夜の山の涼やかなにおいに、獣と蜜のようなにおいが入り交じる。
入り組んだ木々によって、月の光が阻まれ、あたりは深い闇に覆われている。生命の犇めく気配が充満していたが、それらは一切姿を現わさなかった。ちりちりとささやかに鳴いていた虫の声も、獣香が触れるとたちまち黙していく。
生い茂る草木と土を草履で踏みながら、総山は徳利をあおった。畏れを成して静まり返った山の空気を、総山の感嘆が破った。
「ああ……」
舌先から口腔へ抜ける味。におい。右手の徳利をまじまじと見つめ、総山は顔を顰めた。
「こんな、味だったか」
深藍の羽織を翻して、総山は振り返る。山の陰から這い出るように現れた四本角の白い獣に、いたずらをする子どものような無邪気さで笑んでみせた。
「やろうか。祝宴の酒だ」
(そんなもの、血にも糧にもならぬわ)
白い尾が揺れる。まだ若いが、威厳のある声音の念が総山に向けられた。念とともに流れ込む、噎せ返るほどの獣香にも、総山は笑みを絶やすことなく向き直る。
「人が味わうものに、慣れておくのもいいんじゃねえか」
白い獣はしばらく黙り込み、確かにそれもいい、と獰猛に口の端を吊り上げた。
四本角を額に生やした獣は、靄のように漂う尾を夜風に流しながら、総山のすぐ傍へと駆け寄った。深淵のような真っ暗闇にいてもなお輝く白毛が、夥しい獣香を撒き散らす。
この獣こそ、妖畏の長の一匹。万尾玄流斎が総山と契約し、討たんとした畏れの長。
名を、無幽天留斎という。
(哀れなものだ)
と、念が飛んだ。同情めいた言葉とは裏腹に、無幽天留斎は嘲笑うかのような貌を浮かべていた。
この畏れの獣に哀れまれた者の顔は、すぐにわかった。顔に傷を持ち、月の目をした、己の弟子。
「ワクラバ」
名を呼んでいた。ワクラバ。総山が山で出逢った男。未だ幼かった彼は、母親を目の前で妖畏に食い殺され、血に塗れた姿で総山を見上げていた。妖畏を斬り捨てた総山を見る金色の目が、嫌に印象に残っている。
(見ておったなあ。あれは、恨みの目だ)
「……そうだな」
瞠られた両目が、月の輝きを湛えた男の目が、己を見つめている。その目に、己はどう映っただろう。人の容か。それが崩れるのは、中身が晒されるのは、一体いつになるのか。
いや、いい。なんだっていい。総山は今まさに、ここに立っている。あの女刀から解放され、ずしりと重い刀を携えて、両の足で地を踏み締めている。
おれは生きている。
「いい目だった」
ぎらついた月の目が、苦しみに溺れてなお熱を帯びた。ほとんど食いちぎられた首を必死に押さえ付け、爪を立てて悶絶し、それでも総山を捉えていた。
生命を手繰り寄せながら足掻く者の、強い意志のこもった目だ。
「いずれ、討ちにくるかも知れねえな」
あまりにも眩い光。しかし、総山が怖じ気付くことはない。決して。
――見るがいい、ワクラバ。阻むというなら、それでも構わん。
月の光なぞ飲み込めてしまえるほどの夜を背に、総山は徳利をあおり、最後の一滴まで飲み干した。じわりと広がる久々の苦みを、しっかりと味わった。
(果たしてそうかな)
おどけるような口ぶりで、獣が念を放つ。
(その前に、妖畏に食い潰されるかも知れぬぞ)
酒臭い息を吐きながら、総山は、まさか、と肩をすくめた。
「あんなもんで沈むような男に育てた覚えはないんだがなあ」
そう。困る。死なれては困る。今は、まだ。
仄昏いものが総山を包み込む。光よりもよほどあたたかなそれは、総山を労るように体内を撫でて回り、巣食おうとしていた。なんという高揚感だ。全身が歓喜に満ち足りていく。総山は哄笑し、刀を抜いた。腕に残る久々の重みに、夜闇の瞳を細める。
振り抜いた。闇の静寂を裂いた刀は、銀の剣閃を残して、総山の手によって鞘に収められた。刀が持てる。解放されたのだ。そして、力を手に入れた。やっと、やっと……。
「……待ってろ。すぐに会える」
真っ暗な夜に覆われた道を、草履で踏みつけていく。土で汚れた足先は、奥深くへ迷いなく進む。見果てぬ濃密な闇の先へ、生命の蔓延る山の中へ、獣香を引き連れながら。
夜はまだ、終わらない。