数日滞在して、わかったことがあった。
それは、この村には若い人間の女がいないということ。まだ親元から離れるには稚すぎる童女と、初老の女性はちらちらと見かけたが、それでもやはり数は少なく、古着問屋も年頃の娘のための着物など取り扱っていないという状況であった。
森から飛んでくる妖畏は、なぜか若い娘たちばかりを襲い、そして散々に食い散らかしていたらしい。年齢を判別しているのか、童女や壮年の女には見向きもしないようだが、年頃の娘がいる家の者たちすべてが、村から去っていったらしい。たった一匹であれば、妖畏狩りでなくともそれなりに戦う力のある者たちで対処できただろうが、空から襲撃してくる妖畏は、なんと五体もいたのだ。それも、皆同じような姿で。
「おそらく、群れでしょう。珍しいこともあるものです」
見回りを終えて宿屋の一室に戻ったワクラバに、下働きの猫又が、悄然とした様子で伝えた。せっかく妖畏狩りが来たというのに、ここ数日、妖畏は鳴りを潜めている。姿を見せずに漂うだけならば、ただの無害な生き物に過ぎないが、それが逆に畏れを蔓延らせているようだった。ワクラバもずっとこの村に滞在するわけではない。斬るための妖畏が姿を現さなければ、たとえどんな妖畏でさえも斬り伏せられる百鬼歯を携えていたとしても、手も足も出ないのだから。ワクラバが帰ったあとに、再び妖畏が活動を始めるのではないか。そんな嵐の前の静けさに、猫又は落ち着かない様子であった。
夕餉に手をつけないまま、正座でワクラバの帰りを待ち続けていたタキは、猫又の言葉を反芻し、そして疑問を抱いていた。
妖畏は群れをなさない生き物だ。行動をともにする妖畏はそれはそれは珍しく、基本的にはワクラバと妖畏は一対一で戦い、そして斬ってきた。過去に一度、二対の山犬の姿を纏った妖畏にワクラバとタキは追いかけられたが、あれも非常に稀な例である。妖畏は性別もなければ番も作らず、犬猫のように胤を継いで子を成すこともない。食欲を満たす獲物を誰かに分け合うことなどもないはずだ。ほとんどが己の欲を満たすためだけに、己のために行動するのだから。
当然、タキよりも妖畏に詳しいワクラバは信じがたかったようで、怪訝な顔を隠そうともしない。
飛来する琥珀色の体は奇妙な容として顕現するらしい。四対の翼を持ち、長い首から目頭にかけて白い線が描かれ、その顔には嘴などなく、代わりに鱶のような鋭利な歯がびっしりと生え揃った巨大な口がある。そんな特徴的な姿を、複数の妖畏がそっくりそのまま纏っているのだ。やはり不思議で仕方がない。群れをなす意味も、同じ姿になる意味も、タキには思いつかない。
「狙われにくい娘御もいらっしゃったのですが、全員、あれを畏れて村から出ていってしまいましたからねえ……。それで襲撃がおさまるのならば仕方ないと考える村人もいましたが、選り好みなどしなくなったのか、ついに一人の男が襲われてしまいましたよ。派手な着物だったので、目に止まってしまったのか……」
猫又が退出したあと、ワクラバが淡々と述べた。
(群れじゃねえな)
タキは小首を傾げる。問い返す間もなく、すぐに説明が続いた。念を送っているくせに、ワクラバは一切タキに視線を向けようとはしなかった。
(見た目はともかく、習性も同じとなると、おそらくはそれらが一体の妖畏だ。要は自分を複数に切り分けて、同時に操ってやがる。その目的として考えられるのは、己を分散させることで狩りの成功率を上げてるってことくらいか。目当ての餌を探して飛び回ってるらしいが、拠点自体はこの近くから移動してねえだろう。一箇所に集めるか、一体に戻して始末すれば、この仕事は終わりだ)
矢継ぎ早に念が繰り出された。あまりにも一方的に連なった語り口である。タキは口を開こうとしたが、ふいに背筋がぴりりと粟立ち、それを阻止した。
部屋中が不自然に静まりかえった。下手に動けば、張り詰めた空気が鋭く流動し、肌を傷つける気がした。
タキは途方に暮れた。黙って耐える他なかった。ワクラバがタキの言葉を求めていないことだけがわかっていた。意見だけでなく、返事でさえ。
しばらくして、ワクラバが夕餉に手をつけ始めた。室内に満ちていた緊張感が多少ではあるが弛み、ようやくタキの行動を許した。恐る恐る箸を持つ。味わう余裕などなかった。
次の日、ワクラバはタキを伴って外出した。さすがに初めてこの土地に来たときのように抱きかかえられることはなかったが、同じくらいヒリヒリとした雰囲気がワクラバから発せられていた。傍から離れるな、というワクラバの念にタキはいつも通り素直に従ったし、その念に込められた怒りの感情を察して、一言も喋ろうともしなかった。
収穫はあった。ワクラバとタキはついに群れをなす妖畏を見たのだ。
話に聞いていた通り、奇妙な琥珀色の姿をしていた。それが二体。四対の翼を忙しなく羽撃かせ、ぐるぐると旋回している。ワクラバは百鬼歯の柄に手をかけていたが、その刃を解き放つことはなかった。抜いたところでどうやっても斬撃は妖畏に届かない。代わりに、タキを背後に押しやり、全身から強い闘争心を立ち上らせていた。常よりも強く肌を刺す緊迫感に、タキは思わず後退りかけたが、なんとか踏み止まり、ワクラバの命令に背くようなことはしなかった。
果たして、妖畏は遠くで飛び回るだけで、タキめがけて強襲してくることはなかった。殺気立ったワクラバを警戒して近づかないようにしているのか、一度急降下したかと思うと、躊躇うように滞空し、身を翻して消えてしまうのだった。
その日の晩、ワクラバはずっと無言だった。
室内でも昼間に見せた警戒心を殺そうとせず、百鬼歯の鞘を掴んだまま布団の上に座り込んでいた。念がいつ飛んでくるかと身構えていたタキだが、深夜になってもワクラバはなに一つタキに伝えてこなかった。そのくせ研がれた殺気を身に纏い、いつでも放てるような危うい様相である。常の怒りを渦巻く炎と称するならば、今のワクラバは貫くことに特化した氷のような冷たさを帯びていた。
それでもタキは布団に転がっていつでも寝てしまえる状態にあった。殺気の矛先が己に向けられているわけではないことが、この数時間で頭でも感覚でも理解できていたし、タキが本当に寝転んでしまっても、ワクラバは微動だにしないだろうと予想できた。
事実、部屋に着いてからワクラバは一切タキを見なかった。視界の隅に多少は入っていただろうが、今なんて、タキは完全にワクラバの死角にいるのだ。それもタキが移動したわけではなく、ワクラバがそのように体の向きをわざわざ変えて、腰を落ち着かせたのだから。まるで、絶対にタキの姿を見てはいけないという制約があるかのような不自然さだった。
膠着状態だ、とタキは思っていた。そして、タキはワクラバの念と、猫又からの話を再び脳内で読み返していた。
若い女を狙う妖畏。女がいなくなったら、派手な色を纏った男を襲った。あとから聞いた話だが、男はまだ若く、目の冴えるような赤い羽織を纏っていたらしい。妖畏は娘たちを襲うとき、一体ではなく複数体が集い、一斉に攻撃を仕掛けてくる。そして、この妖畏を倒すには千切れたすべての個体を集めて、一気に叩く必要がある。
ちらりとワクラバを見やる。変わらず、鋭さを保ったまま、なにかを考え込んでいた。
そこで、タキが口火を切った。それが解決に繋がると信じて。妖畏の特徴の話と、ワクラバの説明を聞いたときから、ずっと考えていたことだった。
「あ、の……わ、わたし……囮、に」
そのとき、タキを衝撃が襲った。
景色が大きく傾いだ。背中と頭を強かに畳に打ちつけた。それとはまた違う、畳を強く殴りつけるような音が耳朶を叩いた。突然激しく揺れ動いた視界と、鈍く響いた強打の音に身を竦ませ、目を瞑る。なにが起きたのかわからなかった。肩がじんじんと痛み、その余韻が骨を伝って体を叩いて回っていた。
瞼が翳り、タキは自分に覆い被さる者に気づいた。そして今、タキに襲いかかったのはまぎれもなくその人なのだと思い至り、口をきつく噤んだ。己の言葉がワクラバに火を灯し、氷を溶かして烈しく燃え上がらせてしまったのだと、タキは今さら気づいた。そして、恐る恐る目を開いた。
ぎらつく金眼と視線が交わった。
「……っ、ぁ…………っ」
タキを床に押し倒した男の眼光に、容赦なく身も心も貫かれる。鋼のような鋭利さと、禍々しいほどの輝きがあった。眼前に切っ先を突きつけられているようなものだった。すなわち、男の視線だけで、タキの体は動きを封じられていた。呼吸が浅くなり、指先が痺れる。冷や汗が額を伝って落ちた。乾いた唇が微かに開き、戦慄いた。
男の両腕にタキは囚われている。実際にはタキではなく、畳に手をついているだけだというのに、握り締められているような錯覚に陥っていた。それが比喩でもなんでもなく、事実であることにタキは恐れをなした。ワクラバはタキの命を掌握していた。いつでも手をくだせる距離だった。
目を逸らしたい。だが、それが許されない空間にいた。瞠られた両目を、覆い被さったワクラバが至近距離で見下ろしている。
急速に体の芯が凍てついていく。鋼鉄の殺意を宛がわれ、血が氷のように冷たくなり、タキの心と体を棘のように突き、ときに裂きながら巡っていく。痛みに耐えきれず、心臓がぎゅうと縮こまり、タキの顔を蒼白に染めた。
身動ぎ一つしたくないというのに、タキの思いに反して、肉体がついに震え出した。ぞくぞくとした悪寒がタキの指先を動かし、それに続いて、頭がいやいやと勝手に揺れ出す。本能がタキの肉体を支配していた。ワクラバから逃れようと、強く抵抗を示していた。タキにはそれが恐ろしくてたまらなかった。だめだ、とタキは己の体を叱咤するが、まるで言うことを聞かなかった。
そして、タキの予想通り、その拒絶を良しとしなかったワクラバが、ついに動いた。
ワクラバがタキの両腕をへし折る勢いで握り締め、畳に押さえつけた。痛みに歯を食い縛ったタキに、ワクラバは顔を寄せ、汗で髪が張りついた首筋に、獣のように噛みついた。
容赦なくワクラバの犬歯が喉笛に食い込み、タキの腰が死に怯えて弓形に反った。跳ねて逃げる腰を押し潰すようにワクラバが体重をかける。背骨が軋む鈍い音がしたが、それが幻聴か現実かもわからない。ほぼ同時に潮騒のような音が怒濤に押し寄せ、タキの頭蓋を打ち据えていた。まさしく捻じ伏せられていた。猛獣に捕らえられた獲物であった。
がくんと仰け反り、あらゆる痛みから逃げようと足掻いたタキの首を、ワクラバは離そうとしない。頭がビリビリと麻痺して、男に組み敷かれているというのに、己がどこにいるのかわからなくなっていた。
気づかぬうちに唇が開いていた。絞り出すような、潰れた汚い声が勝手に喉の隙間から断続的に絞り出されていた。激しい脈動がこめかみと喉で皮膚を裂かんばかりにのたうったが、それが急速に遠ざかっていく。頭のなかが白い靄に覆い尽くされた。そして、ぐるりと眼球が瞼の裏へと裏返りそうになったころ、ワクラバはタキの喉から口を離し、ぱっと身を引いた。
解き放たれたタキは、ようやく己がずっと呼吸をしていなかったことに気づいた。体が勢いよく空気を吸い込み、激しく噎せた。何度も咳き込みながらタキは肺いっぱいに外気を吸い、ずっと体内を彷徨い続けていた息を吐き出した。止まっていた血流が一気に全身を奔り抜けていく。熱さと冷たさ両方がタキを苛んだ。汗と涎で畳がべとべとに汚れていった。
しばらく身動きの音と咳き込む音、そして荒い息だけが響いていた。どれもタキから発せられるものである。ようやく落ち着きを取り戻したタキは、ゆるゆると頭を動かした。ほとんど霞んだ視界のなか、ぴくりとも動かぬ影がいる。長い時間をかけてタキの瞳が焦点を結んだ。
ワクラバは再び覆い被さる形で、タキの顔を覗き込んでいた。しかし、先ほどのような殺意の光をぎらつかせた両目など、もうどこにもなかった。
この状況に一番驚いているのは、なんとワクラバのようだった。途方に暮れたような、置いていかれた迷子のような弱々しさがある。揺れる月色の双眸が苦悶に歪み、そしてまた苛烈な色を帯びようとしては、すぐさま淀み、暗く曇っていく。強さと弱さが混在し、互いにたじろいでいるような、不安定な様相だった。
ワクラバが戸惑いを露わにしたまま、タキを縋るように見た。そしてついに、ワクラバはゆるゆると腕を伸ばし、そのまま、タキを強く掻き抱いた。頬を寄せられ、タキは首の痛みを思い出してつい顔を背けたが、肩口に押し当てられただけだった。ワクラバの全身の重みが、タキの体にのしかかっていた。
潰れてしまいそうだったが、タキはこの重みにどこか満たされるような感覚を覚えた。痺れの余韻が残った指先を、ワクラバの背へ回し、そして掴んだ。ほとんど力のないものであったが、このときタキはワクラバを受け止め、抱き留めていた。
頭がぼうっとしたままだった。思考がろくに働かず、先ほどの激しく警告を示す鼓動や首の痛みがどこかへ転げ落ちてしまっていた。ただ、タキの抱擁を受けて、さらに強く抱き締めてくるワクラバの必死な様子に、仄暗い喜びを得ていた。なんて、嫌な女だろう。重みを放棄しておきながら、縋られることを喜ぶだなんて。己を恥じ入った。だが、離れがたかった。心にとろとろと流れ出したぬくもりに陶酔した。どうかしている、と心のどこかで冷静さを保った己が、侮蔑の呟きを洩らした気がしたが、どうでもよかった。
しばらくして、ワクラバの熱い手が、タキの背骨や腰を伝い、まるでその体の輪郭を確かめるように這い出した。タキは擽ったさに鼻にかかった小さな声を上げた。ぞくぞくと漣が肌を粟立たせ、タキのわずかに残ったまともな思考を、さらに奪い去ろうとしていく。
ワクラバの手がタキの帯をほどき、するすると器用に着物を剥いでいくのがわかった。薄い襦袢だけを纏ったタキを一頻り弄んだかと思うと、ワクラバは襦袢の隙間へ腕を差し入れ、タキの背に爪を立てて掻き毟った。爪が肌を抉り、幾重にも深い傷を刻みつけた。耐えきれずタキが小さく喘いだ。あえかな悲鳴に怯えたワクラバが手を止める。しかし、すぐに動いた。痛みによって固くなった肢体を宥めすかすように、ワクラバは熱い指の腹でタキの肌を撫でさすり、再び押し潰すように抱き締めた。
互いの隔たりをなくそうと動いていたワクラバは、それ以上タキを暴こうとはしてこなかった。それでも、タキは熱に浮かされるような気持ちだった。まだワクラバの手で肌を撫でられているような奇妙な快感があった。はしたないとさえ思える蕩けた吐息が洩れる。視界はすでにぼやけていた。そして、薄っぺらい容が熱で満ちるころ、タキは沈むように眠りについていた。そのときもタキは、ワクラバの腕に抱かれたままであった。
知らぬ間に朝が通り過ぎていた。
タキの背には、ワクラバによる凄惨な爪痕が残されたままだった。蚯蚓腫れの痛みは、タキにワクラバを強く意識させていた。縋るように抱き締めてきた両腕の感触を、タキは忘れていない。
声以外でも役に立てるのだと、証明しなければならなかった。タキはぱちぱちと己の両頬を叩いて奮起させた。そんなタキを、ワクラバが眉根を寄せて忌々しそうに睨む。鋭い輝きを間近で受けて、ぎくりと強張り出した体を、背中の痛みがなんとか立ち上がらせていた。タキを励ます掻傷も、留まらせる眼光も、どちらも同じ男から齎されたものだった。自分の立場が定まっていないような、おかしな気分だった。自分がいる場所を確かなものにしなければならない。そう思った。
ワクラバから手渡された羽織を、タキは裏返して身に纏った。ワクラバがいつも着ているものである。裏地は濃い赤だ。若い女と派手な色に反応を示したという妖畏を誘い出すには充分そうである。あいにく、鮮やかな色をした着物など持ち合わせていなかったタキは、ぶかぶかの羽織を揺らしながら宿屋を出て、湯屋の前めがけて走った。ここが、店が立ち並ぶ狭い村のなかで、最も道が広く、開けた場所である。
それをワクラバが身を潜めるようにして追うが、距離は遠い。近すぎては意味がない。タキは提灯が揺れる道で、きゅうと唇を噛んでそのときを待った。
時間がゆっくりと流れていく。タキは神経を尖らせたまま、ワクラバの命令を思い出していた。
妖畏に指一本触れさせるな。迫ってきたらすぐ逃げろ。
常と変わらぬ内容だというのに、念は常ならぬ重さと熱さがあった。ずしんと両角にのしかかった念の重さに、タキは立ち眩みを起こしていた。己はなんて頼りなく弱いのか。このままではいけない。ワクラバの恩に報いなければ。タキはきょろきょろと辺りを見回したが、それは逆に妖畏を警戒させる行為だと思い至り、どうにか心を落ち着かせてじっと佇んでいた。無防備であると知らしめるために。
そのときは、昼ごろにやってきた。
いつ襲い来るかわからない畏れに、心も体も疲弊し始めていたタキは、反応が遅れた。
ばたばたと続くどこか異様にも聞こえる羽音の群れが、鳥のものではないことに気づき、はっとして空を仰ぎ見る。
琥珀色の妖畏だ。それが五体。話に聞いた通りの数である。その内の一体が、ゆるやかに降下を続ける。まだワクラバは動かなかった。刃など到底届かない距離で妖畏は留まり、強く翼を広げた。琥珀の羽毛が散らばり、タキの眼前に舞い落ちる。それと同時にタキの元へ降り立ったものがあった。
(母上っ!)
喜色満面。そんな念だった。タキは呆気に取られた。うら若い少年のような、瑞々しい念が角のなかを揺らした。
(母上、お待ちしておりました! 古鵄でございます! やっと、やっと迎えに来てくれたのですね!)
「…………え?」
(助けてください。もはや己のことすら、ままならないのです)
妖畏の念が、喜びと焦燥が互いにぶつかり合うような、奇妙な声音へと変化する。助けを求めているようで、そのくせタキの返答など聞く気がないような、正常とは思えない様子だった。事実、彼らは間違えようのない大きな勘違いをしていた。
(約定なんて破りたくない。なのに抑えられないのです。助けて。腹が満ちることもない。森で食い漁っても、それでも人も妖怪も、食わずにはいられない)
念で紡がれる言葉自体はまともに聞こえるが、血走った碧の眼球や、滞空できているのが不思議なくらい、でたらめに交互に羽撃く巨大な翼が、この妖畏が錯乱状態に近いことを如実に表していた。
(際限がないことが、恐ろしくてたまらない……!)
切迫した怯えを吐露したのは、後ろに控えた二体目だ。まったく同じ声音であり、間違いなくそれらがワクラバが予想した通り、同じ個体であることがわかった。ついに二体が同時に念をぶち撒けた。それをタキの左右の角は一言一句聞き漏らすことも、混ざり合わせることもなく、正確に頭へと流し込んできた。
(纏顎に噛まれた体が言うことを聞かない! 助けてください! お願い。お願いです。貴女の元に還りたい!)
(このときをずっと待ち焦がれておりました。どいつもこいつも、母上の偽物ばかりで、気が狂ってしまうかと……。すぐに他の体も集わせます! だから、どうか刀を……)
タキはなにも言えなかった。彼らが母上と呼び、助けを乞うているのは、タキではなく、後方で控えたワクラバが携える……。
(違う)
否定がタキを貫いた。
(なんだ、それは、その畏気、は)
念が戦慄く。タキの足は地面に張りついて動かない。狂っていた妖畏が唐突に我に返ったのだと知った。透き通る少年の声は剥がれ落ち、内側から代わりに現れたのは、無防備な女を殺傷するべく牙を剥いた、獣の苛烈な咆哮である。
(その二本角、貴様、無幽の容か!)
(容れ物風情が、朱を纏い、母上を騙ったのか!)
鉄槌のごとき重さで振り下ろされた畏気に、両角が穿たれる。タキは動けない。時間の流れが異常に遅くなり、猛然と襲い来る妖畏の群れが瞳に映し出された。その視覚は眼球で留まり、逃げようという思考を生み出すことはなかった。ただ、目の前に迫る危機と妖畏のあまりにも不穏な言葉の意味が、血潮とともに流れてタキの心臓へと到達し、絡め取っていた。それで頭がいっぱいになっていた。
羽撃きで揺れる風に肌を打たれ、視界いっぱいに琥珀色が迫り――それは、紅い液体となってタキに降り注いだ。
びちゃびちゃと顔面に飛び散った腥さに反射的に目を瞑り、そのままタキは尻餅をついた。次に目を開いたときにはすでに、妖畏とタキの間に、立ちはだかるように百鬼歯を握ったワクラバがいる。抜き放たれた刃の肌は血でしとどに濡れ、すぐさまそれを払う勢いで、襲い来るもう一体を斬り裂いていた。刃に撃ち落とされた妖畏の一片が肉を散らして地面を赤く塗り潰していく。タキのすぐ傍には、最初の一撃で沈んだ一体が中身をぶち撒けて転がっていたが、どろりと輪郭を溶かして、百鬼歯の刀身へと手を伸ばすように流れ込んでいった。
残るは三体。倒された二体に追随していたそれらは、陽の光浴びる白刃に身を強張らせたかと思うと、なんと空中でぶつかり合い、切り分けた肉体を瞬時に繋ぎ合わせて一匹の妖畏と化した。急降下は止まらない。ワクラバはすでに百鬼歯を奔らせていた。その熱を帯びて光る刀身めがけて、妖畏が突撃を仕掛けた。
念によって妖畏の願望を聞き届けていたタキでなくとも、この妖畏が百鬼歯に斬られるために自ら身を差し出しに来たのだとわかっただろう。牙を剥くこともなく、その刃が振り抜かれるであろう軌道を読み、己の急所である頭から突進したのだから。ワクラバも当然、この妖畏の行動を理解したはずだ。しかし、頭部を断つために描かれた白刃の弧は、奇妙にその軌道を歪め、妖畏の左翼を削ぎ落としていた。
思わずもんどり打った妖畏を、すかさず返す刃で撫で切りにしていく。しかしこれも、あまりにも不自然な動きだった。
精細さなど欠片もなかった。目の前に落下した肉体めがけて、ワクラバが何度も刃を打ち据える。だが、そのどれもが決定打にはなり得ない。妖畏の急所の尽くを、ワクラバはあえて避けているようだった。敵意をそのまま刃に乗せて、妖畏を切り刻み、滅多刺しにしている。妖畏の絶叫じみた鳴き声と、肉が裂ける音、そして地面に飛び散る血とその臭気が、一気にタキの五感へと叩きつけられていた。
周囲のざわめきが聞こえた。はっとして振り返れば、妖畏の襲来とその討伐に気づいた村人が、青褪めたり困惑を露わにしたりと、様々な面持ちで渦中の二人と妖畏を窺っている。タキをずっと気にかけてくれていた、下働きの猫又もそこにいた。仰天した様子で目をまん丸にして、顔面に返り血を浴びたタキと目が合うと、息を呑みながらも心配そうにそわそわと尾を動かしていた。
そんな村人たちのなかで、表情が読めない者が一人いた。蓑笠の男だ。旅人か、もしくはワクラバの同業者か。被り笠に隠れて顔が見えないが、仁王立ちで蹂躪の様子を見据えていることがわかった。なんとなく嫌な気がしてならなかった。ワクラバを止めなければと振り返ると、ようやくワクラバが最後の一撃を放った。
本当なら一番最初に斬られていたはずの頭に、百鬼歯の刃が一気に突き込まれる。脳天を貫く一撃に痙攣し、すぐに動かなくなった妖畏は、他の欠片同様、空気にゆるく溶け出して、白い湯気となって刃に吸い込まれていった。
ワクラバは納刀してもしばらくはその場から動かなかった。ワクラバ、と震える声で恐る恐るタキが呼べば、ワクラバはゆっくりと振り返ってタキを見下ろした。
昨夜に見た純然たる殺意が蘇り、タキに穂先を突きつけたが、まぎれもないワクラバ自身がそれを断った。タキの腕を掴み上げ、強引に立ち上がらせると、堂々と道の真ん中を歩いていった。
この場に留まりたくない。そんな気持ちが芽生えるほどの容赦ない沈黙がタキを見据えていた。村人たちはワクラバとタキに道を譲るように両脇に分かれた。
そのあとは、淡々と手続きを終えた。
報酬の銭はやはりタキに預けられ、ワクラバはタキの腕を掴んだまま、忌まわしい森を突き進んでいた。血みどろの服を着替える暇もなかったが、それでよかった。タキは嫌な光景を振り払い、逃げるようにワクラバと歩を進めた。
日が沈み出していた。