おんぼろの旅籠屋は、じっとりと重く湿った空気を溜め込んでいる。戸をがりがりと執拗に引っ掻く無数の指先に、外廊下を何往復もする夥しい数の足音。怒濤に押し寄せる腐臭。中へ押し入ろうと戸を叩く数十の腕と、それにあわせて部屋中に響き渡る四つの悲鳴。
ワクラバは愕然と目を瞠った。四日目の夜が、知らぬ間にやってきていた。
雲行きが怪しい。山中にぽつんと建った旅籠屋に、ワクラバとタキはいた。遠くから雨の匂いがする。雨に打たれる前に宿に辿り着けたことは幸いだった。
「長雨になりますよ、きっと」
それだけ言い残し、女中が出て行った。今回は請け所から妖畏退治を任されたわけではないため、数日間の滞在は問題ではない。ただ、場合によっては土砂崩れが起こる可能性がある。嵐が来ないように祈るしかなかった。
目的地である町は山を越えた先にあった。最近、妖畏が異様に増えたという。その話を聞いた百鬼歯はやる気に満ちていたが、今は呼びかけても答えないほどに眠りこけていた。
長屋を出立してからすでに二日が経っていた。驚くことに、その間に一度も妖畏に出くわさなかった。一向に出番のない空腹の百鬼歯は、ふて寝するように鞘に包まってしまったというわけだ。普段もこれくらい大人しくしていてほしいが、そんなことを伝えてしまえば倍近くの言葉で反撃してくるのは目に見えていた。ワクラバは黙って畳に荷物と百鬼歯を下ろした。
夕餉を取り終わったころには、すでに黒雨が屋根や壁を穿っていた。横殴りの雨に変われば外廊下は水浸しになるだろう。タキはしばらく心配そうに空を眺めていたが、天候には逆らえないと溜め息を洩らして戸に手をかけた。
「うわああっ!」
遠くから聞こえた叫びと足音に、ワクラバは眉根を寄せた。熊にでも襲われたかと思ったが、どうも違うらしい。足音はどんどん近づいてきて、外の様子を窺っていたタキが、ひっ、と小さく声を洩らした。
「そ、そこの人! 入れてください! 入れてーっ! 助けてください!」
凄まじい形相で突進してくる男がいた。ワクラバが念を放つ前に、尋常ではない様子に動揺してか、タキが招き入れてしまった。
「ど、どうぞ……」
「うわあああ助けてくださいいいいっ!」
間髪を入れずに男が転がり込んできた。布団に蹴躓いて思いっきり転がり、壁に激突するほどの慌てぶりだった。命からがら逃げてきた、という表現がしっくりきたし、ワクラバはすぐに百鬼歯に手をかけた。
「出た、出た、出たんです!」
男が戦慄きながら訴えてくる。だが、冷たい鋼は朱鞘に包まれて眠りについていた。喰出鍔を押し上げようとしたが、びくともしない。出たのは妖畏ではないことが、これではっきりした。
狼狽するばかりのタキめがけて、男が切羽詰まった様子で叫んだ。
「戸を閉めて! 早く!」
びっくりして飛び上がったタキが戸を閉めると、男はへなへなとその場に崩れ落ちた。安堵の息を吐いていたが、それも束の間、外から聞こえてきた足音に悲鳴を上げ、反射的に後退ろうとして壁に後頭部をぶつけていた。
戸の向こうを、何者かが行き来している。外廊下を往復したかと思うと、ワクラバとタキの部屋の前で立ち止まり、どんどんと戸を叩き鳴らした。タキが身を竦ませ、戸から離れた。心張り棒などしていないのだから、手をかければすぐに開く。だが、外にいる何者かは決して殴る手を止めなかった。戸を叩く音が増え、ワクラバは訝しんだ。一体、外廊下に何人いるのだろうか。叩く合間にぐちょぐちょと泥をこねくり回すような音も混ざり出した。
ワクラバが抜けない百鬼歯を握って戸に歩み寄ると、男が慌てて制止した。
「待ってくださいぃっ!」
あまりの声量にタキが後退る。男はすごい剣幕で捲し立てた。
「なにしてんですか!? まさか、開ける気ですか!? 相手は幽霊ですよ!? 取り殺されでもしたらどうするんですか!」
ワクラバは胡乱な目で男を見やった。出た、というのは幽霊のことだったらしい。妖畏ではないことは確実だ。戸越しとはいえこの距離で妖気を感じられないならば、妖怪という線も消える。となれば人か幽霊だ。女中に聞いた話によると、旅籠屋にいるのは、宿の主人と女中を除いて五人だという。内二人はワクラバとタキだ。外の音から察するに、三人以上は外にいる。
女中や主人の可能性は低いだろう。店の評判を下げるような行動を取る理由がわからない。では、押し入り強盗目的で滞在している客か。それとも、外部の人間の仕業だろうか。しかし、それでも妙だ。男になにか用があれば、わざわざ脅すような真似などせず、さっさと戸を開けて押し入ってくるだろう。まるで、戸の開け方を知らないような、開けることを許されていないかのような不自然さがあった。
色々考えたワクラバは開けるのをやめた。人ならば百鬼歯でぶん殴れば対処できる。化生の類いだった場合は面倒だ。
酷く怯えている男を冷静にさせるためにも、ワクラバはタキに通弁を指示した。動きも声も落ち着きがなく、非常に鬱陶しかったのだ。
(タキ、こいつに伝えろ。まだ幽霊と決まったわけじゃねえ。黙ってじっとしてろ)
ワクラバの意志をタキが咄々と伝えたが、男は落ち着くどころか頭を振り、激しく言い募った。
「なに言ってるんですか!? こんなの幽霊に決まってるじゃないですかあっ! おれは見たんですよ!? 部屋に怪しいお札が貼ってあったのを! 外廊下を歩いてたら、後ろからなにかが追いかけてくるし! 絶対ここ、出る宿なんですって! 落ち着いてなんていられませんよおっ!」
途端、戸を叩く数が、異様に増えた。明らかに十本以上の腕で叩いている。それにあわせて、室内の温度が一気に下がった。禍々しい霊気だった。化生の類いで確定である。ほらね、と怯えながらも自信満々に男が言ったのを聞きながら、ワクラバは空気の読める幽霊に感心していた。
幽霊などに怯える性分ではないワクラバは、壁にもたれる形で座り込んだ。無防備でいて、いつでも傍らに置いた百鬼歯を振るえる状態である。幽霊に触れるのかは知らないが。
そもそも、男が幽霊に怯えたふりをする夜討ちである可能性もまだ捨て切れていない。ワクラバは部屋の真ん中で立ち尽くすタキに念を放った。
(おい……そのクソ喧しい男から離れろ。なにがあるかわからん)
タキは半狂乱の男とワクラバを交互に見て、おろおろと両手を彷徨わせていたが、結局は大人しくワクラバの左隣までやってきて、腰を落ち着けた。
しばらく一人で絶叫を繰り広げていた男は、平然と座っている二人に気づくと、目を見開いて喚き散らした。
「なんでおれを置いてそんな安全な場所に固まってるんですかあ!? 今一番怖がってるのおれだってわかってるでしょ!?」
腰を抜かしたままずりずりとにじり寄ってくる男に、ワクラバは百鬼歯を突きつけた。これ以上近づけば鼻っ面に鐺を叩き込むつもりである。男もワクラバの意志が知れたらしく、わあっと声を上げて泣き出した。喧しいことこの上なかった。
「酷い、酷いです! おれ一人を幽霊の生け贄にしようとしてるんだあ! 嫌だああああっ! こんなおんぼろの汚い旅籠屋で惨めに殺されてたまるかああああ!」
貝よろしく身を丸めて号泣する男に、タキはわかりやすく困惑していたが、じっと眺めやるだけに留まった。手を差し出してしまえば百鬼歯の鐺が己に突き立てられることを察していたのだろう。
男の悲しみに暮れる泣き声は、存在を忘れるなとばかりに鳴り響く打撃音によって恐怖一色に染まった。喉がそろそろ引き裂かれて血が噴き出てしまうのではないかと、やや心配になる叫び声だった。
絶え間ない男の悲鳴と戸を太鼓かなにかと勘違いしている幽霊のせいで、一種の祭りのようになっていた。他にも泊まっている客がいるはずだが、もしかしたら苦情を言いにやってくるかもしれない。幽霊の大群に襲われているのは、ワクラバとタキのいるこの一室だけなのだろうか。
傍迷惑な祭りは夜通し続いたし、そのころにはこんな男を警戒するために集中力を保ち続けることが莫迦らしくなっていた。男は恐怖に陥り、そのまま気絶するように眠りについた。
大人しすぎる通弁人にようやく気づいたワクラバが視線を移すと、タキはぐったりした様子でどこか遠くを見つめていた。騒々しい現実から逃れようとした結果がこれなのだろう。長時間にわたる騒ぎで体力をほとんど奪われたタキは、ワクラバがなにか言葉を投げかける前に意識を手放した。ワクラバの太腿に、タキの頭が激突した。分厚い角による強烈な一撃を食らったが、ワクラバよりもタキのほうが痛みは大きいだろう。
思わず首根っこを掴んで顔を覗き込んだが、タキはまったく起きる気配がなかった。あまりにも深い眠りについていた。今の衝撃で死んでしまったのではないかと、ワクラバが焦って念で呼びかけるくらいには。
「見てくださいよ。じゃじゃーん!」
そんな声に叩き起こされた。
ワクラバが反射的に拳を振るえば、危ない、と叫びながらも男が身を引いた。存外身のこなしが軽い奴である。
雨と風の音が聞こえ、ワクラバは男を素通りして戸を開けた。朝だというのに仄暗かった。念のため一晩中叩かれ続けた憐れな戸を確認したが、経年劣化の傷しか見当たらなかった。ワクラバが振り返ると、同じく男の声に起こされたタキが瞼を擦って上体を起こしていた。
「ふふふ、見てください二人とも! これ、凄くないですか!? 結界について記されてるんです!」
寝起きの二人に男が紙を掲げた。三つ折りにされた黄ばんだ紙だ。達筆かつ文字が滲んでいて読みにくいが、ヨツヤケッカイと書かれている。
曰く、ヨツヤケッカイとは霊を弾く結界であり、完全に霊界と現世を断絶する術である。一夜に一画ずつ部屋に線を引き、四日目で四方を囲う結界が張られる。効果は絶大で絶対である、とのこと。
眉唾ものだ。絶対と断じているあたりが特に怪しい。ワクラバはまったく興味がなかったが、タキはヨツヤケッカイの書を信じてしまったようで、ほわ、と口を半開きにして感嘆の息を洩らしていた。この女は妙ちくりんな代物を買ってくることが多々あったが、このとき初めて理由がわかった。こんな顔を晒しているせいで狙いをつけられ、まんまと売りつけられているのだろう。
「多分、おれたちと同じような目に遭った人がいたんでしょうね。幽霊から身を守るために結界を張ったんでしょう!」
朝早く目を覚ました男は己に割り当てられた角部屋へ戻っていたらしい。なにか身を守れるものはないかと物色していたところ、部屋に貼られた札に差し込まれていたヨツヤケッカイの書を発見した、と聞いてもいないのに説明してきた。ご丁寧に用意されているあたりも胡散臭さに拍車をかけていたが、男はなにも疑っていなかった。
「祓う……ち、力が、その、あるの、ですか?」
タキが問うと、男は勢いよく手を顔の前で振った。
「そんなまさか! 祓う力なんてないですよ! おれは非力な人間なので」
「そう、ですか……」
「でも、やらないよりはましでしょう! 良い結果を期待していてくださいね!」
男が胸を張った瞬間、背後から白い布きれが声をかけた。
「すみませーん」
「ぎゃああああああ!」
飛び上がった男がすぐさまタキの背後に回った。ワクラバは呆れ返った。こんな男に、なにをどう期待しろというのか。
「すみませーん、ぼく、今日ここに泊まっても……いいですかあ?」
のんびりした口調で恐る恐る中に入ってきたのは一反木綿だ。生成り色の布が宙に浮く様は夜中であれば幽霊にも見える気がしたが、薄すぎる両手はとても一晩中戸を叩き鳴らせるとは思えなかった。
「あ、なんだ一反木綿か……」
タキを盾にした男が先ほど張ったばかりの胸を撫で下ろしていた。ワクラバの白けた視線には、まったく気づいていない。
聞けば、昨夜のワクラバたち同様、怪奇現象に襲われたようだ。びちゃびちゃと音を撒き散らして外廊下を往復するなにかがあまりにも恐ろしく、こうして助けを求めてきたらしい。
「わかります、おれも逃げてきたので……一緒に過ごしましょうか。人数多いほうが心強いですもんね!」
男が振り返り、押されたタキがこくこくと頷くと、一反木綿は安堵の息を吐いた。
「よかったあ。ありがとう。ぼく、昨日すっごく怖かったから、一人じゃもう耐えられないと思って……」
そこへ、なにかが転がってきた。
「ぎゃああああああ!」
「おばけだあーっ!? おばけ出たよお!」
男と一反木綿が大袈裟なくらい後退った。突然侵入してきた鏡に、意思の強そうな女の顔が浮かび上がり、叫び続ける男と一反木綿を叱咤した。
「誰がおばけだい!? 情けないったらありゃしない!」
「あ、なんだ雲外鏡か……」
男がほっと息をついた。同じくだりをほんの数秒前に見た気がしたし、また同様の展開が起こった際は全員ぶちのめして山へと放り出そう。ワクラバはひっそりと決意した。
聞かなくても想像はついたが、雲外鏡がやってきたのも一反木綿と同じ理由である。情けないと言った口で幽霊が怖いから泊めてくれと平然と言い放つのはどうかと思ったが、タキも男も一反木綿も雲外鏡を歓迎していた。幽霊を怖がる者が三人も増えた。ワクラバは嫌な予感がしていたが、タキはなにも考えていないのだろうか。
夕餉を自室で取り終えた男と妖怪二匹がすごい勢いで部屋に戻ってきた。男は墨汁らしきもので部屋の一画に線を引いていたが、店主や女中に怒られないのだろうか。
その後、三人は楽しげにお喋りをしていた。すでにうるさかった。タキはようやくワクラバの嫌な予感に気づいたらしく、申し訳なさそうに顔色を窺ってきた。
夜中になり、幽霊が訪れた。昨夜とまったく同じように戸を何度も殴りつけていたが、やはり中には入ってこなかった。
問題は幽霊ではなかった。ワクラバの不安は的中した。
「うわあああああっ! 結界っ! 全然できてないけどなんとかしてーっ!」
「ひいぃっ、化け物ぉ! 来るんじゃないよっ!」
「いやああああああああ! 昨日は戸なんて叩かれなかったよおおおおおお!」
一反木綿と雲外鏡が身を寄せ合って震え、男はすぐさま部屋の奥へと逃げていき、頭を抱えて震え出した。
耳が痛かった。とにかく、うるさい。黙って恐怖に震えるだけならば気にならなかったが、なぜか揃いも揃って大騒ぎする性格だった。これで幽霊を追っ払えるのではないかと期待したが、効果はなさそうだ。
「怖いよお! このまま押し入ってくるんだあ! 逃げようよお!」
「やめな! 怖いこと言うんじゃないよ! それに逃げ場なんてないよ! このっ、化け物どもめえっ!」
鏡を見てこい、と言ってやりたくなる応酬が目の前で繰り広げられていた。ついでに、鏡に鏡を見せるのは合わせ鏡になるのだろうか、と現実逃避じみた思考が生まれた。ワクラバの心はこの状況を完全に拒絶していた。
「なんでそんな平然と……平然としてるんですか!?」
男が怖がりながら信じられないとばかりに問いかけてきた。器用な奴である。ワクラバとしては、叩いてくるだけの幽霊は怖くもなんともなかったが、それにあわせてぎゃあぎゃあ喚く妖怪どもにうんざりしていた。
タキも今ごろ頭痛で苦しんでいるだろうか。ちらりと視線を向けたが、タキは頭ではなく足を押さえていた。正座のしすぎで足が痺れたのだろうか。
(どうした)
タキは頭を振ってどこか苦しげに答えた。
「足が……少し、い、痛くて……」
「まさか、霊障ってやつじゃないかい!?」
いち早く反応したのは雲外鏡だった。腕が生えていればタキの両肩を抱き、撫でさすっていただろう。寄り添う雲外鏡に、タキは頭を下げていた。
「安心してください、なんとか結界を張って霊を遠ざけてみせますうわあああ!」
男が絶叫した。眼前に迫っていた一反木綿に驚いたようだった。一反木綿は雲外鏡の背後に回ると、ぺらぺらの手でしっかりと縁を掴んだ。
当然、雲外鏡は怒り出した。
「なにやってるんだい!? わたしを盾にする気かい!? もしわたしが割れたら本当に化けて出てやるからね! こいつらに混ざってね!」
「うわあああああすごいやこんな幽霊と仲良くなれるの!?」
「無理無理無理無理いいいっ! 嘘です調子に乗った悪かったよ許してえええ!」
「あああああなんまいだ! なんまいだーっ! ぎゃあああああああっ!」
むしろ、朝や昼のほうが眠れるのではないか。ワクラバは三日目の昼にしてようやく気づいた。
用心棒時代、二日間眠らずに番をしたこともあるが、そのときよりも今のほうが辛かった。絶叫に絶叫が重なり、外では雨と風が唸り続け、ときに雷を落としていく。それに負けじと無数の腕らしき幽霊が、どんどんと容赦なく戸を打ち鳴らすものだから、室内の悲鳴がさらに膨れ上がり、ワクラバとタキの頭蓋を殴っていく。
しかも、この三人は追い出したところですぐに舞い戻ってくるのだ。地縛霊の類いかと疑ってしまうほどのしぶとさである。
自己主張の激しい幽霊の群れは、おそらく今夜もやってくる。入ってきてもらったほうが楽なのでは、とワクラバは考えたが、そうすれば室内はさらに阿鼻叫喚と化すこともわかっていた。雨が降り続く山に踏み込んで死ぬか、それとも室内で悲鳴の嵐を浴びて死ぬか。どちらも御免であるが、どうしようもなかった。
ワクラバは壁にもたれたまま、ちらりとタキを横目で眺めやった。ワクラバの斜め前でちょこんと正座していたタキの目は、どこにも焦点が合っていなかった。ぐらぐらと頭が揺れているのは、昨晩の絶叫の余韻がまだ頭に住み着いているからだろう。
「任せてください、今日も結界を張りますから!」
死にかけのタキに気づいたらしい男が、堂々と胸を張る。祓う力などないと豪語していたくせに、どこから自信が湧き出ているのか、ワクラバにはさっぱりわからなかった。
しかしながら、タキにとってはそれが一縷の望みだったらしく、男の言葉で我に返り、こくこくと何度も頭を縦に振っていた。
昼餉を終えた雲外鏡と一反木綿と男は、陣を描くように向かい合って座り、きゃいきゃいと話に花を咲かせていた。草臥れたワクラバとタキはほぼ同時に溜め息を吐いた。夜中にあれだけ騒いでいるくせに、なぜこうも元気なのだろう。恐怖に襲われながら声の限りに泣き叫んで、そのまま気絶するように眠っているからだろうか。ならば、今夜はおれのことも気絶させてくれ。幽霊にそんな念を送りつけながら、ワクラバは目を閉じる。
ワクラバが眠りの体勢に入ったことなど露知らず、一反木綿が恥じらいを込めて話し始めた。
「ねえねえ、好きな子とかいる? ぼくはねえ、近所の茶店の暖簾が好きなんだあ」
「暖簾に恋したりとかするんですね」
「そいつ生きてるのかい……?」
「付喪神だから、たまにお話しするよお。あとねえ、その向かいの呉服屋さんの着物も可愛いんだあ。そっちは生きてないんだけどお」
「布ならなんでもいいんですか?」
「なるほどねえ。わたしは雲外鏡の男かね。こいつが粋な男でねえ! そりゃあもう惚れ込んでたさ」
「へええ、あれ、今はどうしてるのお?」
「それがねえ、階段から転がり落ちて、割れちまったのさ……悲しい最期だったよ」
「切ないですね」
「元気出してえ」
まったく寝られる気がしなかった。面白みもない話が延々と繰り返され、それから意識を逸らしてみれば、ごうごうと吹き荒れる嵐が耳から入ってくるのだ。雨脚が強いのは今だけだろうが、ワクラバは永遠に続く拷問のように錯覚した。
こうなったら、なぜかここに住み着いてしまった一反木綿や雲外鏡の部屋に逃げてしまおう。ワクラバの頭がようやく回答に辿り着いた。なぜかこの部屋に留まらなければならないと思い込んでいた。それほどまでにワクラバは疲れていた。
ワクラバが動くより先に、タキがそっと立ち上がった。霊障に襲われていたタキの足は、少しばかりふらついていたものの、問題なく動かせるようになっていた。
「あれぇ、鬼さん、どこに行かれるんですかあ?」
どこか間延びした声で一反木綿が問うた。タキよりも先に反応したのは雲外鏡である。憤った様子で体を転がし、まるでタキの姿を隠すように一反木綿の前に立ちはだかった。
「莫迦だね。手水だよ、察しな! 言わせないであげなよ」
「なあんだ、厠かあ」
心遣いは逆効果である。言い当てられたタキは恥ずかしそうに目を伏せて、そそくさと出ていった。
「それにしても勇気あるなあ」
「わかります……厠は出やすいところですし」
一反木綿が言えば、うんうんと男が同意を示した。幽霊は夜にしかやってこないのだから、なにを怖がる必要があるのか、ワクラバには理解が及ばなかった。
「ぼくだったら絶対に一人で行けないや。怖いもの。ねえ、誰か後で一緒に来てよ。できれば中まで」
「絶対嫌です」
「そもそも、あんたどうやってするんだい? というか、するのかい……?」
酷いや、と怒った一反木綿が生成り色の布を赤く染めて雲外鏡に躍りかかった。さらに騒がしくなる気がしてならなかった。巻き込まれる前にタキを見習ってさっさと退散したほうがよさそうだ。ワクラバは今度こそ立ち上がった。
そのとき――。
突如として、細く高い悲鳴が上がった。
「いっ、今のっ、なんですか……!?」
竦み上がった男を置いてワクラバは部屋を出た。間違いなくタキの声である。腰の百鬼歯に手をかけたが、女の顎が開くことはなかった。どれだけ深い眠りについていようと、妖畏の気配があれば百鬼歯は牙を晒す。起きる兆しがないとすれば、やはり原因は妖畏ではない。
ワクラバは水浸しの外廊下を走った。タキは一体なにに対して悲鳴を上げたのか。まさか、ついに焦れた幽霊が白昼堂々、厠に現れたのか。果たして、幽霊に襲われていたとして、己の拳や百鬼歯の鞘は幽霊に通用するのだろうか。相手が物体に干渉できるのならば、こちらも殴れるんじゃないだろうか。急所は人と同じだろうか。
物騒な考えを抱えたまま、ワクラバは角を曲がった。己の身を庇うように抱き締めて蹲るタキを見つけ、すぐに辺りを見渡した。雨の音がうるさく、気配を察知できない。ワクラバは警戒を解かないまま、タキに鋭く念をかけた。
(なにしてやがる)
「ワク、ラ……ぁっ」
タキが弱々しく声を絞り出した。ワクラバは眉根を寄せた。苦しんでいるというよりもどこか甘やかで、そういった際に聞いたことのある声だった。耐え忍ぶようにタキが堅く目を瞑り、状況を説明しようと口を開いた。
「ワ、ワクラバ……っ、わたし、わたしの、ひゃっ、衿に……ひぅ、あっ」
外廊下で喘ぎ出した通弁人を冷ややかな目で見つめていたワクラバだったが、女の背中が膨らんでいることに気づいた。しかも、もぞもぞと蠢いている。帯に隠れてわかりにくいが、大きさはワクラバの手のひら程度だった。
ワクラバはタキの帯を掴むと、そのまま無遠慮にほどいた。広がった着物の衿を引っ張り、ワクラバは空いた隙間に腕を突っ込んだ。ワクラバの冷たい手がうなじと背中に触れ、タキが尻尾を踏まれた猫みたいな悲鳴を上げた。
それに大袈裟に反応を示したのは後ろからついてきた雲外鏡と男である。男は両手で顔を覆ったが、指の隙間からしっかりとワクラバとタキを見ていた。
「いやーっ!? なにやってんですか!? 変態だったんですか!? 誰かーっ! 危ない男がここにいます!」
「急になにやってんだい!? こんな真っ昼間に! この助平! 廊下でおっぱじめるんじゃないよ!」
男と雲外鏡が甲高い声で非難したが、一反木綿はのんびりとした様子で、昼だけど夜みたいに暗いんだから二人を許してあげてよ、とややずれた発言をしていた。
一番狼狽してもおかしくないタキはというと、擽ったさに耐えることで精一杯なのか、きゅっと口を噤んでいた。女をここまで苛んだのはワクラバの手ではなく、まったく別のものだった。
ワクラバの手がなにかを掴んだ。手のひらから伝わる熱と脈動、そしてびしょ濡れの毛があまりにも気色悪く、ワクラバは総毛立った。すぐにそれを抜き取り、外廊下へと打ち捨てた。
「へぶんっ!」
うつ伏せに潰れた毛玉が妙な声で鳴き、しばらく四肢を痙攣させたかと思うと、ちらりとワクラバを仰ぎ見た。ワクラバの蔑む視線に射抜かれ、毛玉はつぶらな瞳を涙で濡らしながら、カタカタと震えて丸まった。
「ゆ、許してください……酷いことしないでえ……おれは雨にも風にも負けた憐れな鼬なんですう……」
毛玉の正体は鎌鼬の雄である。嵐に巻き込まれたが、うまく宿に流れ着いたらしい。刃のような尾で辻斬りの如く相手に襲いかかる妖怪なのだが、めそめそ泣いているこの鎌鼬はよほど怖い目に遭ったのか、ふにゃふにゃに萎れた尾を小さな前脚で抱きかかえていた。
襲いかかったのではなく、たまたまかは知らないがタキの背中に入り込んだだけのようだ。タキの肌は濡れているだけでどこにも傷は見当たらなかった。
「大変だったねえ、こんな嵐の中……」
「そのままだと風邪ひいちゃうよう」
「ほら、部屋までおいでよ。体を休めないとねえ」
弱々しい姿に当てられた雲外鏡と一反木綿が鎌鼬を招き入れた。
鎌鼬は恐る恐る顔を上げる。帯を締め直しているタキと目が合った瞬間、鎌鼬はすごい速さでその細腕を駆け上がり、すっぽりと袷の隙間に入り込んだ。収まり切らなかった尾が揺れていて、まさに頭隠して尻隠さずの状態である。
「ここに住みます」
と、のたまった。
びしょびしょの毛玉に潜り込まれ、タキは顔を青くして身を震わせていた。
そして、夜が来た。
すっかり乾いた鎌鼬の毛皮はふわふわで、一反木綿やタキに何度も撫でられていた。あまり動物に好かれないタキは、撫でても逃げない鎌鼬に感動していたし、触り心地をかなり気に入ったらしく、胸元や袖に潜り込まれようが、頭や肩に登られようが、まったく気にしていなかった。
「いやー、宿があってよかった! さすがのおれもこの嵐には勝てませんて!」
鎌鼬も満更ではないようである。柔らかいままの尾を楽しげに振り、先ほどの弱々しさはどこへやら、明るい声で笑っている。小さい体のくせに声がでかかった。ワクラバはうんざりしていた。
男は結界を書き終えていた。これで二本だ。墨汁で汚れた手をごしごしと自身の着物で拭っている。手を洗いにいけと伝えたところで梃子でも動かないことはわかっていた。男は隅に座り込み、いつ幽霊が来てもいいように身構えていた。すでに体が尋常でないほどに震えていたのは、少々用意がよすぎる気もしたが。
「おや? 鬼のお嬢さん、どうなさいました?」
先ほどまでタキの両手に包まれていた鎌鼬が問うた。突然放り出されてしまったせいか、少々不満げな声でもあった。
「あ、足が、また……っ」
タキは畳に爪を立て、痛みを逃そうとしていた。額に汗を滲ませ、唇を強く噛んでいる。
苦しむタキを嘲笑いに来たのか、戸になにかが激突した。ぐちゃ、と潰れた柔らかで粘着質な音に、ひっ、と誰かが喉を震わせた。すぐに来た。戸にいくつもの手が叩きつけられた。
騒音の中でワクラバはタキの裳をたくし上げた。剥き出しの細い足に、暗がりでもわかる赤黒い手形がくっきりと浮かび上がっていた。己の足に起きた異常現象を目の当たりにしてタキが小さく悲鳴を上げたが、すぐにそれを遥かに上回る叫びが室内に響き渡った。
「出たぁあああああっ!」
男の声に反応したのか、戸を叩く音が激しさを増した。殴りつけ、ときに爪で引っ掻くような耳障りな音が室内を脅かしていく。数え切れないほどの無数の腕が、一斉に戸を叩き揺らした。そこに血肉が滴るような粘着質な音まで加われば、当然、悲鳴もさらに大きくなっていく。
「幽霊だあああああやっぱり今夜も来たああああ!」
「うわあああ悪霊退散っ! 悪霊退散ーっ!」
霊障に襲われるタキを気にすることもできないほど、一人の人間と三匹の妖怪は恐れの渦に引きずり込まれていた。
行灯の火がふっと前触れもなく消え、室内は闇に包まれる。視界がなくなれば他の感覚が鋭くなるものだが、鼻腔に届いた腐臭が追い打ちをかけるように妖怪たちを戦慄させた。ワクラバはどちらかといえば聴覚が鋭敏になってしまったせいで、余計に四人の悲鳴に脅かされることとなる。
「おぎゃーっ!? おばけ屋敷じゃん! なんで言ってくれないんですか!? 騙したんですか!? 嵐のほうがましじゃないですかあああ!」
「うるさいよ無賃客! 勝手に入ってきたのはあんただろ! ちゃんと宿の店主に金を払いな!」
鎌鼬を招き入れた張本人であるはずの雲外鏡が泣きながら怒鳴り返した。
「そういえば払ってなかったあああ! どうしよう! 誰かついてきてください!」
「そんなの明日でいいでしょう! 間違っても今部屋から出て行こうとしないで!」
「出ていくのはまずいよ、明日にしようよお!」
「わかりました明日ちゃんと金を払います! もうおれはここから出ない! 鬼の彼女に包まれながら安心して眠るんだ!」
「やっぱり変態さんだよお!」
「いやああああああああああっ!」
とりあえず全員殴り殺せばこの騒ぎはおさまるだろうか。拳を握ったワクラバだったが、立ち上がって一人ずつぶん殴って回る気力などなかった。それに、殺してしまえば夜中に現れる幽霊の数が増えるだけである。今まで感じたことのない疲労に襲われていたワクラバはその場に座り込むことしかできなかった。目は闇に慣れ、全員の動きもよく見えた。四人はあまりに落ち着きがなく、狂ったように踊り続ける亡霊のようだった。
おれに殺されたくなければ静かにしろ。そう怒鳴れる声があれば多少は変わっただろうか。ワクラバは隣にいるタキへと視線を戻したが、足の痛みと悲鳴に串刺しにされたらしく、壁にもたれたまま気を失っていた。
男に一反木綿に雲外鏡に鎌鼬。外の腕は昨夜よりも増えている気がするし、嵐はまだ続いている。
頼むから、これ以上は人数も騒音も増えないでくれ。ワクラバはげっそりしながら心の底から願った。
目が醒めたと同時に、肩に重みを感じてワクラバは顔を顰めた。ついに取り憑かれたか、と少々諦めながらも頭をがしがしと掻いたが、すぐにそうではないことに気づいた。
ワクラバの肩にもたれかかる形でタキが眠りこけていた。肉厚の角がごつごつとぶつかって鬱陶しい。強引にどかそうとタキへと手を伸ばしたが、湿気でうねった髪の隙間から生気のない顔が見え、ワクラバは逡巡した後、己の膝へと手を下ろした。
大嵐に外から戸を突き破ろうとする幽霊の手、そしてなにより、この部屋に転がり込んで居座ってしまった四人の大合唱により、もともと騒音に弱いタキは完全に疲れ果ててしまったようだ。
使い物にならなくなった通弁人から目を逸らし、ワクラバは部屋を見渡した。仰向けに寝そべる雲外鏡に、とぐろを巻いていびきをかいている一反木綿。鎌鼬はタキの膝の上で丸まっていた。男は墨汁で汚れた手をそのままに、大の字になって眠っている。
ヨツヤケッカイの書によると、一日に一本ずつ部屋の床に線を引けば霊を弾く結界を編み出せるらしい。墨汁で描かれた線は二本で、今日は三画目である。明日、最後の一本を引くことで部屋を囲う結界が出来上がるようだが、素人の結界が本当に役に立つのかもわからなかった。そもそも、このヨツヤケッカイそのものが胡散臭い。もし結界がなんの効力もないおまじないだと知ったら、タキはどうなるのだろう。唯一の望みが失われ、呆然と虚空を見つめて、そのまま衰弱死するのではないか。
嫌な想像を振り払い、ワクラバはこのまま二度寝を決め込むことにした。まだ妖怪どもと男が眠っている。雨音は聞こえない。おそらく嵐は去ったのだろう。だが、ワクラバは強い眠気に襲われていた。こんな状態では、泥濘んだ山を越えていくことはできない。睡眠の時間は今しか取れないことがわかっていたし、このままではタキだけでなく己も死んでしまう気がしてならなかった。昼前に起きて出立すればいいと、ワクラバは目を瞑った。
「……ワク、ラバ……? 朝、ですか……?」
そんなワクラバを小さな声が揺り起こした。タキが目を覚ましたのだ。ワクラバは閉ざしたばかりの目を薄らと開き、タキを睨んだ。
タキはゆっくりと瞼を擦り、己がずっとワクラバの肩を枕にしていた事実に気づくやいなや、顔を青くして頭を垂れ、小さく謝罪した。いつもより弱々しい声だった。
(まだ早い。眠いなら今のうちに寝てろ。昨日の騒動でろくに休めてねえだろ)
念を紡ぎながら、虚しさと苛立ちが込み上げてきた。寝転がる連中を眺めやり、長く息を吐いた。どう考えても幽霊よりもたちが悪かった。夜中の声量は増すばかりで、ワクラバとタキの生気を吸い上げているのではないだろうかと疑わざるを得ない。
(おれも寝る。しばらく起こすな。こいつらもだ。昼にはここを出る)
タキはそっと頷き、またワクラバを枕代わりにしないようにと、横になった。緩慢な動きだったし、血の気のない顔だった。起きたら多めに飯を食わせるべきだろうか。そんなことをぼんやりと考えていたが、徐々に思考は白い靄に襲われ、すうっと暗闇へと飲み込まれていく。
まさか、祭りの真っ最中に目を覚ますとは思っていなかった。
「なんか血の臭い強くなってるううううう!」
「外にいる幽霊もめちゃくちゃ増えてないかい!?」
「いやあああああああああ!」
まず耳を劈いたのは四人の悲鳴だった。幽霊が戸を激しく打ち鳴らす音と、がりがりと戸を引っ掻く耳障りな音が続き、ワクラバはぎょっとした。
知らぬ間に夜が訪れていた。
「ああっ! やっと起きましたね!? なんでこの状況で寝ていられるんですかっ! おれ、ちゃんと頑張って結界の線を引きましたよ!」
ワクラバの起床に気づいた男が涙声で喚き立てた。ワクラバはゆっくりと息を吐き切って、吸った。体内の流れを整え、冷静になろうと努めた。
早朝に目を覚まし、眠気に襲われ再び眠りについた。記憶はそこで途絶えている。ここまで深い眠りは初めてだった。頭は冴えた。拳を握り、開き、体の状態を確かめる。問題ない。夜に慣れた目でざっと室内を見渡し、最後に横たわる女に焦点を結んだ。
(タキ)
タキはまだ眠っていた。固く閉じられた目に不安を抱いたワクラバはタキへと手を伸ばす。揺さぶって起こそうと肩に触れ、違和感を覚えた。腹の底まで、嫌な感覚が滑り落ちた。ワクラバはすぐさまタキの頬に手を当て、愕然とした。
タキの体温は氷水に浸したかのように冷たくなっていた。ワクラバはタキを抱き起こした。呼吸も鼓動も止まっていなかったが、細い体が常よりも重く感じた。
(おい、タキ)
ワクラバは角へと念を送り込んだ。何度か繰り返したところで、タキがゆっくりと目を開き、己を覗き込むワクラバを捉えた。タキの唇が動いた。なにか言葉を紡ぐはずだったタキの口は、ひゅう、と鋭く息を吸い、次の瞬間、苦悶の声へと変化した。
タキの悲鳴に耳を穿たれ、ワクラバは舌打ちして裳を捲った。タキの両足に、夥しい量の圧迫痕と引っ掻き傷が刻まれていた。しかも、ワクラバの目の前で、傷がひとりでに増えていった。
タキの体が大きく動いた。まるでワクラバの腕からタキを奪い取ろうとする何者かがいるかのような、不自然な動きだった。そして、それは事実だった。タキの右腕がぴん、と伸び、手首にじわじわと黒い痣が浮かび上がった。それは人の手形だった。行灯の明かりがタキの凄惨な有様を晒していた。血が滲み出したタキの手足に気づいた一反木綿と雲外鏡がひときわ強い悲鳴を上げた。
男と鎌鼬が部屋の奥まで後退った。戸の隙間から、黒い液体が染み込んできた。
戸を叩く音が勢いを増す。びちゃびちゃと滴り、溢れ落ちているのがわかった。強烈な腐臭と、濃い血の臭いがした。
まずい。だが、対処法がわからない。ワクラバは焦燥感に襲われていた。荒い息を繰り返すタキを、見えざる手が拘束し、深く傷を刻んだ。裂けた皮膚から流れ出た血が、ワクラバの手を濡らしていく。外から迫る恐怖と内で起こる残酷な怪奇が全員を追い詰めていた。鎌鼬がワクラバの背後に身を隠した。一反木綿は身を竦ませ、小さな声でぶつぶつと呟き出した。
「誰か助けてえ。助けに来てえ。ここに来てよお」
「だめだ!」
一反木綿の懇願を、男が焦りを滲ませて制止した。
「招き入れちゃだめだ! 入ってきちゃいます!」
だが、一反木綿は身を捩り、薄っぺらい体から力を振り絞り、強く叫んでいた。
「助けに来て、誰かあーっ!」
次の瞬間、戸が開いた。
あまりの事態に全員が言葉を失った。戸を叩く音も不自然に鳴り止み、軋みながら開く戸の音だけが、この一室を支配した。
黒くぬめった指先が戸を掴み、ゆっくりと開いていく。濃厚な血の臭いが一瞬で室内を満たした。鎌鼬が息を呑んで小さな前足で口と鼻を覆った。ワクラバはタキを抱き寄せ、納刀されたままの百鬼歯を構えた。獣香はもちろん、妖気は一切感知できなかった。
恐怖は妖怪どもの体を凍りつかせた。悲鳴を上げて逃げようとすることすら、もう許さない。
ゆっくりと押し入ってきたのは、千切れた腕と足だった。それに続いてずるずると肉片を溢しながら這いずってくるのは、首から先と腹から下を失った人間の胴体だ。
捻くれた血塗れの腕が落ち、爪を立てて畳を引っ掻き、にじり寄ってくる。肉がこびりついた骨を剥き出しにした足が、ひとりでに歩いてやってくる。次から次へと腕や人間の一部が部屋へと侵入してきた。強烈な霊気が全員を貫いた。
あまりの光景に一反木綿は気を失い、ただの布切れのように地に伏していた。雲外鏡は体勢を大きく崩して仰向けに倒れ込み、ワクラバの羽織に隠れていた鎌鼬は尾を小刻みに震わせていた。
血の道を描く腕や足、千切れた胴体が這い寄ってきた。腰を抜かしている男の元に。
醜悪な死臭を放つ腕が、男の胸ぐらを強く掴んだ。その衝撃で、男の懐から折り畳まれた紙が落ちる。
「だめだ……っ!」
男が涙声で言った。精一杯の拒絶を、血塗れの腕は聞き入れなかった。足首や手を掴まれ、男が喉を裂くような叫びを上げた。室内を震撼させた絶叫は、次の瞬間、状況を一変させた。
無数の腕や足が煙のように溶け出し、一気に霧散したのだ。ワクラバは己が立っているのか、座っているのか、どこにいるかすらわからなくなった。視界が真っ黒に染まり、水面に引き上げられたように、はっと目を覚ます。
誰もが黙していた。ワクラバを除く全員がぐったりと倒れ込んでいた。我に返ったワクラバはタキの喉元に手を這わした。タキの鼓動がワクラバの指を押し返した。氷のように冷たくなっていたタキの体は熱を取り戻していた。引っ掻き傷や圧迫痕のあったタキの右腕と両足は、傷一つ残っていない。開いていたはずの戸が、今はしっかりと閉ざされていた。
夢では、なかった。あの感覚は本物だった。ワクラバは警戒したまま立ち上がり、一気に戸を開いた。
朝日が室内を照らした。腐臭も血の跡も、なにも残っていなかった。雨の滴が残る外廊下は、久々の日差しを浴びて光っている。雨上がりの澄んだ空気が、室内の澱みを拭い去っていく。膿でも取り除くみたいに。
かさ、と風にあおられたなにかが音を立てた。
先ほど男が幽霊に掴まれた際に落とした、ヨツヤケッカイについて記されている書だった。ワクラバはなんとはなしに拾い上げ、黄ばんだ紙を開いた。
そこには文字など書かれていなかった。ただ、何本もの線が、縦に引かれているだけだった。黒く滲んだこれは、本当に墨汁だろうか。すっかり乾いてはいるが、仄かに残った嗅ぎ慣れた臭いに、ワクラバは目を眇める。
「あーあ」
唐突に、背後で声が上がった。四日間、嫌というほど聞かされた、男の声だった。
「やっぱり最初が肝心ですね。あの日に線を引いていれば、今夜だったのに」
ワクラバの後ろに佇んでいた男は、黒い手で頭を掻きながら、眉を下げて笑んだ。
「もう、行かれますよね。また来てくださいよ。今度こそは、やり遂げますから」
眩しいくらいの晴天が広がっていた。久方ぶりの朝日を浴びながら、ワクラバとタキは宿を出立した。一反木綿はふよふよと明るい空を泳いでいき、雲外鏡も山道を転がっていった。タキは立ち上がることもままならなかったが、ワクラバが抱えて旅籠屋を出た途端、憑き物が落ちたらしく、こうして問題なく歩けるようになった。
鎌鼬はというと、風に乗って飛んでいくと思いきや、
「途中までお供しますよ!」
と、タキの頭にひっついている。
長雨に晒された地面は滑りやすい。二人は慎重に、しかし足早に坂を下った。土砂崩れに遭わずに済んだことは不幸中の幸いであった。だが、危険は去ったわけではない。早めに山を越え、町に逃げたほうがよさそうである。
「しかし、なんだったんですかね、あの幽霊」
先を急ぐ二人をよそに、鎌鼬が尾を揺らした。
「みんな血塗れでひしゃげてたじゃないですか。完全に怨念ですよ! ううう、やだなあ。あなたたちもお祓いしてもらったほうがいいですよ」
どちらかといえば祓われる側である鎌鼬が震えながら言った。タキは今回の件で幽霊に苦手意識が芽生えたのか、少し顔を青くして弱々しく頷いていた。お祓いに行くなら一人で勝手に行ってくれ。ワクラバはそう思ったが、念を紡ぐ元気はまだなかった。
「でも、妖怪ばっかり集まって、おばけに震えてたなんて……思い返すと、ちょっとおかしいですね」
声を奪われていなければ、ワクラバは低く呻いていたところだった。ろくに動けず眠れず、疲れが溜まっていた。さっさと山を越えてゆっくり風呂に浸かりたかったし、鈍った体の感覚も取り戻したかった。
四日間も妖畏のお預けを食らった百鬼歯が、眠り飽きたのか鞘越しにきゃんきゃんと吠え立ててくる。ワクラバも百鬼歯を振り抜いて妖畏を狩りたい気持ちであった。間違いなく、八つ当たりのような醜い戦い方になるだろうが。
「唯一の人間だったあなたが、一番頼りにされてたと思いますよ。誰よりも冷静だったんですから」
鎌鼬の言葉が、ワクラバとタキの足を同時に止めた。ぱちぱちと目を瞬かせたタキが、小首をかしげてワクラバを見やった。
妖畏の両角が生えてはいるが、タキはただの人間である。そんなことを知らない鎌鼬は、タキを鬼かなにかだと思い込んでいるのだろう。しかし、問題はそこではなかった。あの男は、妖気など感じなかった。妖怪の身体的特徴もなかったし、そもそもあの男は自身の口で己が非力な人間であると明言していたのだ。
「……あの、えっ、と、人間……は、一人……?」
「お兄さんだけでしょう。あれっ、もしかしてお兄さんも妖怪でしたか? 妖気を隠すのが上手いお二人ですねえ」
鎌鼬が称賛の声を上げる。ワクラバは記憶を遡った。騒ぎ立てるばかりの男だった。突然転がり込んできて、悲鳴を上げて気絶し、次の日に妙なまじないの書を持って戻ってきた。妖怪たちとも歓談し、夜には一緒になって怯えていた。
また来てくれ、と男は言った。男はまだ、旅籠屋にいるのだろうか。
「それじゃあ、あたたかいお嬢さん、冷たいお兄さん、さようなら!」
考え込むワクラバを置いて、鎌鼬が飛び上がった。風を乗りこなして空を駆ける鎌鼬に、たまらずタキが声をかける。
「あの……っ、角……角部屋の……け、結界を、張ろうと、していた……人間の……男の人、は……?」
「角部屋の人間の男? うわっ、意地が悪いなあ、怖がらせないでくださいよ!」
青い顔をしたタキを、鎌鼬がじっとりと睨みつける。晴天を背負い、鎌鼬は尾を鋭くして言い放った。
「あなたたちの部屋が角部屋だったじゃないですか!」
ワクラバとタキは掛茶屋にいた。雨上がりの山を無事に越えた二人は、久々の団子の甘みに心と体を宥められていた。へなへなに萎びていたタキの髪も、少しは元気を取り戻しているようだ。
だが、タキはなにかを考え込んでいた。嫌な想像を振り払うかのようにぶんぶんと首を振り、もそもそと団子を味わっているが、やはりなにかが気になっているらしく、手を止めて俯いてしまう。それはワクラバも同じだった。鎌鼬の言葉が、まるで喉に刺さった魚の小骨のように引っかかっていた。
「よっこらせ。ああ、お隣失礼」
という声とともに、ワクラバの隣に壮年の男が腰を下ろした。大きな竹籠を足元に置きながら団子を頼むと、茶屋娘から手渡された熱い湯を一気に飲み干した。
「いやはや、長雨だったなあ。卯の花腐しなんて言うけどよ、こうも激しい雷雨だと、人間も腐っちまわあ」
笑い声を立てる男だったが、黙り込む二人を見て、おや、と眉根を寄せた。腐った人間らしきものを見てしまったワクラバは、疲れ切った吐息を洩らした。強烈な死臭が蘇ったのか、タキが口元にそっと手を当てた。
疲労困憊といった二人の様相は、壮年の男の好奇心を擽ってしまった。男はワクラバとタキに遠慮なく話しかけてきた。どこから来たのか。なにかあったのか。おまえさんたちは旅人か。まさか、あの雨の中を歩いてきたのか、等々。矢継ぎ早の質問にうんざりしたワクラバは、タキにすべての対応を押しつけて茶を啜った。
タキは旅籠屋で四日間過ごしたことをつっかえながら答えたが、信じてもらえないだろうと思ってか、旅籠屋での幽霊騒動は伏せていた。
しかし、男は大きく目を見開いて、
「おまえさんら、あそこで寝泊まりしたのか!?」
と、驚愕を露わにした。道行く町人たちが驚いて振り返るほどの声量である。もう大声は当分聞きたくないワクラバが思いきり顔を顰めると、壮年の男が一言詫び、ついで声を潜めて独りごちた。
「怖いもの知らずもいたもんだなあ……」
ワクラバとタキはどちらともなくちらりと目を合わせた。タキが小首をかしげたのを見逃さなかった男が、嬉々として語り出した。
「もしかして知らないのかい? ここらじゃ有名な話だがなあ。ヨツヤケッカイって聞いたことないか? 一夜に一つ線を引き、場を作る。刑場をな。四夜で四方を囲まれたら、おしまいって」
タキが硬直した。ワクラバも虚を衝かれ、ぱちぽちと目を瞬かせた。一夜に一つ線を引き、結界を張ろうと奮闘していた男がいた。二人は間違いなく、昨夜まで同じ部屋にいたのだ。男が手にしていた書には、ヨツヤケッカイと記されていた。
固まる二人をそのままに、壮年の男が滔々と語った。
「あそこな、大昔は小さな村だったのよ。山を繋ぐ村だから、旅人が多くてな。村の旅籠屋はおんぼろだったが、客は多いし金には困ってなさそうだったらしい。でもな、ある日、その向かいに小洒落た宿が建ったのさ。なにが起こるかわかると思うが、客がみんなとられちまった。おんぼろの旅籠屋の息子は宿の店主に文句を言いに行ったんだ。なぜわざわざ目の前で宿を始めたのかと。それで言い合いから殴り合いの喧嘩に発展して、打ち所が悪かったのか、おんぼろ旅籠屋の息子は死んじまった」
男の語り口は怪談話をするときのそれであり、完全にワクラバとタキの恐怖心を煽ろうとしていた。普段ならば聞き流しているが、刑場という不穏な表現が引っかかっていた。タキも男の話に吸い込まれ、団子の串を皿に戻すことも忘れて耳を傾けている。
「それから、小洒落たほうの宿の店主が行方不明になったんだが……四日後に見つかった。おんぼろの旅籠屋にあったのさ。店主の死体が」
タキが息を呑んだ。男は構わず続けた。
「四肢はもがれてひしゃげて、頭は割れ、胴体は潰れていた。一室が血の海になってたらしい。そして、その部屋には手のひらを引きずって描いたような、黒い線が引かれてたのさ。たとえ一画だけだとしても、心の弱い奴は自分でも気づかぬうちに部屋に留まろうとしちまう。四方を囲まれたら心も体も蝕まれ、絶対に出られなくなる。刑場で呪いによって体を潰され、辺りは血の海になる。だから、四夜血海(よつやけっかい)」
ヨツヤケッカイ。あの日に線を引いていれば、今夜だったのに。
男の言葉と、忌まわしい四日間を思い出す。ひしゃげた腕の幽霊は、一体なにを求めていたのだろう。ワクラバたちを祟り殺すことか。線を引くごとに戸を叩く音が強まっていたのは、もしかすると……。
「まあ、死人が出たとあっちゃあ評判は下がって客は減る。もともと妖畏も出やすい村だったから、あっという間に人はいなくなったさ。だがな、旅籠屋は残り続けた。そんな曰くつきの宿とは知らない旅人が餌食になったらしい。旅籠屋の息子が怨霊となったのかは知らんが、旅籠屋に泊まる客を見境なく殺すようになっちまった。あれだけ望んでいた客を殺しちまうなんておかしな話だけどな。それとも、もう二度と旅籠屋から出ていかないように、縛りつけたかったのかねえ」
淀みない長広舌は凍みるようにワクラバとタキの懐に潜り込んできた。タキを蝕んでいたものは、なんだったのだろうか。ワクラバは疲労を拭い去ろうと湯呑に手をつけた。熱い湯が腹を滑り落ちていった。
らしくない、と今更になってワクラバは己を客観視した。あの四日間、とくに二日目から、己の行動はどこか不自然だった。頭も体も、ろくに働いていなかった。縛られているみたいに。
「一度、あそこは土砂崩れに遭ってるみたいだけどな、あの旅籠屋だけは、壊れることなく不自然に残ってる。祟られるからって、なかなか取り壊せんらしいが……」
なにやら揺れを感じ、ワクラバは訝しみながら隣を見た。顔面蒼白になったタキが、遠くを見つめながらガタガタと震えていた。握られていた団子の串がぽろりと零れ落ち、地面に転がった。
今にも失神しそうなタキの様子に気づかぬまま、壮年の男はからからと笑う。
「おまえさんらは戻ってこれたんだから、やっぱりこりゃ、ただの怪談話だな!」