青々と茂る木々に宿っているであろう木霊の翁たちに、タキは縋るように目を向けたが、そのどれもが姿を見せることも、返事をすることもなかった。ただ物言わぬ木々がそこにあるだけである。
おそらくそれは、タキの体にたっぷりと染みついた妖畏の長―万尾玄流斎の血だけでなく、森をずんずん突き進むワクラバの怒気にも勘づいたからだ。触らぬ神に祟りなし。それこそ、木霊たちが数多の木々に宿る神様なのだが、いたずら好きのくせに小心者である彼らは、タキと同じく今のワクラバから立ち上る憤懣に怯えてしまっている。それでもタキは木霊たちのように身を潜めてやり過ごすことは許されなかった。そもそも潜めるもなにもなかった。タキは今、ワクラバの腕のなかにいるのだから。
「あ、あの、ワク、ラバ……あの……」
ワクラバは答えない。念もなにもない。先ほどからタキの言葉に一切反応を示さず、この至近距離にもかかわらず、まったく聞こえていないと思えるほどだ。ワクラバは、ただしっかりと血塗れのタキを抱きかかえて、この森を抜けようとしていた。
洞窟の奥で再会したあと、なにを思ったか、ワクラバはタキの細身を軽々と持ち上げて、そのまま石段を降り、入り口を目指してすたすたと歩き出してしまった。タキはびっくりしてワクラバを見上げた。ワクラバがいつも以上に眉根を寄せて、口を真一文字に結んでいる。あまりにも露骨な怒りに、タキはもっとびっくりした。それでも、なぜワクラバがこんなことをしているのかと、必死に考えを巡らせた。
石段の上で怪我の有無を訊いてきたワクラバ。ないと答えたくせに、鼻から血を流した痕跡が残るタキ。しかも、タキの白い着物と肌は、夥しい量の血が張りついている。なるほど、これは説得力に欠けるというものだ。だからこそ今度は、なるべく吃らないように、はっきりとワクラバに伝えた。
「わたし、怪我、してません」
伝えた、はずなのだが。
ワクラバは足を止めない。タキを見もしない。タキを抱えたまま、歩みを進めている。歩調は変わらず、一切の乱れがない。
確かに、していないと言えば嘘になる。小さな擦り傷はあちこちにできていたし、妖畏から振り落とされたときに顔面から石畳に激突した。それでも、タキにだって畏気が流し込まれているのだから、怪我も治っているし、痛みなどとっくに失せている。ワクラバに抱えられなければ移動できないなんてことは、ないのだが。
それから、いたたまれなくなったタキが何度か口を開いたが、ワクラバはぶすっと黙り込んだままである。少し強引に、ワクラバの腕を振りほどこうと身を捩れば、ワクラバがそれを上回る力でタキを押さえ込んだ。自分のひょろひょろの腕なんて、すぐにでも折られてしまうのではないかという恐れを抱いて、タキは抵抗をやめた。足場の悪い森を抜けるまでの辛抱だと思っていた。
森を抜ける一歩手前で、ワクラバはついにタキを下ろした。タキはほっとした。
ちょうど腰掛けられる切り株があり、ワクラバはタキに座るよう促した。常より少々低い念が角を叩く。やはりまだ怒っている。タキはおとなしく従い、切り株に腰掛けながら再び思案した。そして今さらながら、自分の失態に顔を青くした。今のタキは、ワクラバの傍にいたくせに、まんまと妖畏に連れ去られ、怪我を負った足手纏いではないか。
とんでもないことをした。タキは俯いた。妖畏退治の依頼を請け、村に向かう道中だというのに。ワクラバが怒り心頭なのも頷ける。どうりでタキのとんちんかんな言葉などに耳を貸さないわけだ。
着物の真っ赤な血染みとは正反対に、タキの顔面は蒼白である。震える両手を頬に這わせ、彼にどう詫びようかと懸命に頭を働かせた。
土下座が、いいかもしれない。いや、土下座などで彼の無駄に割かれた労力は戻ってこないではないか。誠心誠意謝るのは当然として、他になにか。食事処の代金をすべてタキが持つのはどうだ。いやいや、それもすでにやっているではないか。己を背負って戦う彼に、声だけでは勘定が合わないと、自分が始めたことである。今さらではないか。そもそも、ワクラバが出すこともあるが、銭の管理や所持はタキに任されている節がある。なるほど、やはり今さらであった。では、なんでもワクラバの言うことを聞くのはどうか。彼に死ねと命じられれば死ぬか。それでは、そもそも契約の意味がない。本末転倒である。なんでも。なんでもとは、どこまでだ?
思考の渦に身を投じて、溺れそうになっていたタキの意識を引っ張り上げたのは、言うまでもないがワクラバである。
(着ろ)
はっとタキが顔を上げれば、鼻っ面に羽織を突きつけられた。タキを抱えていたせいか、ワクラバの襯衣にまで血が滲んでいるのが見え、これ以上汚すわけにはいかないと、タキは慌てて羽織を押し返した。それをワクラバは良しとせず、断固とした口調で繰り返した。
(着ろっつってんだろ)
根比べなど始まるわけもなかった。タキは壊れたように何度もこくこくと頷いて、言われるがままにワクラバの羽織に袖を通した。タキの体などすっぽり包まれてしまう。そして、ワクラバはなぜか再びタキを抱え上げた。これにはタキも仰天した。
「え、えっ?」
森の先には畦道が広がっている。ちらほらと村人たちが行き交っているが、まだワクラバたちに気づいた者はいなかった。ここをこのまま突っ切るつもりだ。怪我をしているわけでも、鼻緒が切れて歩けないわけでもないのに。蒼白だったタキの頬を羞恥心が仄かに赤く染め上げた。それと同時にとてつもない罪悪感も押し寄せてきたものだから、タキは常よりも大きな声を出してワクラバを制止する。ついで、男の胸をそっと押し返した。
「ワ、クラバ、あのっ、さ、さすがに、もうっ」
ワクラバは堂々と歩いた。念は聞こえなかった。
タキは未だに自分自身の口からワクラバに対しての謝罪の言葉が出ていなかったことを思い出し、慌ててワクラバに詫びた。
「す、すみません、すみ、ません、でしたっ。わ、わたし、油断、して……ワクラバに、その……ご、ご迷惑、を……。本当に、あ、あの、わたし……すみ、ません、でした」
どう足掻いてもワクラバの腕のなかで土下座などできるわけがなかったが、心中で必死に頭を下げて、額を地面に擦りつけた。それくらいの気持ちだった。だからこそ、ワクラバにこれ以上の負担などかけたくなかった。命を背負ってもらっているのだ。細身で軽すぎる体とはいえ、男に抱えさせるわけにはいかなかった。
それをワクラバが一刀両断した。
(なら今すぐ黙れ)
「……っ、……、……」
息を呑んで、タキはすぐさま口を閉じた。間違っても開かないように、きつく。かつてないほどの怒りを感じた。あまりに温度の高い念に、角がじゅうっと熱を帯びた。村人たちの声や木々のささめき、豊かな田んぼの水の音や鳥の囀り、そういった音がタキのなかから消え失せる。これほどまでの忿怒を相手に、ぺちゃくちゃ喋って抵抗していた己の命知らずさに、心臓がきゅうっと震え上がって縮こまった。
タキはただ己の胸の前で両手を握り締めて、カチコチに固まったままワクラバの次の叱責を待った。妖畏ではないのだから刀で切り刻まれることはないが、代わりに縊り殺されるか。それとも殴られて田んぼに打ち捨てられるか。本末転倒だと思っていたが、死ねと命じられるだろうか。ついにお役御免か。そもそも、お役になど立てたことがあっただろうか。立てていないから今こうなっているのではないか。そんな悪い思考に覆い尽くされそうになる。
(おまえ、許しを請うんならな)
突如として切り裂くように割って入った念を、タキは絶対に聞き逃さない。それでも、お許しが出ていないため、返事をする代わりにワクラバの顔を見つめた。怒気を孕んだ金眼と、しっかりと目が合った。
(余計なことを言うな。おれの言うことを聞け)
一も二もなく頷いた。そうしなければ彼に恩返しなどできない。なんでもだ。ワクラバの言うことを聞こう。そう、なんでも、タキにできることならば、なんでも……。
両手が塞がっているワクラバに代わり、タキは村の門番に請け札を提示した。依然として、ワクラバの腕のなかにいた。
請け札を持っているということは、依頼を受けて参じた妖畏狩りである。門番は理解してくれたはずだが、訝るようにじろじろとワクラバとタキを凝視した。男物の羽織に包まれた二本角の女と、それを抱えた妖畏狩り。どちらも獣香を漂わせている。間違いなく、変な二人組に映っているだろう。
タキがちらりと目を合わせると、門番の瞳に憂慮の色が帯びた。不審がったのではなく、タキの身を案じているのだ。そうわかった。森を抜ける間に、襲われでもしたのかと。
怪我などしていない。つい声が出かかったが、察したワクラバがタキを抱く手に力を込めた。タキはいらぬ心配をかけてしまったことを申し訳なく思いながらも、ワクラバの命令を優先し、黙して目を瞑った。
目を閉じたところで、すれ違う村人の忍び声は聞こえてくる。きっと、ワクラバは一瞥もくれずに宿屋へ向かっているだろう。
「ややっ! お客人! どうされました!」
高い声がタキの瞼を開かせた。見れば宿屋に着いたらしく、下働きの雌の猫又が、目をまん丸にして驚きの声を上げていた。奥の帳場から様子を窺っている主人の男も気遣わしげな面持ちだ。無理もなかった。
すぐさまタキは請け札を渡そうとしたが、手を滑らせた。そのまま落とした。慌てて拾おうと手を伸ばすも、ワクラバがそれを許さない。そもそも腕のなかにいるのだから、足元に転がった請け札に手が届くはずがなかった。
ふさふさの前脚で請け札を拾い上げた猫又が、ワクラバの腰から提げられた装飾品じみた刀と、横抱きにされているタキを交互に見やる。
「妖畏狩り殿、その娘御、怪我をされているのですか」
怒りを隠そうともしないワクラバに対して、堂々と猫又は問いかけた。タキは感服した。なんという豪胆さか。いや、純粋にタキを心配しての行為だ。なにも知らない猫又が、そわそわと尾を揺らしている。タキは身を隠すように縮こまったが、すかさずワクラバの念が飛ぶ。
(弁を)
「あっ、あ、はいっ、あ、あの、わたしが……」
タキはおずおずと手を上げる。そして、ワクラバが言葉を失った妖畏狩りであることを拙いながらも伝えた。さて、通弁人としての仕事である。ワクラバの声としての命を果たすのだ。タキは言の主たるワクラバの念を待った。聞き漏らすまいと角を澄ました。
(妖畏から逃げる際に転倒、足首を負傷した。獣香はその名残りである。妖畏は討伐済みであり、鉄の匂いは返り血によるもの。傷の処置はこれから施すため、いらぬ心配だ)
タキは一瞬ぽかんとした。獣香以外、嘘である。さらさらと淀みなく法螺を吹くワクラバに驚きつつも、タキは台詞通りに言葉をなぞった。たどたどしさしかなかったが、猫又は素直に納得したらしく、なるほどなるほどと頷いて、奥に引っ込んでしまった。ちゃっちゃっと床を蹴る爪音が遠ざかっていく。ワクラバが置いてあった洗い桶を無視してそれに続いた。
部屋に着いてようやくタキは開放された。久しぶりの床にほっとした。ぴしゃりと勢いよく襖を閉めたワクラバが、タキに着せた己の羽織を指差した。
(着替えろ)
タキは黙ったまま頷き、羽織を脱いだ。べっとりと血が染みついた白い着物が露わになる。これを見られていたら村はかなりの騒ぎになっていただろう。
(嫌な匂いがしやがる。その着物は捨てろ。必要なら古着問屋で揃える)
ワクラバが襯衣を脱ぎながら念を投げてきた。タキも倣って着物を脱いだ。裸のまま荷袋をほどき、新しい着物を引っ張り出す。替えの着物はまだあった。帯を締めて振り返れば、とっくに着替え終わっているワクラバが腕を組んでタキを待っていた。
もたついてしまってすみません。待たせてすみません。ずっと抱えさせてすみません。ご迷惑をかけてすみません。
そんな言葉が次々と浮かんだが、果たしてこれは余計なことに含まれるのかと考えた。ワクラバは視線を向けるばかりだ。畦道を歩いていたときと比べれば、多少怒りはおさまったようだが、肌がひりつくような眼光はそのままである。結局タキは口を噤んだ。
しばらくして、夕餉が出された。配膳したのは先ほどの雌の猫又である。
「通弁人殿、足はもう大丈夫ですか」
ぱっちりと開かれた猫の瞳は、ある一点を見つめている。タキは思わず足首を隠すように手で覆った。薄い脚絆に包まれたそこに傷など一つもない。タキは心配はいらないと何度も頷いた。
「それならよかった。今日は妖畏は出ておりませんが、見回りに出られますか」
これに頷いたのはワクラバである。安心した様子で猫又はにかりと笑んだ。
「では、そのあとに湯浴みはいかがですかな。すぐ外に湯屋がございます。疲れとともに獣香と鉄の匂いも落ちるかと」
ごゆっくり、と言い残し、二本の尾を揺らしながら猫又が出ていった。ゆったりとした動きだ。村を脅かしていた妖畏が近々退治されることに、安堵したのだろう。
戦えないとはいえ、タキは妖畏狩りの供としてやってきたのだ。余計な不安を抱かせないためにも、ちゃんと立って歩かねばならない。そう思いながら、出された煮魚を口に運んだ。
思ったのだが。
なんでだろうか。
ゆらゆら揺れる自分の足先から下駄が落ちそうになり、タキは慌てて爪先に力を込めた。それでも耐えきれずに下駄が片方転げ落ちる。拾おうにも届かない。請け札を落としたときと同じである。
すなわち、タキは再びワクラバの腕のなかにいた。
夕餉のあと、ワクラバが腰に百鬼歯を提げ、なにを思ったかタキを引っ掴んで外に出た。てっきり置いていかれると思っていたタキは、あっという間に抱き上げられて、今に至る。
ワクラバが器用にタキを抱えたまましゃがみ込み、下駄を掴んだ。タキに手渡すとすぐに立ち上がり、ワクラバは村を練り歩いた。履き直すことすらできず、空いた両手で下駄を握ることしかできないタキを、村人たちがじろじろと容赦なく見やった。
「彼が妖畏狩りか」
「娘はなんだ? 具合が悪くなったか」
「足を怪我したのか? 可哀想に」
「来たときからずっと抱えとるぞ」
「ああ、見回りかい。ありがたいね」
「なんじゃありゃ。あれで刀が抜けるのかよ」
そんな声が各所で上がった。あまり聞きたくなかった。ワクラバにも当然聞こえているはずだが、びっくりするほどの無表情である。タキはそんなワクラバが少し羨ましかった。情けなさと恥ずかしさでタキは顔を伏せた。本来の役目を果たせない下駄を見つめ、唇をきゅうと噛んで、時間が過ぎるのを待った。
そして村を軽く一周したワクラバは、その足で湯屋に向かった。番頭と客が目を丸くしている。もはや見慣れつつある顔であった。
どうやら混浴であるようで、タキはなんだか救われたような気持ちになった。これが男湯と女湯でしっかりと分かれていたら、タキは血の臭いそのままに風呂には入れなかったか、ワクラバに男湯に連れ込まれたか、もしくはタキを伴ってワクラバが女湯に乱入していただろう。どれも御免蒙りたい。
さすがに服を脱ぐときは下ろされた。衣棚に脱いだ着物と荷物を置きながら、まさかワクラバに体を丸洗いされるのではないかという恐れを抱いた。しかし、それに関しては杞憂に終わった。
タキは湯船に浸かっていた。熱い湯が体に沁みる。ほう、と息を吐くも、緊張は続いていた。タキはそっと隣を横目で見やった。ワクラバはぼうっと石榴口を見ていた。
近い。ずっと近いのである。タキが拳一個分離れようと腰をずらせば、その距離をワクラバにすぐに詰められる。近いというか、完全にくっついている。そのくせ一瞥もくれない。念もこない。
断固としてワクラバはタキの隣を譲ろうとしなかった。今さら風呂場で裸を見られ、触れられることになんの抵抗も恥じらいもないが、それとは違う居心地の悪さがあった。
「兄ちゃん、そんなにくっつかなくても、誰もその娘を奪いやしねえよ」
けらけらと笑い声が反響した。あまりのワクラバの態度に客たちが揶揄いの言葉をかけだした。
「なんだ、おまえさんは嬢ちゃんの番か」
「はは、こりゃ難攻不落な城だな」
「おやまあ、羨ましいねえ。大事にされちゃって」
男も女もわいわいと騒ぎ出す。声を上げない者も、くすくすと微笑ましげに笑い合っている。すっかり注目の的にされてしまったワクラバは、涼しい顔でどこ吹く風といった様子であった。
その無表情と無言を照れ隠し、もしくは怒りと勘違いしたか、それとも隣で縮こまるタキを憐れんだか、嗜めるような言葉も飛び交いだした。
「こら、やめてやれよ。余所からのお客人だぞ」
「怪我をして歩けないんじゃないか。そりゃ心配にもなるだろうよ」
「仲睦まじいのはいいことでしょう。夫婦ならなおさら」
庇うための言動だったが、タキは唖然とした。とんでもない勘違いをされている。タキはぶんぶんと頭を振って否定した。そして恐る恐るワクラバの表情を窺った。さすがのワクラバも呆れ返ったようで、面倒くさそうに嘆息した。
どうも違うらしいぞ、と二人の様子から察した客が、ついにワクラバとタキを問いただした。
「じゃあなんだい、おまえさんたちは、偉いとこのお嬢さんとその用心棒かよ」
用心棒、という言葉にワクラバは片眉を上げた。その表情から滲み出るのは怒りだけではなかった。様々な負の感情が垣間見えた気がした。とにかく、嫌そうな顔である。目の光が刀の穂先のような鋭さを増した。なにやら不穏な空気を感じ取ったタキは、そこでようやく、妖畏狩りと通弁人であると明かした。喋るなという命令に背いてしまったが、ワクラバからの叱責も、責めるような視線も飛んでこなかった。ただ、湯のなかで強く手を掴まれた。爪が食い込むくらいに。
月が淡く、どこか弱々しさを湛えて天に浮いていた。頼りない月に代わり、提灯が明るく夜道を照らしている。下駄や草履を鳴らして帰路につく客たちの話し声が、見えない隔たりの向こうにあるように遠くに聞こえた。タキはぼうっと夜空を見上げていた。
湯上がりの肌を夜風が撫でさすって熱を奪っていく。身を震わせたタキに、ワクラバが手を伸ばした。ああ、また抱きかかえられるのかと、すっかり慣れてしまった頭でそのときを待ったが、手首を掴まれただけであった。
「……ワクラバ?」
小首を傾げながらも、タキは抗うことなく歩いた。もういいのかと問いそうになったのを、空いた手で口を押さえて堪える。そんなつもりはなくとも、まるで強請っているように思われる気がしたからだ。それでも多少慣れてきているのだから、己の単純さというか、流されやすさが情けなかった。
ワクラバは無言だった。部屋に戻ってもしばらくはタキの腕を放そうとはせず、どこかぼうっとした顔でタキを見ていた。見ていた、だろうか。目は確かにタキを向いていた。それでも彼は本当にタキを見ていたのだろうか。タキにはわからなかった。ただ、名残惜しげにタキから手を放して、布団に寝転がったワクラバの背を見つめることしかできなかった。
きつく握られた手首の痛みは、しばらくは消えそうになかった。