夜に満ちた山の中で、ワクラバは、黒い山犬と対峙する己の師を見つめていた。
「悪いな。契約は、ここで仕舞いだ」
月の光を吸い、煌々とあたりを照らしていた白刃を、見せつけるように鞘に収めながら、師が――総山が言う。
朱塗りの鞘に身を包んだ刀を、山犬は蒼玉の瞳で見つめている。深い知性を湛えた、それでいて、内に燃え盛る獣性の輝きを帯びた目だった。
「死んだら御免――とか言ったっけな。許せよ。あれは気の迷いから出た言葉だ」
総山の言葉を聞くやいなや、山犬は獣香をあたりに撒き散らす。痺れたような感覚が、ワクラバの肌を刺した。生唾を飲んだのが最後だった。ワクラバの体は、ついに身動きがとれなくなる。山犬を前にして、堪え難いほどの強い畏れを抱いていた。
(こいつァ、長だ……)
四本角を生やしたこの山犬こそ、紛れもない、妖畏の長だった。畏れのものと呼ばれる、獣たちを統べる長。
妖畏なら、何度か斬ってきた。人と妖怪を食い散らかすものども。用心棒を生業としているワクラバは、妖畏ごときではもはや怯えない。それでも、今まさに目の前に顕現している畏れの長の厳かな姿に、ワクラバの全身は石のように固まってしまった。
ひりついた畏気が漂う中、総山はあっさりと刀を放り投げた。朱鞘に収まった喰出鍔の痩せ刀が、ごとんと音を立てて、妖畏の長の前に落ちる。
「そう吠えるなよ、万尾玄流斎」
総山は、どこか道化た声音で語りかける。ワクラバなど目もくれず、ただ、眼前の獣に対して。一切吠えも鳴きもしない妖畏の長の目に、鋭さが増した。まさに刀の切っ先のようだった。ワクラバはその異様な光景に強い不安を抱いた。師が、声と言葉を持たぬ獣と言葉を交わしている。
師は契約していたのだ。獣と手を組んで、なにかを成し遂げようとしていた。しかし、総山が放った言葉から察するに、どうやら約束は果たされていない。ワクラバの目の前でおこなわれていることは、まさしく契約破棄だった。ワクラバが抱いていた不安は、予感めいた恐怖に変わった。なにか、嫌なことが起こる寸前。その場に己が立っている。
ひく、と震えたワクラバの喉が言葉を放つ寸前、総山の口が先に動いた。
「――なら、こいつをやろうか」
総山は、ようやくワクラバを見やった。夜色の瞳に捉えられ、ワクラバは後退する。畏れを上回る恐怖が体を突き動かしたのだ。
それでも、立ち去ることなどできやしなかった。
そのとき既に、ワクラバの首は血煙を上げていた。
衝撃に全身を貫かれ、ワクラバは倒れ込んだ。溢れ出た血で濡れた雑草が、ワクラバの体を受け止める。そしてようやく、吹き飛ばされた意識や感覚が戻ってきた。
首が、熱い。内側から焼かれているようだった。瞬く間に火は燃え盛り、それは莫大な熱量を孕んで、ワクラバの身を駆け巡る。業火が喉で渦を巻きながら全身を叩いて回り、激痛をもたらした。
首が、喉が、口腔が、焼かれて斬り裂かれる。いや、ちがう。刀傷よりもよほど鈍く、それでいて、奥深くまで抉られ、奪われるような痛み。
――食われている。
「……っ、……っ!」
息すらもままならず、ワクラバは頬を地に擦り付けて痛みに喘ぐ。それでも、その口から声らしき音が零れることはなかった。
灼熱の炎に食い散らかされながら、ワクラバは必死に己の師を探した。どうして、どうして、なにが、一体なにが……。痛みに耐えながら、頭を埋め尽くした感情のままに。
妖畏の長が、ワクラバのすぐ傍にいた。夜に溶けるように踊る長い尾を揺らし、赤く濡れた鼻先と口元をそのままに、ワクラバを見据えている。
そんな獣の向こうに、師はいた。
笑っていた。
師は、総山は、のたうつワクラバを見て笑っていた。
それをワクラバは呆然として見つめた。痛みと熱によって霞んだ視界の中で、総山が夜の目を細めてワクラバを嘲笑っていた。
心の底から溢れた、どうしてという問いは、みるみるうちに別の感情へと変貌する。
苛烈な怒りが、迸る。
「――っ!」
叫ぶ。
総山は怯まない。声なき声で叫ぶワクラバに背を向けて歩み出し、ゆっくりと山の中へ消えていく。ワクラバは痛みも熱も押しやって、地に伏せたまま、暗闇へ溶けていく師の背中に向かって、何度も声を絞り出す。
ワクラバの痛烈な叫びは、もはや聞こえない。総山にも、ワクラバ自身にも。
なお叫ぶ。己が胸の内で勢いを増す炎に焼かれながら。
喉の肉を、皮膚を裂き、血飛沫を撒き散らし、ようやく怒号が絞り出された。
獣の咆哮に、ひどく似ていた。