。紙風船が割れるかのように、呆気なく肉が破裂し、壁と床を真っ赤に染め上げた。

 静寂が訪れた。誰もが硬直していた。滋松の凶行など比べ物にならないほどの重い恐れが場に沈んだ。あまりの事態に、逆に頭が冷静さを生んだ。タキは視線だけ動かした。それしか許されていなかった。体は凍みついたように、床に張り付いていた。

 男を押し潰したのは、蛇のような黒い生き物だった。壁を突き破って侵入してきたそれは、強烈な鉄の匂いと、濃厚な獣香を放っていた。

 生き残った男が絶叫した。その叫びで、タキの冷静さが掻き消された。黒いそれが身を震わせてこびりついた血肉を払うと、先端を鋭く束ねて首を擡げるように動いた。それは、次はこの三人のうち誰を殺そうかと選びぬく動作である。

 男が真っ先に走り出した。なにかを叫び散らしながら、二人を置き去りにして逃げ惑った。

 身動ぎすらままならないタキの手を、滋松が強引に引っ張り上げた。それが助けとなった。タキは慌てて立ち上がり、滋松に手を引かれるまま走った。

 男は廊下を抜け、庭の方へと走っていた。そこはタキと滋松が幽世に入り込んだ際に初めて降り立った場所である。男もそこが門であることを知っていたのか、たとえ口が閉ざされていようとも本能でそこに向かったようだ。タキはすぐに滋松に視線を戻した。直後、男の喉を裂かんばかりの絶叫が響き、すぐにそれはなにかがひしゃげる音に塗り潰された。なにかなど、考えるまでもなく明らかだった。

 タキは顔を真っ青にしながら走った。心臓がこめかみに移動したかと錯覚するほど、己の脈動が激しく頭を打ち鳴らしていた。滋松とタキは、廊下を走り小さな対屋に身を潜めた。滋松が戸を閉め、タキは転がるように床に崩れ落ちた。震えが止まらない両手で口を押さえた。滋松も息を殺し、畏れが追ってきていないかと身を震わせながら警戒していた。

 すべての場所に獣香が漂っていた。だが、黒い生き物が放つそれは、こんな比ではなかった。一瞬にして膨れ上がり破裂したそれは、二人の鼻孔に染み付いていた。それは死の匂いだ。すぐ近くに妖畏がいると思えてならなかった。妖畏がいるならばと、タキは一人の男の姿を脳裏に描いた。

 タキは身を縮めてその姿に縋った。ワクラバ。ワクラバ。男の足音を期待した。それを待ち続けることしか、タキにはできなかった。状況を打開するすべなど、持ち合わせているはずがなかった。

 どれほどの時間が経ったのかはわからない。ただ、待てども待てども妖畏の気配もワクラバの足音も届いては来なかった。タキと滋松は恐る恐る顔を見合わせた。ゆるく息を吐き、竦んだ精神と肉体を休めようとした。

 そして今更、タキは滋松の凶行を思い出していた。懐に忍ばせていた短刀で、男の胸を一突きしたのだ。そんな老父と二人きり。短刀は、おそらく男の死体のそばに落ちているだろう。タキはあのとき、滋松の手を振り払えなかった。人間は、簡単に人間を殺せる。殺す手段などいくらでもある。タキは軽く、細い。あまりに弱い。もし、ここで組み敷かれたら、タキは抵抗する間もなく殺されるだろう。

 だが、滋松の行為は、タキを救い出すためのものでもあった。わざわざ戦う力を持たないタキをここに連れ込んだのは滋松だ。そして、滋松はそんなタキに懇願したのだ。

 妖畏狩りでは、助けられない。あんな子では、なかった。

 恐怖を押し留め、代わりに戸惑いを強くあらわにしたタキに、滋松が呟いた。

「あの子は……あの子は、妖畏では、ないんです」

「……妖畏じゃ……ない……」

「あの子は、生きた人間なんです。ただの……可哀想な、女の子だったんです」

 滋松の語り口は、自責の念に押し潰される罪人のそれとなっていく。瞠目するばかりのタキに、滋松は続けた。

「あの子の体に、妖畏が棲んでいるんです。奴らが隠狐様と呼んでいた妖畏が……。あの子は……珠生(たまき)ちゃんは、化け物に取り憑かれて……それでも……!」

 滋松が頭を垂れた。それは懇願に見えたが、滋松はもうタキに縋り付いては来なかった。踏み留まるように、床の上に両手をついていた。

「あの子を殺したくはない。最初に任を請けた妖畏狩りに、それを吹き込んだのも、わたしです。お優しい方でした。なにか引き剥がす策があるかもしれないと、彼はここに潜りました。でも……だからこそ、手が出せなかったのでしょう。刀で斬れば、妖畏だけでなくあの子も殺してしまう……」

 妖畏狩りでは助けられないとは、つまりはそういうことだったのだ。珠生という女性が、今は妖畏に手足を奪われ、操られるがままに人間を襲っているのだ。

 人間と同じ食糧を要求するのは、珠生としての肉体を維持させるためだ。だが、疑問は残っていた。その対処法として、なぜタキが選ばれたのか。タキには角がある。妖畏の念を聞き届ける無幽の両角だ。だが、滋松はそれを知らなかった。そもそも、声を聞き届けるだけの角で、珠生を解放できるとも思えない。

 困惑するタキに、滋松が顔を上げ、いらえた。

「だから、あなたに、代わってほしかった」

 あのたとえようのない不気味さがついに正体を表した瞬間だった。タキは身を強張らせた。切っ先に取り囲まれるような錯覚に、肌がちりちりと痺れた。緊張が張り付くタキの相貌に、滋松が目を伏せた。

「若い女性は、この町で妖畏の贄として捧げられてきました。町の隅にある廃堂に捨てて、そこを餌場としたのです。妖畏に餌の在り処を覚えさせて、町には被害が出ないようにと……あの男たちが、思いつき、実行したのです」

「そ、それって……」

「珠生ちゃんは、その贄の一人でした。彼女は、その妖畏に取り付かれて、復讐しているんですよ。行方不明の男たちは皆、贄の首謀者です」

 タキは息を詰めた。彼らの物言いを理解した。畏れを増長させたのは、彼ら自身だったのだ。

「餌を与え忘れたときに被害者が出たと、言いましたね。彼奴も、そうです。あの妖畏から、餌を捧げる大命を与えられた男でした。だからこそ、幽世の出入りを許されていた。三日に一度のそれを放置し、奴は町から逃げたんです。ですが、三日目に帰ってきた。ただならぬ様子で……それこそ、狐憑きのようでした。奴は発狂し、そうして期日を破って……語れぬほどに……酷い、有様でした。おそらくは、あれも妖畏が取り憑いていたんでしょう。そして今は……わたしが、その任を引き継ぎました」

 珠生は、隠狐という妖畏は、男たちの手によって編み出された贄の因習をなぞらえている。操られているのではなかった。二人は共犯だった。珠生の怨念を、どういうわけか隠狐が畏れの力を以て晴らしているのだ。

「タキさんに妖畏の新たな依代になってほしかったのは、事実です。あなたを生贄に、あの子を解放してやってほしいと……身勝手なことを考えたことは、間違い、ありません……」

「滋松様……」

「ですが、あなたを犠牲にすることは、あの男たちと……あの日のわたしと、なにも変わらない」

 あまりにも身勝手極まりない告白である。タキを差し出すために幽世へ巻き込み、男たちの暴走を目の当たりにして己の過ちに気づき、手のひらを返すようにタキを救い出したのだ。

 それでも、あのときえづきたくなるほどに込み上げた嫌悪の気持ちは、今は湧いてこなかった。ただ、沈痛な様子で語る滋松のために、タキは黙してそこに留まっていた。

  

 すぐに死んでしまいそうな童女。それが、隠狐が初めて百鬼歯を見たときに抱いた印象である。泣きじゃくりながら万尾玄流斎にくっついて、朱い衣を漂わせていた。しばらくはつっかえてろくに喋れず、なにかある度にびくびくと怯えて身を竦ませていたが、ふとした拍子に消えてもおかしくない儚さは、月日が経つに連れて立ち消えて、彼女が本来持ちうる好奇心がよく顔を出すようになった。

「あ……あの、おまえは、隠狐……だな」

 いとけない笑顔を浮かべ、百鬼歯が深い朱の瞳を柔く細めた。純白の着物に纏わりつく血衣を撫でながら、黒帯を揺らして臆することなく隠狐に歩み寄る。

 隠狐の体は大きい。幼い百鬼歯はもちろん、大柄の男でも一口で丸呑みにできる狐の頭を持っていた。尾の房を揺らしてみせれば、百鬼歯が笑い声を上げてはしゃいだ。子どもの無邪気な仕草そのものである。隠狐は尾を弛めて毛を柔らかくした。差し出したらすぐに百鬼歯が飛びついた。柔らかな子どもの手で撫で付けられながら、隠狐は念を震わせる。

(もう覚えたのか。嫁刀って自覚は、矮躯であろうとあるらしいな)

 その念に、百鬼歯が顔を上げた。興味津々の眼に覗き込まれ、隠狐は顔を寄せた。

「おまえは、女の声を、しているな」

 瓦将は男の声だった、とまで続ける百鬼歯に、隠狐は大袈裟に溜め息をついて、鼻先で幼い体を小突いた。

(くだらない。その説教臭い瓦将に言われなかったか? 畏れに雌雄など存在しないと)

「あっ、そ、そうじゃった……万尾様にも、言われた……」

 百鬼歯は恥じ入るように身を縮こませ、もじもじと指先を絡めて目を逸らした。隠狐はただひたすらに、幼い、と思った。こういった生き物を、妖畏は飢えれば口にする。最も食い応えがあるものはほどよく筋肉を蓄えた鬼や人間の男であったが、彼らは戦う術を身につけていることが多々ある。飢えて飢えてどうしようもないときは、結局はまだ逃げることも侭ならない幼い生き物を狙うのだ。

 それを伝えたときに、百鬼歯は受け入れた。怯えるか、もしくは罵倒されるかとばかり思い込んでいた隠狐は、素直に百鬼歯に問うてみた。なぜ、人が食われることを許容するのだと。

「食べるため、じゃ」 

 百鬼歯は山に咲く花を見つめながら言う。

「食べることは、生きるために、必要だから……」

 慈しみを帯びる横顔だった。百鬼歯の手は花を摘まず、ただ花を咲かせて佇む様子を眺めて楽しんでいた。

「人も……妖怪も……魚や獣を、食べる。そのために、殺す。妖畏も、同じじゃ」

 その声が、翳りを帯びた。

「妖畏は……殺さぬのだろう。同じ、命を……食うため、ではなく、ただ、殺すために……」

 隠狐は黙した。慰めたくはなかった。だが、傍にいた。百鬼歯の目の前に咲く花を、ただ興味もなく倣って見つめていた。

 それから時は経った。一輪の花のように、艶やかな血衣を纏い、宙を揺蕩う百鬼歯に、隠狐はつい念を放ってしまった。

(母様、昔は小さかったのにねえ。本当に、綺麗になったわ)

 言ってから後悔した。すぐに百鬼歯がにんまりと笑みを浮かべて隠狐へ身を寄せた。

「ふふ、そうであろう。しかし、ぬしも変わった。女の真似事をするようになったのは、はてさて……どういうことだろうな?」

(やめて。来ないで。暴かないで。なんだっていいでしょう)

 そっぽを向く隠狐に、百鬼歯は口元を袖で隠してくすくすと笑った。擽ったかった。隠狐はすぐに己の頭部と尾しかない巨体を宙に溶かし、泳ぎ渡った。なににも触れられず、触れられないはずの希薄な肉体が、少しあたたかかった。

 立派になった。滑らかな刀身は、妖畏のためだけに晒され、あらゆる悲しみも苦しみも歪みも、断ち切って正す刃だった。彼女がいるから、妖畏は臆することなく世を生きられる。己を生み直してくれる存在の一対だ。

 そんな百鬼歯が泣きじゃくっていたときのこと思い出させるような女に、そのときの隠狐は酷く苛立っていた。

 黙らせるのはあまりに容易だ。ほんの少し尾を振るい、軽く薙ぎ払ってしまえば女は死ぬ。抵抗する手段を封じられ、そもそも封じられなくとも、この女には力など最初からないことが、細い体と弱々しい動きからすぐに知れた。だが、隠狐はそれをしなかった。脳裏にまざまざと蘇った朱い衣を纏う前の、いとけない童女の泣き顔が、隠狐を惑わせた。

 人間とは食われるものだ。同族殺しに手を染める、野蛮な餌だ。話す力を持ち得ていながら、妖畏と言葉を交わせない奇妙な生き物だ。

 隠狐は晒した巨躯を空に溶かし、震える女の胸へと潜り込んだ。女の目が見開かれ、月も浮かばぬ夜天を映し出す。一際強く女の体が痙攣を起こした後、ぐったりと力が抜けきった。血みどろの硬い床の上で、女の体がのそりと起き上がる。

 突如、虚空からずるりと黒い尾が這い出た。毛に覆われたそれが引き絞られ、鋭い槍のような形へと変貌する。それに、女は縛られた足を差し出した。切っ先と化した尾が振り下ろされ、縄を断ち切った。ついで、腕の拘束も器用に切り裂いてみせると、たちまち霧のように姿を消し去った。

 自由となった女が、軽く息を吸って、吐いた。何度かそれを繰り返し、たった一人で口火を切った。

「うるさいのよ、おまえ」

 弱々しい涙声とは打って変わり、女の口からまろびでたのは、心底うんざりした様子の声である。

「言葉が通じないって、本当に面倒くさい……」

 ひとりごちた。だが、それはすぐに他者への語りへと転じた。

「母様に似た顔でびくびくしないでよ。腹が立って仕方がないから」

 ふいに、胸の奥で魂が狼狽した。風に吹かれて激しく揺れ動く一つ火のようだった。それに擽られ、隠狐は首を振った。その程度の仕草は血振るいにもならなかった。隠狐は肌に張り付く髪を乱暴に梳いた。血が滴った。

「隠狐。おまえたちが一生懸命、供物を捧げている妖畏の名よ」

 揺らめく火が萎縮し、それでいて先ほどとは比べものにならないほどに激しく震え上がった。それは隠狐によって肉体を奪われた女の魂であり、剥き出しの感情だった。もしも隠狐が今すぐに肉体を返していれば、喉を裂かんばかりの絶叫が轟いていただろう。隠狐は深く息を吐いて、強引に肉体を安静状態へと導いた。

「前々から、疑問だったのだけれど、おまえたちはなんのために妖畏に贄を与えているの」

 苛立ちをそのままにして、問いかけた。女は大人しくなった。なぜ、妖畏がこうして穏やかに話しかけてくるのかわからない。そういった気持ちがあった。

「お腹が全然膨らまないから、貢ぎ物はありがたく頂戴していたけれど。同族殺しって、わたし全然わからないわ」

 妖畏は長二匹が統べる縁の中を、約定の内側を、許される限り自由に生きている。当然、隠狐には気に食わない同種が大勢いるし、そもそも好きだと思える者が妖畏ではない百鬼歯くらいなものだったが、餌の奪い合いになろうとも、同胞を傷つけることは敵わない。隠狐は纏顎に噛まれて無幽天留斎に与したわけだが、約定を破るようになった今でも、他の妖畏を殺そうとも思えないし、殺せない。いたずらに数を減らさないための、長きにわたり築かれた強固な決まり事なのだろうが、妖畏にとって絶対のそれを、遙かに弱い人間は簡単に成し遂げてしまうのだ。

「もらわなくたって食えるのよ。約定なんて莫迦らしいし、ちょっと暴れれば人なんていくらでも死んでくれるから。わざわざお膳立てされる必要もないわけ。そもそも、今のわたしが、たった一匹で腹が膨れるわけもなし……」

 だが、その際限のない食欲は、驚くことにほとんど薄まって消えかけていた。女に問うこの時間は、隠狐に新たなる感情を抱かせているのだろうか。

「なんのためにおまえはわたしに捧げられたの。人間って本当にわからないわ。同じ場所に身を寄せ合って巣を作るくせに、どうしてその巣の中で同胞を傷つけるの?」

 女は静かだった。だからこそ、隠狐はこう続けた。

「それとも、おまえがなにかをやらかして、和を乱したのかしら」

 炎の色が変わった。慰めを期待するかのような弱々しいそれが、火花を散らして燃え広がった。それに興味を抱いた。隠狐が答えを求めて体の所有権を譲り渡した途端、女が強く叫んだ。

「違う!」

 恐れをも振り払うかのような絶叫だった。己を贄として食らうはずだった妖畏に、女が必死に言葉を紡いだ。女は初めて知ったのだ。妖畏が人に語りかけることに。交わせる言葉を持ち得ていることに。その気持ちを、隠狐は同じ肉体を介して味わった。

「わたし、なんにも、してないっ! してないの、お願い、だから許して、お願いします、殺さないで、死にたくないの! わたしはなにも、悪くないの!」

 隠狐の胸をぢりぢりと焚きつけるような訴えだった。あの日の母様は、ずっと怯えていたのに。自由を求めて、自ら鳥籠に入るような真似をしたのに。それでも彼女は、人にしか振るわれない。無幽天留斎に削られた痛々しい姿がまざまざと蘇った。そうして再び、血衣を纏う前の、悲鳴すらあげられなかったことの姿を思い出した。

 その叫びに、女はすべての力を注いでいた。すぐに息を切らして両手両膝をついた。その背が丸くなる直前に、隠狐は女を軽く押しやった。女の流した涙が、隠狐の紅い瞳を濡らした。悲しみに滲む視界を、隠狐は初めて味わった。

「おまえみたいな奴を、わたしは見たことがあるわ」

 隠狐はそれを、生まれてはじめて、可哀想だと思った。

「おまえもそうなのね」

 こんなろくに働かない視界で、百鬼歯は黒い畏れの長を見つけた。世闇に紛れていてもおかしくない命に、かつての百鬼歯は手を伸ばした。

 畏れを受け入れ、妖畏の名を素直になぞり、溢れる命に笑顔を見せた少女がいた。真白の襦袢は鮮烈な朱い血へと衣を替えた。凜とした姿だった。妖畏にとって、彼女は偉大なる母だった。妖畏の刀とはそういう存在だった。澱みを断ち、産み直す。気が遠くなるほどの数多の命を見据え、それらすべてを慈しむ守り刀。だからこそ、妖畏は妖畏の長が携える刀に、百鬼歯に好意を抱くのだ。

 隠狐にとって百鬼歯は、可哀想な童女だった。そして、どんなことがあろうとも、あらゆる命の活動を尊ぶ者だった。好きだった。たとえこの焦がれるような感情が、己で種を残せず世を巡れない生き物が故の本能だとしても。

 なのになぜ、人間は百鬼歯をああも粗雑に扱ったのだろう。同族殺しなど平然としてみせるのだろう。どうして、美しい母は、汚らしい人間などに振るわれるのだろう。なぜ、人間に扱われる道具なのだろう。それが当たり前であることに、隠狐は我慢ならなかった。食欲よりもなによりも、隠狐を突き動かす衝動と化した。

「おまえ、わたしに従いなさい」

 隠狐は止めどなく溢れ、床にこぼれ落ちた涙の雫を見つめた。目に焼き付けた。女が泣くのは、これが最後になるのだから。

「わたしは、母様とは違う。喜びなさい。おまえを高みへ連れていってあげる」

 隠狐は百鬼歯にはならない。女を百鬼歯にはさせない。扱われるのではない。扱うのだ。人間のような野蛮な生き物としてではなく、この世を見下ろす清らかな命として。

 白い闇によって感情が歪に捩じられていることに、隠狐は気づいていなかった。

 知ったとしても、それでもう、よかった。

 

「ずいぶんと体に畏気が満ちているのね。今までどれだけ食い漁ったの?」

 隠狐が崩れ落ちたワクラバの眼前に立っている。ワクラバは再び右腕を拘束されていた。ぎちぎちと締め上げられ、それでも百鬼歯を手放さないワクラバに、隠狐が頬をひくつかせた。

「もしかして、痛いのがお好きかしら?」

 ワクラバに絡みつく尾が、ぎちりと力を込めた。骨が折れんばかりに軋み、歯を食いしばった。

「お望み通り、もっと痛めつけてあげましょうか」

 すぐにきた。ワクラバの捩じ上げられた右腕が、強引に奥へと押し込まれた。関節が砕けた。それと同時に締め付けられた肘から先の部分を折られていた。衝撃が音と同時にやってきた。ついに百鬼歯がワクラバの傍に転げ落ちた。

 ワクラバは顔を顰め、それでも隠狐から鋭い視線を外さない。肋と腕の激痛に汗を滲ませるワクラバに、隠狐が愛嬌たっぷりに笑んだ。

「素敵な顔ね。そっちの方が可愛げがあって良いと思うのだけれど」

 隠狐は満足げに髪を払い、部屋の隅にある死体の山を指差した。

「見て、あそこ。愚図な男がいてね。尾で叩き潰してやったわ。染み込んだ血をきれいにするよう言ったんだけど、ちっともうまくできなくて……そいつも床の血染めにしてやったわ」

 少女のように楽しげに笑うと、隠狐はワクラバに向き直った。

「おまえはどうされたいの?」

 ワクラバは応えない。たとえ念が届こうとも、なにも語る気がしなかった。妖畏を斬るのに、言葉は不要なのだから。

 上機嫌だった隠狐の面が一瞬で蔑みに満ちた。

「なんとか言いなさいよ」

 ワクラバのがら空きの右手を、細まった尾が貫いた。壁に縫い付けられ、苦悶に顔を浮かべてもなお声一つ洩らさないワクラバに、隠狐が大袈裟に溜め息を吐いた。

「契約って難儀ね。ずいぶん手酷く噛まれたみたい。痛がる声も聞きたかったけれど……」

 隠狐の手が伸びる。その先が何処に向かっているのか、注がれた視線でわかった。理解した瞬間、ワクラバの腹の底から猛火が迸った。

「妖畏に飼われて無様に散るなんて、可哀想な、人――」

 巻木綿に覆われた首に隠狐が触れることはなかった。百鬼歯の刃が、隠狐の脇腹を斬り付けていた。

 隠狐は背後に飛び退っていた。ワクラバは咄嗟に身を捻って左手で百鬼歯を掴み上げ、すぐさま隠狐にその白刃を見舞ったのだ。

「やって、くれるじゃない……」 

 隠狐が脇腹に手を這わせた。そこに切り傷などなかった。だが、その剥き出しの肌には血が滴っていた。百鬼歯は人間の皮膚を擦り抜け、内部に身を潜める隠狐のみを斬ったのだ。

「妖畏狩り風情が、思い上がるなっ!」

 五本の尾が殺到した。ワクラバは強引に己を縫い止める尾を断ち、怒りにまかせてそこから手の平を引き抜いた。血がどっと溢れた。

 ワクラバは尾に剣閃を浴びせながら、使い物にならない右腕に強く集中した。百鬼歯を強く握り込み、肋の修復で吹き込まれた畏気の流れを意志で辿った。

 百鬼歯が戦慄いた。明け渡された畏気を奪うように右手に流し込んだ。それが、可能だった。

 隠狐を守るべく一斉に牙を剥く尾をワクラバは純然たる殺意を抱いて斬り払った。肌を鋭利に切り裂かれながらも、突き進んだ。ふと、地面が盛り上がった。潜り込んでいた尾が爆発するかのようにワクラバの体を天井まで吹き飛ばした。ワクラバは既に身を捻り、天井を蹴っている。空中でワクラバの体を串刺しにせんと集った尾を刃で両断し、落ちた尾と新たに迫った尾を足場とした。蹴った。大きく跳んだワクラバは、百鬼歯を振るった。届いた。隠狐の体を、刃が駆け抜けた。

 勢いそのままに、受け身も取れずにワクラバは畳を転がった。穴の開いた手を胸に這わせ、すぐに体勢を整えて百鬼歯を構えた。

 百鬼歯の刃は、血に濡れていた。

 隠狐の体が大きく傾いだ。脇腹から心臓を通って肩口まで、百鬼歯が奔っていた。人間の肉体には傷一つついていない。

 隠狐だけが流した血で汚れた畳に、女が倒れ伏した。

 

 珠生は、流行病で両親を亡くし、悲しみに浸りながらも懸命に生きるために前を向く女性だった。同じく流行病で長年寄り添った女房を失った滋松は、同じ傷を持つ者として話はせずとも小さな仲間意識を抱いていた。彼女とすれ違う度に様子を眺め、同じ年頃の娘たちと元気に笑う姿に元気をもらっていた。己もいつまでも過去を引き摺らず、笑って前に進んで生きていくべきだと思った。珠生は毎日汗水垂らして宿屋の下働きとして動き回っていたらしい。彼女はまだ若い。突然両親を二人を失って、きっと、家は一人で泣くこともあるだろう。辛いだろうに、それを表に出さずに振る舞う哀れな彼女が、このまま平和に暮らしていくことを密やかに願った。

 妖畏が来てから、町は変わった。

 誰が言い出したかはわからない。ただ、妖畏を恐れた男たちが、人身供犠などという古びた風習の再演に、若い女を次々と巻き込んでいった。

 珠生は選ばれてしまった。滋松は次の贄が珠生であると知った。身寄りがない若い女性。男たちにとって、彼女は好都合な存在だった。

 滋松は、止めなかった。大勢の男たちに立ち向かえる肉体も、強い心も、携えていなかった。

「可哀想な子でした。助かってほしいと思った。ですが、わたしはなにも……できなかった。見殺しに、しようとした……いえ、したんです。本当は、彼女は死ぬ定めにあったんです」

 男たちに丹念に練り込まれた定めである。タキは滋松の語りに、沸き立つものを感じていた。一人の女の人生に、タキは歪な共感を得ていた。醜い感情だとすぐに咎めた。両親に売られて孤独になったタキを待っていたのは、あまりに劣悪な環境だった。タキはそこで、数多の男たちに散らされてきた。選ぶことを許されず、流された先で、散る運命にあった二人。タキの口の中に苦みが溢れた。

「彼女の復讐を、終わらせる権利なんてありません。でも、これ以上彼女に手を汚してほしくない……! 復讐を終えた彼女は、このまま妖畏として一生を過ごすんでしょうか。なにも知らない妖畏狩りに、妖畏として殺されるんでしょうか」

 タキはぎくりとした。瓦将の言葉がいんいんと尾を引いていた。刃を振るい、あらゆる命を断ち、血飛沫を全身に浴びて魔の庭を造り出すワクラバの幻影があった。妖畏には出来ない同族殺しが出来る人間は、畏気に全身を浸してしまえば、悪鬼羅刹に成り果てるのだと。

「可哀想だ……! そんなの、あんまりじゃ、ないですか。だったら、誰かを犠牲にしなくてはならないのなら……わたしが、なればよかったんです」

 滋松が立ち上がる。迷いはなかった。決意だけを握り締めていた。彼が何処に行こうとしているのかなど、言うまでもなかった。

「わたしになにかあれば……倅が、います。大きな湯屋の隣……妖畏狩りに、依頼を出したことは、奴が知っております。すべて、話してあります。帰ってこないかも、しれないことも……安心してください、報酬は、息子から……」

「なん、で……そんな……っ」

 滋松が単身で乗り込んで状況が変わるとは、タキには到底思えなかった。珠生は隠狐と共に人を何度も殺めてしまった。畏れを振るう力があり、その畏れは妖畏すら簡単に歪ませてしまう凶悪な邪気に犯されている。まともに人格が残っていない可能性が高い。タキは見たのだ。錯乱した様子でタキに救いを求めた妖畏を。タキにはどうすることも出来なかった。鮮やかな朱と、汚れのない煌めく刃が、妖畏を断ち切った。

「ワ、ワクラバは、でき、ます。百鬼歯様……あの刀は、妖畏しか、斬れないん、です」

 歩き出していた滋松が立ち止まり、信じられないとばかりに振り返った。タキは目を逸らさない。己の中で火のように揺らめく、畏れすら踏み越えたワクラバの姿を吹き消すように、懸命に声を張った。

「ワクラバは、ワクラバなら、珠生様を、た、助けられます……っ!」

 滋松はタキに向き直った。一筋の光に手を伸ばそうとした彼の体が強く強張り、ついで、胸を押さえた。

「まだ、哀れむか」

 滋松が言った。憎々しげに吐き捨てたかと思うと、はっとして己の乾いた口元に手を添え、さあっと顔面を蒼白にした。

 それが、滋松の最期の表情となった。

 突如として空中から顕現した黒い槍が、滋松の腹を貫いたのだ。串刺しにされた滋松は、もうなにも言わなかった。宙に浮く滋松の足から下駄が転げ落ちる。即死であることは明白だった。

 黒い槍が蠢く。タキはもう、知っていた。血に濡れたそれが毛に覆われた尾であり、話に聞いた隠狐という妖畏のものであると。それで叩き潰された男たちがいた。だが、残っていた冷静さはすぐに押し寄せた恐怖に食い尽くされ、タキはじりじりと腰を抜かしたまま後退った。助けを求める声も潰え、顔を蒼白にしたまま、滑る指先で必死に床を引っ掻いた。その手を引っ張り上げてくれた老夫が、目の前で亡骸と化していた。

 立ち上がることも目を逸らすこともままならず、歯を鳴らしながら血が滴り落ちる切っ先と、事切れた滋松を見つめた。それが纏う強烈な獣香は、タキをさらに恐怖へと突き落としていく。

 逃げなければ。ワクラバ。助けはいない。妖畏だ。殺される。逃げられない。ワクラバ。百鬼歯様。妖畏がいる。どうして。タキと差し向かっている。

 なにもできないタキは、ここでなにもせずに、殺される。

 そのとき、隠狐の尾が揺らいだ。黒いそれは透き通り、煙霧のように散った。支えを失った滋松の体が床に叩きつけられた。血が飛び跳ね、タキの肌と着物を汚した。強く頭を打ち付けて倒れ込んだ滋松の体は、大きく穴の空いた腹から血を流し続けていた。

 獣香は顕現の印として場に残っていた。だが、畏れはもう、タキの前から姿を消していた。

 ようやく、タキは呼吸することを思い出した。荒い息を繰り返し、心から凍えそうな恐怖心を必死に宥めようとした。暴れ狂う心臓が、タキに生きている実感を与えた。不気味な静寂の中で、タキの音だけが響いていた。それは生きている者の音だった。タキはなにも言えぬまま、震えながらも立ち上がった。崩れ落ちそうな足を叱咤し、動いた。逃げるために。生き続けるために。

 隠し通路の入り口から廊下に出た。蝋燭の火が立ち並ぶ廊下を走った。幽世に出口はない。己がどこにいるのか把握できていない。ワクラバの元に行きたいという強い気持ちがあった。

 ふと、タキの胸に仄暗い火が灯った。一つの可能性だった。

 ワクラバと隠狐は戦っている、はずだ。それなのに、隠狐はタキの前に現れた。ワクラバが取り逃がしたのか。だが、一度目も、二度目も、ワクラバがやってくる気配はなかった。足音も、タキのものしか聞こえない。本当にここに、タキ以外に生きている者はいるのだろうか。

 ――ワクラバは、すでに殺されてしまったのか。

 タキは躓いた。受け身もろくに取れないまま床に倒れた。痛みに顔を顰めながら上体を起こした。手の震えが止まらなかった。体を支える両手は、滋松の血で赤く染まっていた。すぐさまその凄惨な最期を思い出した。タキの呼吸が乱れ、それがさらなる恐れへと陥らせた。

 妖畏狩りに依頼するのは初めてではないという滋松の言葉が耳に谺していた。呪詛のようにタキを絡め取り、恐ろしい光景を思い描かせた。すなわち、尾に貫かれて事切れたワクラバの姿だった。

「いや……そんなの、いや……っ」

 髪を振り乱し、タキは恐れから逃れようとした。

 なにもできていないのに。ただ足手まといになったまま、声としてもまともに役目を果たせないまま、ワクラバを失ってしまうのか。だが、タキにはなにもない。戦う力など、立ち向かう力などどこにもありはしない。だからこそ、タキは縋った。最もワクラバに寄り添っている朱い女の名を呼んでいた。

「百鬼歯様……百鬼歯様……っ」

 刹那、衝撃が走った。

 背中になにかが突き刺さり、タキは倒れ伏した。タキの体が痙攣し、手足の先から熱を失っていく。だが痛みはなかった。滋松とは異なり、血の一滴すら零れ落ちなかった。かわりに、じわじわと背中からなにかが体内に潜り込む異様な感覚があった。引き攣った呼吸をする喉元まで、なにかが沁み入り、タキの中心を強く掌握する。

「……ぁ、あ、あ、あ……っ」

 目を開けているというのに、視界が黒く侵されていく。もう指先すらも動かせぬまま、体内に潜り込み蠕動するなにかに、タキは飲み込まれた。

 

 ワクラバは口内に溜まった血をすべて吐き出した。何度か咳き込みながら、それによって再び痛みをかき混ぜられ、顔を顰めた。百鬼歯がゆるやかに畏気を与えた。穿たれた右の手の平は真っ先に止血されている。穴の開いたそこから畳が見えた。それがゆっくりと肉で覆われるまで、ワクラバは壁にもたれて揺るく細く呼吸を繰り返した。

 ワクラバは膝を立てたまま、左手で百鬼歯を握り締めていた。

 座敷には、隠狐が倒れ伏していた。正しくは、隠狐が皮膚としていた人間の肉体が。どこのだれかもわからない女だったが、それは完全に意識を失っている。

 血の池に伏せる女の姿に、ワクラバの胸がざわめいた。小さな火がふっと零れ落ちた。それが紙をじわじわと炙るように、ワクラバの中に広がっていく。すべて焦げ落ちたその先に、ぞくりと腹の底が戦慄いた。草木と土の香りがした。そんなはずはなかった。夥しい獣香と鉄の香りに食い潰されるような匂いであるはずだった。だが、ワクラバには緑生い茂る山の景色が重なっていた。じゅうと焦げ付きが音を立てて、ワクラバを苛んだ。

「まだ、いけるか」

 畏気を吹き込んだ百鬼歯が言った。いつもよりも深く、あたたかみを帯びた声だった。ワクラバは頷いた。それで、かつての山の香りを伴う記憶を振り払えた。

 繋がった手の平を握り込んで確かめた。血がこびり付いた右手に、百鬼歯を持ち替えた。

 幽世は、鈴の領域、朱紐の内。まだ、この場は口を閉ざしたままであった。

 

 黒髪の少女が、山を歩いている。おっかなびっくりという表現がしっくりくる仕草で、少女は何度も黒い山犬に振り向いた。山犬が吠えると、その力強さに励まされたか、少女の真っ黒い瞳に明るい意思が灯った。愛くるしい笑顔で山犬に寄り添い、春の山の中へと歩き去っていった。

 世界がぐるりと裏返り、暗転した。棚に並べられた眼球が、仲良く自分に視線を向けていた。

「思う存分、そこで見ていてね。ずっと、ずっとよ」

 口が動いた。いつもの掠れた、すぐにつっかえる声ではなかった。細く柔らかな声音で、くすくすと笑い、次の瞬間、猛るような響きを帯びて放たれた。 

「わたしたちは、すべての命の頂きに立つのよ。なにをしたって許されるこの回廊の外で、思う存分暴れられるの」

 踊るように腰掛けていた柔らかな尾から飛び降りた。血の池を爪先で蹴り、その場で回った。襦袢の白が迫り、世界は再び身を捩って景色を塗り替えた。

 揺蕩っていた。タキは微睡みの中にいた。ゆるやかに瞼を押し上げ、何度か瞬かせた。体に鈍い痛みがこびりついていた。ゆっくりと身を起こし、深呼吸した。

 なにかを見た気がした。それを手繰るために胸を押さえた。だが、記憶はじわじわと白い靄に覆い尽くされ、タキはぼんやりとしたまま虚空を見やった。あらゆる感覚が遠く、薄い霧に覆われているようだった。

 だが、鼻孔に届いた獣の香りで、タキは一気に目が冴えた。己の肌や着物に、血が模様となって張り付いていた。背後から腹を貫かれて絶命した滋松の姿が浮かび上がった。

 タキは体に手を這わせた。自分が気を失っていたこと、その前に強い衝撃を食らったことを思い出していた。だが、この血はすべて男と滋松のものであり、タキの肌に大きな傷などなかった。怪我はところどころ散らばっていたが、それらは幽世に来たときにできた小さな擦り傷や、倒れた際にできたであろう打ち身である。

 タキはよろよろと立ち上がった。恐る恐る振り返ったが、なにもいない。タキはそれでもその場から逃げるように走った。渡殿を走り、角を曲がり、まっすぐにそこへと走り抜けた。タキは寝殿に辿り着いた。

「あ……っ」

 壁に亀裂が走り、ひどいところは大穴が空いて中が見えるほどだった。タキは散らばる破片に気をつけながら、戸を開いて中に入った。拮抗があった。いつ消えてもおかしくはない灯火に打ち勝ち、座り込む人影に、タキはすぐに駆け寄った。

「ワクラバ……っ」

 床や壁が夥しい量の血で塗りたくられていた。かすかに土埃が舞う中で、ワクラバが壁にもたれかかり、膝を立てて座り込んでいる。抜き身の百鬼歯を握りしめたまま。

 ワクラバは馳せ寄ったタキの姿を見るやいなや、腹の底を震わせるように念を放ってきた。

(なぜ、ここにいる)

 タキはその場に立ち竦んだ。怒りがあった。それにタキは怯え、再び揺らいだ。どこかへ走って逃げたい気持ちが膨れ上がった。だが、鋭い眼光はタキの勝手な行動を許さない。返答がなければ、タキは解放されない。すぐ傍に、弱った本能が求めて止まない者がいた。この先に本当に行きたい場所があるのにと、タキは軽く唇を噛んだあと、観念して口を開いた。

「……し、滋松様に、連れ、込まれて……」

(その滋松は何処へ行った)

「…………妖畏に……こ、殺され、て……」

 タキは落ち着きなく己の腕をさすった。滋松の死を淡々と受け入れたワクラバが、溜め息をついた。悔恨の情とは程遠い、侮蔑と呆れが多分に含まれていた。

 タキはおずおずと続けた。指で己の腕を強く握り込んで宥めた。

「滋松、様が……宿に、息子様が、い、いると……報酬は、彼に預けて、ある、と……」

 そこで、タキは背後を振り返った。タキよりも先にワクラバは反応していた。視線の先に、一人の女が倒れ伏している。真白だったはずの襦袢に、血の花が咲き滲んでいた。強く惹かれた。この切なさを早く分かち合いたかった。もう、ほとんど真芯を噛み砕かれてしまった。これが最後。そのつもりだった。最後に、せめて話がしたかった。言葉を交わしたかった。ばらばらだった魂を束ねるように。

「……珠生、様……」

 タキはついに倒れ伏す少女に向かって歩き出した。湧き上がった。悔いがあった。こんなところで終われないと、悪足掻きの精神が燃え上がった。見てしまえば、諦めたくない気持ちが強まった。まだ、彼女を守れていない。そのためにも、早く妖畏狩りを殺さなければならない。

 ざわりと心が大きく波打った、その瞬間。

「……え……?」

 タキの体が硬直した。凄まじい衝撃と絶叫が、内側から響いた。遅れて、不思議な痛みが弾けた。なにかを隔てているような、タキの体がどこか程遠くに感じるような、奇妙な感覚だった。だからこそ、わかった。タキの視線が、熱を孕むそこへと向けられた。

 タキの胸から、刃が生えていた。

 深々と突き刺さった刀が、大きく捻られた。タキの傷口に空気を食ませる、獰猛な動きだった。声の代わりに鉄の味が次から次へと滴り落ち、タキの唇を濡らした。それとほぼ同時に、刃が勢いよく振り抜かれ、タキの体を斜めに裂いた。

 血を飛沫かせながら、タキは己の視界が大きく傾ぐのを他人事のように見た。体が床に叩きつけられる寸前、手放された胸の中で、とある女の慟哭を聞きながら意識を落とした。

 珠生。わたしの同胞。

 連れて行ってあげられなくて、ごめんね、珠生。

 

 血で汚れた床に倒れ伏したタキを、ワクラバは見下ろしていた。一瞬、業火に呑まれた感覚があった。弾け飛びそうな、強い衝動が。

 肉を斬った感触が手の平に痺れとして残っていた。それでも百鬼歯は妖畏の嫁刀として、決してタキを傷つけなかった。すなわち、ワクラバが斬ったのはタキの内に身を潜めていた隠狐の血肉に違いないのだが、ワクラバは冷たくなった指先で、百鬼歯をきつく握りしめていた。迷いなどは、なかった。

 人を、斬った。人の形をした妖畏を。

 タキを。

 勢いよく血が巡る。全身に行き渡っていた苛烈な怒りを、新たな血が踏み消すように回っていく。熱く跳ね続ける鼓動は呼吸を繰り返すごとに落ち着きを取り戻し、ワクラバは冷えた金の瞳を一度閉じ、ゆっくりと百鬼歯を鞘に収めた。

「今のは、どういうつもりじゃ」

 百鬼歯が低い声で問うた。

「ぬしは今、どちらのつもりで、わたしを振るった?」

 それはまさしく詰問であったが、険しい表情を浮かべる百鬼歯を無視し、ワクラバは倒れ伏したタキを抱き起こした。胸から飛び散る血も、床に撒かれた血も、濃い獣香を漂わせる畏れのものである。それに侵食され、着物と肌を赤く染める女に、ワクラバは強烈な嫌悪感を覚えた。頬に飛び散った血の跡を乱暴に指の腹で拭えば、タキの瞼が僅かに震えた。おそらく、すぐに目を覚ますだろう。

 ワクラバはタキを抱き上げた。相変わらず軽く細い体だった。その身に手垢のごとく纏わりつく畏気や獣香、滋松に強く掴まれたであろうタキの肉体に、ワクラバは仄暗く粘性の高い感情を募らせた。

 ワクラバの手に力が籠もる。タキの体に爪が食い込んだ。煤色の瞳は閉じられている。力の抜けきった手足が揺れる。血の気のない女の顔を間近に捉え、ワクラバは歯を噛み締め、軽くタキを揺さぶった。なにもかもが煩わしかった。胸の内を引っ掻くなにかがあった。

 タキが小さく呻いた。小さな唇から呼気と共に洩れ出たそれに、被さるようにして発せられた声があった。

「返してよ……」

 聞き覚えのある、それでいて、あまりにもかけ離れた響きの声だった。

 ワクラバは振り返った。殺気立つ金の眼光の向けられた先に、女がいた。両肘を付き、血まみれの肉体でよろよろと立ち上がった女は、ワクラバの怒りに屈することはなかった。決して目を逸らさず、殺意と悲しみに満ちたまなざしでワクラバを射抜いていた。

「隠狐様を返してよ……っ!」

 その痛切な叫びが、タキを覚醒へと導いた。ゆっくりと押し上げられた瞼が、まずはじめに己を抱くワクラバを視認し、ついで、悲鳴を上げるかのように詰る女を見た。

「あなたもあいつらと同じよ。奪うだけ奪うくせに、奪われることは許さないんでしょう!」

 女が振り絞るように叫んだ。タキが小さく息を呑んで、ワクラバの襯衣を掴んだ。縋りつく細い指を無視し、ワクラバの腹の底に溜まる熱が泡立った。それが弓矢のように引き絞られるのを感じ取っていた。ふとした拍子に束ねられたそれが明確な殺意と化し、女へ猛然と放たれてしまうことが、わずかに残った冷静な己が知っていた。

「わたしを本当に案じてくれたのは、救いの手を差し伸べて、ずっと傍にいてくれたのは、隠狐様だけだった! わたしを守ってくれたのは、隠狐様だけなの! あなたとは違う! あなたごときが、なにかを守れたと思わないで!」

 その言葉で、ワクラバの炎の弦がきりきりと音を立てた。そして、一歩、踏み出した。血が靴を濡らした。畳に朱い足跡を増やす寸前、タキが再びワクラバの襯衣を掴んだ。それは縋りつく行為ではなかった。ワクラバは煮えた金の視線をそのままタキへと移した。タキの煤色の瞳は、ワクラバではなく女を見ていた。女はタキの弱々しい瞳の真意に触れ、気づいた。女の面が見る見るうちに苛烈な怒りに満ちた。

「その、目……っ、そんな哀れむような目をしておきながら! なにも口に出さず、動こうとしないの! 哀れんでいる姿だけを晒して! それをわたしに見せることで己の罪悪感を宥めている! そうでしょう!」

 激昂した女は、血のついた顔を歪めて詰め寄ってきた。頬を伝う涙をそのままに、いつ殺意が行動に移るかわからぬ危ういワクラバの前に立った。

「みんな己が可愛いだけ。傷つくのは嫌。虐げられるのは嫌。みんなそうなの。わかるの。だから、わたしも可愛がりたかった!」

 タキが身を竦めた。女の眼光がすぐにワクラバから逸れ、男の腕に抱えられたままのタキに移った。なにも言わぬタキに肩を震わせ、痛烈に叫んだ。

「哀れみなんていらない! まなざしだけで救われる命なんて、どこにもないじゃない!」

 ついに女がタキに掴みかかろうと動いた。ワクラバはその行動を読んでいた。タキを放るように下ろし、女の細い手首を握り締めて制止した。女はワクラバを鋭く睨み付けた。

「わたしをこうする権利が奴らにはあったの? だったらどうして! どうしてわたしは、奪うことを否定されなければならないの!?」

 そして、拘束から逃れようと腕を引いた。だが、ワクラバは離さない。さっさと手放せばいいという己と、今ここで女の腕をへし折らねばならないという強烈な意志があった。百鬼歯がただの物言わぬ刀であったのなら、ワクラバはすでに女の首も首元に刃を宛がっていた。

 ワクラバの力に敵わない女は、酷く傷ついた表情で、それでも口を閉ざすことはしなかった。それが最後に許された抵抗とでも言うように。

「どうして……っ、どうして、わたしだけ見下されなければならないの。どうして同じ立場に立つことを許されないの。あなたにはわからない! 簡単に手を上げられるあなたなんかに! 抵抗できない者の気持ちなんて! 奪われるだけの者の気持ちなんて、わからない! 隠狐様はわたしを高みまで連れて行ってくれた! 同じ目線に立たせてくれた! あの方だけがわたしを守ってくれた!」

 それらは聞くに耐えぬ戯れ言でありながら、己に振り下ろされた鋭利な刃であると、ワクラバは認識した。だが、女の骨が音を立てたそのとき、ワクラバを拘束するなにかが思い出された。息が詰まった。呼吸を乱されたワクラバは、勢いよく女を振り払った。女の細身は呆気なく床に倒れ込む。体を強かに畳に打ち付けた女は、緩慢な動きで上体を起こした。女はもう、ワクラバに立ち向かわなかった。

 身動いだ。妖畏の血で真っ赤に染め上がった襦袢の裾を、震える手できつく握りしめた。

「隠狐様を返して……っ、隠狐様、わたしも連れて行って……」

 女が身を捩り、細い腕で己の身を抱き締めた。そこにしか女の拠り所は存在せず、また、どこにもいないということをワクラバと女はわかっていた。それでも女はその事実から目を背けようと懸命に喉を震わせた。

「わたしの口で喋って、わたしの体で振る舞ってよ。全部、全部あげるから……わたしを守って、お願いよ……」

 女はワクラバに一瞥もくれなかった。手繰り寄せるように腕に力を込め、背を震わせて泣きじゃくった。己だけとなった肉体に、血を吐くように嘆いた。

「今更、一人でどう生きればいいというの……」

 ワクラバは応えない。そのための声も、意志すらもなかった。ただ、よろよろと立ち上がったタキを強引に引っ張り、百鬼歯を提げて、ワクラバは屋敷を出た。踏みしめるごとに景色が歪み、朱紐がふっつりとほどけた。鈴の音は熔け落ち、隔たりは潰えた。ワクラバの背には、天井に大きく穴が空いた、ただの廃堂があるだけだった。時刻はまだ、昼を迎えていなかった。

 探すまでもなく、滋松の息子は廃堂の前にいた。悪い気や不自然な黒い靄が立ち消えたことに気づき、ワクラバが任を果たしたことを知ったのだという。朱紐が千切れ、おんぼろの堂と化したそこから出てきたワクラバとタキの有様に、息子は愕然と目を瞠ったが、すべて返り血であるというタキを通じてのでまかせを信じ、礼を述べて報酬を手渡してきた。

 町の皆に気づかれると面倒なことになる、早々に立ち去ったほうがいい。焦りと感謝を滲ませた顔で、口早にそう伝えてきたものだから、滋松の息子の家で着替えを終えたワクラバとタキは、すぐさまその町を出立した。

 ひりひりとした様相のワクラバに、タキは声をかけてこなかった。百鬼歯はワクラバを睨み据え、一瞬なにかを言い差したが、大人しく血衣を翻して鞘へと収まった。

 ワクラバは歩いた。振り払うように進む己がいることに気づいたが、そんな冷静さは徐々に底知れぬ不快感に食い潰されていった。ワクラバはすべてを置き去りにするように歩を進めた。体の奥が焦げ付きを覚えていた。

 

 崩れた廃堂に、月明かりに見下された、一人の女がいる。

「隠狐様……話して……わたしを助けて……お願いよ……」

 慟哭に顔を歪めた女が、中途半端に守られて、唐突に投げ出された女がいる。

 向けられるまなざしも、応える声もどこにもない。

 女はただ、生きてそこにいる。